2013年2月5日火曜日

「他者に対するリスペクト」。松井秀喜(野球)



「いい引退」

もし、そういうものがあるとするならば、「松井秀喜(まつい・ひでき)」の引退が間違いなくそれだという人がいる。

「ニューヨークのメディアがおしなべて賛辞を捧げたほどだから…」



松井は決して英語が得意なわけではないが、不思議と「鵜の目、鷹の目のニューヨーク・メディアから好感を持たれていた」。

とはいえ、松井のメディアに対する回答は、悪く言えば「面白みに欠ける傾向」にあった。というのも、彼の言葉は「絶対に地雷を踏まない最大公約数的なもの」であったからだ。



なのに、なぜメディアから好感を持たれていたのか?

その理由として、「無口であることが、古き良き野球選手を連想させたから」という記者がいる。



松井には一貫して「他者に対するリスペクト(尊敬)」が、そのベースにあった。

「言葉ではなく、その態度・姿勢が松井の伝達手段だった」



たとえば、松井がNYヤンキースに移籍した当初、「ニューヨークの記者たちを食事に招待して驚かれた」ことがあった。警戒心の強い選手ならば、そんなことはまずしないからだ。

また、試合終了後には必ず、囲み取材に応じる松井の姿があった。そして、彼には常にリスペクトを払う姿勢があった。

だからだろうか、「松井がずっと、記者たちから愛されてきた」のは…。



しかし、松井が諸手を上げてメディアを歓迎していたわけではない。彼にはマスコミに対して、どこか「冷めた目」があった。

18歳の松井のこの言葉は、完全に記者を見限っている。「昔から思っていたけど、記者の人たちって『ヒマなんだなぁ』という感じで見てました。(記事は)ウソも多いですし、あまり信用できなくなりました」。

この言葉は、まだ処世術を身に着けていなかった頃の「本音」だったのだろうか。以後、巨人、ヤンキースと野球人生を歩んでいくにつれ、松井の言葉は先に述べたように「最大公約数的なもの」になっていく。



松井はマスコミに対する批判的な気持ちを胸に秘めながらも、記者たちに「リスペクト(尊敬)」を示し続けたのは、さすがと言うべきだろうか。

松井はプロ生活20年間、「一貫して記者に協力的だった」。

「松井が取材に応じてくれることで、記者たちがどれだけ助かったことか…」



甲子園で明徳義塾戦で敗れた松井(当時・星稜高校)は、面白いことを言っていた。

「自分たちが勝てないのは『気が優しすぎるから』ですよ。絶対にそうです。土地柄もあると思いますけど、性格がトンガッた奴はいないんですね」







松井の優しさもまた、プロ生活20年間、一貫していた。

「お先にどうぞ」

エレベーターに乗ろうとする松井は、柔らかな物腰で先を譲る。



「他者に対するリスペクト(尊敬)」

それが松井の引退をして、「いい引退」と言わしめることになったのかもしれない…。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/7号 [雑誌]
「ナンバー懐古堂 『いい引退』というものがあるとするなら」

2013年2月3日日曜日

「サッカーやろうよ!」、その想いに導かれ。本田美登里と宮間あや



「一緒にサッカーやろうよ!」

当時10歳だった「宮間あや(みやま・あや)」の元気は、ハチ切れんばかり。

全国から小学生を募って企画された「アメリカへのサッカー旅行(1995)」。その小学生の一群の中に、のちに日本代表のキャプテンを務めることになる宮間は顔を連ねていた。



しかし、その引率監督であった「本田美登里(ほんだ・みどり)」は、いくぶん疲れ気味であった。

「疲れてるから…」

本田は宮間の誘いを断る。

それでも宮間は執拗だ。「いや、やろうよ!!」



結局、アメリカの炎天下の中で何時間もボールを蹴っていた宮間あや10歳。

延々とボールを追いかけている宮間の姿を眺めながら、「本当にサッカーが大好きなんだな…」と、本田はしみじみ感じていた。

それが本田と宮間、運命の出会いであった。



サッカーの町・清水で生まれ育った本田美登里は現役時代、全日本女子サッカー選手権4連覇、のちに読売ベレーザ、読売サッカークラブと活躍を続けた選手で、日本代表にも選ばれた実績がある。

