2015年8月24日月曜日
実質オーナー、本田圭佑 [オーストリア、SVホルン]
ホルン(Horn)という町を知っているだろうか?
日本人は言わずもがな、オーストリア国内でもその名を知らない人もいるという。首都ウィーンから北西に70〜80km、ホルンを含むニーダーエスターライヒ州は北の隣国(チェコ共和国)との境でもある。
現地を訪れたスポーツ誌、Numberの記者はその印象をこう記す。
”想像以上に、そこは小さな田舎町だった。数時間歩き回れば街の隅々まで行き尽くすことが出来る。周囲には広大なライ麦畑やトウモロコシ畑が広がる、牧歌的な空気漂う土地である。(中略)…鉄道も単線が通っているのみで、商店街は数十メートルしかなく、日本の感覚では村に近い(人口は約6,500人)。
この町(ホルン)には、住民らが誇りとするサッカークラブがある。それがSVホルン(Sportverein Horn)。1992年に創設されたこのクラブは、長らくオーストリアの下部リーグに甘んじていたが、2012年に3部優勝、2部への昇格を果たす(残念ながら、昨季ふたたび3部に降格)。
SVホルンのスタジアムは収容数4,000人と小箱のようだが、町のサポーターは熱い。
”2015年7月31日、オーストリア3部、東地区の開幕戦のことだ。ホルンの選手にイエローカードが出されると、怒った中年男性が立ち上がり、主審にビールを浴びせかけた。客席がピッチのすぐ横なので、誰でも命中させられる。レフリーの額からビールが滴ると、客席はどっと笑いに包まれた(Number誌)”
この町に、一人の日本人が降り立った。
スーツ姿にサングラス、両腕には腕時計が光る。
本田圭佑(ほんだ・けいすけ)。日本を代表するサッカー選手である。彼は現役のプレーヤーでありながら、SVホルンとサッカーの試合に来たわけではなかった。なんと、クラブの経営を担いたいというのだった。
スタジアムに設けられたビジネスラウンジ。そこに集結したSVホルンのオーストリア人役員らを前に、本田は口を開いた。
「自分が12歳の頃からプレーしてきたチームには、常に自分より上手い選手がいた。今もそうです(現在、イタリアACミラン所属)。でも、こんな自分でも、やっぱりどこかで『メッシやロナウドに勝ちたい』と思っている。今、ホルンというクラブも同じ立場だと思っています。まだ3部で、国内でも上のクラブがたくさんある。でも、2〜3年後には必ず1部に上がりたい。疑う人間はいるだろうけど、どれだけ信じてやっていこうという人をこの街で増やしていけるか。隣にいる人を巻き込めば、5人が10人、10人が20人、40人、80人と倍々ゲームになっていく。その結果、スタジアムに集まる4,000人が毎試合勝利を願うような存在のクラブになりたい」
当然ながら、本田圭佑はビジネスマンというよりは一人のサッカー選手だ。今季オーストリア3部で戦うSVホルンの選手たちに、同じ選手目線で何かを伝えようとしているのかもしれない。
本田は続ける。
「ここはオーストリアのクラブです。自分たち日本人がやって来たからといっても、クラブの基礎はオーストリア人の選手やスタッフであることに変わりはない。そこに、日本人やアジア人の選手を入れていきたい。もちろん、こんなことをやろうとしているクラブはまだヨーロッパのどこにも存在していない。そういう先駆けの存在に、ホルンがなっていくのです。これが今日、皆さんに一番伝えたかったことです。私は皆さんを信じています。皆さんも私たちを信じてほしい」
話すにつれ、本田の語気は強まっていた。
本田がサッカー事業に着手したのは3年前(2012年)。日本国内で小学生向けのサッカースクール「ソルティーロ(Soltilo)」を開校した。3年経った現在、ソルティーロは日本全国に49校を展開するまでに成長している。
本田は言う。
「最初は小学生の子供たちのためのスクールという形で始めたのですが、毎年スクールの数も増えていって、今は中学生年代対象のジュニアユース、そして近々、千葉県の幕張にグラウンドを建設して、ユースチームを立ち上げることになりました。ベースとなるサッカースクールを三角形の底辺として、ジュニアユース、ユースと上がっていき、ホルンを目指せる道筋をつくりたい。でも、ホルンがピラミッドの頂点というわけではないですよ。その先に描いている構想もあるのですが、今はまだ公表する段階ではないので、想像にお任せします」
日本からオーストリアへ、そしてさらに大きな世界へ。本田の頭のなかにはそんな道筋がある。というのも、日本のJリーグには実力のある選手がいるにもかかわらず、なかなか世界から注目されにくいという現実があるからだ。
