2014年8月21日木曜日
やりきったレース人生 [スキー・皆川賢太郎]
オリンピックのメダルまで
「0.03秒」
アルペンスキー・レーサー
皆川賢太郎(みながわ・けんたろう)
トリノ五輪の開催された2006年、彼は絶頂のなかにいた。
その軌跡を追う。
■余り物
アルペンスキーの歴史は、2000年をまたぎながら大きく変化した。
——いわゆるショート・カービングスキーの時代がはじまったのである。これによってスキーの操作性は飛躍的に向上し、ターンはよりシャープになった。こうした流れはまず一般用のモデルではじまり、やがて競技用GS(大回転)モデルがそれに追従。最後にスラローム(回転)モデルへと波及した。皆川賢太郎が世界への階段を駆け上がったのは、スキー界にそんな大きなうねりが押し寄せていた頃のことである(月刊スキージャーナル)。
皆川がカービングスキーのSL(スラローム)モデルに出会ったのは、幸運であり偶然だった。それは、当時のスラローム王者、トーマス・シュタンガッシンガー(オーストリア)のために作られものだった。しかし、当のシュタンガッシンガーはその新しいスキーに興味を示さなかった。いわばその「余り物」を皆川はいただくことになる。
——見たこともない独特のフォルムのスキーに興味をひかれた皆川は、シュタンガッシンガーに「そのスキーを使わせてくれないか」と頼んだ。何本か滑ってみたがレースで使う気はまったくなかったシュタンガッシンガーは、ふたつ返事でOK。皆川はリフト2本分をフリースキーで滑った(月刊スキージャーナル)。
「これはメチャクチャいいぞ!」
思わず、皆川は声をあげていた。
その板の長さは168cm。従来のものに比べ20cmも短かったが、そのターンは強烈な切れ味を放つのだった。
試乗から戻った皆川は、図々しくもシュタンガッシンガーにこう頼んだ。
「もし使わないのなら、譲ってくれないか?」
あっけなくシュタンガッシンガーはOKしてくれた。
シュタンガッシンガーはリレハンメル五輪(1994)でスラローム・チャンピオンに輝いてから、ずっとトップ・スラローマーとしてW杯で活躍していた。だから、あえて新しいモデルに手を出さなくとも充分に戦えるという自信があった。そのため、スキーメーカーのサロモンが彼のために開発した「5本のテストスキー」は、完全に宙に浮いてしまっていた。
90年代の偉大なチャンピオンの一人、オーモット(ノルウェー)もやはり冒険はしなかった。彼はこう語っている。「僕は1994年に深いサイドカーブをもつスラロームスキーをテストしたことがある。フラットな斜面ではかなり良い感触だった。でも長さがノーマルのものと変わらなかったせいか、あまりスピードは出なかった。当時はまだ『スピードを上げるために長さを短くする』という発想がなかったから、レースで使うにはいたらなかったんだ」。
——この頃、W杯レベルで主流だったスラロームモデルの長さは198cm。年々短くはなっていたものの、基本的なフォルムはもう何十年も変わっていなかった。それに対し、ショートスキーは明らかに異質な形状だった。多くのレーサーにとって、それは「冗談」としか思えず、とても受け入れがたいものだった(月刊スキージャーナル)。
一方、当時の皆川賢太郎はワールドカップに参戦するようになって、まだ2年目。若く勢いのあった彼は、ショート・カービングスキーの潜在性に賭けてみることに躊躇はなかった。
皆川は言う。「当時の僕は、守るべき何かも、まして成績を出さなければいけないという責任もなかったので、なにも迷わずショートスキーにスイッチすることができた。他の選手たちがこんなに素晴らしいスキーを使おうとしないのが不思議でしょうがなかったけれど、僕は『これは自分にとって大きな武器になる』と直感したんだ」。
こうして皆川は、その時点では世界で数台しか存在していなかったスラローム用のショートスキーを手に入れた。それは長野オリンピックの翌冬、1998/1999シーズンが始まったばかりの頃であった。
■寵児