28歳で現役を退いたあと、本田は指導者へと転向。その初仕事が冒頭の「アメリカへのサッカー旅行」であった。



多くの女子サッカー選手を見てきた本田の目にも、少女・宮間のサッカーへの想いは感心するほどに強かった。

当時の女子サッカーは世の中にも認められておらず、本田も「自分がサッカーをしていることが恥ずかしい」と思うことさえ…。現役選手たちも一日2時間の練習を終えると、それでサッカーは終わりであった。



そんな中、炎天下で飽くことなくボールを追いかけ続ける宮間。

その姿はじつに新鮮だった。

その姿に、本田は「サッカーをやる原点」を見る思いがしていた。



「美作(みまさか)へ行って、サッカーチームをつくってこい」

当時サッカー協会の事務方をしていた本田は、突然の命令を受けた。それは、岡山県の美作(みまさか)がW杯のキャンプ地として立候補したいと名乗りを上げた時のことだった。

しかし、当の美作はというと、「女子サッカーって何?」というレベル。そんな地で本田は白い目で見られることになる。「元日本代表とかいう女」が東京からやって来て偉そうにしていると誤解され…。



親御さんや学校サイドの理解も得られず、新チーム(岡山湯郷ベル)の選手集めは難航していた。

だが、全国各地でサッカー教室をしていた本田には、彼女を慕って来てくれたメンバーたちがいてくれた。そして、その子たちの中には、宮間あや(のちの日本代表キャプテン)、そして福元美穂(のちの日本代表GK)もいたのであった。



「サッカー大好きな子たちの集合体」

岡山湯郷ベルは順調に滑り出し、4年目には一部リーグへの昇格を果たす。

「お互いに本物を求め合った時、要するに本気で日本一になりたいと思っている子しか残らなくなった時に強くなっていきましたね」と本田は振り返る。



「世界に通用するには、『強い個』を育てなければならない」

その点、宮間あやは「強烈な個性」を放っていた。宮間は本田の立てる緻密な戦術に対しても、「自分はこう思う」と言って憚(はばか)らなかったという。



個性的であることと「わがまま」は背中合わせと言われるが、まさに宮間はわがままなほどに個性的であった。

「なんで? なんで?」

彼女の中には「自分なりの強いイメージ」があったため、本田の戦略・戦術に「強い問い」を感じることが少なくなかったようである。

「なんで点が入ったの?」「なんでパスが通ったの?」「なんで、あやはボールをとられたの?」「なんで…」



「同じことを言われても、それを疑問に思う子と思わない子がいます」と本田。「そういう一つ一つの積み重ねが、5年や10年という年月の中で大きな差になっていくと思うんです」。

常に問いを持ちながらプレーしていたことが、宮間に日本代表のキャプテンを務めるほどの伸びしろをつくったのではないかと、本田は感じている。



「私は実際にプレーをするわけではなく、机の上でしか戦術は立てられないので、選手たちとの間には微妙な差があると思うんです」と本田。

宮間が疑問を感じるのは、そんなピッチ上と机上の「微妙な差」の部分だったのかもしれない。

「そのことが常に分かる指導者でありたいと思います」と本田は語る。



わがままかと思えば、宮間はまた「すごく人思いな子」でもあった。

「大丈夫? あやに何かできることはない?」

そう本田に声を掛けてくれることもしばしば。

「彼女はそれを私だけじゃなく、チームメイト全員に対してできるから、今の立場(日本代表キャプテン)にいるんだと思います」と本田は言う。



宮間との出会い、そして一緒のチームでやりあったことは、本田の指導者としての力量を大いに高めることともなった。

昨年開催されたFIFAのU-20女子W杯で、「ヤングなでしこ」を史上初の3位に輝かせた影には、本田美登里の姿があったのだ(同代表コーチ)。



孟子はかつて、こう言った。

「智慧あるといえども、勢いに乗るには如(し)かず」

今、日本の女子サッカーは本当に勢いがある。



さらに孟子は、こうも言う。

「スキありといえども、時を待つには如かず」

本田美登里が現役だった頃は、残念ながら「時」は来ていなかったのかもしれない。しかしそれでも、彼女が根気よくサッカーに関わり続けたことで、その「時」はついにやって来たのでもあろう…。