本田は言う。
「僕がなぜヨーロッパのトップリーグではないクラブに目をつけたかという、扉の広さです。確かにJリーグはヨーロッパのリーグと比べても、レベルが高いと思います。実際に今季から武藤(嘉紀)がマインツに移籍したことからもそれは証明されていると思いますが、実際はJリーグで評価されているというよりも、日本代表でプレーしたことの方が大きいと言わざるを得ない。ただ、日本代表に呼ばれなくても、20歳前後でポテンシャルのある選手はたくさんいるんですよ。そういった選手はJリーグでプレーしていても世界的にはなかなか評価されづらい。でも、ヨーロッパで似たようなレベルのクラブ、つまりそれが2部だろうが3部だろうが、活躍すれば誰かが見ていて評価されるんですよ」
本田自身が、そうだった。
「それは、僕がオランダリーグ2部のフェンロでプレーしていたときの実感です。僕自身、フェンロでオランダ2部リーグMVPを獲った後は、オランダ1部のトップ、アヤックスやPSVだけでなく、その他のリーグの強豪クラブへの道も拓けていた。僕だけでなく、チームメイトも一気にプレミアやスペインリーグのクラブから注目されるという状況がありました。オランダ2部リーグのチーム戦術や組織と比較すると、はっきり言ってJリーグの方がレベルが高い。でも、そのなかで多少荒削りでも身体能力が高い選手や一芸に秀でた選手などは一気にトップクラブに引き抜かれたりする現実があるわけです。そういった可能性を実感していたからこそ、今回のアイディア(ホルンへの経営参画)につながった部分があるのかもしれません」
今季、SVホルンのトライアウト(入団テスト)には、現役の大学生からJリーグ経験者、アジアやヨーロッパの下部リーグでプレーする選手など、18歳から47歳まで200人以上の幅広い応募があった。
その一人に、コンサドーレ札幌から応募した日本人、榊翔太(22歳)がいた。見事、トライアウトに合格した榊は言う。
「本田さんと食事をして、『若い時はたくさん時間がある。すべてサッカーに捧げろ』とアドバイスを受けました。たとえばドイツ語の勉強もそうだし、フィジカル面の強化もそう。第1号として失敗できない。北海道の人たちに成長した姿を見せたいです」
開幕戦は体調不良のためにベンチ入りできなかった榊だが、第2節では後半からウィングとして初出場。日本人第1号としての第一歩をピッチにしるした。
ところで、本田はどの程度、ホルンの経営に関わっていくのだろうか。
本田は言う。
「すべて関わりますよ。われわれが右に行くと言えば、(クラブが)右に行くくらいの勢いで関わりたいと思っています。選手の補強やトレーニングのメソッドもそうですし、クラブの組織改革から経営戦略まで」
「オーストリアのルールでは51%がノンプロフィット(非営利)、つまりNPOでなければならないんです。だから残り49%を有限会社として管理して、NPOには過半数の役員をわれわれの会社(HONDA ESTILO)から送り込んでいる。つまりほぼ100%、われわれの意見が通る仕組みになっているわけです。僕自身の立場は、ミランの現役選手ということもあり、明確な肩書きはありません。だから、よくメディアで書かれているように、”実質(オーナー)”というようなことしか言えませんよね。誤解してほしくないのは、われわれがホルンを買収したわけではないということです。ノンプロフィット(非営利)カンパニーなので、買収云々という話ではないんです」
それでも、HONDA ESTILO(ホンダ・エスティーロ)はホルンに多額の出資をおこなっている。
「いやー、なかなかの額ですよ。まあ、数億とでも言っておきましょうか。それ以上は細かく明かせませんので」
経営参加に関して、Number誌はこう記している。
”それには二段階のプロセスを要した。まず前会長が本田の親族に会長職を譲り、理事会の過半数をホンダ・エスティーロ側の人間で占めることを仮決定した。その可否を問う投票が総会で行われ、満場一致で賛成。今後、重要な決定は理事会でなされるが、過半数は本田側が占めている。すなわち本田に決定権がある。”実質オーナー”と呼ばれる所以だ。ちなみに現時点でホルンは法人にすぎず、株式は持っていない。だが、今年中に本田側が49%出資して、クラブの有限会社が設立される予定だ。そうなればもっとビジネスに力を入れられるようになる。地元の報道によれば、ホルンの昨季の予算は約200万ユーロ(約2億6,000万円)で、今季も同規模を維持する見込みだ。”
ところで、オーストリアの人々の反応やいかに?
