2013年9月28日土曜日

天才は2度輝く。柿谷曜一朗 [サッカー]



「天才」と呼ばれる少年だった。

柿谷曜一朗(かきたに・よういちろう)

3歳でサッカー・ボールを蹴りはじめ、4歳でセレッソ大阪の下部組織に入団。才能の突出は誰の目にも明らかだった。



12歳頃からは、もはや途轍もなかった。

16歳(高校1年生)にして早、セレッソ大阪に入団。クラブ史上最年少でプロ契約(2006)。

本人いわく「わけわからん髪型」をした柿谷は、その入団会見でふてぶてしくもこう言い放った。

「僕がボール持ったときは、ぜひ期待しといて下さい」



2007年、17歳以下のW杯(U-17)で柿谷は驚異的なロングシュートを決める。なんとハーフウェイ・ライン付近から強豪フランスのゴールを破った。まるでベッカム(イングランド)を思わせるスーパーゴール。







この大会、日本は12年ぶりに優勝。

そのMVP(最優秀選手賞)を授かったのは、他ならぬ「天才」柿谷曜一朗であった。






■8番



入団したセレッソ大阪には、柿谷にとってのヒーローがいた。

「ミスター・セレッソ」、元日本代表の森島寛晃(もりしま・ひろあき)。

彼のつけていたセレッソのエースナンバー「8番」がたまらなくカッコよかった。



「森島さんのために『8番の似合う男』になります」

これは森島に送ったスパイクに柿谷が書いたメッセージである。柿谷はいつか「憧れの8番」を必ず受け継ぐと森島に誓っていたのであった。



ところが、その願いはそう簡単には叶わなかった。2008年に引退した森島から「8番」を受け取ったのは香川真司(かがわ・しんじ)。

香川は柿谷の一つ年上で、セレッソには同期入団であった。

柿谷「学校いくときは一緒に行ってました。ほんまアホなんすよ、二人して。アホって言ったらシンジくん(香川)に悪いけど」

柿谷は大阪生まれの大阪育ち。自称「大阪のクソガキ」。香川は神戸生まれ。



当初、世間の評価は圧倒的に柿谷が優っていた。セレッソ大阪のクルピ監督もそう見ていた。

クルピ監督「香川のほうがゴールに向かう意識は高いが、柿谷は技術的にもっと洗練されていた」

それでも、プロとして先に花開いたのは香川真司。プロ入り2年間で21得点を叩き上げた。一方の天才・柿谷は同じ2年間でわずか2得点…。



ベンチすら遠ざかってしまった柿谷。

少年時代からの憧れだった森島選手の引退セレモニー(2008)。その時に行われた試合のベンチにも柿谷は入れてもらえなかった。

エースナンバー「8番」が香川の手にわたるのは必然だった。

「天才」は、まずここでつまづいた。






■遅刻



「17〜19歳ぐらいのセレッソにいた時代っていうのは、プロサッカー選手ではなかったかな」

柿谷曜一郎は当時をそう振り返る。



反抗心と捨て鉢な気持ちとが相まって、柿谷は練習への「遅刻」を繰り返すようになる。

柿谷「試合に出れてないから遅刻したんじゃなくて、遅刻してもせんでも試合には出られへんやん、って。『別に、だから何』っていう態度をとってたしね」

大阪のクソガキは「問題児」の烙印を押された。

柿谷「まぁ、調子に乗ってたんでしょうね。ずっとセレッソでやってて、セレッソでプロんなって。そりゃ皆んなオレに注目するやろって、ちょっと舐めてたとこもあったし」



そして遂に、クルピ監督の逆鱗に触れる。

柿谷、6度目の遅刻にクルピ監督は「すべてのサポーターやクラブに対しての裏切りだ。相当高額な罰金を科した」と怒りを爆発させた。

2009年6月、柿谷曜一朗は懲罰的な措置により「J2徳島ヴォルディス」に放出される(期限付きレンタル移籍)。



当時を柿谷はこう振り返る。

「どう考えてもセレッソの一員じゃなかったしね。まぁ、逃げるっていう言葉がもしかしたら正解かもしんないすけど。でも、『オレはこのチームにおったらあかん』と思ったのも事実やし」

天才の舵は、すっかり狂ってしまっていた。






■徳島



柿谷曜一朗、21歳。

生まれ親しんだ大阪を離れ、独り四国・徳島へ。



新たなチームメイトとなった7歳年上の濱田武は言う。

「寂しがり屋じゃないですか。たぶん誰かおって欲しいんじゃないですか」

兄貴分となった濱田は、朝になると「曜一郎、行くで」と起こしてやる。

濱田「外で待ってる時もあるんすけど、ぜんぜん来ぉへんなぁと思ったら、また寝てたりとか(笑)」



鳴かず飛ばずだった天才・柿谷は、この徳島でついに才能を解き放つ。

固定されたレギュラーのなかった徳島ヴォルティスでは、日々の競争がより激しく、それが柿谷の性には合っていた。

柿谷は「Jリーグ屈指」といわれるテクニックでレギュラーに定着。抜きん出たシュート能力で得点を重ね、キャプテンを任せられるまでに至った。

柿谷は言う。「『サッカーやったらオレは負けへんで』っていうのもあったからこそ、徳島行っても『オレここでやったる』ってやれたし」



生活には「目覚まし時計」が欠かせないと言う柿谷。

「とりあえず目覚まし時計ね。オレの相棒。かわいいっしょ。徳島行ってから使ってるから、もう4年ぐらい。こいつが鳴ったら、もう終わりっす。オレの睡眠時間」

その音は、眠れる天才の眼をも覚ました。






■エース



去年(2012年)、柿谷曜一朗はセレッソ大阪に復帰を果たした(当時22歳)。

「今年はやりますよ、曜一郎は。天才。ほんとに」

そう言って柿谷の肩を叩くのは清武弘嗣(きよたけ・ひろし)。香川真司が海外に渡った後、「憧れの8番」はこの清武が継承していた。



徳島でプロの在り方を学んだという柿谷だったが、天才の回り道はもう少し続くことになる。

復帰はしたが、レギュラーとは認められずベンチ要員が続いた。開幕戦から数ヶ月、その出番はほとんどなかった。



それでももう、柿谷は腐らなかった。控え組の練習試合でも決して手を抜こうとはしなかった。

柿谷「昔やったらね、練習試合やしって思いやったんですけど、今はこういう試合から一個一個大事にしたいっていう思いがあるんで」



いよいよ時は満ちる。

シーズン途中でポジションを奪った柿谷は、2012年40試合に出場して17得点。トレードマークであった長髪は切り落とされていた。



そしてついに、憧れ続けた8番が柿谷のものとなる(2013年1月)。

「背番号8番、柿谷曜一朗!!」

ついに背負ったエースの証。



「カッコええやん」と言われて、まんざらでもない。

柿谷「そら、カッコええよ。もう、これは。カッコいいよ」

彼がチームの選手紹介に載せた一言はこうである。「背番号8番。誰もがこの時を待っていた。真のエースとして、セレッソに新しい歴史を刻むべく全力を尽くす覚悟でシーズンに臨む」



8番をつけた柿谷は今シーズン(2013)、その重みに恥じない活躍を続けている。

昨シーズンは14位と低迷したセレッソ大阪であったが、今季は優勝争いを続けている。その原動力となっているのは言わずもがな、柿谷曜一朗である。チームトップの15得点(9月22日現在)。










■天才弾



天才は2度輝く。

かつて「日本サッカーの将来を背負う」とまで期待された逸材は、いよいよ日本代表での活躍もはじまった。



2013年 東アジアカップ

「柿谷2発! 天才弾!」

宿命の対決、韓国戦はこの男の独壇場となった。

”シュート数は韓国の9に対して、日本はわずか5。終始、押し込まれる展開が続くなか、1トップに入った柿谷が2本のシュートをいずれもゴールに結びつけた(Number誌)”



圧巻だったのは、1 - 1の同点で迎えた後半ロスタイム。

「一回、踏ん張ったん分かりました?」と柿谷が言う通り、ゴール前、韓国のゴールキーパーが弾いたボールが柿谷の眼前に来た時、彼は一瞬、タメをつくっている。

柿谷「ここでボールに走って行く(前に行く)んじゃなくて、一回後ろに引いてるでしょ、左足」

”GKが弾いたこぼれ球を、柿谷曜一朗がニアのコースを消そうとする相手の逆をとってファーサイドに左足で蹴り込んだ(Number誌)”








コンマ数秒の間(ま)、その間によって敵の背後にシュートコースが生まれた。

柿谷「急いで前行って蹴ってたら、たぶん止められてたんすよ。で、ちょっと待ったんすよね。もうちょっとゆっくり打てたら、もっとカッコよく入ってたかな」

”ゴールの瞬間、ザッケローニ監督も興奮を抑えられないように、何度も小刻みにガッツポーズを続けた(Number誌)”



この逆転弾が、日本の優勝を文句なく確定した。

2試合連続ゴール、計3得点を決めた柿谷曜一朗は、この大会のMVP(最優秀選手賞)を獲得。

U-17(17歳以下)ワールドカップから6年、久しく途絶えていた柿谷曜一朗の名が、ふたたび世界に響くこととなった。

早く熟するかと思われた天才の、少々遅れはしたがしかし、華々しい代表デビューであった。










■プレッシャー



天才、天才と囃し立てられる柿谷曜一朗。

だがいつしか、彼はその呼び名を好まないようになっていた。

「もう僕は弱いですから。はっきし言って、めちゃくちゃ弱いですから。僕はもう、ほんまにプレッシャーとかにも弱いし。自分が一番よくわかってるから」と柿谷は言う。



あの韓国ゴールに叩き込んだ豪快な決勝弾も、その心境をこう語る。

「もうド緊張でしたよ、オレ。心臓バクバクでしたから。『ボール来てもうた』って感じで、ヤバイ、ヤバイって思って。こんなチャンス外したら、後で何言われるか分からないって思って」

