2014年8月23日土曜日
美しき新星、ハメス・ロドリゲス [サッカー]
ワールドカップの歴史に残るにふさわしい、美しいゴールだった。
2014ブラジル大会
決勝トーナメント1回戦
コロンビア 対 ウルグアイ
大会のベストゴールは、この試合で生まれた。決めたのはコロンビアの「ハメス・ロドリゲス」。
——後方から来たボールを胸でトラップし、エリア外から左足でゴールを狙った。ボールは綺麗な弾道を描き、左隅へと飛んでいく。目の肥えたブラジル人も、歓喜するコロンビア人も、敗れたウルグアイ人さえも、目の前で生まれた美しいゴールについて語り合っていた(Number 誌)。
「いったい何が起きているんだ? 本当にこれは現実なのか?」
決めたハメス・ロドリゲスは、輝くスコアボードを見渡し、大きく息を吸い込んだ。
「最高のゴールだった。本当に夢のようだった。ピッチ上で僕は、その喜びを噛み締めていたんだ。コロンビアは歴史を刻むことができたんだ」
ハメスの2得点で強豪ウルグアイを下したコロンビア、同国史上初のベスト8進出を果たした。
「準々決勝ではブラジルに負けたけど、僕らは歴史をつくった。あの歴史的なスタジアムで、僕の名が呼ばれるのを聞いたときは感動したし、あの喜びは一生忘れることはないだろう」
「今、伝説がはじまった」
コロンビアの大手「エル・ティエンポ」紙は、若き童顔の10番、ハメス・ロドリゲスの活躍を讃えた。それまでのコロンビア・サッカー界の伝説といえば、黄金のアフロ、カルロス・バルデラマ。最強と謳われた、1994年のW杯アメリカ大会メンバーの一人である。
——それから20年を経た今ブラジル大会、同じ10番を継承する22歳の若武者によって、ついに伝説は塗り替えられた。コロンビア国民はようやくバルデラマを超えるカリスマ的存在を見つけることができた。今回のコロンビア代表は、絶対エース・ファルカオ不在という苦境をものともせずに、グループリーグを全勝で突破すると、決勝トーナメント1回戦でウルグアイに2-0と完勝したのである(Number誌)。
「コロンビア! コロンビア!」
「ハメス! ハメス!」
——気が遠くなるほどの人の波が地上を覆い尽くしていた。コロンビアの首都ボゴタ。自国を史上初のW杯ベスト8に導いた英雄たちの凱旋パレードを見に集まったおよそ12万人の人々は、嬉してたまらず野生じみた声で喝采を叫んでいた(Number誌)。
ワールドカップが熱狂の幕を閉じてから数週間、欧州サッカーの移籍市場は、俄然活発さを増していた。そして、ブラジルW杯で新しく生まれた英雄、ハメス・ロドリゲスを獲得したのは、スペインの「レアル・マドリー」であった。
——ハメス獲得のために、クラブは8,000万ユーロ(約110億円)を支払った、昨夏、ポルトからモナコに移籍したときの移籍金は4,500万ユーロ(約60億円)だったから、1年で彼の市場価値は約2倍になったことになる。高騰のきっかけとなったのは、ワールドカップ得点王を呼んだ6得点と、ウルグアイ戦での一発だろう(Number誌)。
レアル・マドリーの会長、フロレンティーノ・ペレスは得意げに「ハメスは、美しいサッカーを愛する人たちを惹きつけることになるだろう」と壇上でスピーチをした。
■生い立ち
ハメス・ロドリゲスは1991年7月12日、コロンビアで生まれた(ベネズエラとの国境の街ククタ市)。
「両親が離婚して、7歳のときに母の再婚相手とともにイバゲ市に引っ越してきたんだ。イバゲ市は母親の故郷だからね」
当時のことを回想するのは、ハメスが少年時代に所属したサッカークラブ「アカデミア・トリメンセ」の監督、アルマンド・ジュルブライネル。
「うちのクラブに入団してきた7歳当時、彼はいかにも子供めいた雰囲気をもっていたけど、グラウンドでは才能あふれる左足のプレーを見せてくれた」
——コロンビア西部に位置するイバゲ市は人口およそ55万人、アンデス山脈などの山々に囲まれた坂の多い街である。日中は荒々しい日射しに見舞われ、夜は暑くも寒くもない微妙な気候がつづく(Number誌)。
転校少年ハメスは、1年目からレギュラーになった。チームメイトだったディエゴ・ノレニャは、こう振り返る。