——1999/2000シーズンは、スラロームに本格的なショートカービングの波が押し寄せた。先陣を切ったのは、若い世代の選手たち。まだ特筆するような実績はないが、失うものも何もなく、したがって新しい流れに積極的に飛び込んでいける先鋭的な若者たちである(月刊スキージャーナル)。
まずはオーストリアの若手、マリオ・マットが飛び出した。キッツビューエル(オーストリア)で行われた男子スラローム第6戦、彼は176cmという短いスキーで、いきなり優勝をかっさらった。
皆川賢太郎の世界デビューも、期せずしてこの同じレース。60番という遅いスタート順から、一足飛びに6位へと食い込んだ。
——この日のチロル地方は、どんよりとした曇り空。気温は少し高めで、雪もけっして硬くはなかった。60番のゼッケンをつけた皆川が滑る頃には、すでにコースには深い溝が刻まれ、後方スタートの選手にとっては不利な条件ばかりがそろっていた。しかし皆川は、そんなことはお構いなしに激しいアタックをかけた。どこに飛んでいくかわからない鉄砲玉のように。そんな皆川は、2本目のゴールエリアに滑り込み、その時点でのベストタイムをすると大観衆の歓声に応えた。他の選手よりも明らかに短いスキーを高く掲げて(月刊スキージャーナル)。
——それまでほとんど名前の知られていなかった2人の新鋭が、いきなりアルペンの聖地キッツビューエルの主役に躍り出た。皆川にとって、これが初めてのワールドカッブ入賞。2本目に残ったのも初めてのレースだった(アルペンレースは2本滑った合計タイムで競う。1本目の成績が悪ければ2本目を滑ることはできない)。偶然にも彼のひとり前、5位に入ったのはシュタンガッシンガー。1年前には雲の上の存在にしか思えなかったシュタンガッシンガーだが、このレースでのタイム差は100分の7秒しかなかった(月刊スキージャーナル)。
シュタンガッシンガーの「余り物」を頂戴してから、わずか1年。皆川は世界に先駆けて、その「冗談のようなスキー」を乗りこなしていた。そして華々しい世界デビューを飾った。
その衝撃的な6位入賞から1ヶ月後、ヨンピョン(韓国)でもふたたび6位入賞。皆川は「ショートスキー使いの名手」として各国から注目を集める存在となる。
皆川は当時を振り返る。「W杯で初めて入賞した2000年前後の滑りを見ると、やはり自分はけっしてスキーがうまくないんだと感じる。この滑りで当時の主流だった180cm以上の長いスキーを扱うのは難しかっただろう。だからこそ、自分にとって早いタイミングでショートカービングスキーと出会ったことは何よりも大きい。長いスキーを使っていた選手たちがは見向きもしなかったが、自分だけがその可能性を直感的に感じていた」
翌2000/2001シーズンも、皆川は着実にワールドカッブ入賞を重ねる。
セストリエール(イタリア)6位
キッツビューエル(オーストリア)8位
シュラドミング(オーストリア)10位
続く志賀高原の大会で、皆川は念願の第一シード(世界トップ15)入りを果たす。日本人選手としては木村公宣(きむら・きみのぶ)以来の快挙であり、これ以降、皆川は日本のエースとなる。
皆川は語る。「ショートカービングスキーで自分が大きく躍進することができたのは、何よりもその特性が自分の滑りに合っていたから。自分は繊細な雪面タッチでスキーをきれいに曲げていくタイプでは決してない。スキーを雪面に鋭く切り込ませ、自分から仕掛けていくことでターンごとの加速を求めていくタイプ。ショートカービングスキーは、スキー自体が仕事をしてくれる割合が大きく回転力が強いため、早いピッチでターンを刻んでいくことができるようになったんだ。もしショートカービングスキーに出会うことができなかったら、決して世界のトップに近づくことはできなかっただろう」
■不運
ショートカービングを武器に、順風満帆に思えた皆川賢太郎。
しかし次の冬から、「冷水をぶっかけられるような出来事」に重なって襲われる。
