「『お嫁さん』です」
「人生の次の目標は?」と聞かれて、そう答えたのは女子柔道(78kg超級)の「杉本美香(すぎもと・みか)」。ロンドン五輪で銀メダルをとった杉本は、これを機に引退を表明したのであった。
「柔道に関するコメントを予想していた記者たちは、この意外な答えに『一瞬固まった』らしい」
「オリンピックでは、結果以上のものを得ることができましたので、満足感をもって引退とさせて頂きます」と杉本。
杉本にとってのオリンピックは「最初で最後」。惜しい銀だったものの、彼女にとっては「やり尽くしたという気持ち」が強かったのかもしれない。
「かつて、選手にとってオリンピックは『一生に一度のもの』だった」
練習施設やトレーニング理論が未熟だったため、選手生命は今よりも短く、アマチュアであるためにスポーツ以外の本業も強いられる。
「一度出たら、メダルを獲ろうが惨敗しようが『それで終わり』。そういう選手が珍しくなかった」
とりわけ「女子」はそうであり、東京オリンピック(1964)で金メダルを獲った「東洋の魔女(女子バレーボール)」もそうだった。
魔女たちの大会後の進路について聞かれた大松博文監督は、こう言った。「次は彼女たちの『嫁入り先』を探してあげるのが自分の仕事」と。
「確か、ほとんどの魔女たちは東京オリンピックの金メダルを最後に、結婚したのではなかったか」
こうした風潮が変わってくるのが、1990年代から2000年代にかけて。
マラソンの有森裕子は2大会連続の金メダル('92, '96)。田村亮子(現姓・谷)は5大会に連続出場してメダルを獲った('92〜'08)。レスリングの吉田沙保里もオリンピック3連覇だ。
そのほか、複数のオリンピックに出場してメダルを獲得した選手は少なくない。
「ダンナがいようが、子どもが生まれようが、本人にその気さえあれば競技生活を続ければよい」
今はそんな風潮に変わってきている。それだけ、女子選手たちが競技を続ける環境が整いつつある。
「子どものいる選手をいまだに『ママさん選手』などと表現するメディアの愚かさは、選手や世の中の感覚と遠く隔たっている」
「負けても次にがんばればいい」
これが現代のオーソドックスな考え方であり、「再チャレンジ」や「折れない心」というのは、ポジティブな意味で使われるようになっている。
一転、冒頭の引退会見での杉本美香選手の言葉は、じつにクラシカルであり潔(いさぎよ)い。
「オリンピックではやり切った。次はお嫁さんになる」というのである。
かつてのボクシング世界王者たちは、防衛に失敗すると引退したものであった。「負けたら終わりって、いつも思っていましたよ」とある元王者は語る。
そこには一戦一戦にかける「燃焼度の高さ」と「異様な集中力」が内在されている。
たとえば、大相撲の横綱も「負けたら終わり」という世界に生きている。
「勝敗は兵家の常」とは言うものの、やはり「負けたら終わり」でもある。
「負けても続ける」という「タフさ」は選手の力量を一層高めるのかもしれないが、それが許されない環境も確かにある。
女子柔道の杉本は、78kg超級という重いクラスであったため、その競技生活は「膝のケガとの戦い」でもあった。たとえ本人にその気があっても、次のオリンピックはなかったかもしれない。
きっと彼女は心に決めていたのだろう。勝っても負けても、これが最後だと。だからこそ、彼女の引退会見に涙はなく、「満面の笑顔」だけがそこにあったのだろう。
「杉本の引退は、久しぶりに『清々(すがすが)しさ』を感じさせた」
願わくは、彼女が「良いご縁」に恵まれんことを…。
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/10号
「一生に一度のメダルを手に、杉本美香は『お嫁さん』を目指す」
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