2014年8月18日月曜日

「大人は演出できない。だから感動する」 [甲子園・馬淵史郎]




甲子園の宿舎宛てに、妻からの手紙が届いた。

馬淵史郎(まぶち・しろう)が封を切ると、中にはカミソリが入っていた。そして「これで首切って死ね」と書かれている。それは妻の名を騙(かた)った脅迫状だった。

「恐ろしいのぉ…」

馬淵はつぶやいた。



1992年の夏、明徳義塾の監督、馬淵史郎は完全な悪役だった。超高校球児だった松井秀喜を相手に「5連続敬遠」を敢行して、「高校野球界のデストロイヤー」となっていた。

馬淵は当時を振り返る。「もし松井君と勝負していたら、打たれていたと思います。あの時は、高校生の試合に一人だけプロのバッターが混じっていたような状況でしたから。だから敬遠して、次の打者で勝負したんです。ビートたけしさんが言ってましたよ、バレーでもテニスでも相手の得意なところにサーブを打つ人はいない、弱いところに打って勝負する。それは勝負の世界では『逃げ』ではないのです」

とはいえ、全打席を敬遠されたことによって負けた松井秀喜(星稜高校)。観客の多くは「勝負して欲しかった」と、その試合を悔しがった。



宿舎には、さらに電話がかかってきた。

「ピストルで撃ったる」

当時、馬淵監督はまだ2年目の新米監督。もっとビビったのは旅館のオヤジ。甲子園警察に電話を入れて相談したら、翌日の練習場には装甲車が2台派遣されてきた。

「高校野球とはスゴイもんやなぁ」

馬淵はそう思った。










それから6年後、馬淵監督率いる明徳義塾は甲子園、準決勝にまで駒をすすめる。

対するは横浜高校。試合は終盤までずっと明徳優位に進み、9回まで6点差をつけて勝っていた。当時の横浜高校には怪物・松坂大輔がいたが、この日の彼はマウンド上ではなくレフトを守っていた。というのも前日のPL戦、松坂は延長17回を250球も投げていたからだ。

明徳の勝ちが半ば決まったかと思われた9回裏、横浜高校はまさかの猛打をみせる。6 - 6 と同点に追いつき、ツーアウトなおも満塁。しかし次のバッターの打った球はフラフラとセカンドに上がり、横浜高校、万事休すかと思われた。ところが明徳は、ツーアウトにも関わらず前進守備を敷いたままだった。そして運命の打球は、前かがりになっていたセカンドの頭上を辛うじて越えていった。それがサヨナラヒットとなり、明徳はまさかの大逆転負けを喫してしまう。

のちに松坂大輔は驚いたように、こう語っている。「セカンドがジャンプしたのに、ギリギリ届かなくてポテンと落ちた。普通の守備位置だったら絶対、捕れてます。経験豊富な馬淵監督でも、前進守備を戻すのを忘れたのかも…」






馬淵監督が真紅の優勝旗を手にするのは、14回目の挑戦となった2002年の夏。

「僕は初めて優勝した2002年、智弁和歌山と決勝で当たるという朝、試合の前にね、『今日は勝てるんじゃないかな』と一つだけ思ったことがあったんですよ」

馬淵監督は当時の思い出を語る。「何かと言うとね、決勝戦の前って、取材が終わるのが夜の9時半くらいになるでしょう。明日が試合だというのに。あれは選手も大変です。だから僕はあの日、時間が時間なので『明日はゆっくり寝てええぞ。朝9時に近くの公園で軽いランニングやろうか』と選手に伝えていたんですよ。でも僕は夜ほとんど寝られなくてね、24時間営業の喫茶店に行ったりして、8時半くらいに公園に行ったんです。そうしたらね、もう選手が全員、先にジョギングしていた。みんな大汗をかいてね、素振りをしてたヤツもいました。『今日は男になれるかもわからん』と思っていたら、主将の森岡良介(現ヤクルト)がね、『監督、今日は男にします』と言うわけですよ、阿吽の呼吸というか。僕はあっち向いて涙がポロっと出ましたよ(笑)」



馬淵監督は感慨深げに続ける。「大人が演出できるものではないんです。大人が作り上げたものじゃないから感動するんですよね。ギリギリのところで自然に発生したものは強い」

そのとき負けた智弁和歌山の監督、高嶋仁氏もうなずく。「勝つ時というのは、こちらがコントロールできるもんじゃないんだ」。この名将は甲子園で63勝という歴代最多勝利記録をもっている。甲子園は春夏通算で優勝3回。しかし馬淵監督の明徳義塾には勝ち縁が薄く、甲子園での直接対決は0勝2敗といまだ勝ち星がない。

高嶋監督は言う。「優勝した時の監督のインタビューって、みんな一緒でね、『もうここまで来たら選手にまかせた』と絶対に言うんです。選手を信頼しきっていて、『もう好きなようにやれ』っていうときほど強いものはないですよ。甲子園の決勝から逆算したら、結局12試合。地方で6、甲子園で6。12連勝したら優勝なんです。それを1ヶ月半の間にやるわけでしょ、それも40℃近いところで。結局は、監督が甲子園で勝つんじゃなくて、勝てる選手を育てたら勝てるっちゅうことですね。指導というのはそういうもんだと思います。」

馬淵監督も同感だ。「『お前らに任せた』と思えるときは本当に嬉しい。2002年に、まぐれの優勝だったかもしれませんけど、男に生まれて良かった、明日死んでもいいと本当に思いました」













(了)






ソース:Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」
馬淵史郎・高嶋仁「我ら勝利主義者として」



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