「サッカーやろうよ!」

そんな純粋な想いは、ロンドン五輪で日本に感動の銀メダルをもたらしてくれたのだから…!






ソース:致知2013年2月号
「若い才能をどう育てるか 本田美登里」

2013年2月1日金曜日

「50歳まで飛ぼうかな」。若いままの葛西紀明(スキージャンプ)



「あと10年はイケるんじゃないかな(笑)」

そう言って笑うのは、スキージャンプの「葛西紀明(かさい・のりあき)」。彼の年齢はすでに40歳。

「ここまで来たら、50歳まで行っちゃおうかな(笑)」



ジャンパーとして、葛西の芽が出たのは実に早かった。

まだ中学生がラージヒルの試合には出場できなかった1988年。まだ中学3年生だった葛西は、北海道・大倉山で開催された宮様スキー大会では「テストジャンパー」でしかなかった。

ところが、テストジャンパーとして中3の葛西が飛んだ飛距離は、「同じゲートから飛んだ青年組の優勝者を上回っていた」。なんと、この大会の「影の優勝者」はまだ中3の葛西紀明だったのである。



「日本の将来を背負う天才ジャンパー」

一躍注目された葛西は、翌89年の世界選手権に高校1年生で出場し、さらに翌シーズンからはワールドカップにも参戦。以来、世界のトップジャンパーとして、葛西は20年以上、第一線での活躍を続けている。

世界のトップジャンパーの多くが30代前半で引退する中、40歳になってなお飛び続ける葛西。そしてさらに彼は「あと10年はイケるかな」との余裕を見せているのである。



葛西の余裕はその「抜群の身体能力」から来る。

「この前、下にサウナスーツを着て25歳の竹内択とバドミントンをしたら、僕の方が動けて一度も負けなかったんです」と葛西は誇らしげだ。

「体力が衰えて『これじゃ世界と戦えないな』となれば別だけど、40歳になってもまだ若い選手に負けていません」と葛西。



近年、ジャンプスーツのサイズが小さくなり、空中で浮力を受けにくくなっている。その結果、身長も高くてパワーのある選手が活躍する傾向にある。たとえばシュリーレンツァウワーやモルゲンシュテルン(オーストリア)などだ。

そうした体力自慢の選手たちにすら、葛西は物怖じしない。「シュリーレンツァウワーやモルゲンシュテルンは、今の僕より少し上にいるけど、時間をかけて身体をいじめれば、彼らのレベルまでフィジカルをアップさせるのも可能だと思っています」と葛西。



自分の身体をいじめるのが大好きだという葛西。自宅にもウェイト・ルームが完備されている。

「海外から帰ってきて、時差で眠れない時なんかも『ちょっと身体をいじめようかな』と思ってやるし…。そういうところでは、僕が一番自主トレをやっていると思いますね」と葛西。



人一倍、体のことに気を配る葛西は、食事にも人一倍気を使う。

「食事に関しては、僕ほどストイックな選手はいないと思いますね」と葛西は話し始める。「お腹が空くのはイヤだけど、ジャンプのためとなるとキッと気持ちが切り替わるんです。だから減量では、3日間くらいは断食もしますね」

2006年のワールドカップでは体重が4〜5kgほどオーバーしていたという葛西。その時、コーチに「1kgにつき、2m損する」と言われ、断食を敢行したことがあった。

「断食してみたら、精神的にも研ぎ澄まされてきて、集中できて身体の調子も良くなったんです。だからそれ以来、精神修養だと思ってやるんですよ」と葛西。



彼はむしろ、体力ではなく「技術」だけで飛ぶ選手に反発を覚える。

「身体能力よりも技術の上手さで勝負しているシアン・アマン(オリンピック個人2冠)が勝って、ガッツポーズをしている姿が頭に思い浮かぶと、『チクショウ、負けるか!』となるんです(笑)」

