ぼくは大人になったら
世界一のサッカー選手になりたい
と言うよりなる
本田圭佑(ほんだ・けいすけ)
小学6年生の時に、そう書いた。
サッカーをはじめたのは保育園。
3つ上の兄の背中だけを追っていた。
「おい、全然ついていけへんやん。お兄ちゃんのほうがなんぼでも上手いぞ。負けてるぞ、兄貴に」
兄が中学に入ると、本田は小学4年生ながら中学の部活にもぐりこんだ。
「よく泣かされてたよ。チビ、チビ、いうてね」
当時のサッカー部の監督、田中章博氏は言う。「それでも食らいついてたんですよ、圭佑。アイツ本気だったんですよね」
本田は監督に聞いた。「先生、力でいったってスピードでいったって勝てへんかったら、何でいく?」
ズバ抜けた才能はなかった。足も遅い。ただ、しつこいほど負けず嫌いだった。
摂津FCのコーチ、藤林繁男氏は懐かそうに振り返る。「リフティングで負けて、その場では帰るんですよ。で、次の週みるとね、相手を抜いてるんですよ。えっ? なんで?って思いますよね。どっかのグラウンドか河川敷でやるんか、どこでやるんか知りませんが、やってるんでしょうね、人より」
本田の作文は、こう続く。
世界一になるには世界一練習しないとダメだ。
だから今ぼくはガンバっている。
今はヘタだけれどガンバって必ず世界一になる。
■トレーニング
2013年1月
本田は石垣島にいた。
世界屈指の長距離ランナー、ケニア人2人と10日間にわたってみっちり走り込むという。本田は日本代表のエースに成長した今も、走るのが得意ではなかった。
「肝心なときに、ゴール前に行ったときにはバテてるわけですよ。それが僕、悔しくって。とりあえずだから、あの、救急車だけは呼んどいてください(笑)」
「すげぇ速い…」
世界レベルの走りは、恐ろしく速かった。
それでも本田は無類の負けず嫌い。限界を超えながらも2人に食らいついていた。
「マイケル・ジャクソン、尊敬しますわ。あんな楽しそうに走って(笑)」
走って走って、極限まで疲れた状態で、本田はボールを蹴りはじめた。
「今日もやるよ。3本連続で当てるまで帰らんよ」
蹴ったボールをゴールの枠に3本当てるというゲーム。だが、本田の蹴るボールは意外とバーに当たらない。
「終わらせる気ある?」
本田は独り言をいいながら蹴り続ける。
「あかんよ。集中できてないよ」
自問自答の相手、リトル・ホンダとやり合いながら。
「でかいねん、ボケ!」
一時間ちかく蹴り続けていた。もう日も暮れる。
「折れるな、折れるな、折れるな!」
「あ、3本?」
200本以上蹴って、ようやくその日は終わった。
もはやゴールの枠は暗闇に溶け込もうとしていた。
■サッカー教室
この日は雨。
石垣島の子供たちとサッカーする約束をした日だ。
プレーを続けるうち、ドシャ降りになった。
「まだやるんですか?」
心配したスタッフは聞いた。
「え? やりますよ」
ズブ濡れの本田は答えた。「雨でサッカー中止なんて聞いたことない」
「動きながらや、動きながら。つねに動け!」
本田の指導は本気だ。相手が小さな子供であろうと手は抜かない。
「ボール来る前に判断しとけよ。ボール来てから考えるな!」
「来るよ! 今みたいにボールは。どんなボールが来てもいいように、いろんなイメージつくっとけ。強いパス、弱いパス、どういうパスでも来るぞ!」
その日の終わり、本田は子供たちにこう言って別れた。
「みんなありがとう。がんばれよ。やれよ。お前らの年齢やったら、まだまだ何でも出来るぞ。夢は大きくもてよ」
■中高時代
本田は中学時代、ガンバ大阪のジュニアユースに所属していた。
だが鳴かず飛ばずだった。
当時の同期、與貴行は言う。「言いかた悪いですけど、(本田は)足も遅いし、体力もなかった。サッカーもそこまで上手くないし、いい選手にならないだろうなと思ってました」