「とにかくゴールシーンが多彩だった。いろんなテクニックを披露しながらゴールまで持ち込むんだ。得意の左足でゴールを決めると、次はあえて右足を振り抜いてネットを揺らしてみせた。同じパターンで続けて得点を決めることを嫌うようにね。練習態度は誰よりも真面目で、プレーの質はズバ抜けていた」
監督はこう語る。「左足のミドルシュートやドリブルはうまかった。でもヘディングや守備はあまりやらないほうだったね。10歳の頃からは練習や試合でもよく走る選手になって、みるみるうちに上達していった。年長組の練習に参加させても頭ひとつ抜けていたよ」
12歳のとき全国大会で優勝。天才少年として国内の注目を一気に集める。
監督は言う。「彼の血がそうさせたのかな。実の父親(ウィルソン・ハメス・ロドリゲス)も元プロサッカー選手だからね。U-20の元コロンビア代表選手だったんだ。実父とはほとんど接点がないまま離ればなれになったみたいだ。それでもハメスは、父のようにプロのサッカー選手になりたがっていたし、母と継父はそんな彼をとても可愛がっていた」
母ピルラさんは言う。「息子にははっきりとした目標がありました。プロのサッカー選手になること。他の子は学校へ行ったり遊んだり、友達と会ったりすることばかりを考えている中、息子はプロチームで先発を目指して戦っていました」
プロ契約は14歳。国内の「エンビガドFC」というクラブに入団。17歳でアルゼンチンの名門「バンフィエルド」へ。そして19歳でポルトガルの「ポルト」へと、ハメスはトントン拍子にサッカー人生を駆け上がっていった。
■ポルトガル
代理人ジョルジュ・メンデスが初めてハメスと出会うのは、ポルトガルでのことだった。
「彼のプレーはひと目で印象に残ったね。これはトンでもない逸材だと思ったものだ。当時からテクニックには並外れたものがあったし、それだけでなく内に秘めた大いなる才能も感じた。私が契約した頃から、彼は常に差を生みだす選手だった」
「ポルト」でのハメスはまだ、一部でしか知られていなかった。同クラブにはファルカオ(コロンビア)とフッキ(ブラジル)がおり、ハメスの出場機会はまだ限られていた。それでも代理人メンデスの目には、ハメスが宝石のように輝いて見えていた。ちなみに代理人メンデスは、C.ロナウド(ポルトガル)などを発掘したことでも知られている。
メンデスは言う。「この仕事を続けてきて思うことだが、選手というものは才能だけでは大成しない。成功するかどうか、それは本人の頭の中次第なんだ。私が契約してきた選手で、才能だけで大物になった者などいない。努力がなければ、トップになることはできないんだ。ハメスはその点、当時から年齢のわりに落ち着いており、プロ意識も高かった。よくいるような、才能だけの若き逸材ではなかったんだ」
メンデスがこれまで契約してきた、クリスティアーノ・ロナウド、ファルカオ、そしてハメスらには共通点があるという。
「それがまさに、才能をもちながらも、常にそれ以上のものを求め続ける姿勢だ。ロナウドもファルカオも、ハメスも、日々の練習で手を抜くようなことは一切ない。このプロ精神と姿勢こそが彼らの成功の一番の秘訣だと思っている。その意味ではハメスは幸運だった。なぜなら彼はポルトでファルカオと共にプレーし、彼の姿勢を目の当たりにすることができた。そして今はレアル・マドリーでクリスティアーノと共に過ごしている。どちらもプロ選手としては最高の手本だ。若いうちにそんな選手に触れられたのは、ハメスにとって大きな財産となるはずだ」
メンデスは続ける。「また、この3人に共通して言えるのが、ビッグクラブに行く前にポルトガルという成長のために理想的なリーグでプレーしたことだ。私は多くのリーグを訪れ、関係者と話をし、試合や選手を見ているが、ステップアップの段階でポルトガルほど優れたリーグは存在しない。ポルトガルにはレアル・マドリーやバルサ(スペイン)、マンU(イングランド)ほどの競争は存在しないため、若手でも出場機会は得やすい。もちろんリーグのレベルもそれなりに高い。最適のバランスがあるんだ。クリスティアーノはスポルディングでの経験がその後の成長に役立った。ファルカオとハメスはポルトだ。若くして突然ビッグリーグにいった若手よりも、その後の伸びが違う。若い選手はここでプレーし経験を積み、やがてより広い世界のビッグリーグへと羽ばたいていく。個人的にポルトガルリーグは、欧州サッカー界における大学だと考えている」