——声帯ポリープの切除手術にはじまり、過剰なトレーニングによる心臓の不調、コンディション・トレーニングでの足首の捻挫。シーズン開幕を迎えた頃、捻挫した足首の湿布が低温火傷を引き起こし、彼の右足首は無惨なほどただれ、腫れ上がってしまった。激痛に耐えながらブーツを履き、スタート台に立ったが、そんな状態で本来の滑りができるはずもなく、皆川の勢いは徐々に衰えていった(月刊スキージャーナル)。
アスペン(アメリカ)16位
クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)24位
アデルボーデン(スイス)28位
シュラドミング(オーストリア)14位
失速しながら迎えたソルトレイク五輪(2002)。
それでも皆川は強気に大風呂敷をひろげていた。
「オリンピック前までにW杯で2勝し、ソルトレイク五輪ではメダルを獲得」
すでにオリンピック前のW杯勝利は叶っていなかったが、それでも彼は強気の姿勢を崩そうとしなかった。
——マイクを向けられれば派手なアドバルーンを上げ、威勢のよいコメントを連発した。日に日に自信は失われていったが、それを他人に悟られることが恐くて仕方がなかったからだ(月刊スキージャーナル)。
皆川は当時の自分をこう振り返る。「自分で自分の背中を押していないと、すぐにでも倒れそうだった。どんなに苦しくたってオレだけは大丈夫、そんな根拠のない自信をもとうとすることで、辛うじて自分を支えていたんだ」。
結局、ソルトレイクは皆川にとって「辛いオリンピック」となった。
1本目で途中棄権。考えられ得る最悪の結果だった。
——ゴールエリアで記者に囲まれた彼は、大粒の涙を流し、言いようのない悔しさにまみれた(月刊スキージャーナル)。
■低迷
気がつけば、急激に進んだショートカービングの波は、ほとんどのレーサーに及んでいた。真っ先にこの波にのった皆川だったが、もはやアドバンテージは薄かった。誰もが短いスキーをはくようになったこれからが真の勝負であった。
しかし試練は続く。
オリンピックの失意を引きずったまま、帰国後の国内レースで、皆川は左膝の前十字靭帯を断裂。「夢ならば醒めてほしい」と願ったものの、その激烈な痛みは現実そのもの。アルペンレーサーとしては致命傷を負ってしまった。
「ドン底」
彼がそう言うように、その低迷は深かった。
——靭帯の再建手術をうけ、長く苦しいリハビリをへて雪の上に復帰したが、1日滑ると左の膝はまるでボールのように腫れ上がってしまうため、数日間は練習を休まなければならない。酷いときは歩くことさえままらなず、何とか日常生活をおくるのがやっとという状態(月刊スキージャーナル)。
2002/2003シーズン
クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)28位
ヨンピョン(韓国)20位
翌2003/2004シーズンは、記録が一つも残らなかった。4シーズンぶりに0ポイントに終わり、皆川はWCSL(W杯スタートリスト)の圏外に消えた。世界ランキングは95位にまで落ちた。
——皆川が下り坂を転げ落ちはじめる一方、ほぼ時を同じくして、4歳年下の「佐々木明(ささき・あきら)」が急成長。彼が第1シードのレーサーとして世界で活躍をはじめると、日本のエースの座も奪われた。皆川の気高きプライドは、もはやズタズタだった(月刊スキージャーナル)。
■かすかな明かり
しかし、ギリギリのところで皆川は踏みとどまった。
彼は持ちまえの「不屈の闘志」で、深く暗い穴から這い上がってきた。
2004/2005シーズン
ビーバークリーク(アメリカ)18位
セストリエール(イタリア)11位
シャモニ(フランス)21位
シェラドミング(オーストリア)14位
クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)7位
——クラニスカ・ゴラの第8戦では7位となり、じつに37レースぶりに一ケタ入賞を記録。一時は60番台にまで下がっていたスタート順も、20番台に戻した(月刊スキージャーナル)。