そのくせ、冷静にタメまでつくって狭いシュートコースを見極めたその力量は、周囲が「天才、天才」と言葉を重ねる所以であろうか。



代表デビューを果たした後、柿谷は憧れの選手、セレッソかつての8番・森島寛晃と言葉を交えた。

森島「若い頃につけた日の丸と、今の日の丸の重みはやっぱ違う?」

柿谷「ぜんぜん違いますね。やっぱ、全員見てるし。まぁ、それがプレッシャーになって出来へんようになるのが一番ダメなんで。その経験はもう、僕はしたので(笑)」

そんな素直な柿谷の言葉に、森島も笑う。






■日本代表



”10代の頃、天才の呼び名をほしいままにした男は、今年に入って突如蘇ったのでも台頭したのでもない。傷つき、学び、気づき、獲得し、そして少しばかり爪を隠し、『2013年の自分』に至ったのである。変わったはむしろ周囲だった(Number誌)”

代表チームのステイタスが異常に肥大化した日本。

”代表チームに招集されない限り、国民的な注目を集めることはまずない。どれだけ美しいゴールを決めたところで、注目を集めるのは代表選手の平凡なゴールということになる(Number誌)”



今回、東アジアカップを戦った「東アジア組」は、”悪い言い方をすれば、国内からの寄せ集め(Number誌)”。

”ザック・ジャパン本来にメンバーに食い込めるかどうかの選抜テスト。ザッケローニもハッキリとそう語っている(同誌)”

このテストに文句なしでパスした柿谷曜一朗。以後、代表戦でのプレーが続き、「国民的な注目」を集めることになる。

8月14日 ウルグアイ戦
9月6日 グアテマラ戦
9月10日 ガーナ戦



「本田(圭佑)選手としゃべったことなかったんすか?」

その質問に柿谷は「ないです、ないです。みんなそうやって言いますけど、ほんま、しゃべったことない人ばっかりですよ」と手を振り、はじめての「海外組」との印象を語る。

「内田(篤人)選手、メッチャ男前ですね、あの人。初めて見ましたけど、女の子がそりゃキャーキャーなるのが分かりました。思ってた通りすぎた人は岡崎(慎司)選手です。ええ人なんやろなぁ、話しやすい人なんやろなぁって思ってたら。その通りでした。全員にいじられてました(笑)」






■今の曜一郎



柿谷は真面目に言う。「8番つけちゃいましたから。やっぱりこのクラブ(セレッソ大阪)でこの背番号をつける以上、自覚をもってやらないと」

かつて、柿谷曜一朗の魅力といえば、”もっと生意気で、相手をおちょくって、みたいなところがあった(Number誌)”。

それは捨ててしまったのか?

柿谷「忘れてないですよ。いまも持ってます。ただ昔の僕は、それをやっていい時といけない時の区別がつかなかった。そのあたりの区別はちゃんとつけなあかんと思えるぐらいにはオトナになりました(笑)」



かつての生意気な曜一郎は、時おり顔を出す。たとえば、初の海外組とのプレーとなったウルグアイ戦後、こう豪語している。

「初めてやったんですよ、ああいう名前のある人らとやるの。だから、どんなもんかなっていう感じもあったし。あれ(ウルグアイ代表)が世界いうんやったら、日本はワールドカップで優勝できると思うし」

ちなみにこの一戦、日本はウルグアイに「0 - 4」で完敗を喫しているのだが…(柿谷は先発、後半19分交代)。



柿谷を小学生の頃から見てきている小菊昭雄氏(セレッソ大阪コーチ)は、こう言う。

「雰囲気が変わってきました。一番印象的だったのは、まだ曜一郎が控えに回ることが多かった昨シーズン序盤、味方が点を取った時、一番喜んでいるのがアイツやったんです。昔の曜一郎は、勝っても負けても自分が満足ならええわっていうところのあった子やったんですが」

昔の曜一郎は、怖いもの知らずで無鉄砲で、良くも悪くもエゴイスト…。

小菊コーチは続ける。「曜一郎が確固たる自信と立場を手にした時、僕は16〜17歳の、もっと言えば12〜13歳の頃の『とてつもなかった曜一郎』が、今の曜一郎にプラスαされてくるんじゃないかと思ってるんです。正直、楽しみで仕方がありません」

「たぶん、真司(香川)も意識しているでしょうね。意識する対象は本田選手をはじめたくさんあるでしょうけど、間違いなくそこに曜一郎の名前は入っているはずです。で、彼らが共演したとき、『世界をしびれさせるサッカー』をやれる可能性はあると思います」



次の代表戦は10月12日。

ヨーロッパ遠征の幕開けだ。






”完成した天才よりも、可能性を秘めた未熟者でありたい”

柿谷曜一朗













(了)






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ソース:
情熱大陸「プロサッカー選手・柿谷曜一朗」
Number誌「日本代表はブラジルに勝てるはずなんです 柿谷曜一朗」


2013年9月26日木曜日

モウリーニョは「悪役」か? [サッカー]



サッカー、欧州スーパー杯2013

バイエルン(ドイツ) vs チェルシー(イングランド)





それは「グアルディオラ」と「モウリーニョ」、両監督による因縁の対決となった。

かつて両雄は、スペインの2強、バルセロナとレアル・マドリーで散々やりあった仲である。それが今季、期せずして2人そろって、それぞれが新チームを率いることになっていた。グアルディオラが「バイエルン」を、モウリーニョが「チェルシー」を。



2人の指揮官のイメージは対極をなす。

グアルディオラは篤実純良、知性的で温厚。

モウリーニョは唯我独尊、好戦的で敏感。

”メディアの対応一つとっても、グアルディオラは会見を論理的な説明の場と考え、モウリーニョは劇場、舞台ととらえれ騒々しい。また選手との関係では、グアルディオラは絆を重んじるが、モウリーニョは時として冷酷かつ専横的な態度を示している(Number誌)”



プレースタイルも、まさに水と油。

”グアルディオラは「ボールありき」のポゼッションが基本で、モウリーニョは「ボールは奪うもの」という前提(Number誌)”

どうあっても、モウリーニョは「悪役」がはまる。



その両者の激突、冒頭の欧州スーパー杯の結果は

延長まで戦って「2−2」の引き分け、PK戦をグアルディオラのバイエルンが制した。なるほど、正義は勝った。

”しかし2人は本当に善と悪ほどに違うのか? 実は似ていて、裏表であっても一つのコインのようなもの。そう思えてならない(Number誌)”








かつての2人は、コーチと選手の関係だった。

選手として華々しい経歴を誇っていたグアルディオラ。一方のモウリーニョはコーチでありながら、そういった輝かしいものを何一つ持ちあわせていなかった。

”当時のモウリーニョは、コーチであることさえ報道陣に否定され、「通訳だろ?」と蔑視されていた(Number誌)”



それからほどなく、モウリーニョは豹変した。

グアルディオラの代名詞となった「バルサ的なもの」を激しく憎み、「スペシャル・ワン」を豪語するなど、「バルサとは違う唯一無二の何ものか」になろうとしたのであった。

選手としては、本人いわく「三流だった」モウリーニョ。だが、監督としてはポルトを率い、2003-2004シーズンの欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)を制覇。翌来、チェルシーに招かれ、イングランド・プレミアリーグの2連覇を達成した。

押しも押されぬ名指揮官となったモウリーニョは、スペインのレアル・マドリーを任された(2010)。それはキャリアの頂点となるはずだった。実際、とくに2年目は1シーズンで121ゴールと勝ち点100を稼ぎ、破格のリーガ優勝を成し遂げている(スペイン・サッカー史上、最高の記録)。








それが今季、6年ぶりに古巣「チェルシー」に戻ることとなった。

その理由を、モウリーニョ本人はこう語る。「レアルが特別な存在であるのは事実だとしても、あそこは単なるクラブの域を超えている。政治が大きく物を言うし、サッカーのことだけ考えていればいいというわけにはいかなくなってしまった。3年目にはクラブの会長選が再びはじまり、レアルは異様な雰囲気に包まれてしまった。ああいう状況の大変さは、現場にいた人間でなければ理解できないと思う」

前回チェルシーを率いていた時、やはりモウリーニョはオーナーのアブラモビッチと対立して、結局はクラブを辞める形になっている。

モウリーニョは言う。「ボルトガルには『友情と仕事は別物』という表現がある。同じことは、私とミスター・アブラモビッチの関係にも当てはまると思う(※モウリーニョはポルトガル生まれ)」



どうしても悪役の影が付きまとうモウリーニョ。

しかし彼自身、「私は、前よりも良い指導者になったと思う」と話す。

「イタリアやスペインで、素晴らしい経験を積んだのは間違いない。昔に比べれば髪もずいぶん白くなったが、これは自分が年齢や経験を重ねたことを示す良いサインなんだ」



「自分は『戻るべき場所』に戻って来たんだ。私はさまざまな国のリーグを経験してきたが、プレミア(イングランド)が一番楽しめる場所だった。私はプレミアが好きなんだ、4大リーグのどこよりもね」

「イングランドは、ありとあらゆるものが違っている。まずはスタジアムの空気。この国では、どんな試合にも必ず両チームのサポーターが大勢やって来て、最高の雰囲気が生まれる。だが、スペインにはそういうカルチャーは皆無だ。これはイタリアも似ている。セリエの場合はセキュリティーの問題が大きいが、やはりスタジアムが満員になったりしない」



モウリーニョがチェルシーで目指すサッカーとは?

「89分間ひたすら守り続け、最後の1分でゴールを決めて喜ぶようなチームにはならない。私は攻撃的なサッカーを追求する。ボールを奪い、激しい攻めでゴールを奪う。すべての試合で勝ちを収めていく」

6年前とは、すっかり選手の顔ぶれが変わってしまっているが?