「でも、人一倍のすごい努力家で負けず嫌い。これはもう凄かった。誰よりも早く来て一人で蹴ってたし、全体練習が終わっても、最後まで残って一人でボール蹴ってました。ネットに向かってボール蹴っては取りにいって、ボール蹴っては取りにいって…。その繰り返しです」
しかし、どれほど本田が努力しようが、実力の足りなさは覆うべくもなかった。
中学3年生のとき、本田は上のユースチームに昇格できないと告げられてしまう。
崖っぷちで飛び込んだのは、北陸石川の強豪、星稜高校。
入部早々、本田は「最初が肝心や」と思って、ブチ上げた。
「目標は『ワールドカップ優勝』です!」
ガンバ大阪ジュニアユースの落ちこぼれは、とんでもない大風呂敷を広げてみせた。
「もう生意気ですね、すごく。関西からクソ生意気なヤツが来たぞ、みたいな(笑)」
当時のサッカー部の先輩だった新田亮介は言う。ここでも本田は負けず嫌い。
「よく絡んできて、皆んなでメシ食うんですけど、ご飯は必ず2杯、3杯とよく食ってましたね。みんなが『もう腹いっぱい』って言ってるとこに、『俺、まだ食うよ』みたいな感じで(笑)。アイツはそういうとこにも負けたくないっていうか」
本田はどんな小さな競争にもガチンコだったという。
高校2年のとき、名古屋グランパスの練習に参加した。
当時のグランパスには、ウェズレイというブラジルから来た絶対エースがいた。そして本田はそのウェズレイに対抗心を剥き出しにした。
紅白戦の1シーン、本田はウェズレイにパスを出さずに、自分でシュートを打った。
ウェズレイは怒った。「なんで俺にパスを出さない!」
すると本田は臆することもなく「俺のほうにチャンスがあった」と言い返し、逆に「俺にパスを出せ」と要求したという。
そのやり取りに、名古屋グランパスの監督ネルシーニョは驚いた。
「先輩も後輩も関係なし。17歳であれほどのメンタルを持っているとは…。こういう選手がふたたび現れるには、あと100年はかかるんじゃないか?」
やり合ったウェズレイも、内心、舌を巻き、クラブ幹部にこう進言した。
「あの選手と契約すべきだ」
■海外へ
高校卒業後、本田はプロ選手となった。
所属先は、あの名古屋グランパスだった。
そして21歳のとき、オランダへ渡った(VVVフェロン)。
最初は「役立たずの日本人」と罵られた本田であったが、外れても外れてもシュートを打ち続け、ついにはキャプテン・マークをつけるまでにのし上がった。
ロシアへ移ったのは23歳(CSKAモスクワ)。ここでは激しい体当たりに苦しめられた。だがそんな中で揉まれながら、本田は日本人離れしたフィジカル(肉体)の強さを手に入れた。
この頃、本田は初めてのW杯出場を果たす。
子供の頃から「優勝する」と公言してきた、世界最高の舞台である。
その2010年の南アフリカ大会、本田はシンデレラボーイとなった。2ゴールを決めて日本代表ベスト16への原動力となった。だが、そこで敗れた代表に、本田は納得できるはずがなかった。
「自分はまだまだやれる」
本田は力強く語った。
「もう準備しはじめてます、ビッグクラブでプレーする。即レギュラーで、がんがんアシストや点取るイメージはできてます。『まさかホンマに今、そのクラブでプレーしてんねんな』っていうようなクラブでプレーしてますよ」
小学校時代の作文にはこうあった。
Wカップで有名になって、ぼくは外国から呼ばれて、ヨーロッパのセリエAに入団します。
そしてレギュラーになって、10番で活躍します。
その予言成就は近づいていた。
イタリア、セリエAの名門「ACミラン」による本田へのアプローチははじまっていたのである。
■10番
気の早いイタリアの新聞は「ミラン、ホンダ獲得を急ぐ」と報じていた。
そして2013年の夏には「ホンダが来る」とはっきり書かれた。
