「最初は、こんなハイボールなんてあんのかよ、って思いましたよ」
30mは上がったであろうか、フルゴーニが真上に蹴り上げたハイボールは、ひたすら空を目指して舞い上がった。
そして、真上から落ちてくるボールをキャッチする「川島永嗣(かわしま・えいじ)」。不思議そうな表情をする彼を尻目に、フルゴーニは平然とボールを高く蹴り続けた。
当時の川島は弱冠18歳。のちにサッカー日本代表の正ゴールキーパーとなるこの男も、その時は今ほどの貫禄はなかった。というよりもむしろ、自信を失いかけていた。
高校卒業後に入団した大宮アルディージャでベンチにも入れず、コーチに言われたことも上手くこなせない。練習でもシュートを思うように止められない…。
プロとして初めて突き当たったカベを眼前に、この若者は悩んでいたのである。
そこにもたらされたイタリア留学の話。彼は一も二もなく飛びついた。
ところが、実際イタリアに来てみると、コーチ・フルゴーニの練習メニューは不可解なものばかりであった。
延々と続くハイボールのキャッチをはじめ、ある時は、突然フルゴーニがピッチに寝っ転がって、「来い! 俺のヒザを使って前転しろ」などと言い出す。ゴールポスト横で側転を命じられたことまである。
日本では見たこともないメニューばかりを、半信半疑のままにこなす川島。ずっと、それらの練習の真意がつかめずにいた。「こんな奇っ怪な状況なんて、試合中はまずないだろ…」。
ところがある日、たまたまユースの大会で、ゴールエリアに天高くハイボールが舞い上がる。
「あっ…、あの練習とおんなじだ…」
そう思った川島は、ようやくコーチ・フルゴーニの摩訶不思議な練習メニューの意味が判りかけた。
「そうか、フルゴーニは実際に起こりうる、いろんな状況をメニューに組み込んでいたんだ…!」
フルゴーニ独自の練習メニューは、130を超えた。そこにはフィジカル、テクニック、戦術のすべてが詰め込まれていた。
一ヶ月後、最初は首をかしげたメニューの数々も、日を追うごとに川島の若き肉体にミルミル染み込んでいく。そして、川島の動きはあらゆる局面でスムーズになっていった。
イタリア留学中に参加したユースの大会では、最優秀ゴールキーパーの賞も授かり、現地メディアの間にも、この若き日本人GKの名が知られるようになった。
日本で挫折の一歩手間まで追い込まれていた川島は、遠くイタリアの地で息を吹き返していた。
のちの川島は、こう語る。「今の自分があるのは18歳の時にフルゴに出会うことができたからなんです。あの時イタリアに行ってなかったら、僕は今頃プロですらなかったと思う」
彼の言う通り、18歳当時の川島はそれくらい切羽詰まっており、自信を失っていた。そして、フルゴーニが新たな自信を植えつけてくれたのであった。
絶望の淵で巡りあった恩師フルゴーニ。川島はその恩師の言葉を今も忘れない。
「Attaca la palla!」
ボールへアタックしろ! 待つな! フルゴーニは口を酸っぱくして、川島に言い続けた。
「僕はその時まで、ゴールキーパーはボールを受けるという感覚が強かった」と川島。「でもフルゴは、『待ってちゃダメだ! ボールに向かって行け!』と」。
「攻めるセービング」、それがフルゴーニのゴールキーパー観そのものだった。ちなみに、フルゴーニは30年を超えるキャリアをもつベテランGKコーチである。
「最後に守るのがゴールキーパーの役割。時にはカウンターを受けて、ディフェンダーが一人しかいない、なんて状況も多い。でも、どんな状況でも最後はゴールキーパーが止めるものなんです」と川島。
「どんな状況でも止める、それが『攻めるセービング』だと思います」。
フルゴーニの薫陶を受けた川島は、そのことを肝に命じてゴールに立ち続けた。
そして、川島の活躍をテレビで眺めるフルゴーニは、そのプレーに自らの教えが宿っていることを確認すると、満足そうに微笑むのであった。
ふたたび川島がフルゴーニの前に姿を現すのは、今から3年前の冬(2010年1月)。
「あのとき、エイジ(川島)は少しだけ自信がなさそうに見えてな…」とフルゴーニは、その冬の日を思い起こす。
「エイジは言っとった。日本代表には年上の正ゴールキーパーがおって、もうずっと彼がゴールを守っている。だからワールドカップ(南アフリカ)でも、たぶん僕は出ない、とな」
18歳の頃にくらべ、川島のガタイはずいぶんとガッシリしていた。しかしその心には、かつての弱さが鎌首をもたげてきていたのである。
当時の日本代表のGKは楢崎正剛。「ファンもメディアも、世の中の誰もが、南アフリカの地で日本のゴールマウスに立つのは楢崎だ、と当然のように考えていた(Number誌)」。
しかし、久々に川島のプレーを見たフルゴーニだけは、そう考えなかった。
「驚いた。その時に見せたパフォーマンスが信じられないほど良くてな」とフルゴーニ。この名伯楽は感じていた、川島がすでに世界で戦えるゴールキーパーにまで成長している、ということを…。
川島が帰国する前、フルゴーニは彼を呼び止めて、こう言った。
「エイジ、覚えとけ。半年後、ワールドカップの舞台で日本のゴールマウスに立っているのは、オマエだ」
戸惑う川島に、フルゴーニは念を押す。「まあ、見てろ」。
半年後、日本vsカメルーンの試合を見ようとテレビをつけたフルゴーニ。
「ほーら、見たことか」
小さなテレビ画面のむこう、南アフリカのゴールマウスに立っているのは、川島永嗣にほかならない。彼の鬼気迫る表情には、フルゴーニの前で見せる弱さなどは微塵も感じさせなかった。
川島永嗣が正ゴールキーパーとしてW杯でプレーしたことで、世界にその名が鳴り響く。
そして、川島はその夏、ベルギーのリールセへ移籍。昨夏には強豪スタンダール・リエージュへと移籍し、着実なステップアップを果たしている。
そんなある日、フルゴーニから川島に一通の手紙が届く。
「決して慢心してはならない、君はもっとやれるんだ」
そこには、恩師の温かい警句と励ましがつづられていた。
「もう、ワシが言うことなど、ほとんどないんじゃがな…」
そう前置きしてから、フルゴーニはこう続ける。
「エイジに伝えてくれ。ブラジルW杯だけじゃない、オマエはあと2回ワールドカップに出るんだ、と」
川島の、ドロに塗れたその両手のグローブには、老コーチの教えが深く深く染み込んでいる。
130もの摩訶不思議な練習メニュー、どこまでも高く高く舞い上がるハイボール…。
川島は今、その天空のハイボールに負けずに、上へ上へと向かい続けている…!
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 3/7号 [雑誌]
「国境を超えた師弟の物語 川島永嗣」
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