「そう。若いメンバーがとても多い。23歳以下が半数近くを占めるんだ。私がチェルシーで最初に作り上げたチームは、今やその役割を終えつつある。だから私は、育成にも力を注いでいくことになる。自分の経験と知識を惜しみなく注ぎ、彼らを大きく育てていきたい。ベテランたちには選手生命をあと2〜3年延ばして、もう一度キャリアに花咲かせてやりたい」








かつてレアル時代のモウリーニョは、自分に造反した選手(カシージャス、セルヒオ・ラモスなど)への容赦ない仕打ちで批判を買っていた。その選手マネジメントは非情であった。

しかし今、彼は選手の育成を口にし、かつてチームに貢献してくれた「古い友人たち」に報いたいと口にする。

レアル・マドリーではクラブの内外に”敵”をつくり、そして去ったモウリーニョ。だが、”愛される場所”に戻ったことで、彼の心はいくぶん柔らかくなっているようである。



モウリーニョは続ける。「もう後ろは振り返らない。チェルシーには探し求めてきたすべてのものがある。未来を見据えて、自分が愛するクラブのために尽くすだけさ。私は心の安らぎを必要としていたんだ」

「ただし私は『昔の名監督』としては見られたくない。あくまでも新たにチームに赴任した指導者として評価を勝ち取り、人々から愛されるようになっていきたいんだ」








心機一転のモウリーニョ。

かつて欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)で2度の優勝を成し遂げた男は、すでに「昔の自分」だと言う。そして、新生チェルシーで狙うのは自身3度目、チーム2度目となるCL優勝。

彼は豪語する。「遅かれ早かれ、チェルシーはもう一度ヨーロッパのチャンピオンになる。そのタイミングはできるだけ早いに越したことはない」



昨季、その欧州チャンピオンに輝いているのはバイエルン(ドイツ)。

そして、その王者をいま率いているのは、好敵手・グアルディオラ。コインの表裏のごとき両者は、やはり同じ目標に向かわざるを得ない。

欧州フットボール界における”定番”ともなっている「グアルディオラ対モウリーニョ」。ファンならば誰もが待ち望む対戦である。



”似たもの同士がプライドを懸けて火花を散らす瞬間、そこに見える業の深さに私たちは否応なく惹きつけられるのかもしれない(Number誌)”













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/3号 [雑誌]
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2013年9月25日水曜日

名将グアルディオラと、師リージョ [サッカー]



"Quien solo sabe de fútbol, ni de fútbol sabe”

(サッカーしか知らぬ者は、サッカーすら知り得ない)

「哲学者」ともいわれる元サッカー監督リージョの言葉。



このリージョの愛弟子ともいえる人物が、FCバルセロナ(スペイン)で14ものタイトルを獲得した名監督グアルディオラ。彼はリージョのことを「キャリアで最も影響を受けた監督」と敬意を払う。

リージョもまた、愛弟子グアルディオラを「私の息子のようなものだ」と語る。リージョは自身が率いていたドラードス(メキシコ)に、現役選手だったグアルディオラを呼び寄せたことがあった。

”それほど両者のサッカー観は近かった(Number誌)”



「現役時代からペップ(グアルディオラ)は監督のようなものだった。普通の選手は現役引退後から監督になろうとするわけだが、彼にその必要はなかった。選手時代も監督になっても、周囲で起こる現象のすべてを把握していた」

そう語るリージョは、選手時代のグアルディオラを「史上最高のメディオ・セントロ(センターハーフ)」と賞する。

「そもそもサッカーには”攻撃”も”守備”も存在しない。それは一体化したものであるべきなんだ。ペップ(グアルディオラ)が率いていたバルサを見ていてもそうだ」








冒頭の言葉「サッカーしか知らぬ者は、サッカーすら知り得ない(Quien solo sabe de fútbol, ni de fútbol sabe)」

これはリージョがよく口にしたものだが、この点、グアルディオラは”本を読み、映画を見ては、演劇に足を運ぶ。現役時代からそうだった。思想や哲学など、人間としての深みまで突き詰めるところも、リージョと共通していた(Number誌)”

「語学を見てみるといい。ペップ(グアルディオラ)はバイエルンに行く前にドイツ語まで学んでいる。ニューヨークにいる1年の間に、だ。そこまでする監督がどれだけいるか? われわれ監督は選手に伝えなければならない。他国で指揮を執るとき、言語を学ぶということは重要なことなんだ」



少々説明すると、監督としてFCバルセロナ(スペイン)で大成功を収めたグアルディオラは、ニューヨークでの1年間の休養をへて、今季、ドイツのバイエルンの指揮を任されている。スペイン生まれのグアルディオラにとって、ドイツは水も言葉も異なるまったくの”他国”だ。

監督時代のリージョもまた、”他国”メキシコで指揮を執ったことがあったが、彼はメキシコ人選手らにこう言っていたという。「君たちがスペイン風に合わせる必要はない。私がメキシコに合わせる」。

「ペップ(グアルディオラ)は、まさにそんな仕事をしている」と、リージョは言う。








バイエルン(ドイツ)の選手・キルヒホフは、新監督グアルディオラのコミュニケーションを「短い話だったらドイツ語か英語、あるいはその両方を混ぜて話すんだ。チームに通訳は一切いないよ。わからない言葉あったら、スペイン語がわかる選手に聞いたりするんだ」と言う。

チームで一番スペイン語がわかるのは、ペルー代表FW(フォワード)のピサロ。スペイン語が母国語なうえ、ドイツで計13年もプレーしている。

そうした周囲の助けはあれど、スペイン語話者であるグアルディオラは、わずか1年で通訳なしで記者会見をこなせるレベルにまで、他国ドイツ語を習得していしまっていたのである。

オランダ代表選手であるロッベンは舌を巻く。「最初に会ったときに、彼(グアルディオラ)がドイツ語をペラペラ話していたことに驚かされた。これは簡単じゃないよ。オランダ語とドイツ語は似ているけど、スペイン語はまったく違うから」。ロッベン自身、まだオランダ訛りが消えていない。

「ペップ(グアルディオラ)のロッカールームのスピーチは、人を動かすパワーがある」と、スポーツ・ディレクターのザマーは賞賛している。



師リージョは言う。「新しいチームにいって、すぐに自分の色を出したがる監督は多い。しかしそれは間違っている。。クラブにはその国の、独自のサッカー文化や伝統があるんだ」。

ドイツ語に敬意を払うグアルディオラは、”スペインで大成功を収めた「バルサ・モデル」にまったく固執しておらず、すでに「バイエルンだからこそできるサッカー」に舵を取りはじめている(Number誌)”。



”バルセロナの監督時代、グアルディオラは欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)で2度優勝し、カタルーニャ地方の「生きるレジェンド(伝説)」となった。しかし、ひとりの監督として、ひとりの人間として、まだまだ発展途上にあるのだ。決してバルサ時代が完成形ではない(Number誌)”

昨季、CL優勝を含め史上初の3冠を達成したバイエルンとて同様。昨季と同じことをやっていたら、対戦相手の対応が進んで苦戦することになる。

スポーツ・ディレクターのザマーは言う。「CLの決勝を思い出してほしい。前半は不安定だったし、ドイツ杯決勝も相手に冷や汗をかかされた。この2つの決勝において、バイエルンに安定性はなかった。もし昨季のやり方に囚われていたら、未来はなかった。私たちは今、変わるチャンスなんだ」。








スペインからやって来た新しい風、グアルディオラ。

そして彼もまた、まだまだ新しいサッカーを追い求めている。



「グアルディオラはバイエルンで成功するのか?」

この夏、サッカー界はこの話題で盛り上がった。



「ペップはドイツでも成功するよ」

リージョは遠くスペインから、それを見守る。






(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/3号 [雑誌]
「カリスマ指揮官の真髄 ジョゼップ・グアルディオラ」
「ペップがバイエルンで成功できる理由 ファン・マヌエル・リージョ」


2013年9月24日火曜日

イタリア守備の創始者「アリゴ・サッキ」、日本の守備を語る [サッカー]



なぜ、サッカー日本代表のプレスに南米勢はかからないのか?

”日本には国際舞台で明らかに苦手な相手がいる。ブラジルを筆頭とした「南米勢」だ。過去のW杯では一度も南米勢に勝ったことがない(Number誌)”

欧米勢には激しいプレスからボールを奪える日本。だがなぜ、南米の選手たちからはボールを奪えないのか?



この問いに答えるのは、「アリゴ・サッキ(Arrigo Sacchi)」。1989年から2年連続でACミラン(イタリア)を欧州王者に導いた名監督。

”ゾーン・プレスと呼ばれる新しい守備法で世界中に衝撃を与えた。近代サッカーの守備理論は、ほぼすべてサッキが考え出したと言っても過言ではない(Number誌)”

そのサッキは言う。「南米勢からボールを奪えないのは日本に限ったことではない。南米のチーム相手にプレスがかかりづらいのは、サッカー界の常識だ」



その理由は極めてシンプル。

「欧州のチームはポゼッションに行き詰まると、打開策としてロングボールを蹴ることが多い。それに対して、南米勢はそういう苦し紛れの選択をあまりしない。ポゼッションに行き詰まると、一度DF(ディフェンス)ラインにボールを下げて、もう一度組み立てようとする。彼らはビルドアップの面倒さを我慢できるというDNAを持っている。プレスがかかりづらいのは当然のことだ」






イタリアの誇る守備「ゾーンプレスの創始者」、アリゴ・サッキ。

彼のイタリア流ゾーンプレスを継承する一人は、同じイタリア人「アルベルト・ザッケローニ」。言わずと知れた、現・日本代表の監督だ(通称ザック)。

ザックもまた、かつてACミランを率いてイタリア・リーグ(セリエA)で優勝を勝ち取った経歴がある(1999)。プロ選手の経験がなかった無名監督のザックだったが、この優勝を皮切りにインテル、ユベントスなどビッグクラブの監督を歴任することになる。

かつてザックは、こう語ったことがある。「サッキの守備法から多くのことを学んだ。彼は私の友人で、イタリアの自宅も10kmしか離れていない(『Number誌』2010年12月号)」