ACミランへの移籍は確実と思われた。実現すれば日本人初の快挙である。ACミランはイタリアリーグ優勝18回、ヨーロッパチャンピオン7回というビッグクラブ。イタリア「ビッグ3」の一角である。
だが、流れた。
移籍交渉は土壇場で決裂した。
さすがの本田もがっかりした。「あかんかったか、と。でも、しゃあないなって感じです。僕の場合、困難と向き合ってる時間が長いのか、それを楽しめないようじゃ、僕の人生やっていけないと思うんですよね」
その年の冬、ふたたび移籍マーケットが騒がしくなった。
ACミランの最高経営責任者、ガリアーノは満を持して発表した。
「もう何も隠すことはない。ホンダが1月13日からACミランの選手になる。背番号は、エースナンバーの10」
名門の10番
それは本田が要求したものだという。
本田は言う。「ミランほどの歴史があるクラブでは、その番号の重みがあります。僕自身、歴代の10番をつけた選手は知っています。でも、どうせサッカーをやるんであれば、ハラハラドキドキ刺激のある10番でプレーしてみたいっていうのが、自分の中では大きかったですね」
■入団
「ホンダが来たぞ!」
「バンザイ、ホンダ!」
2014年1月4日、サングラス姿の本田が、ミラノの空港に降り立った。
ACミランのファンは世界中にいる。本田は、その10番を背負う初めてのアジア人だった。
世界注視の入団会見。
本田には、スター選手だけに用いることが許されるエグゼクティブ・ルームが手配された。
さっそく記者は質問した、「背番号10の意味は理解しているか?」
本田「夢が一つ叶いました。12歳のとき、いつかセリエAで背番号10をつけてプレーしたいと作文に書きました。だから10番が欲しいと願っていました。ピッチ上では10番に値する選手だということを証明してみせます」
「ミランを選んだ理由は?」
本田「心の中のリトル・ホンダに聞きました。『どのクラブでプレーしたい?』と。そうしたら『ミランでプレーしたい』と答えたんです。それが決断の理由です」
「サムライ精神とは何か?」
本田「僕はサムライに会ったことがないんだ(笑)。ただ、日本男児は決して諦めない。強い精神力をもち、規律を重んじる。僕自身にもそれはあります」
堂々たる態度であった。
I really want to show “who I am” on the pitch.
自分が何者であるか、ピッチ上でぜひ表現したい。
世界を前に、英語でそう言い切った。
周囲の反応は上々。
TVキャスター「本田は、仕事に対する真摯な姿勢をもっていた」
新聞記者「揺るぎない覚悟をもっている印象を受けた」
だが皮肉にも、この華やかな入団会見が、ACミランの本田にとって最もスポットライトを浴びた瞬間となった。
以後、本田はイタリアの辛辣メディアから散々に叩かれていく。
■デビュー
「なにを騒いでんねん…」
自身のホンダ・フィーバーに、本人は割と冷静だった。
「あくまでもミラン・パワーです。ここのフィーバーも全部ね」
その異様な注目度からか、本田のデビューは意外と早く訪れた。
2014年1月12日
イタリア・セリエA
ACミラン 対 サッスオーロ
この日、チームは格下相手に4失点。名門らしからぬサッカーに、サポーターたちも苛立っていた。目を疑いたくなるようなイージーミス。味方同士、サポートする姿勢もみられない。
じつは今季のACミラン、20年来といわれるほどの絶不調に悩まされていた。リーグ前半戦を終えた時点で、20チーム中13位。監督の解任もウワサされるほど最悪の状況だった。
この日も、前半早々に2点をとりながら、その後に4点を奪われてひっくり返されるという最悪の流れのなかにあった。
後半19分
ついに本田は、エースナンバー10をつけてピッチ上に立った。
「ホンダ、見参!」
それまで鬱々としていたサポーターらは、この「救世主」の出現に熱狂した。