■フランス
2013年、フランス国内の移籍金記録が更新された(当時)。
5年契約で4,500万ユーロ(約60億円)
21歳の若者、ハメス・ロドリゲスのために、フランスのサッカークラブ「モナコ」は破格の値段を支払ったのだ。
「モナコは莫大な資金を投下して多くの選手を集め、提携する代理人メンデスに、手持ちの最高の選手を売るように依頼したんだ」。レキップマガジン誌のクリストフ・ラルシェは言う。
——フランスリーグ1部(アン)に昇格したばかりのモナコは、リーグ優勝とCL(チャンピオンズリーグ)出場権獲得を目標にかかげ、総額1億6,000万ユーロ(約210億円)というなりふり構わぬ補強をおこなった(Number誌)。
「彼(ハメス)には、リーグ最優秀新人になってほしい」
クラブの副会長、バディム・バシリエフはその期待を隠さなかった。
——だが期待に反して、ハメスのスタートは「驚くほどに地味」だった。初戦のボルドー戦では先発出場したものの、しかし動きに精彩を欠き72分で交代。アウェーで快勝したチームにあって、ひとり攻撃のブレーキになってしまった(Number誌)。
以後、ハメスはベンチを温める日々が続く。第8節までスタメンはわずか一度きりだった。
メディアは「なぜ先発で起用しないのか?」と、モナコの監督、クラウディオ・ラニエリに問うた。監督はこう答えた。「単純にパフォーマンスの問題だ。ハメスは他の選手たちに劣っている。だが心配はしていない。彼がクラッキ(名手)であるのは間違いない」
ハメスは当時をこう振り返る。「ボールを受けると、すぐに2〜3人がスペースに詰めて奪いにくる。厳しさがポルトガルとは全然違ったんだ」。
この低迷の時期、ハメスの身にはさまざまことが起こっていた。
——コロンビア代表での南米予選で、ふくらはぎと腰を続けざまに負傷し、調子を落とした。さらには恋人(バレーボルの元コロンビア代表)との間に娘が生まれ、私生活でも転機をむかえた。いろいろな要因が適応を難しくしていた(Number誌)。
破格の契約金ほどにパフォーマンスの上がらぬハメスに、ラニエリ監督はときに切れた。
「彼は自分をフォワードだと思っているが、守備もしなければダメだ。努力していない。ハメスはメンタリティが問題だ」
ハメスは言う。「彼は僕に大きなプレッシャーをかけた。でもそれが監督の仕事で、選手は寛大な気持ちで言葉を認めないとね。監督がああ言うには理由がある。僕に問題があった。だから彼の言うことを聞いて欠点を直した。それで良くなったんだ」
それ以降、ハメスの調子は上がりはじめる。
だが、チームには次の不幸が起こってしまう。エース、ファルカオの戦線離脱である。相手のタックルを受けて、左膝の靭帯を損傷する重傷を負ってしまったのだ。ファルカオは後のシーズンばかりでなく、ワールドカップへの出場機会さえも失ってしまった。
——それでもモナコはその影響をほとんど受けなかった。理由の一つはハメスのゲームメイクだった。彼の創造性は、皮肉なことに絶対のエースを失ってさらに奔放になった(Number誌)。
ハメスは言う。「たしかにファルカオがいた頃は、自分がシュートを打てる場面でも彼を探していた。それでパスをミスして、得点機会をみすみす逃したこともあった」
——1試合あたりの平均得点は、ファルカオ出場時(1.53点)よりも彼を欠いてからのほうが増加(1.73点)。モナコは1部昇格直後のシーズンにもかかわらず2位に食い込んだ。優勝こそならなかったものの、もう一つの目標であるCL(チャンピオンズリーグ)出場権は獲得した。ハメスは34試合に出場し9得点(リーグ16位)、12アシスト(同1位)という結果を残した。フランスリーグのベスト11にも選ばれ、1年目にして彼は「リーグアン最高の10番」になった(Number誌)。
レキップマガジン誌のラルシェは、こう評する。「ファルカオの離脱でハメスは精神的に自立した。すべてのボールがハメスを経由し、創造力を駆使して前線に自在にパスを送る。そのうえ彼はドリブルでも仕掛け、シュートも放つ。フリーキックも決める。ハメスはチームの頭脳であり心臓だった。私にはジダンのイメージが重なった」。
■スペイン
W杯ブラジル大会での活躍は、冒頭に記した通り。