日本代表監督として3年が経つザック。

イタリア流のゾーンプレスを日本代表に叩き込むために、力強い言葉をピッチに響かせる。

「『ライン!』と叫んだら、相手FW(フォワード)から1m後ろにDF(ディフェンス)ラインをつくれ!」

その細かな練習に、代表選手・本田圭佑はフフッと口元を緩ませる。

「守備の意識を本能的にさせようと、監督が企んでいるのかなと。悪く言えば、くどいくらいにしているので、イタリアってこんなんなのかなぁと想像しながらやってます」



「錠前(カテナチオ)」とも称されるイタリアの硬い守備。それには「ディアゴナーレ」と呼ばれる基本中の基本がある。

「ディアゴナーレ」とは、DF(ディフェンダー)の目の前にボールが来たら、一人がアプローチし、すぐ横にいる2人が「斜め後ろ」に下がってカバーするという動き。

サッキは説明する。「攻から守に転じた際、DF(ディフェンダー)は最短距離を走る必要がある。ならば、タッチラインと平行に走るなどという愚行はあり得ないわけで、”斜め(ディアゴナーレ)”に走るほうが効率的に決まっている」



「反復に次ぐ反復。これ以外に制度を向上させる術はない」と、サッキは強く言う。

かつて日本代表を率いた監督・トルシェは「日本にはまだ真の守備文化がない」と指摘したことがある。

”これまで日本はW杯のたびにDF(ディフェンス)ラインの高さを巡って論争が起きてきた。2006年W杯では選手間で話し合ったが結論が出ず、初戦で守備が崩壊。2010年W杯(南アフリカ)では岡田武史監督は高い位置からのプレスを諦め、自陣に引いて守る古典的なやり方を選択した(Number誌)”



現・監督であるザックは、「状況に応じてラインを上下させる近代的なDF(ディフェンス)ライン」に挑戦している。

その戦術に対して、サッキは理解を示す。「当たり前の話だが、単にラインを高く保てばいいというものではない。戦況の見極めが重要だ。そもそもDFラインを高く保つには、非常に高い集中力が全員に求められる。90分間維持するのはほぼ不可能。それゆえにラインの上げ下げは柔軟でなければならない」

だが、日本代表は先のコンフェデ杯で大量失点、3戦全敗。守備崩壊とメディアに叩かれ、そのやり方が不安視されるようになっている。



サッキはこう語る。「日本代表のDF(ディフェンダー)たちが高い守備ラインに不安を覚えるのは当然だ。ただ、ミラン時代、私は試合前にこう言って選手たちのモチベーションを刺激していた。『裏を取られることを恐れてラインを下げてしまうようでは、何も体得できない』と。失敗なくして成長は望めない」

サッキは続ける。「誤解を恐れずに言えば、勝つために慎重になるより、失敗を重ねることでスキルを磨くほうがはるかに有益だ。そもそも単に負けないサッカーなら誰にだってできる。だが、そんなメンタリティ(心構え)では何も生み出せない」



ブラジルで行われたコンフェデ杯、日本はイタリア代表とも戦戈を交え、3対4で敗北した。イタリアでも生中継されたこの試合、サッキはどう見たのか?

「あの日の日本は素晴らしいサッカーを見せた。2対0になってからの戦い方には賛否両論あるだろうが、私はアルベルト(ザック)の考え方を支持する。勇敢なサッカーは感動的だった。守備陣にはいくつかの改める点があるが、先ほど述べた通り、失敗から学べばいい。思いっ切りチャレンジすればいい」






元代表の中田英寿は、こんな話をしている。

「2〜3年前まで、最先端のサッカーをしていたのは間違いなくバルセロナ(スペイン)だった。そして、その勢いがそのままW杯南アフリカ大会でのスペイン代表の優勝につながったと言っていいだろう。しかし、昨季の欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)の決勝がバイエルン(ドイツ)対ドルトムント(ドイツ)だったように、時代はドイツに移りつつある。もし今回、バイエルン(ドイツ)が連覇するようなことがあれば、来年のW杯でドイツが優勝候補になるだろうし、今後しばらくはサッカー界はドイツを中心に回ることになるだろう」

サッキが注目するのは、ドイツのチーム「ドルトムント」。かつて香川真司が才能を開花させたチームである。

「この3年間の中で、私を最も魅了したのはドルトムントだ。クロップ監督は無名の選手たちを率いて、魅力的なサッカーを見せ続けている。彼の指導によって、選手たちが超一流へと成長している」

最後にサッキは、こう言った。

「最後に述べておきたいのは、日本はドイツ勢から学ぶべき点が非常に多いということだ。彼らは一步どころか数歩前を行っている。大切なことは、リスクと失敗を決して恐れないこと。世界のサッカーは常に進化しており、学ぶ姿勢を失えば、その流れから取り残されてしまうだろう」













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/3号 [雑誌]
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2013年9月23日月曜日

やきもち焼きの大横綱「大鵬」 [相撲]



「巨人 大鵬 卵焼き」

”読売巨人軍を嫌いな野球小僧なら珍しくない。卵料理の苦手な子供もいるだろう。でも「美して強い横綱」を許せないと憤る少年少女はマレだ。本年(2013年)1月に72歳で天へ召されるまで、過大ではなく日本人のほとんどすべてが「横綱・大鵬」を崇め、そうでなくとも好意を寄せた(Number誌)”








大鵬は言っていた。

「今も胸を張って堂々と言えることは、『私はラーメンの一杯も食べたことなく相撲界に入った人間だ』ということ」

”若き日の母は、南樺太の港町の洋服店で働き、白系ウクライナのコサック騎兵と恋に落ち、将来の大横綱を授かった。父との生き別れ、牧場経営の失敗、もっぱらカボチャで空腹をしのぎ、弟子屈(てしかが)の定時制高校に通いながら営林署の仕事に励んでいたら、二所ノ関部屋のスカウトがやって来た(Number誌)”

”ちゃんこ鍋のスープをお玉にいちいち取って、浮いたアクに息を吹きかけて飛ばすのは、一滴も無駄にせぬためである(同誌)”



早い出世で貧困を脱出すると、大鵬は押しも押されぬ名横綱となった。

”全盛期の巡業では、ひしゃくの水を口に含んだまま5人の大関を次々と退けて、最後にピュッと吐き出した(Number誌)”







著書『知られざる大鵬』には、そうした公の存在である横綱とは別の、夫人をめぐる「家庭の大鵬」の姿が描かれている。

”やきもち焼きで、その上、本当に心配性。国際線の機内で(夫人が)外国人男性とほんの少し話をしただけで「一日じゅう不機嫌な顔」。(夫人が)テレビをつけたまま電話を取ると、受話器の向こうでは「誰かいるのか? 男の声がするぞ」”

”用心深さと猜疑心にくわえ、滑稽なまでにセッカチ。手先が器用なので、いつかテレビの修理を頼んでおきながら、電気屋さん到着の前に自分で直してしまった”



「巨人 大鵬 卵焼き」

昭和時代、子供および大衆に人気があるものとして、このフレーズが大流行した。

しかし実は、この流行語を大鵬は好まなかったという。

”資本を投じた財団と「ひたすら稽古一筋」の個たる自分を比べてくれるな…、という内容の発言が周辺取材から明らかにされている(Number誌)”













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/3号 [雑誌]
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2013年9月22日日曜日

祝! 東京オリンピック開催決定



「『TOKYO』と呼ばれてから数分間、僕は何も覚えていないんです。号泣していたよ、と回りの人たちに言われましたが、記憶に無い(笑)」

2020年のオリンピック開催地が決定した時、松岡修造は歓喜の渦の中にいた。

「”どうしてこんなに嬉しいんだろう?”。あれから数日、そんなことを考えていました」



オリンピック招致に関して、はじめは無関心だった日本国民も、最終的には92%という高い支持率を示していた。

「今、ニッポンは一つになっている」

今年(2013)3月に日本を訪れたIOC副会長のクレイグ・リーディー氏は、そう感じたという。



リーダーシップを執った猪瀬直樹・東京都知事も熱かった。

「猪瀬さん、やめて下さい。これからが大事なんですから」

松岡修造は、猪瀬知事がなかなかテニスの練習をやめようとしないことにハラハラしていた。「IOC(国際オリンピック委員会)の視察団が来た瞬間にポイントを決める」、それが知事の役割だったが、なんと知事はそれまで2時間も練習を続けていたのだという。

視察団が到着した時、「猪瀬さんの頭からフワ~ッと湯気が出ていました」と松岡は言う。

そしてすかさず、「Can you see it? This is his passion(見ましたか? これが彼の情熱なんです」と、松岡は委員に伝えたという。








最終プレゼンテーション

そのトップバッターという大役を務めたのは、3大会連続でパラリンピックに出場している「佐藤真海(さとう・まみ)」だった。

「まさかトップバッターとは思っていなくて(笑)。一週間前に言われてビックリしました」と佐藤は振り返る。



プレゼンに与えられた時間は、他のスピーカーの紹介も含めて4分間。

”I was nineteen when my life changed. I was a runner. I was a swimmer. I was even a cheerleader.(ランナーで、スイマーで、チアリーダーでさえあった私の人生が変わってしまったのは19歳の時でした)”

”Just weeks after I first felt pains in my ankle, I lost my leg to cancer.(初めて足首に痛みを感じてから、たった数週間のうちに、骨肉腫により足を失ってしまいました)”

足を失うまでの20年間、彼女は障害のある人を特別視していたと打ち明ける。そして、自分が義足になってしまった時、その特別な視線を自分の足に感じるようになった。



”I am here because I was saved by sports.(私がここにいるのは、スポーツによって救われたからです) It taught me the values that matter in life.(スポーツは私に人生で大切な価値を教えてくれました)”

