あと1アウトで日本一が決まる。
そのとき、一塁を守っていた清原が突然、泣き出した。
1987年11月1日
若き清原和博、20歳のあの日
いったい何が起こったのか?
■異変
1987年の日本シリーズ
日本一を争ったのは巨人と西武だった。
西武が3勝2 敗と王手をかけて迎えた第6戦
その最終回までに西武は3-1とリード。
巨人最後の攻撃、先頭4番の原辰徳はライトフライに倒れた。
「ワンアウトをとったあたりから、清原の様子が何か変だった」
ファースト清原の異変を最初に感づいたのは、一塁塁審の寺本勇だった。
清原の唇は小さく歪んでいた。
巨人の5番、吉村禎章はショートゴロ。
これでツーアウト。
すると一塁の清原、走者がいないにもかかわらず、ベースから離れようとしない。
「ハリーアップ(急げ)!」
一塁塁審の寺本は、守備位置につけと再三、清原をうながした。
それでも清原は動こうとしない。
塁審・寺本の怒声を聞こえてさえいないようだった。ただただブルブルと肩を震わせていた。
「何かあったのかなって思った。そうしたら、もう、清原の顔がクシャクシャになっていた」
二塁手の辻は、清原の肩に手をかけながら声をかけた。
「なに泣いてんだ? 試合中だぞ。ボール見えるか?」
「 ……みえます」
清原のそのか細い声は、声になっていなかった。
前代未聞の事態だった。
グラウンド内の選手が試合中に号泣してしまうなど。
そのために試合が一時中断してしまうなど。
「清原が…、泣いています!」
場内アナウンサーは困惑を隠せないまま、実況をつづけた。
「何があったんでしょうか…!」
■憧れ
思えば清原は、幼い頃から巨人のパジャマを着て寝ていたほどの巨人ファンだった。
高校時代、大阪PL学園の4番として甲子園を2度まで制した清原は、当然のように巨人への入団を切望していた。当時巨人の監督だった王貞治も、ドラフトでの清原1位指名をにおわせる発言を繰り返していた。
ところが…
巨人が1位指名したのは、KKコンビの桑田真澄のほうだった。
清原の交渉権は6球団が競合した末、西武が獲得。あまりに予想外な展開に、清原はずっと虚ろだった。会見の席にあらわれた清原の目には、涙があふれんばかりに湛えられていた。
清原の母親は、落胆する息子にこう言った。
「勝手に惚れて、振られただけやないの」
打倒、巨人
打倒、王貞治
西武への入団を決意した清原は、その2つの大目標をかかげた。
清原は語る。
「日本シリーズでジャイアンツを倒すこと、王さんの(ホームラン世界記録)868本を超えようと。それで、『やっぱり清原を指名しとけばよかった』と思わせるような選手になろうと思った」
■悲願
打倒、ジャイアンツ
その目標は、あまりにも早く達成されようとしていた。
あとアウト一つと迫っていた。
「打者を見ていると、自然と(一塁側ジャイアンツベンチの)王さんも視界に入って。そしてツーアウトになったとき、王さんが天を仰いだ。そのときに勝ちを確信したちゅうか、こみ上げてしまったんです」
あのときの号泣を、現在47歳の清原はそう述懐する。
「高校時代から、よう泣いとったからな。強く見せとるけど、ほんまは弱い子なんですよ。あいつらしいわ」
高校で清原の一年先輩の清水孝悦は、そう振り返る。
一塁で清原が号泣して一時中断したした試合だったが、再開後、勝負はあっさりついた。
巨人の6番、篠塚がセンターに平凡なフライを打ち上げて終わったのだった。
こうして打倒ジャイアンツの悲願は、あっさり達成された。
プロ入り2年目、清原20歳にして成し遂げられてしまったのだ。
■死球
次なる大目標は、王貞治のホームラン世界記録、868本だった。
この気の遠くなるような金字塔へ向け、清原はバットを振り続けた。
プロ1年目で清原は、ホームランを31本打って新人王を獲得していた。
ところが2年目、苛烈に攻められるインコースに苦しんだ。
「ストライクを取りに行く球じゃない。『ぶつけてもええ』という球やから。そら、徹底してましたよ」
徐々に清原は調子を崩していった。2年目に定着した4番の座も、3番、そして6番にまで降格していった。
清原は語る。