”クリエ紙が本田の経営参加についてウェブ上でアンケートを行ったところ、「悲観的」という回答(32.1%)が、「素晴らしい」(29.8%)をわずかに上回った(Number誌)。”
オーストリア人が外国人の関与に否定的なのは、好ましくない前例がこれまで多々あったためだ。
”たとえば近郊のザンクト・ペルテンでは、VSEという2部のクラブが消滅に追い込まれたことがある。1999年11月、自称アメリカ人の男性がクラブに20億円規模の支援を申し出て、「5年でCL(欧州チャンピオンズリーグ)に出場する」と宣言をした。ところが、その男は詐欺罪で1ヶ月後に逮捕されてしまう。クラブはシーズン末に破産に追い込まれた。また、2004年12月、イラン人実業家がアドミラの経営に参加したが、わずか2年で撤退して翌年3部に降格。2003年にはUAEの王族がザルツブルグの経営に参加したが、経歴詐称のスペイン人スポーツ・ディレクターを送り込んで混乱を引き起こし、すぐに提携は解消された(Number誌)”
本田はこう言う。
「SVホルンは1922年創設で100年近くの歴史を誇るクラブですし、前会長のトーマスも、ものすごい愛情を注いできた。さらに、二代、三代にわたる根強い地元ファンの存在もあります。われわれが運営していく前提として肝に銘じておかなければならないのは、そうした方々の想いです。彼らの意を酌みつつ、同時にサプライズを与え続けるというのが大事になってきます。今まではどちらかというとドメスティック(国内的)な感覚で経営してきたと思うのですが、その意識の枠をオーストリア国内からヨーロッパ、アジア、アメリカというふうに世界全体に対してビジョンを広げていかなければならない。そのための我々だと思っています」
「ホルンに関しては、まずは5年のスパンでこのプロジェクトを考えています。もちろん、常に誤算はありますよ。そもそも、ホルンに着目した時点ではオーストリア2部に所属していたのですが、われわれが経営参入するタイミングで3部に降格してしまった。さっそく当初のプランを修正せざるを得ないわけですが、まずは1年で2部昇格、オーストリアのトップ4、優勝というステップで、5年後にはCL(欧州チャンピオンズリーグ)のプレーオフへの出場権を獲得するというのが目標です。僕が描いているホルンの最終形態はCL出場権。ミランのようなビッグクラブへの道を模索しているわけではありません。それは町の規模や財政的なものも絡んできますし、このクラブに関してはミランやバルセロナ、レアル・マドリーといった強豪へ人材を輩出できるようなクラブにしていきたい。ホルンを通じてトップクラブへの道が拓かれているということを、オーストリア人や日本人のみならず、世界中のサッカー選手たちに示していきたいなと思います」
しかしなぜ、現役バリバリの今、ビジネス畑に足を踏み入れるのか?