復調のきっかけは、靭帯断裂した左膝の状態がようやく快方に向かいはじめたことだった。
皆川は言う。「靭帯自体がケガをする前に比べてタイトになったが、それを自分の身体の一部として認め、受け入れるまでにはだいぶ時間がかかってしまった」。
こうも言う。「これまでは、何もかもを手に入れようとして欲張っていた。とうてい届くはずのないものに手を出そうとしたり、欲張りすぎて手の中にあるものを放してしまったり。いつも何かに焦っていたから、自分をコントロールできなかった」。
目前には、自身3度目のオリンピックとなるトリノ五輪が迫っていた。
皆川は語る。「滑りを大きく変えなければ、トリノ五輪までに思うような位置にたどり着けないと思っていた。だから、それまでの滑りを一度すべて壊し、新たにベースを築き上げる作業に集中した。最初は外力に身を任せたターンがどれくらいできるかを、一つ一つのターンで確認していき、それを徹底していった。(低迷した)2003/2004シーズンとの一番の違いは、ターンを『待つ』ことができるようになったこと。だから、スキーを雪面に対して包丁のように切り込ませ、スパッと抜く作業を安定してできるようになった」
■トリノ五輪
2005/2006シーズン(トリノ五輪前)
ビーバークリーク(アメリカ)13位
マドンナ・ディ・カンピリオ(イタリア)22位
ウェンゲン(スイス)4位
キッツビューエル(オーストリア)12位
シュラドミング(オーストリア)6位
オリンピックへの準備は順調だった。ウェンゲン(スイス)で記録した4位は自己最高位であり、充分にメダルを狙える位置に戻って来たことを世に知らしめた。スタート順も、オリンピック直前に第1シード(トップ15)に戻した。まさに理想的な形でオリンピックを迎えようとしていた。
佐々木明・皆川賢太郎の二枚看板で挑むこととなったトリノ五輪。日本アルペン史上、最強のチームと下馬評は騒ぎ立てた。
——新エース・佐々木明が「勢いにまかせた博打」に出て突破口を開こうとするのとは対照的に、皆川はさまざまな要素を総合的に組み立てる「理詰めのレース」を志向した(月刊スキージャーナル)。
皆川は言う。「出たとこ勝負というのは、何も考えずに『ただがむしゃらに滑ったら勝ち』みたいなレース。でも僕はそういう戦いはしたくなかった。あくまで一つ一つのターンの質を高めて、そのトータルで勝負しようと思った」。
大祭典をまえにしても、皆川は心を静かに保っていた。
——高い目標を掲げ、それを周囲に公言して自らに重圧をかけたソルトレイク五輪のときとは対照的に、トリノ五輪に挑む皆川は、メディアには努めて冷静に対応した。派手なアドバルーンを上げることなく、ごく自然でフラットなコメントだけを発した。レースへの意気込みを静かに語り、メダルを意識した表現はあえて封印した。もちろん心の中には『燃えたぎる熱い塊』があった。触れれば火傷しそうなパッションが、いまにも吹き出てきそうだった。しかし、彼はそんな奔流を意識的に冷まし、落ち着いたレースをしようと努力した(月刊スキージャーナル)。
スラローム1本目、皆川は3位につけた。
トップのベンジャミン・ライヒ(オーストリア)とのタイム差は、わずか100分の7秒。メダル、いや優勝さえも射程距離におさめて、心静かに2本目を待った。
一方、日本の新エース・佐々木明は一本目8位とまずまずの位置につけていながら、ゴールエリアで暴れていた。「見えねぇ!」、そう叫んで夕闇せまって視界の悪くなっていたコースにいちゃもんをつけていた。
勝負を決する2本目。
皆川は自分の出走を待っていた時のことを、こう語る。「妄想とか願望ではなく、現実としてメダルが目の前にあるというプレッシャーは本当に良いものだった。2本目のスタート前には、武者震いをするほど興奮した」。
佐々木のほうが先にスタートした。しかし滑り出した直後、彼は3番目のゲートをまたいでしまい失格となった。
皆川もスタート直後、アクシデントに襲われる。