大学に戻り、陸上に取り組むことによって、彼女は絶望の淵の上に光を見出す。スポーツを通したコミュニケーションは、相手のイメージが変わりやすいと気づいたのだった。

「最初、私の義足ばかりに視線をやって『かわいそう』『障害者だ』と思っているのが伝わってくるんですが、最後にはちゃんと、私の目を見てくれるようになるんです」



はじめてパラリンピックに出場したのは2004年のアテネ。種目は走り幅跳び。

「ほかのアスリートがすごく輝いていたことに圧倒されたんです。みんな、自分自身の持っている力を限界まで引き出すことに集中していたし、仕草が表情が底抜けに明るかった」

そのイキイキとした姿に触れた佐藤は、「何かを守るのではなく、より強く一步を踏み出すことが大切なんだ」と気づかされたという。



オリンピックの招致活動に携わるようになったのは、そんな「スポーツのチカラ(power of sports)」を実感していたからだった。

「すごく大変なことを乗り越えたからこそ、大切なことにも気づけることをわかっていたんです。つまり、失ってしまったものよりも、目の前にあるものを大切にする(what was important was what I had, not I had lost)−−−」






「投票結果発表の瞬間は、プレゼンをしているときより緊張していました。もうドキドキで…。安倍総理や森喜朗さんのすぐ隣に座っていたので、こんなところに私がいてもいいのか? と疑問に思いつつも(笑)」

「『TOKYO』と発表された瞬間、もちろんすっごく嬉しかったんですけど、1分後には『これからしっかり行動しないといけない』と感じて、落ち着くというか、冷静になってました」



2012年ロンドン大会で、佐藤真海は走り幅跳びで9位に入っていた(自己新)。そして、その雰囲気が最高だったと言う。

「満員の観客がその場所に純粋にスポーツを見に来ているし、それを楽しんでいるのが伝わってきました。そこにはオリンピック、パラリンピックという垣根はありませんでした。それはアスリートとして、人間として、すごく幸せな時間でした」

「あの雰囲気を東京で再現するためにも、2020年までに施設や環境面のバリアフリーはもちろん、『心の面でのバリアフリー』が日本に根づいてくれるといいな、と」



→ 佐藤真海選手のプレゼン全文(英語・日本語)







あふれる涙を止めることができずにいた松岡修造。だが、その心はむしろ引き締まっていた。

「喜んでばかりもいられませんでした。『やる』と言った以上、このオリンピックを絶対に成功させなくてはいけません」



イギリスは、ロンドン五輪で29個のメダルを取った。シドニー(2000年)の時には11個しか取れていなかったのに。

「ここまで変わったのは、オリンピック開催が決まる前から、国が主体としてサポートしていたからに他なりません」と松岡は言う。

「残念ながら今の日本は、国のサポートが十分とは言えません。2011年に『スポーツ基本法』ができましたが、その理念が具体化しているかといったらそうではないし、スポーツ庁もまだありません」

2012年度、日本のオリンピック強化予算は約27億円。それに対して、イギリス、アメリカ、中国などの強化予算は100億円以上。ドイツに至っては200億円以上だという。

Number誌「9月8日午前5時20分、開催地の名が読み上げられ、歓喜の輪が一斉に広がり、首都はお祭りムードに包まれた。ただ、喜んでばかりもいられない。あの瞬間、日本は開催国としての責務を負ったのだ。残された期間はあと7年。われわれは何をすべきなのか?」






「オリンピックの開催が決まった今、アスリートのモチベーションは信じられないぐらいに高まっています」

未来のトップテニスプレーヤーを自ら指導する松岡は、それを肌で感じている。

「『日本代表としてオリンピックで絶対にメダルを獲るんだ』という思いにあふれています。7年という時間はアスリートにとっては決して長くはありません。でも、彼らの高いモチベーションと周囲のサポートが合わされば、競技としての成功は不可能ではないと思っています」



水泳の「入江陵介(いりえ・りょうすけ)」も、東京開催が決まったことで競技継続のモチベーションが高まったという。

「自分では次のリオまでと考えていましたが、東京五輪がきまったことで、競技を続けられるなら続けたいという気持ちにもなりました」

18歳で北京オリンピックに出場した入江は、昨年のロンドンでは個人で銀と銅、メドレーリレーで銀メダルを獲得している。現在23歳、東京五輪では30歳になっている。

「30歳になって身体がどう変わっているかわからないけど、北島康介さんは去年タイムを伸ばしているし。科学的なサポートも充実して、30歳でも現役を続けるのが普通になっているかもしれないです」と入江は言う。

年上の先輩である山本貴司や松田丈志は、入江にこう助言した。

「ボロボロになるまで頑張っている姿を若手に見せるのも大事だ」






「一般的に、日本人はリスクを冒すということに関して、臆病になっていると言われています。1964年、東京五輪が開催された高度成長時代の日本は、もっとチャレンジ精神をもっていたんじゃないでしょうか」と松岡修造は言う。

「現在の日本では『自分は日本人です』と誇りをもって言える人が少ないのではないでしょうか。東京オリンピックは、消極的な日本を変える絶好の機会です。自分の国に対して自信をもつのに、これ以上の祭典はありません」

「僕は、若者も含めてすべての世代の人たちに自信を掴んでもらいたい。オリンピックには『計り知れないチカラ』があると思うのです」



スポーツの持っている力

佐藤真海は「その力って何なのか、はっきりとは分かりません」と言う。それでも彼女は、最終プレゼンの中でそれを明確に語っている。

「言葉以上の大きな力(more than just words)」



それは東日本大震災の被災地で垣間見た「スポーツの真の力(the true power of sport)」だったと彼女は言う。

被災した彼女は6日間も家族が行方知れず。ようやく家族の無事が確認された後は、スポーツを通じて「自信を取り戻すお手伝い(to help restore confidence)」を多くのアスリートたちと共に行ったという。

「新たな夢と笑顔を育む力(to create new dreams and smiles)、希望をもたらす力(to give hope)、人々を結びつける力(to bring people together)」

そうした力に、彼女は「言葉以上の大きな力(more than just words)」を感じたのだった。






東京開催が決定した時、松岡修造は「どうしてこんなに嬉しいんだろう?」とわからなかった。

だが数日後、ようやくその想いを言葉にすることができた。

「『日本は変わることが出来る』。そう感じたからこそ僕は、あふれる涙を止めることができなかったんです(松岡修造)」














(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/3号 [雑誌]
「オリンピックがやってくる!」


2013年9月20日金曜日

新怪物「荻野公介」の人間らしさ [水泳]



2013世界水泳バルセロナ

松岡修造は語る。

「フェルペスやロクテのように『怪物と例えられる日本人選手』が出てくるとは、予想だにしなかった」



その「怪物」は現れた。

8日間7種目、全17レースに挑んだ18歳

「荻野公介(おぎの・こうすけ)」



世界を知る男、松岡修造でさえ驚愕した。

「彼の考えは僕はおろか、今後の日本人アスリートのメンタリティー、指導者の考え方さえも変えてしまうほどの衝撃だった」

その荻野は大会前、挑むようにこう語っていた。「日本人はできないなんていう、松岡さんが持っているような常識を覆したかった。やれるものは誰でもやれますから」



初日の男子400m自由形、荻野公介はいきなり「銅メダル」を獲得した。

松岡が驚かされたのは、ゴール直後の荻野の行動だった。

「彼はガッツポーズも笑顔もなく、誰よりも早くプールから上がり、僕のいるプールサイドのインタビュー・エリアにやって来た。”おめでとう!”と声をかけると、彼は『反省して残りの夏を悔いのないように泳ぎたい』と、まるで敗者のような言葉だった」



「なぜ、一目散にプールから上がったのか」と松岡が聞くと、

「とにかく次のレースがあるので意識を切らしたくなかった。本能的に動いてしまったんです」と荻野は答えた。

荻野の頭の中は、一つのレースが終わったその瞬間、次のレースに切り替わっていた。



1日に4レースを戦う日もあった。

次のレースまで1時間しかないという時もあった。

そんな時でも、荻野はすぐさまサブ・プールに飛び込み、1.5kmほども泳ぎ続けていた。疲労した筋肉にたまった乳酸を、少しでも早く取り除くためだった。表彰式が終われば、また泳ぐ。



「連日何度もインタビューしたが、彼はどんな時でも冷静だった」と松岡は振り返る。

「さらには、一度も息を切らしながら話したことがなかった」



そんな超人でも、最終日、唯一「彼らしくないレース」があった。

400m個人メドレー

この種目は、ロンドン五輪で銅メダルを獲得した荻野公介の、最も得意とする種目のはずだった。ましてや、今回の世界水泳、世界王者のロテクが不在という舞台。みな荻野公介の「金メダル」を確信していた。



だが、荻野は失速した。

その代わりに勢いを増したのは、同世代のライバル「瀬戸大也(せと・だいや)」。

「日本人初の金メダル」を獲得したのは、この瀬戸大也だった。








松岡はその時のことを、こう振り返る。

「瀬戸選手の歓喜の声を聞く目の前で、信じられない光景を目にした。荻野選手が倒れこんでいたのだ。その光景は、今大会初めて、荻野選手の『人間らしさ』を感じた瞬間だった」

ようやく起き上がった荻野は、こう言った。

「これが五輪じゃなくて良かった…」



「負けた時にこそ、自分が成長できるものがある」

かつて荻野公介は、そう語っていた。

「悔しさの中にも成長できる部分があるって考えると、勝ち以上の負けの価値があるんです」



しかし悔しい。

「絶対的な力が欲しい!!」

最後に荻野は、そう叫んだ。






(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/19号 [雑誌]
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2013年9月18日水曜日

平凡なる非凡さ。前橋育英・荒井監督 [甲子園]



この監督で勝てるのだろうか?

それが荒井監督の第一印象だった。

過剰、偏り、狂気。そうした異能とは無縁に見える荒井監督が、海千山千の監督がひしめく高校球界で勝ち抜けるとは思わなかった。

それでも、こんな監督が勝ったら面白いだろうな。

そう思った。


〜Number誌〜



今夏、甲子園初出場の「前橋育英(群馬)」を優勝候補に上げたジャーナリストなどいたのだろうか?