「『清原はインコースが弱点だ』と評論している奴らを黙らせてやろうと、強引に打ちにいって、自分のフォームを見失った感がある」
「ぶつけてもええ」と徹底してインコースに投げ込まれる球に、必然、デッドボールを多く食らった。
1年目は11個、2年目は10個。そして3年目は15個にまで急増して死球王となった。それから4年連続して、死球王は清原が獲得することとなった。
「どうせ打てないんだったら、ぶつかったれ、みたいなね。肉を切らせて骨を断つじゃないけど、僕は命をかけてやってましたから」
死球は清原にとって宿命となった。
引退するまで続いた死球禍。
通算死球数196個は日本記録である。
■不真面目
清原が入団して以来、西武は日本シリーズを3連覇した。
清原が西武でプレーした11年間、8度パリーグを制し、6度の日本一に輝いている。
「23年間プロでやりましたけど、この頃のライオンズがやっぱり、最強のチームだと思います」と清原は振り返る。
だが、この「強すぎる西武」が清原個人には災いした。
「ぶっちぎりで優勝することが多かったので、後半はほぼ消化ゲームみたいな感じだった。消化ゲームになると集中力が切れてしまうんですよ」
ここぞと勝負がかかった場面では滅法強かった清原も、何でもないときにはいとも簡単に凡退してしまうのだった。
「まあ、それが僕の性格なんでしょうね。最初の10年間、あんなに遊び過ぎずに、もっと一生懸命野球をやっていれば……と思いますね」
不真面目だった若い頃、清原は幾度となく門限破りを繰り返した。その罰金は破るほど倍額になり、ついには200万円にまで跳ね上がってしまっていた。
金森栄治はこう振り返る。
「清原はそれだけあらゆる意味で大物だったということですよ。僕は怖くて門限なんか破れなかった。厳しかったですもん。僕が破ったら、絶対二軍です」
西岡良洋はこう語る。
「僕らの頃は、『真面目じゃダメだ』って言われたんですよ。『めいっぱい野球をやって、めいっぱい遊べ』と。周りがそうだったから。でも、遊びは一流になってからやれとは言われましたけど」
清原もこう白状する。
「5点差で負けていたら、『早く終わって遊びにいきたい』という気持ちの方が強かったですからね」
■錯覚
早熟の不運。
あまりに早く大目標の一つ(打倒巨人)を達成してしまったゆえか、もう一つの大目標、ホームラン世界一はどこか疎かになっていた。
清原本人もそれは認める。
「優勝すればいいんだっていうのがあって、数字との追いかけっこはだんだんしなくなっていった」
それでも清原は打った。
通算100本ホームランはプロ4年目で達成。7年目で200本を超えた。そのときの年齢は王貞治よりも若かった。
遊びも一生懸命だったが、練習もするときには徹底してした。深夜2〜3時ころまで寮の中庭でバットを振り続けた。
だが、もっとも近いと言われた本塁打のタイトルを、清原はついぞ獲ることができなかった。
「何度も優勝し、その4番として評価され、錯覚してしまった部分があった。巨人に入ってからの練習量を、20代のときにこなしていれば…、とんでもない数字が残せたと思うんですよ」
■大言
2008年、現役最後の引退試合
清原に花束を送ったのは、他ならぬ王貞治だった。
「生まれ変わったら、一緒のチームでホームラン争いをしよう」
清原にそう声をかけたという。
清原は振り返る。
「あぁ、いい野球人生だったなって。でも、もったいない野球人生だったな、とも思います」
現役時代、清原の通算ホームラン数は500を超えている。王貞治の868には及ばぬとはいえ、史上500本を超えた日本人はまだ8人しかいない。
それでも「もったいなかった」と清原は言った。そしてこうも続けた。
「もっと一生懸命やっていれば、王さんの868本は抜けなかったとしても、それに近い数字は残せたと思いますね」
大言壮語か
いや清原が言えば、そうは聞こえない。
(了)
ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
清原和博「あの日、涙を流した僕へ」
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