2014年5月31日土曜日

力でかからない技の壁 [合気道]




「強く握らない」

須一和晃(すいち・かずあき)師は言う。

「皮一枚で握る」

強く骨まで握ってしまうと、相手の力と衝突してしまって技がかからなくなるのだという。



師は子供の頃、よく多摩川で遊び、泳いでいる魚やマナズを手づかみで捕っていたそうだ。

「魚をつかむ時、ギュッと強く握ると、もがいてすぐに逃げてしまう。ところが、そっと包むように軽くつかむと、ナマズもじっとしている」



力を入れてつかもうとすると、相手は必ず反発する。そうなれば、あとは力比べの世界。パワーとスピードに勝るほうが有利になってしまう。

だが、須一師の求める合気道は、そこにはない。

「合気はけっして格闘技ではない。格闘してはいけない。力と力を衝突させてはいけない。瀬戸物と瀬戸物がぶつかりあえば、両方とも割れてしまう。だが、もし片方が真綿であれば、どちらも傷つかない」



真綿のような柔らかさ。

その基本となるのが「相手を強く握らない」。

たとえ、力ずくでしか打開できないような形に極められたとしても、須一師は力をつかおうとはしない。

「力まず、相手の皮一枚を動かせばよいという気持ちの、柔らかな掴みによって、相手に”念(おも)い”を伝えていく」



「念(おも)い」、と須一師は言う。

それは、”気”とも”心”とも呼ばれる、万物万象を生かすエネルギー。

「筋力や体重を超えるパワーを相手に伝える秘訣は、この”念い”を使えるかどうかにある」






そのことに須一師が気付いたのは、力ずくではかからない技の壁に突き当たった時だった。

「ある時、ふっと技がかかってしまった。その違いは”念い”だった」

——真下に流れていく”流れの念い”を抱くと、体重をかけたり力んだりしなくとも相手は真下に崩れる。相手の丹田に向かう流れの念いを抱くと、相手は後方へと崩れていく(月刊秘伝)。



たとえば”小手返し”という技は、相手がどれほど踏ん張っていようとも、自分の手を静かに下ろすだけで、自然とかかった。

「ただ上げて、下ろす」

手を上げたり下ろしたりする単純な動作も、それが”本当にできる”ようになれば、合気の技のすべてができるようになる、と須一師は言う。

——”本当にできる”とは、どういうことか? たとえば誰かに手首を抑えられていても、自由に手を上げたり下げたりできる、ということである(月刊秘伝)。



ただ上げて下ろす。

その技を練るために、須一師は木刀の素振りを毎日何千本と行った。

「木刀と喧嘩しないこと。その手に触れる何ものとも喧嘩しないのが合気の原則」

結果としてその素振りは、他者にその手を抑えられても止められない振りとなった。






須一師に合気の道をひらいたのは、植芝盛平だったという。

それは昭和43年、合気道の開祖とされる植芝盛平の最後の演武、「合気の神髄」を見に行った時だった。

その想像を絶した凄まじさに、思わず言葉を失った。



「合気とは…」

植芝翁は言った。

「天地・大宇宙と一体になることによる、引力の錬磨である」










須一師はまた、京都醍醐寺で修業した真言密教の僧侶でもある。

「蒔いた種は、自分が刈り取らなければならない」

この仏教の教え、いわゆる因果の法則を合気に応用すると、相手の攻撃力をそのまま相手に返すだけで、相手は自分が発したエネルギーで縛られることになってしまうという。

師曰く、

「覇道を生きる者は、苦しみと闘争の世に生きることになる」






(了)










ソース:DVD付き 月刊 秘伝 2014年 05月号 [雑誌]
一心館合気道・須一和晃「合気の実態は念いにある」



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