本田は言う。
「誤解してほしくないのは、今回のホルンの件がここ1、2年で思いついたアイディアではないということです。もしかしたら、『本田圭佑はブラジルW杯で日本が惨敗した後に、このプロジェクトを進めたのではないか』と思っている人も多いのかもしれない。でも、世の中の仕組みや物事を知っている人ならわかるはずです! たとえば半年前にこのアイディアを思いついて、実際に形になるまでにどれだけの時間が必要なのか、と。正直なところ、僕は2010年南アフリカW杯の前から構想を抱いていたということは、はっきりと伝えたいですよね。ホルンに行き着くまでに、どれだけのリサーチと交渉を経て今に至っているのか。一年、二年単位の話ではないですよ、というのは理解していただきたい。つまり、ニュースに出ていることだけが真実ではないということです」
「もともと、引退したら何をやろうかと考えていたんですよ。HONNDA ESTILOという会社を設立した21歳か22歳の頃から、それはイメージしていて、選択肢としてはいろいろな可能性を追求して、勉強もしてきた。笑われるかもしれないですが、本気で政治家を目指し、総理大臣を夢見たこともありました。世間の常識からすれば『本田は何を言っているんだ?』ということになるかもしれないですけど、僕はそういう人間なんです。そんな中で行き着いた答えは、『自分が生まれてきて物心ついたときから魅了されてきたサッカーで恩返しがしたい』ということです。しかも、サッカーを通じて少しでも世界を変えられるようなことをやりたい。そのステップ1として今回のSVホルンの経営に関わるというアイディアが生まれてきたわけです」
先のSVホルン上層部との会見に先立ち、本田はクラブの練習場で自らのトレーニングを行っていた。その様子をNumber誌はこう記す。
”グラウンドに現れると、厳しい表情を浮かべながら何本もスプリントを繰り返していった。本田の個人トレーナーがこちらに気づいて、言葉をかわす。
「いつだって、この積み重ねです」
走り込みだけに留まらず、どんどんメニューは進む。本田はそれを、すべてスタッフに動画で撮影させていた。スパイクに履き替え、ボールを使いはじめる。ステップワークの練習に必要なボールやパイロンも、すべて自ら並べて用意した。
本田「これだけ走った直後にボールを使う。これ、予想以上に結構しんどいでしょ。でもこういう時に、普段の試合ではあまりやらないボールタッチをやっていかないと。試合でも体力が消耗したときに急に求められることがある」
左右両足のインサイド、アウトサイドだけでなく、頭も肩も縦横に素早くステップを入れて、パススピードも上げていった。
本田「シンプルなメニューひとつとっても、試合をイメージしたスピードでプレーする。俺は高校時代からそうしてきた。だらだらとウォームアップのパス交換をするのではなく、そこでもクイックにパス、トラップを繰り返して。このパイロンを使った細かいドリブルにしてもそう。これについては自分に後悔もしている。俺はこういうプレーが苦手。指導も受けてこなかった。でもメッシなんかはこういうメニューを今でもめちゃくちゃ丁寧にすると聞いた。だから、(自分もホルンの選手も)今からでもやっていかないといけない」
狭い間隔で置かれたパイロンに、本田のドリブルは何度も引っかかった。それでも繰り返し、実践同様のトップスピードで挑んでいく。不格好だろうと関係ない。こうしたトレーニングすべての重要性を説くために、カメラの前で本田は汗を流し、言葉を発していった。それは何を隠そう、自分のメソッドをクラブに伝えようとする姿勢だった”
汗のままに本田は言う。
「自分がやってきたメソッドが、本当にどれだけ通用するのか。今度は自分がピッチで走るだけではない意味での証明になっていく」
その後、本田はチームの練習試合を観戦した。
夜でも35℃以上ある熱暑のなか、本田は各選手のプレーを注視した。
本田は言う。
「こういう場所で生でサッカーを観たことは、本当に記憶にない。考えとして、自分は観られる側の立場だと認識して生きてきた。自分がプレーを観る、自分が応援して、ゴールに喜ぶ。そういうスタンスで今まで生きてこなかった。応援する選手、チームが自分の中にできた感覚が、非常に新鮮です」
クラブの施設も見て回った。