「ホンダ、ヘディングだー!」
外れた。それでも積極的に動く本田の登場によって、チームの攻撃は活性化した。
「ホンダ、シュートーー!」
ポスト直撃。
わずか数センチの差でゴールに嫌われた。
結局、試合は敗れた。
本田も点を決められなかった。
それでも現地紙の反応は上々だった。
「想像以上のデビュー(コリエレ・デラ・セーラ)」
「クオリティーが高く冷静(ガゼッタ・デル・スポルト)」
「ポストに当たる不運なシュートはオスカー賞もの(トゥット・スポルト)」
だが、名門復建を託されたエース10への期待は並外れて大きい。救世主に「惜しかった」という言葉は許されない。
チームに勝利をもたらすことが出来なかった本田は、「ほろ苦いデビューだった…」とも評された。
■逆風
「今だ、ブレーキング・ニュースが出たぞ!」
翌日、本田デビューの話題は、「監督解任」という衝撃に吹き飛ばされた。
TVキャスター「アレグリ監督が更迭されました。彼のスタッフも一緒に練習場を去っていきます」
敗者は去るのみ
その後ろ姿に、サポーターたちは容赦ない。
「落ちるところまで落ちたな!」
「とっとと出ていけ!」
「あいつにはガッカリだ。ザマミロ」
それが結果を出せなかった者の末路であった。本田の獲得を熱望したとされるアレグロ監督は、チームを追い出された。
いまは救世主と祭り上げられている本田も、その歓声がいつ罵声に変わるかはわからない。ただ勝利を。それがACミランの10番に課せられた宿命であった。
監督の替えは、すぐに来た。
クラレンス・セードルフ(37歳)
かつてACミランの10番を背負った英雄だった。
その新体制で最初の試合(対ベローナ、1月19日)
本田は振わなかった。ギリギリのところで味方との呼吸が合わない。
さらに悪いことに後半、本田はバテていた。それを見た新監督セードルフ。すぐに本田をベンチに下げた。
翌日の新聞
本田への評価は「チーム最低点」だった。
歓迎ムードは一転、逆風に変わりつつあった。
チームの勝利に貢献できない背番号10など、存在する意義がない。
■弱い自分
その日、チームの練習は休みだった。
しかし本田だけは、練習場の隅で走っていた。
その足元は深さ10数cmの砂。
高い負荷のかかる砂場でのダッシュ。
それをひたすら繰り返していた。
「つねに最初は『弱い自分』を倒すところから始まるんで」
汗のなか、本田は言う。
「弱い自分が日常から現れない日はないです。どんな練習やってても、一生懸命やる練習であれば、弱い自分は毎日出ます」
「そういう毎日の弱い自分と向き合ってはじめて、信念がちょっとずつ太くなっていくんです。それとの格闘をやらないことには、強い信念というものが磨かれてこないですから」
かつて、ロシアCSKAモスクワの監督は「ホンダほど規律(dicipline)のある選手は見たことがない」と言っていた。
■火星人
「ホンダは火星人」
そんな言葉がメディアに踊った。
チームメイトと息が合わない本田に、「周囲から理解されていない」との批判である。
冬に遅れた移籍は、そうした不利があった。シーズン途中でチームに加わるため、周囲と馴染めずに不発に終わるケースも多かった。
しかも、ACミランには各国のスターがずらりと居並ぶ。
イタリア代表 バロテッリ
元ブラジル代表 カカ
そうした中、本田はあくまでも新参者。パスが入らずに孤立する場面も多くあった。
「まずは味方との意思疎通。来て一ヶ月や二ヶ月でお互いのことが分かるわけがない」
そう言う本田は、イタリア語の習得にも励んだ。
「まずはしっかりと自分がこうしたいと伝える。そして、話を聞く。自分の意見を飲み込んでもらうためには、相手の要求も聞かないといけない。その交渉事を、練習前、練習後、試合前、試合後、試合中に、チャンスがあればやる」