——スタートして間もなく、スキーブーツのバックルが外れてしまったのだ。あまりに直線的にポールにアタックし、その結果、バックル部分でポールをなぎ倒す形となった。究極ともいえる攻撃的な滑りだったが、その衝撃でバックルが開放してしまったのだ。ミスというよりも、あまりに調子が良すぎたゆえのアクシデントと言うべきだろう(月刊スキージャーナル)。
その影響の多寡はいかほどであったのか? 結果は2本合計で4位。メダルまでの差は、わずか100分の3秒(0.03秒)しかなかった。
レース後、皆川はこう語った。
「1本目の滑りは完璧だった。それでもメダルを取れなかったのは、オリンピックという大舞台で、これまで一度も入ったことのない領域で戦わなければならなかったから。そして、そこでの勝ち方を僕が知らなかったからだろう」
彼はこのレース、最初から最後まで冷静さを失わなかった。そして、あくまでも潔かった。
オリンピック後のW杯レースでも、皆川は着実にポイントを重ねた。
2005/2006シーズン(トリノ五輪後)
志賀高原(日本)14位
志賀高原(日本)7位
オーレ(スウェーデン)11位
■2度目の大怪我
翌2006/2007シーズン、皆川は「生涯で最高の滑り」ができていたと言う。
「あのままワールドカップを戦っていれば、僕はあと数レースのうちに絶対に勝っていた」
謙虚な冷静さを心がけながらも、その自信が全身にみなぎっていた。それほど彼の滑りは、かつてないほど絶好調だった。
「この頃はスキーのことが面白いくらいわかっていたし、技術も最高に高まっていた。どんな難しい斜面でも、難しいポールセットでも、自分の間合いで滑れていたと言っても過言ではない。ポールに対してギリギリのラインはリスクも高いが、だけどこの頃は、そのラインでも通れることが自分でも感覚的にわかっているし、減速をしない確信をもっていた。さらに言えば、このシーズンこそ自分の技術のピークだった」
このシーズンは、ビスマルク(スウェーデン)が台頭してきたところだったが、トレーニングでタイムレースを行うと、皆川とビスマルクだけが「飛び抜けたタイム」を記録していたという。
ところが練習中、彼はふたたび膝の靭帯を切ってしまう。前の左足ではなく、今度は右足だった。結局、自身最高となるはずだったシーズンは、棒に振ることとなった。
——振り返ってみれば、この2度目の前十字靭帯断裂というケガは、彼のスキー人生において致命的なものとなった。約1年のリハビリを経て、レースに復帰はしたものの、かつてのように表彰台を争うレベルまでの回復にはいたらなかった(月刊スキージャーナル)。
「ケガをする直前の、あの絶好調時の感覚が鮮明に残っていただけに、レースに戻ったとき、悔しくて仕方がなかった。なんであの時にできていたことができないのか。身体とスキーがバラバラになってしまい、何とかそれを元どおりに修復しようと努力したが、どうしても無理だった」
——自らのレースを振り返るとき、皆川はいつも冷静に淡々とした口調を崩さないのだが、この時期のことを語るときだけは唯一、表情に悔しさをにじませる。結局、これ以降の彼は、全盛時の勢いを取り戻すことができず、ときおり下位入賞を記録するのがやっとという戦いが続いた(月刊スキージャーナル)。
「最初の靭帯断裂のケガ(2002)は、いま振り返ると『這い上がるために必要なケガ』であったと言えるかもしれない。だけど2回目のケガだけは、最盛期にあった自分にとってマイナスにしかならなかった」
バンクーバー五輪(2010)は、あっという間に終わってしまった。
わずか10秒たらずでコースアウト。
39番という遅いスタート順。高温と降雨によって荒れたコースで上位進出を狙うには、「一か八かのギャンブル」を仕掛けざるをえなかった。本来、ギャンブル的な勝負とは無縁となっていたはずの皆川。だがこの時ばかりは不利な条件が重なり、戦略もなにも立てられなかった。