全国制覇することになるこのチーム、「優勝候補でもなければ、派手な野球をするチームでもなかった(Number誌)」。

荒井監督自身、「今のチームを強いと思ったことは一度もないんです」と話す。



本大会での勝ち上がり方にも、派手さはない。

近年の優勝校が軒並み一試合平均10得点前後を上げているのに対して、前橋育英は6試合で20得点、一試合の平均得点は3点ちょっと。

荒井監督の言うとおり、「相手を圧倒するような力はない」。








ただ、失点が少なかった。

6試合で7失点、一試合平均1点ちょい。ここ数年の優勝校の多くが二桁失点しているのと比べると、極めて守りが固かった。

Number誌「派手さはない。だが、最後は勝ちを拾った。その粘り強さを支えていたのは守備力だ」



荒井監督は言う、「我慢強いチームではありますね」。

監督の息子にして主将の荒井海斗も「うちのテーマは『あきらめの悪いチーム』なんで」と胸を張る。

※そういえば準々決勝、常総学院との対戦において、前橋育英はあとワン・アウトで敗退が決まる9回裏、相手のエラーから2点差を同点とし、延長10回にサヨナラ勝ちを手にしていた。



チームの合言葉は「1試合でダブルプレーを3つ取る」

「ゲッツー(ダブルプレー)を取れれば流れが来る。ゲッツーを取った試合はほとんど負けていない」と一塁手の楠裕貴は言う。

ピンチの時に監督が送る伝令は決まってこうだ。「おまえたちの守備力を見せてやれ」。

Number誌「そうして積み上げたゲッツーは計9個、一試合平均1.5個だった。3回戦の横浜戦では、目標通り3つのダブルプレーを成立させ、最後まで相手に主導権を渡さなかった」



どんな守備練習をしていたのか?

「特別なことはやっていません」と監督は答える。

「キャッチボールの一球を、相手の胸に投げようとちゃんと意識しているだけでも、毎日積み重ねれば違ってきます」

Number誌「荒井監督は『積み重ね』だと強調する。選手たちに求めたのは『誰にでもできること』ばかり。ただ、他の人と違うところは『誰にもできないぐらいに継続すること』を求めたことだった」



野球技術のことでは一切怒らないと決めている荒井監督も、日常の「当たり前」にはうるさかった。

「米粒残したら目が潰れるんだぞって。そうこうところはうるさく言っています」と監督は言う。

寮の食事は一粒残らず食べさせ、服装、ゴミ拾い、そういった「当たり前」のことに監督は執拗にこだわった。



「本物ってのは『平凡なことを積み重ねること』だぞ。同じことを繰り返すから、変化が感じられるようになるんだ」

それが監督の口癖だった。監督自身、そうした「単調な作業がまったく苦にならないタイプ」であるという。

日大藤沢の投手としてノーヒットノーランを2度達成したことのある荒井監督。卒業して入社したいすゞ自動車では、出社前に毎朝350本の素振りをするのが日課だったという。



いすゞ時代に、こんなエピソードがある。

ある先輩にビールを買ってこいと言われたが、監督は「素振りしたら買ってきます」と答え、2時間後にビールを買ってきて先輩に呆れられたという。

「2時間ぐらい何てことなかったんで。脳が単純なんでしょうね。ぜんぜん平気なんです」と監督は笑う。

今でも毎朝4時には起きて、ジョギングをするのが日課だという。






夏の甲子園、決勝戦。

相手は延岡学園(宮崎)。

Number誌「プレイボール直前、延岡学園がベンチ前で円陣を組み、全員で声を張り上げていた。高校野球で頻繁に見られる光景だ。というより、やらないチームはほとんどない」



だが、荒井監督率いる前橋育英は「そういった儀式を一切やらなかった」。

「ガツガツやっちゃうと、普段通りじゃなくなっちゃうんで」と、監督は穏やかな笑みを浮かべる。

Number誌「大会を通じ、荒井監督は『気合い』といった類の言葉とは、最も遠いところにいる人物に感じられた」

「勝つ気がないんじゃないかって言われるんですけどね(笑)。でも、勝てば信念って言われますから」と監督はいたって冷静であった。



結局この決勝戦、4回に3点先制されるも続く5回に同点に追いつき、7回に逆転。4−3で勝利。群馬県勢では14年ぶり2度目の優勝を果たす。

前橋育英は2011年の春に一度だけ甲子園に出場したことがあったが、その時は初戦敗退。夏の甲子園は初出場であり、そして初優勝。3,957校の頂点に立ったのだった。

Number誌「甲子園は、特別な選手を集め、特別な練習をしなければ勝てないところだと思っていた。だが、前橋育英はその逆だった。特別だったのは『平凡なことを非凡なまでに徹底したこと』、その一点だけだった」









世間的には地味な優勝チームだった。

だが、静かな革命だった。


〜Number誌〜






(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/19号 [雑誌]
「当たり前を積み重ねる『静かなる革命』 前橋育英・荒井直樹監督」


2013年9月16日月曜日

投手を育てる打者イチロー [野球]



今から約20年前になる1992年

ジュニア・オールスター(現:フレッシュ・オールスター)は同点で8回を迎えていた。

そして登場した、全ウエスタン代打の「鈴木一郎(イチロー)」。その彼が放ったホームランが決勝弾となった。



「細い体でポコッと代打に出てきて、簡単に決勝のホームランを打つ。一発でMVPですからね」

それまでイチローをほとんど知らなかったという「定詰雅彦(じょうづめ・まさひこ)」。この時、全イースタンで捕手を務めていた。

「いいところを持っていくなぁと思いましたよ。今の言葉で言えば『持ってる』という感じ」

その年、イチローはまだプロ一年目であった。






2年後(1994)、ヒットを量産するようになっていたイチローは、あれよあれよと史上最速のペースで100安打をクリアし、無人の野を進みはじめる。すでにシーズンの半ばには「手の付けられない存在」になっていた。

「彼の場合はストライク・ゾーンが普通の人のボール・ゾーンにまで広がっている。だからボールを使いながら組み立てるということができなかった」

定詰は、そう当時を振り返る。

「ほかの打者ならキッチリ打ち取れるスライダーを何度もヒットにされた。それで手がなくなった感じでね」と、定詰とバッテリーを組んでいたピッチャー「園川一美(そのかわ・かずみ)」は言う。



「ゴロを打たれるとセーフになる確立がものすごく高くなる。だからできれば飛球(フライ)で打ち取りたい。でも、それが難しいんだよね」

一塁ゴロを投手がベースカバーしてアウトにする、いわゆる「3-1」のプレーがイチローの場合はセーフになってしまう。かと言って、飛球(フライ)を狙うために高めの速い球を使うと、イチローはそれをきっちりと捉えられてしまう。

この年、園川-定詰のバッテリーは18打数13安打と、呆れるぐらいイチローに打たれた。



「本能のままに打っているような感じだからね。『打たれたから次は裏の配球』なんてことをやっても意味が無い。打たれても同じ攻めを続けるしかなかった」と園川。

他の打者にならば有効な駆け引きも、イチローを相手にしては一切通用しない。基本的に苦手はないし、狙いを絞って待って打つような打者でもない。

「打ち取れるイメージがまるで浮かばなかった」と園川は認めざるを得なかった。






プロ野球史上初となる「年間200安打」

その年(1994年)の9月には、その数字がイチローの上に現実味を帯びてきていた。

神戸でのロッテ戦を前に「残り3本」。



「記録の重圧で足踏みなんて、彼の場合はあり得ない。普通に、あっさり通過してしまうだろうって思いましたよ」

チームメイトだった田口壮は、そう語る。大記録を眼前にしていながらも、イチローにもチーム(オリックス)にも特別な雰囲気はなかったと言う。

「もちろん、大記録達成に立ち会えるかもしれないと期待した観客の方々は、試合前から大いに盛り上がっていたようですが」



対するロッテのバッテリーは「園川 - 定詰」。

Number誌「マスクを被る定詰は、第1打席、第2打席と違う攻め方をした。しかし、ことごとくヒットにされる。あと1安打されると200安打。一里塚に名前を刻まれるのは決して名誉ではない。だが、攻め方を変えても打たれてしまっては、第3打席への方策が見つからなかった」

当時、イチローはこんなコメントを残している。

「空振りしたいけど、バットに当ってしまうんです」



「あと一本! あと1本! あと1本!」

残り1本となると、俄然、球場は騒がしくなってきた。

「1本打たれ、2本打たれ、3打席目には異様な雰囲気でしたね」と園川は語る。



バッテリーが勝負に選んだ球種はフォークボール。

ピッチャー園川は「思った通りのボールだった」と記憶する。しかし、キャッチャー定詰は「構えたところが少し甘かった」と述懐する。



イチローはそのフォークボールをきれいにすくい上げ、ライト線へ運んだ。日本の球場で初めて記された200安打は二塁打となった。

Number誌「200の数字が刻まれたボードを手にレイをかけられ、軽くはにかむイチローの写真は、長嶋茂雄の空振りや王貞治の756号と同じように国民的記憶の中にある」



打たれた園川もまた「時の人」とされた。

それに憤慨したか、「オレひとりで200本打たれたわけじゃない」と園川は、熊本出身のもっこすらしい痛快なコメントでファンを喜ばせていた。

それでも反省がなかったわけではない。

「200本目のフォークだって、自分じゃ納得できる球。打たれたのは仕方ないけど、さすがに『今まで通りじゃダメだ』とは思ったね」と振り返る。



翌1995年、園川はシュートを身につける。

Number誌「それは完全に『イチロー用』だったが、投球の幅が広がったことで、自身の投手寿命を延ばすのにも役立った」



「ああいう打者がいると、対戦する投手のレベルも上がる気がするんだよね」

キャッチャー定詰はそんな感慨をもらす。

「怖さの中で勝負して、痛い目に遭いながら投げなければ、投手は成長しないんじゃないですかね」



現在、園川は千葉ロッテのアカデミーで子供たちに技術指導をしている。

こと話題がイチローになると「200本目を打たれた園川さん」と、子供たちはからかう。すると、園川は決まってこう言い返す。

「その時はいつも、オレは『打たれたけど勝負したんだよ』って言うようにしてる(笑)」













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/19号 [雑誌]
「打ち取れるイメージがまるで浮かばなかった 210安打の戦慄」