そのためには、是非ともゴールが必要だった。
「こういう交渉事がすべてうまくいくタイミングっていうのは、ゴールを決めた後からなんです。僕はそれが分かっていたから、なんとか得点が欲しかった」
しかし、移籍から3ヶ月。
本田はずっとノーゴールのまま、もがいていた。
得点から遠い本田は、自身の希望する「トップ下」という得意のポジションから、右サイドに移されていた。
サイドというポジションは個人で現状を打開することが求められる。だが今の本田には、一人で突破するだけの技もスピードもなかった。
本田はしつこく監督の部屋を叩いた。
「もう5〜6回は行ってるんです」
そのたびにプレーが良くなる、と本田は言う。
「僕が疑いながらプレーしてる時っていうのは、物事がうまくいってないんです。だから監督の部屋をノックするわけです、その疑いを晴らしたいから。クリアにするためには、自分が納得する以外ないわけです」
■カカ
「無駄で使い物にならない」
メディアの言葉は次第に辛辣になっていった。サポーターの批判も日に日に強まる。
「なぜ金食い虫のホンダと契約したのか?」
本田は監督に訴えた。
「トップ下をやらせて欲しい」
しかしセードルフ監督には聞き入れられなかった。本田が切望するトップ下を任されていたのは、ブラジルのスター選手カカだった。本田はあくまで、その「カカの兵隊」にすぎなかった。
そして口の悪いメディアは、右サイドで活躍できない本田を「おもちゃの兵隊」と蔑んだ。
「(チームを)出るのも選択肢の一つかもな」
正直、そう考えたと本田は言う。
「ただ、そこで自問自答がはじまるのが”本田圭佑”なので。もう一人の本田圭佑が『それは違う』ということを言いはじめたわけです。『オマエは逃げている』と。『今まではそうじゃなかっただろ』と」
本田はあくまで強気にいった。
「俺、カカとバロテッリと友達になりたいと思ってないですからね。あやかりたいなんて思ったことないし。いい意味で『抜いたろ』と思ってるだけの話ですから」
ある試合でのフリーキック。カカに一歩も譲ろうとしない本田の姿がみられた。本田の手にしたボールをカカは取ろうとする。だが本田はボールを背中に回してしまって、カカに触らせようともしなかった。
そういえば本田は、かつて日本代表に入ったばかりの時も、当時のエース中村俊輔とフリーキックでもめたことがあった。本田の半生はそうやってのし上がってきた。
「だから今までも、僕より才能のある選手に勝ってきたし。なぜなら、そんなに差はなかったんです」
「天才なんかこの世の中にほぼいないと思ってます。才能の差は若干なりあるというのは認めます。ただ、若干でしょっていうことを僕は言いたい。ライオンと格闘するわけじゃない。馬と競争するわけじゃない。『あいつだから』って考えは、馬やライオンにすればいいんです」
「カカがバロンドール(FIFA年間最優秀選手賞)とったことあるんやったら、俺だって不可能じゃないと思ってますよ」
■バロテッリ
ゴールに飢えていた本田に、待望のチャンスが訪れる。
そのお膳立ては、なんとイタリアの悪童バロテッリがしてくれた。
ゴール前でボールをもったバロテッリは、自分でシュートを打たずにフリーの本田にパスをよこしたのだ(2014年3月29日、対キエーボ)。
だが、本田はキーパーと1対1で、ボールを宙に飛ばした。
「外したー! 信じられないミスを犯したぞ。ケイスケ・ホンダ!」
さすがにバロテッリは、そのモヒカンを逆立てて怒鳴った。
「お前はゴールが嫌いなのか!」
本田は即座にやり返した。
「いやいやお前、パスはゴロで出せ」
若干ではあるが、バロテッリの出したパスは跳ねていた。
そうは言った本田だが、自分が決定機を外したことはわかっていた。