「自分はけっしてスキーセンスがある選手ではなかった。絶妙な雪面タッチを武器にする選手などとはタイプが違う。どこがストロング・ポイントかというと、体力の強さをフルに活用して、エッジを雪面に食い込ませ、それをターン後半に瞬間的に抜くことで加速を求めていく点。ただ、そうした滑りは身体とスキーが一体になって動いているからこそ可能になるもの。身体とスキーがバラバラになって身体だけ動いてしまうと、自分のストロングポイントを引き出すことができなくなってしまう。『アクセルを踏んでも加速することができない車』のようなものだった。(この2009/2010シーズンの滑りは)30位に入ることはできるかもしれないけど、優勝することはできない滑りだった」
■引退
もう30歳を越えていた。
それでも皆川の技術には卓越したものがあった。
しかし、身体はそろそろ悲鳴を上げはじめていた。とくに問題となったのは「目」だった。
「見えている景色が昔とは違う。以前は滑っているときに、ボールにスキーのトップをわざとぶつけるのも簡単にできるくらい視界がクリアだったのに、今は本当にアバウトにしか見えない。あぁ、これが年齢的な衰えなんだなと痛感した」
引退を決意せざるをえなかった。
目の衰えばかりは、トレーニングでカバーすることはできなかった。
現役最後のレースとなったのはウェンゲン(スイス)。W杯で最も難しいといわれるこのコースを、皆川はむしろ得意としていた。
——しかし、現在の彼にこの難コースを攻略するだけの力は残っていなかった。1本目のコース半ばで途中棄権。しばらくコース脇でたたずんだあと、彼はゆっくりとゴールエリアに滑り降り、長かったレース人生に別れを告げた(月刊スキージャーナル)。
「やり残したことはない。なんの悔いもなく、ここから立ち去れる自分は幸せだと思う」
さっぱりとした表情で、彼は長年親しんだピステをあとにした。
■実感
ワールドカップ出場:104レース
最高位:4位(10位入賞9回)
オリンピック出場:4回
最高位:4位(トリノ五輪)
カービングスキーとともに世界に勇躍した皆川賢太郎。そのレース人生は18年に及んだ。
——レースになれば闘志をむき出しにしてポールに挑んだ。触れれば手が切れそうなアスリートだった。ワールドカップでは表彰台に上ることはできなかったが、ヨーロッパのファンの記憶にも、ケンタロー・ミナガーワの名前は強烈に刻み込まれている。第1シードで臨んだレースは、オリンピックも含めて7レースのみ。しかし、第1シードから陥落後、一度ランキングを大きく下げながらも、ふたたび第1シードに返り咲いたことこそが、皆川の真骨頂といえるだろう(月刊スキージャーナル)。
「将来はオリンピックに出て金メダルを取る」
小学3年生のときに書いた作文が、地元の新聞にのった。しかし、その夢はついに叶わなかった。
今の彼はこう語る。「目標に向かって必死にがんばった証としてメダルがあれば、それはそれで嬉しいだろう。でも自分の人生にとっては、メダルなんて実はたいしたことではないんじゃないかと今は思う」。
この言葉は、少しも負け惜しみじみていなかった。彼には「やりきった」という実感があった。その実感以上に確かな証など必要なかった。
■スキードーム
現在、ピーク時には2,500億円の市場規模だったスキー産業は、500億円(およそ5分の1)にまで縮小している。
——スキー産業自体の低迷、それにともなう選手育成・強化費用の不足、その一方で確実に増えつつある海外からのスキーヤー、観光客など。現在、日本のウィンタースポーツ業界が抱える問題は大きく、しかも多角的だ(月刊スキージャーナル)。
そんな現況を踏まえ、皆川は引退パーティーでこんな話をした。
「自分が選手としてのキャリアを終えたあとに、日本のウィンタースポーツに焦点をあてて、新しい『ジャパンモデル』をつくり、業界のシステムや人材、問題に対応するシンクタンク的な役割を果たしたいというビジョンをもっています。日本のスキー界を盛り上げて、独自に財源を確保できる形にするためには、スキーを『観るスポーツ』として興行化することと、それを継続していくことが必要です」
さしあたり40歳までの3年間は、日本国内で開催されている「全日本スキー技術選」に選手として参戦することを表明した。