かといって、葛西の技術が拙(つたな)いわけでは決してない。

「去年の夏に一度、ジャンプスーツの大きさが『体+0cm』になったことがありましたが(現在は+2cm)、その時、日本人選手の技術が元々良かったということを確認できたんです。みんなが同じ条件になった途端に、日本人選手が勝ったし、僕もそんなに調子が良いわけでもないのに表彰台に上がれたから」と葛西。



長野オリンピック以降、毎年ルール改正があり、過去10年間、日本勢は相当マテリアル(道具)でやられてきた。それは長野五輪も含む1990年代、日本勢が勝ちすぎたからでもあったのだろう。

「ダメな理由が分からないままだったら単純に『ドイツやオーストリアとは差があるな』と思うままで終わっていたけど、『ジャンプスーツの差なんだ。こいつらも大したことないんだ』と思えたから、それに気づけたのは収穫でしたね」と葛西。

ジャンプスーツを変えた途端、葛西の飛距離は5mも伸びて、トップとの差も縮まった。

「外国勢と同じくらいのレベルのスーツさえ作れれば、絶対に負けないですよ」と葛西は自信をのぞかせる。



40歳になった葛西が、次のソチ五輪への出場を果たせば、それは自身7度目のオリンピックとなり、日本人最多ともなる。

高校生で出たアルベールビル(1992)から、リレハンメル(1994)、長野(1998)、ソルトレイク(2002)、トリノ(2006)、バンクーバー(2010)と、葛西は6大会連続でオリンピックに出場している。

しかし、オリンピックでの金メダルはまだない。ワールドカップでは日本人最多の15勝を誇る葛西ではあるが…。



最も葛西が金メダルに近づいたのは長野五輪。

「あの頃の団体戦は、誰が出ても金メダルを獲れる状況でした」と葛西は振り返る。

葛西の言う通り、日本チームは長野五輪の団体戦で金メダルを獲った。しかし、葛西はそのメンバーから外れていた。



「その長野で金メダリストになれなかったのが、人生の中で一番ショックだったというか、一番悔しい思い出ですね」と、葛西は今でも悔しそうだ。

「今でもオリンピックが近づくと、必ずあの映像が流れて…」

長野オリンピック前に捻挫をしてしまった葛西は、自分に腹が立って仕方がなかった。

「『クソーーッ!』と思って…。でも、そう思うとモチベーションも上がるし、『絶対に金メダルを獲るまでやめられない!』って思うんです」と葛西は熱く語る。



オリンピックへ賭ける葛西の想いは、相当に強い。

膝の状態が思わしくない葛西は、膝の角度が90°くらいになると大腿骨と膝の皿が当たって痛みが出てしまう。そのため、着地で点数を伸ばすためのテレマーク姿勢が決まらずに減点されてしまう。

「ワールドカップでは優勝がかかっていても無理はしないけど、もしオリンピックで調子が良くて2本目にグワッと飛距離が出たら、膝が壊れてもいいからガッツリとテレマークを入れますよ」と葛西はオリンピックへの意気込みを語る。



「オリンピックでは悔しい思いばかりをしていたから…。それで、気がついたら6回も出ていたんです(笑)」と葛西は笑う。

「僕はジャンプ人生の中で8〜9割は負けているけど、勝った時の喜びは特別で、何度でも味わいたいから」

果たしてソチ五輪は、葛西にとって7回目の正直となるのか?



こんな仮定は失礼かもしれないが、今の葛西ならば、7回目がダメでもきっと前人未到の8回目へと突き進んでいきそうな気もする…。

あと10年あれば9回目も…(笑)。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/7号 [雑誌]
「あと10年はやれるかな 葛西紀明」