ゴジラ・松井秀喜のニューヨーク・デビューは、実に「ド派手」なものだった。
ベートーベンの「運命」が大音響で鳴り響いた直後の「満塁アーチ」。
鳴り止まぬスタンディング・オベーション。一度はベンチに戻った松井だったが、チームメイトにうながされて再びグラウンドへ出ると、ヘルメットを振って歓声に応えた。
松井がニューヨークで放ったメジャー第一号は、本拠地開幕戦での「満塁ホームラン」というまことに華々しいものであった。このホームランによって、「Godzilla上陸」はニューヨーカーたちに強烈な印象を与えたのだった(2003)。
順調すぎるほど順調にメジャーリーガーのスタートを切った松井。
しかし、順風満帆と思っていた「4年目(2006)」、思わぬ「落とし穴」がそこにあった。
それは、まさに穴。グラウンドにあいた穴であった。ライナー性の打球をキャッチしようとした時、グラブがそのグラウンドの穴に引っかっかった。
「ありえない角度で曲がってしまった手首」
そのまま苦痛の形相で退場する松井。搬送される救急車の中で「どうだ?」との問いに、松井は「ダメかもしれない…」。
その松井の言葉を聞いた時、巨人時代から松井のケガを見てきたという広岡勲広報は、「これは重傷だ」と直感したという。なぜなら、今までの松井であれば「必ず、『うーん…、痛いけど何とかなると思う』」と答えるのが常だったのが、「あの時だけは違った」のである。
診察の結果は、左手首骨折。骨にはボルトが入れられた。
その3ヶ月後、松井は「驚異の回復ぶり」で再びグラウンドに立った。
そして、いきなり4打数4安打の大活躍。この劇的な復活劇に、スタジオはスタンディング・オベーションで沸いた。
手首もすっかり癒えた頃、松井は左ヒザの故障で「故障者リスト」入りしてしまっていた(2008)。
左ヒザの手術を受けるかどうか、松井は迷いに迷っていた。球団に手術を受けると伝えた2日後に一転、やはり手術は受けないと意見を翻したり…。
どうしても「何とかシーズンを」という思いが強く、結局、その手術はシーズンを終えてから受けることになった。
手術後の次のシーズン(2009)はリハビリで始まった。ヒザの状態は一進一退。数字も不完全燃焼だった。
そんな松井の打棒が爆発したのは、その夏。ホームランに次ぐホームラン。このシーズン、松井はメジャーでは自身2番目に多い28本の本塁打を記録した。打点も90とチーム3位であり、松井はヤンキースの地区優勝に大いに貢献したのである。
そして迎えたポストシーズン。
ニューヨークは松井に熱狂することとなった。
第2戦で、決勝ホームラン。第3戦で2試合連続ホームラン。そして、世界一に大手をかけてニューヨークに戻ってきた第6戦、先制2ラン、2点タイムリー、さらなる2点タイムリー…。この試合、松井は1試合6安打をマークした(シリーズ・タイ記録)。
試合中からスタンドは「MVP!」の大合唱が湧き上がり、試合が終わると、その通りに松井は日本人選手としては史上初の「ワールドシリーズMVP」に輝いた(3本塁打、8打点)。
「感無量です。本当に最高の気分です!」
頭上に掲げられるトロフィー。いつまでも鳴り止まない「MVP!」の大合唱…。
ニューヨークは「勝者」が大好きなのだ。
しかし翌年、ヤンキースは松井との再契約を結ばなかった。
そして松井はエンゼルスに移籍(2010)、その後はレイズへ(2011)。毎年転々とした末、今年の7月にはレイズから「戦力外通告」を受けてしまう…。
その後に自由契約となったものの、「今季、新たな契約を結べる可能性はゼロに近いと言わざるをえない」。38歳という年齢。低迷した今季の成績(打率1割4分7厘)…。「来季もメジャーでプレーできる可能性は、ほぼない」。
秋めいた冷たい風の吹き抜けるニューヨーク。
かつて、松井はこんなことを言っていた。「ニューヨークは決して『敗者』を許してくれないところだと思うんです。ここでは結果しか重んじられない…」。
結果を出した者しか評価されない過酷な街、ニューヨーク。メジャーリーグの厳しい戦いは、勝者を一瞬にして「敗者の奈落」へと突き落とす。それは、過去にどんなにニューヨークに愛された男であろうとも例外ではなかった。
選択を迫られる松井は、いまだ結論を出してはいない…。
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「松井秀喜 ニューヨークに愛されて」
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