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「これが野球のスパイクなのか…?」

手に持った瞬間、そう疑ってしまうほど軽いという「イチローのスパイク」。



「もうこれが限界か(笑)」

長年軽量化を要求してきたイチロー自身も、そう笑う。







Number誌「金具の本数を減らしながらも『ダッシュする』、『急に止まる』という動きを損なわないようにする動作解析技術。マラソンや陸上距離スパイク用に開発した素材など、アシックスが蓄積してきたノウハウが最大限に生かされている」







開発担当者が「イチロー選手の活躍、我々への高い要望が大きな励み」と語る通り、互いの「妥協なき姿勢」こそが、この”作品”を生んだのかもしれない(Number誌)。



「Ichiro's Beautiful Number スパイクの重さ(片足)230」


2013年9月13日金曜日

賢くも無事。守り堅きイチロー [野球]



「イチローは『怪我をしない』とみんな言う。丈夫だって感心する。でも、ボクから言わせたら、そうやない」

福本豊(ふくもと・ゆたか)は、そう話し出す。

「しっかい、身体のケアをしているし、『怪我をしないようなプレー』をしている。だから、いつまでもあれだけのプレーができる」



現在は評論家である福本豊氏は、現役時代、13年連続・盗塁王、通算208ホームラン。その俊足と長打力で阪急黄金期に活躍した名選手である。

その福本氏の持っていた通算1,065盗塁という記録を塗り替えたのが、イチローである。



福本氏が感心するのは、イチローが「危険なことはしない」ということである。

「とくに感心するのはスライディング。絶対に頭からは滑り込まんでしょう。尻や背中を使わずに、体の横で滑り込んでいる。だからベース近くになってもスピードが落ちないし、スピードが落ちないからすぐに立って次の塁も狙える。頭から突っ込むのは派手やけど、そこでプレーが止まるし、怪我の原因にもなる」

「守備でもそう。前の飛球をギリギリで取るときも、絶対に頭からは行かない。足から行ってスライディングしながら取ってる。あれなら落ちたショックで故障することもないし、手首が反って骨折することもない。落ちた衝撃で選手生命を縮めた選手もおるからねぇ」



「だいたい、頭から突っ込んで捕球するなんてファインプレーとは言えないんや。2歩3歩しっかり走れば追いつける。足を使えばファインプレーに見せないで好いプレーができる。イチローはそれを実践しているね」と福本氏は言う。

この点、田口壮(たぐち・そう)も同じような感想を抱いていた。

「彼(イチロー)のファインプレーの印象はあんまりないなぁ。どんなプレーでも当たり前にできてしまうので、ファインプレーに見えないんですよ」



走塁や守備で「頭から行かない」イチロー。あくまでも足を使う。

福本氏は「賢いからケガがないんや」と言う。なるほど、イチローは「頭を使って、頭を使わない」のであった。

イチローいわく、「プロ野球選手は、怪我をしてから治す人がほとんどです。しかし、大切なのは怪我をしないように普段から調整することです。怪我をしてからでは遅いのです」



「無事これ名馬」

39歳にして躍動し続けるイチロー。同じ39歳、ヤンキースの名選手デレク・ジーターは今季、ケガのためにほとんど試合に出ていない。

以下、プロ22年目となるイチローのデータを紐解いてみる。



先頃、イチローの達した日米通算4,000本安打のインパクトが強いものの、残念ながら近年の打撃成績は下り坂である。

Number誌「10年連続で達成していた年間200本安打も、打率3割も、ここ3年間は届かなくなっている。fWARの構成要素のうち、打撃だけだとイチローはマイナス12.7ポイントで平均以下でしかない」

※「WAR」というのは選手のパフォーマンスを判定する総合指標であり、代替可能な選手(メジャーの底辺レベル)と比べて「どれくらい勝利に貢献しているか」を示す数字である。それにはbWARとfWARの二種がある。



現在のイチローが真価を発揮しているのは、その「堅い守備力」である。

UZRとDRSという2つの守備指標を見ると、イチローはUZRがプラス10.7(メジャー4位)、DRSがプラス11(メジャー4位)と安定的に好成績である。この両指標はいずれも「守備範囲に飛んできた打球を、平均的な選手と比べてどれだけ多く処理したか」を物語っている。

Number誌「ものすごく単純に言えば、今季のイチローは平均的な外野手より10点以上も多く失点を防いでいるわけだ」



かつてマリナーズ時代、イチローが攻守を連発するその守備範囲(ライト)は「エリア51」と呼ばれていた。それは厳重な警戒態勢で知られるアメリカ空軍基地にちなむものだった(「51」はイチローの背番号)。

日本のオリックス時代を、田口壮はこう語る。

「(外野からホームへの返球を)レーザービームと驚かれたように、肩が強いことは言うまでもないんですが、彼の捕球・送球には変なクセというか欠点はなかったですね。イチローは投手出身だから、きれいな回転のボールを投げることができる。送球の質が良いんです。肩の強さに加えてボールの質もいいので、受ける方からするとこんな有り難い外野手はいませんよね」



田口は続ける。「40にもなるイチローが依然として守りに就いて、しかもチームを救うようなプレーをしばしば見せている。メジャーの外野は一見きれいですが、けっこうデコボコしていて足を取られたり、打球が変わったりすることも多い。その中で平然とやっているんですから」

現在、米メジャーでイチローよりも守備指標(UZR, DRS)の良い選手は、当然ながらみんな年下。ベテランといわれるビクトリノでさえ、まだ32歳であり、ケイン、レディック、エルズベリーに至っては20代である。

Number誌「通常では肩や足の衰えが進んでいるはずの39歳でも、若い選手たちに負けずにイチローがハイレベルな守備力を維持しているのは、驚異的と言ってもいい」



先のWARの指標でイチローは、守備でプラス13.1ポイント、さらに走塁でもプラス4.4を稼いでいる。つまり「守備と走塁能力に秀でた選手」と判定されている。

「走れるうちは大丈夫」と、福本氏は言う。「40になるそうやけど、足のある選手はいっぺんにガタッときたりはせんもんです。まだまだやれると思いますよ」













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/19号 [雑誌]
「福本豊も舌をまく、クレバーすぎる『走塁術』」
「セイバーメトリクスで読む、39歳の『衰えぬ輝き』」
「田口壮が神戸で見た『レーザービーム』の原点」


2013年9月12日木曜日

「塞がらないフタ」だったメダル。為末大 [陸上]



「勝つのは良いことで、負けるのは悪いこと」

そう思い込んでいたところがあった。

「勝つ選手は努力をたくさんしたからであって、負ける選手は努力不足」

そう思って勝ち続けてきた。



「為末大(ためすえ・だい)」

陸上ハードル競技において、オリンピックに3大会連続出場(シドニー、アテネ、北京)。国内では敵なし、世界陸上で2度の銅メダル(2001エドモントン、2005ヘルシンキ)。

400mハードルにおける彼の記録「47秒89」は、未だ破られていない日本記録である。








「スポーツの世界はわかりやすくて、『勝つのは良いことで負けるのは悪いこと』という一つの価値観にみんな向かっていくんです。自分もそれに乗っていたんですが、どこかズレてる感じがありました」

為末が漠然とそう思っていたのは、自分のやっていることを「別の場所から見ている自分」がおぼろげに感じられていたからであった。



それが少し鮮明になったのは、初めてのオリンピック(2000年シドニー大会)。

予選で敗れ、金メダルは一個しかない、という当たり前のことに気づかされた(当時22歳)。

「じゃあ、『努力すれば、みんな一番になれる』『頑張れば、夢は叶う』っていうのはウソじゃないか!?」






■メダル



為末はメダルが欲しかった。

周りもそう言うし、彼自身にとってそれは「すごいこと」だった。



そしてシドニー五輪の翌年に開催された「エドモントン世界陸上」で、念願のメダルを手に入れた。

「取れて、それが『すごい』と言われて、僕もそのときは『すごいことやった!』と思うんですけれども、すぐその余韻がなくなって、『いったいあれは何だったんだろう…』と」

ますます、漠としたズレは大きくなるばかり。



「みんなが『すごい』と言うんだけれども、どういう理屈で『すごい』と言うのか? 人より速く走るのが、なんで『すごい』のか? じゃあ、走るのが遅い人はすごくないのか?」

メダルをかけられた彼の目の端には、彼に蹴落とされたライバルたちが鮮明に見えていた。

「僕が勝ち続けるってことは、ある意味、他者を引退に追い込むわけです…」



メダルを取ることが「正解」のはずだった。

「『これぞ正解』と思うものを掴んでみても、『なんか正解という感じがしない』ということをずっと繰り返していて、虚しさというか、虚しいけど頑張るみないなことを思っていました」

取った瞬間は確かに、「成し遂げた!」という高揚感に浸ることができた。だが、その熱狂はすぐにも醒めてしまう。それが昔からのクセだった、と為末は言う。

「そういう熱狂ができないんです。人とワーッと盛り上がって熱くなれないところがどっかにあって…」






■少年



醒めがちな為末は、ずっと一人だった。

「僕は18歳くらいから指導者がいなくて、一人でやっていたんです。自分のやりたいようにやりたかったから、それはそれで良かったんですけど、寂しさもありました」



オリンピックの競技場にコーチは入れない。だからコーチは途中まで来て、最後、背中をコーチがドンと押して選手はレースへと向かっていく。為末には、その背中を押してくれるコーチがいなかった。

レース後、コーチは選手たちを出迎える。この時もやはり、為末は一人だった。

「いっつも僕は一人だけで入っていって、レースが終わって良くても悪くても、出てくると誰もいなくて、一人でポツンとしてる感じだったんです」



そんな為末には、東日本大震災で被災したある少年の気持ちが痛いほどに理解できた。

「なんで自分がこんな目に遭わなきゃいけないんだ」と少年は言った。

「なんで僕の親だったのかが、よくわからない…」



少年は不幸にも親を喪った。

為末は幸運にもメダルを取った。

幸と不幸の両端にいたような2人である。だが、なぜか2人とも「よくわからない」というモヤモヤの中にいた。



「僕は努力をたくさんしたから勝ったと思っていたのが、どうも実はそうじゃなくて、たまたまそういうふうに僕は生まれたから勝ったんじゃないかと、そういう気分になっていました」

たまたま幸運だったのか、ならば不幸もたまたまか?