「はやくスタンドを増築しないと。1部に昇格するためには、この規模では条件を満たせていない。しかもこの大きさで臨場感を出すには、少し傾斜をつけたスタンドにする必要がある。そのための資金づくりも計画的にやっていかないといけない」
本田の経営者としての目標は、1部昇格、オーストリアリーグ優勝、そしてCL(欧州チャンピオンズリーグ)出場だ。
だが今季、ホルンの属するオーストリア3部の東地区からは、1チームしか2部に昇格できない。つまり、ホルンは3部で優勝しないかぎり2部への昇格はない。地元紙は「史上最強の3部」と優勝争いの熾烈さを語っている。
本田は言う。
「危機感。この言葉がぴったりだと思う。今までいろんなサッカー経営者を見てきたけど、サッカービジネスで成功している人は本当に少ない。だからこそ、この世界に自分も入ってきた。ワクワク感を超えるほどの危機感をもっている。もちろん自分は『As a player』の立場でも結果を出さないといけない。そこも言い訳は一切許されない。だから、両方楽しみにしておいてください」
危機感を抱いているのは、外国人に批判的な地元サポーターも然り。
ある初老のサポーターは、こう息巻く。
「もし今年2部に上がれなかったり、近い将来1部に上がれなかったりすれば、途中で投げ出すに決まっている。私は日本人が関わることに反対なんだ」
一方、21歳の若きGM(ジェネラル・マネージャー)、マーク・ケビン・プリンシングはこう語る。
「日本とオーストリアでは言葉も文化も違うし、全員にとって初めてのことばかりだ。でも、日を追うごとに連携は良くなっている。地元からもすごく期待されているんだ」
経営者としての野心について、本田はこう語った。
「ずっと言っているように僕は凡人なんです。実際にそうだし、それを自覚している。何が人と違うのか、何が人と違うのか、何が人より優っているのかというと、”決断力”と”行動力”なんですよ。僕が考えているよりもすごいプラン、天才的なアイディアをもっている人はたくさんいると思います。でも、それを実行に移せないまま終わってしまうことが圧倒的に多い。僕は、自分が信じた道はリスクを恐れることなく突き進むことができる。それは自分が誇れる本当の武器だと思っています。さらに言えば、そのビジョンのベースとなるのは、他人からのアドバイスを素直に受け入れる”耳”だとか、つねに情報を取り入れる”姿勢”だと思います」
口の悪い世間は、本田を「一匹狼」、「ビッグマウス(大ボラ吹き)」、「傲慢」と評する。「世界一」を公言しながら一勝もできなかったブラジルW杯は、本田の世評を著しく傷つけた。
本田は言う。
「確かに大きなダメージを受けた大会でしたから、少なからず影響されているとは思います。ブラジルW杯での自分に関しては、ギリシャ戦で点をとってコロンビア戦を難しい試合にしなければ、少なくともグループリーグを突破する可能性はあったわけで。当然のことながら、仲間に対してどうこうということもないです。それよりも僕は、日本人の血を信じていた部分が大きかった。ひとつ言えるとすれば、とくにW杯みたいな真剣勝負の場では”スキルではない部分”が勝敗を分けるんです。確かにスキルは重要です。でも、『最後に一歩足が出るかどうか』は、スキルではない部分もある。僕はどちらかと言えばスキルはあまりないのですが、そういう部分は持っていると自負しているんですよ。今の日本人選手は本当に巧いし、今後はもっとレベルが上がるでしょう。でも、自分が持っているような成り上がり精神でのし上がってくる選手は今後、なかなか育ちにくい環境であるのも事実だと思います。だからこそ、いまわれわれが運営しているソルティーロというサッカースクールでは、サッカーだけでなく、人間性の部分とか問題解決の能力を磨いていくことも重視している。5年後、10年後にわれわれのサッカースクール、もしくはJの下部組織も含めて心技体そろったスーパースターが育つことを僕は信じています。信じているからこそ、ここに力を注いでいるし、エネルギーを使っているんです」
「まあ、これまで何度も皆さんの期待を裏切っているので、期待してくださいというよりも、楽しませることは約束します。またそのうち、『本田が何かをしでかす』、それぐらいに今は思ってもらえたらいい」
(了)
ソース:Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
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