「前走をやらせてもらって技術選に身を置くとか、いろいろな方法を考えました。でも、なんかすべて言い訳っぽいんです。選手をやるのが一番早いから。だから選手としてやろうと」
——スキーをはじめとするウィンタースポーツが盛り上がるジャパンモデルをつくり、将来的にはアジアに輸出できるようにしたい。というのは、皆川が競技の現役時代から考えてきたことだった(月刊スキージャーナル)。
「僕は雪は『資源』だと考えていて、そう考えると、日本のウィンター産業というのはものすごいポテンシャルを持っていると思います」
——世界を見渡したときに、自然の雪が降る国はそう多くはない。現在の日本の内需に対する考え方では、雪は邪魔物だが、今後、アジア諸国が経済成長し、その人々が冬のレジャーとしてスキーを考えたとき、雪は「資源」になる。観光立国を目指す日本政府は、ビザの発給要件を緩和するなど、海外からの観光客を積極的に迎える政策を進めている(月刊スキージャーナル)。
「そのポテンシャルを発揮するための起爆剤として、僕が作るべきだと思うのは『スキードーム』です。スキーリゾートと手を組んで、通年で情報が絶えない場所を確保する。産業的に考えても、数万年する道具を買って使えない時間が長くあるのはもったいないし、メディアが何か仕掛けたいときにも滞らないで済む。そういうことを考えると、一番大変だけど、スキードームを作ることが実は近道」
皆川の計画は具体性を帯びはじめている。
「スキードームを作ることで、通年でスキーを『観るスポーツ』として興行化して、独自に財源を得られるようにすることにつながっていくと思います。僕は10年以内にという目標を立てていますが、大型施設なので認可に最低5年はかかります。すると、この3年以内にキックオフしなければ間に合いません。たとえ国の認可が下りたとしても、それまでに場所の選定もしなければならないし、エビデンスもとらなければならない。大きな話になってしまいますが、それが一番やりたいことなので、しっかりやっていくつもりです。」
皆川の考える「ジャパンモデル」において、スキー選手が活躍する場をつくれば、プロとして生活の糧を得ることにもつながる。それは選手の育成・強化にもなっていくはず。その流れにリゾート経営者や他の産業も巻き込んでいく。
「アジアの人々に『スキーの聖地』として日本にやってきたもらいたい」
■スキー少年
一方、選手として新たに参戦する「全日本スキー技術選」に関して、皆川はこう語る。
「これから技術を習得できるというのは、異常なまでの楽しみなんですよ。単純に『いちスキー少年』としてすごく楽しみ」
レース最高峰の技術を誇る皆川に、「そのままでいい」と関係者は口をそろえる。だがそれでも、皆川は技術に対して貪欲だ。
「スラロームの技術とダウンヒルの技術がまったく違うのと同じで、だから、それを覚える楽しみがあるんです。コブ斜面は唯一のハードルだと思っています。ダダダダと縦にいくのは得意なんですけど、コブのなかを上手く滑るのはちょっと課題です」
皆川賢太郎、37歳。
——もし初挑戦の技術選で、優勝争いに絡むことなく終わった場合、皆川賢太郎というスキーヤーがもつブランド力や求心力が一気に下がってしまう可能性もある。実際、その可能性は決して低いものではない。ナショナルチームから技術選に転向して、その直後に総合優勝を争ったのは佐藤譲ただ一人(1989)。同じくナショナルチーム経験者の粟野利信や佐藤久哉、吉岡大輔らが初優勝を果たすまでには、6〜7年の時間を要している(月刊スキージャーナル)。
それでも皆川は、自らの挑戦に臆することはない。
ただ、新たなスタート台に胸を膨らませている。
ありし日のスキー少年のように。
(了)
ソース:SKI journal (スキー ジャーナル) 2014年 09月号 [雑誌]
皆川賢太郎「不屈の魂」
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