「時が止まってる感じで、ボールもブーーーンッってスローモーションで上に行って。えらい時間が長いなっていう感覚でしたね。『これ外すか? 本田』って。」
本田は明らかに力んで外した。
「とりたいがゆえの”力み”です。(ゴールを)とりたいという思いが強ければ強いほど力むと思うんです。イコール、それだけ欲しいんだということです」
批判されなくなければ、移籍などしなければいい。ましてや10番など要求しなければいい。
「重圧を背負いたくなければ、行動しないことが一番なんです」
力みたくなければ、ゴールなど必要としなければいい。
「だから、あえて言うなら、力みにいってるんです」
■初ゴール
本田はさらに力んでみせた。
「まもなく初ゴールを決める」
メディアの取材に、本田はそう宣言した。
その2日後だった、待望の初ゴールが生まれたのは。
2014年4月7日 ジェノア戦
「ホンダが抜け出した! ボールがゴールに流れ込む! ゴーーーーール!!!」
「ACミランでのリーグ初ゴール! やったぞ、ケイスケ・ホンダ!」
あの時は考える余裕などなかったと言う本田だが、最後のシーンだけははっきり覚えているという。
「とられるかなと思ったんです。ディフェンスが間に合うんじゃないかな、と」
さほどスピードのなかった本田のシュートに、ディフェンダーが必死に追いすがっていた。
「まあ、ラッキーというか、クリアミスしてくれて」
確かにディフェンダーが最後に伸ばした足は、微かに追いついていた。だが、ボールの軌道を変えるまでには至らなかった。
本田の初ゴールにメディアは沸いた。
「日本の王子、みんなを喜ばせる」
それまでの批判などは吹き散った。
「ホンダは桜のように咲いた。入団した頃は裸の木だったが、今は花が咲いた。これからは果実がいっぱいの木を見せてほしい」
本田は言う。
「人間、追い込まれたら、生きるために死に物狂いでがんばるもんです。たとえば動物が泳ぎ方なんか知らなくても、水ん中にポンと投げられたら多分みんな泳げるんですよ。だって死ぬもん。そんな感覚です」
■夢
初ゴールに一息はつけた。
だが、ACミランの10番はまだスタメンの座すらままらない。
2014年5月4日
ミラノ・ダービー(対インテル)
長友佑都との日本人対決に注目が集まっていたが、本田圭佑は出番を与えられなかった。ずっとベンチに座ったままだった。
試合終了後
静まり返ったスタジアムで、本田は一人走っていた。
出る幕のなかった10番は、一人黙々とハードなインターバル走に汗を流していた。
「お疲れさん」
走るだけ走った本田は、スタジアムを後にした。
昨日は変えられないが、明日は変えられる。
「今日失敗したら、明日はその失敗をしなけりゃいい」
本田、小学6年生の作文にはこうある。
世界中のみんなが注目し、世界中で一番さわぐ4年に一度のWカップに出場します。セリエAで活躍しているぼくは、日本に帰りミーティングをし、10番をもらってチームの看板です。
ブラジルと決勝戦をし、2対1でブラジルを破りたいです。
この得点も兄と力を合わせ、世界の競ごうをうまくかわし、いいパスをだし合って得点を入れることがぼくの夢です。
世界一になるという夢
「全世界をね、『まさか』と言わせることが僕の一つのターゲットですから。それをずっと思い描いてきたわけですから」
たとえ倒れても立ち上がらない理由はない。
「どんな位置にいる人にもチャンスはある。それを目指すかどうかは、明日からじゃなくて今日決めるんです。やれることは今日からあるんです」
「あとはそれをネットの中に、ゴールの枠にボールを飛ばすだけです。イメージの中では、もう200回ぐらいゴールしてますけどね(笑)」
(了)
ソース:NHKプロフェッショナル仕事の流儀
「本田圭佑スペシャル2014」
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