代理人メンデスは言う。「今回のワールドカップで、ハメスは6得点を決めて得点王に輝いた。世界は一時的なハメスブームに沸いたが、もちろん私は驚かなかった。彼であれば、あれくらいのことは充分にやれると思っていたからね」
モナコから「レアル・マドリー」への移籍を手がけたのは、他ならぬメンデスだった。
——かつて若きハメスを虜にしたチーム。それがレアル・マドリー。銀河系といわれた2000年代初頭のレアル・マドリーには、ジダンにフィーゴ、ラウールにロナウドがいた。ハメス少年は当時のマドリーの試合をテレビに食いついて眺めた。彼が熱狂的なマドリディスタ(マドリーのファン)になったきっかけだ(Number誌)。
ハメスは言う。「憧れの存在はジダンだ。彼のプレーは本当にスペクタクルだった。あの頃はいつもマドリーの試合を見ていたよ」。
その夢はずっと変わらなかった。コロンビアからアルゼンチンに渡っても、ポルトガルでも、フランスでも。
「クラブ(レアル・マドリー)は、W杯の大会前から僕に興味を示してくれていた。実際、すでにクラブ側とは交渉を進めていたからね」とハメス。
「ただ、あの一点が移籍のあと押しになったのは間違いない。ウルグアイ戦でのゴールだ。大会で決めた6点の中で一番記憶にのこっている。マドリー移籍を実現する、大きな力になってくれたんだからね」
W杯後、鳴り物いりでレアル・マドリーに入団したハメス。
——マドリード(スペイン首都)はハメスブームに沸いた。クラブのオフィシャルショップでは、1時間で9,000枚ものハメスのユニフォームが売れた。在スペインのコロンビア大使がかけつけるなど、その日のマドリードはハメス一色となった(Number誌)。
しかし、マドリディスタ(マドリーのファン)の間では、疑問の声もあった。「ハメスは厚い選手層のなかで先発の座を得られるのか?」。
——マドリーは昨季、長年の目標であったCL(チャンピオンズリーグ)優勝を果たした。クリスティアーノ・ロナウド、ベイル、ベンゼマの3トップは絶妙な連携をみせ、モドリッチとディマリア、シャビ・アロンソの中盤は成熟度を増している。この完成されたチームの中に、ハメスの居場所はあるのか(Number誌)。
代理人メンデスもそれを認める。「レアル・マドリーのボジション争いは熾烈だ。彼は日々の練習で、ポジションをつかみ取らなければならない。大事なのは、これまでのように努力をし、攻撃だけではなく守備面でもチームのためにハードワークをすること。ハメスの才能は疑いようがない。しかしまだまだこれからだ」。
ハメスは言う。「ポジションに関しては、監督が求めればどんなところでも問題なくプレーできる。中央でもサイドでも。ポルトでは右のウイングでプレーしていたし、ワールドカップではトップ下でプレーした。攻撃だけじゃなく、守備で相手からボールを奪う仕事も問題ない」。
今年(2014)8月12日
UEFAスーパーカップ セビージャ戦
ハメス・ロドリゲスはボランチで先発起用された。
「ひとつの時代がはじまろうとしている」
レアル・マドリーのアンチェロッティ監督は、今季初タイトルとなったこの試合を嬉しそうに語った。
ハメスも「勝利とともにデビューできて嬉しい」と顔をほころばせた。
マドリディスタ(マドリーのファン)は期待していた。ハメスのあの「美しいゴール」が生まれることを。だが、彼はクリスティアーノ・ロナウドのゴールの起点とはなったものの、自身の得点はなかった。
ハメスは笑う。「あれは練習でもよくトライするんだけど、40回打って1回入るかどうかというものだから」。
そして彼は、こう締めた。
「チームの攻撃を、さらに美しいものにしたいと思っている」
憧れの白いユニフォームをまとい、白い歯をのぞかせながら。
(了)
ソース:Number(ナンバー)859号 W杯後の世界。 (Spots Graphic Number)
ハメス・ロドリゲス「憧れのマドリーで 美しきサッカーを」
代理人メンデス「C.ロナウド、ファルカオ、ハメスの共通点」
「ハメス・ロドリゲスがバルデラマを超える日」
「ハメスを覚醒させたモナコでの400日」
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