「結局、理由がなくて自分がいきなり自分になっていて、『降ってきた自分』みたいなものが足が速くて、それで走って一番になって…」



じゃあ、努力って何だ?

夢や希望って?










■限界



アスリートの常として、かの為末にも落日はやって来た。

2012年6月、ロンドン五輪を前にした日本選手権、男子400mハードル。為末が不動の日本記録をもつ絶対の種目である。

しかし為末はいきなり、1台目のハードルを越えられずに転倒。完走するも最下位。まさかの予選落ち。

これが為末大、現役最後のレースとなった(34歳)。



不思議なことに、そうした「限界」こそが彼にとって確かな手応えであった。

じつは世界陸上で銅メダルを手にした時も、その興奮よりも「限界」に奇妙な安堵感を覚えていたのである。

「僕はけっこう努力したと思うけど『銅メダルが限界だったな』と思うんです。あれが僕の限界だった。努力すればもうちょっといけたかもしれないけど、金メダルはなかったと思うんですよね」



「金メダル」こそが夢であり希望であると思っていた頃もあった。だが、それは「一個しかない」というのが厳然たる事実でもあった。

そして、それが遂に手に入らないということを実感した時、彼の心はむしろ安らかになった。

「無理なものは無理だと知ることが、じつは幸せに近いんじゃないかなと思うんですよね。うまく言えているかわからないですけど」






■坐禅



現役を退いてのち、為末は恐山(青森)に向かっていた。

禅僧・南直哉(みなみ・じきさい)に「坐禅」を乞うためであった。



初日は「足が痛い」という思いしかなかった。

そして、自分が今ある場所に「静止し続けること」の難しさを感じた。

「動くのは競技でやってたけれど、一カ所に静止するのは難しいと思いましたね」と為末は苦笑する。



禅師は言う。

「人間の身体っていうのは、力を抜くほうが入れることよりずっと難しいんです。一生懸命に努力することはできても、休むことは難しいのです。人はふつう逆に考えますが…」

留まること、休むことに慣れない人間は、ついつい何かを始めたがってしまう、と禅師は言うのであった。



二日目、半眼で坐禅を組んでいた為末は、自分の身体の境があいまいになっていくように感じていた。

「たとえば腿を触っていれば『ここが自分の腿だ』とわかるんですけど、何も触らないでジーっとしていると、どの辺までが自分の肌の範囲だったかよく分からなくなってくる。目をつぶっていると、自分の鼻ってどのくらいまでだったかなと、よく分からなくなる感じがあって」

はたして自他の境は、どこにあったのか?

「あ、この延長線上に、すっごいところまで行くと、自分と外の境目がなくなるような世界がもしかしたらあるのかな、と思いました」

それこそがメダルを取ることよりも「すごいこと」なのではないか、そう思えた。



競技をしている最中にも、坐禅に似た奇妙な感覚はあった。

「ゾーン」とも呼ばれるそれだった。

「動こうと思うよりも先に動いているというか、もっと言うと『こんなふうに動いているのかな』と自分が眺めている視点がなくなっていくような世界なんです」



現実の結果と自分の感覚にズレを感じていた為末は、そのゾーンという境地において、「別の場所にいる自分」と完璧に重なり合うことができていた。

「そういう世界ってある意味、自我がない世界。もっと究極的に言うと、ハードルと自分しかない、みたいな世界なんです」

いい意味で、そこには夢も希望もない。メダルを渇望する自分もいなかった。










■体験



坐禅修行を終え、恐山を後にした為末は実感していた。

「やっぱり体験なんだ…」

たとえ、「夢は叶わない」と言われても、金メダルが取れなかったという体験をするまで、その前向きな要素を体感することができなかった。

南禅師もそう言っていた。

「最初から『手に入れたってダメ』ではダメなのです。やってみて、『あ、やっぱり手に入らないんだ』という実感が大事だと思うのです。『手に入らないからどうせ』というのは観念(頭の中)の世界なのです」



引退後、為末はスポーツ以外の世界に行こうかと考えていた。それでも彼はスポーツに留まった。

「スポーツがいいなって思ったのは、スポーツって非常に体感的なんです。当たり前なんですけど、身体を使う。脳も身体の一部なので、そういうものをフルに使いながらやっていくんですけど、身体で理解することと、頭というか概念の上で理解することと、腹にストンと落ちることって随分違うんじゃないかというのを僕は思っていて」



身体で理解すること

頭で理解すること

腹にストンと落ちること

この3者が見事に一致するのが、競技中のゾーン、そして坐禅という体験であったように思われた。動く世界と動かぬ世界、その両方にそれはあった。










■欠落



そもそも、なぜ自分はメダルを欲しいと思ったのだろうか?

その問いに、南禅師はこう感じた。「ある種の価値や、自分の信念を支えている根拠の部分を疑う人がいるが、ひょっとしたら為末さんはそういう人なのかなというのがありました」



「勝つことが良いこと」という既存の価値観を疑いながらも、それに向かわざるを得なかった自分。

そして、メダルこそが自分の心を埋めるはずだったのに、意に反して広がってしまった心の隙間。何か足りないものを埋めよう埋めようと努力するほど、皮肉にもその穴は口が大きくなるばかりであった。

為末は、それをこう語る。「そのメダルは自分の中の欠落感を塞ぐために取った。けれどもそれは『塞がらない蓋』であった」と。



「欲望というのは不足から生じます」と南禅師は言う。「根源的な欲望は根源的に欠如しているんだと思うんです。人というのは、最初から何かを喪失して生まれてくるんだと思うんです」

「ところが問題なのは、『何を失ったか分からない』わけです。それでも『失われているという感覚』だけが残っているから、埋めたくなるわけですわな」



アスリートならば金メダル、ビジネスマンならばおカネが、失った何かを埋めてくれると期待する。

「ところが実は、何を入れたって埋まらないわけです。メダルを実際に取っても、何を入れても底が抜けたようにボタンと落ちてしまう。どんな目的でも、達成したらその瞬間に飢えと渇きが帰ってくる」

まるで、水を欲して海水を飲んでしまったように。



ならば、夢も希望ももたずに、最初から諦めてしまえばよいのか?

そのした発想は堂々巡りに人を導くだけである。頭だけで理解しようとも、その肚は空腹を癒せない。そのズレを正すためには、どうしても身体での体験を欠くことができない。

為末大の感じていた根源的な疑問は、メダルをとったことではなく、それを「手放したこと」によって納得されるのであった。刀折れ矢尽きてはじめて、ようやく自分の欠片を見つけるのであった。










■自分を知るツール



全力で競技に取り組み、自らの限界を悟った時、競技者・為末大の「欠落感」は埋まりはじめた。

それは、価値観や結果を他人任せにすることから解放されたからでもあった。他人を蹴落としたからではなく、自らに疑問をもったからであった。



「今の世の中って、体感的に自分の限界がよく分からない人が多くて、そうすると、できないはずの自分になろうとして鬱になったり、反対に、本当はもっとできるのに縮こまっちゃてる人が多いような気がしています」と為末は言う。

「もうちょっと体感的に自分の範囲を知るとか、自分の限界をちゃんと知って、地に足の着いた人生を生きてくことが大事な気がして、そのためにスポーツというのはツールとしてすごく良いんじゃないかと思います」



自分を知るツールとしてのスポーツを子供たちに教えようと、為末は陸上教室を開催している。そこで感じるのは、学校の教育の中では「危ない」という理由から子供たちがあまりチャレンジさせてもらえない、という現実であった。

「ほんとは自分がどれくらい跳べて、どこからは跳べなくなるのか体感して限界を知る。それは確かに転んだりして危ないことなんですけど、でも『自分の限界を知らずに成長していくことの方が危ないんじゃないか』と、僕は何となく思うんです」

為末は言う。「大事なのは、それがいったい自分の人生にどうなっていくのかということだ、と思います」






■明日



「スポーツをやっている人間って、当然なにかの目標に向かって頑張っていて、その姿が素晴らしい。で、夢を叶えた人間が、その夢を叶えた素晴らしさを語る。そういう世界があるのは僕も否定しません」

だが、為末は安易に「夢は叶う」とは言いたくない。「勝つことは良いことで、負けることは悪いことだ」というような、あまりにも一方的な価値観にはやはり違和感を感じる。



「素晴らしい素晴らしくないではなく、良いも悪くもないようなことが僕には見えていました。それをすごく感じていたなぁ、と」

「夢に向かっていって夢を叶えて、それがシックリきている人にはあんまりわかんない話じゃないかなと思うんです。でも、どうもなんかそこがシックリきてない人が世の中にはたぶん一定数いて、ないしは叶わなかった人たちなら言葉としてわかるっていう感じじゃないですかね」

「坂の上まで行けば楽園が待っている。そう信じて人は必死で走るが、坂の上からは次の坂が見えてるだけです」



「もし誰かに期待されていたら、早めにガッカリさせておいたほうがいい。ほっておくといつの間にか、人が期待する方向に向かい始める」

「他人を基準にしたら、自分の明日は描けない」













(了)






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ソース:サンガジャパンVol.14(Summer) 「求道者ふたり、本質を語る 為末大・南直哉」