2014年7月20日日曜日
カナリアたちを襲った悲しみ [ブラジル]
64年前、ブラジルはそれまでの「白いユニフォーム」を捨てた。
あの忌まわしい「マラカナッソ(マラカナン・スタジアムの悲劇)」を、二度と思い出したくはなかったからだ。自国開催のワールドカップでセレソン(ブラジル代表)が負けるのを、もう見たくはなかった。
そして新たに袖を通したのが「カナリア色のユニフォーム」。
そのイエローとグリーンは、ブラジル国民の願望どおりに強さの象徴となった。カナリア色となったセレソンは、ワールドカップを5度も制覇した。それは、いまだ他国の追随を許さない偉業である。
しかし…
その栄光のカナリア色が、またもや悲劇に染まった。
優勝しか許されない自国開催のW杯で、ブラジル代表は敗れた。
「ミネイロッソ(ミネイロン・スタジアムの悲劇)」
新たに生まれてしまった悲劇は、過去最悪の敗戦劇であった。負けることすら許されていなかったセレソンが、まさか6点という大差で散り去ろうとは…。
時は2014ブラジルW杯、準決勝
ブラジル対ドイツ
最初にカナリアたちを狙撃したのは、ドイツのミュラー。
——ドイツの先制点は、ずっと非公開で練習してきたCK(コーナーキック)から生まれた。ミュラーがニアサイドに行くと見せかけて急反転、ファーサイドへ。マークに追いかけてきたブラジルのダビド・ルイスは、ドイツの他の選手にその進路をブロックされた。完全にフリーとなったミュラーは、ただボールにミートするだけで良かった。組織の連動美が生んだゴールだった(Number誌)。
「あの1点で、ブラックアウト(停電)してしまった」
のちにブラジルのスコラーリ監督は、そう語った。このたった一つのゴールで、ブラジルはパニックに陥った。
元ブラジル代表監督のエメルソン・レオンはこう語る。「ドイツのミュラーに先制された時、ブラジルには80分という時間が残されていた。追いつき逆転するのも十分に可能だった。それなのに選手は慌てふためいて走り回るばかり。何の修正も施せないまま時間が過ぎた」
ブラジルの不幸の一つは、この混乱した場をおさめるべきキャプテンを、この一戦で欠いていたことだ。キャプテン、チアゴ・シウバは前試合のコロンビア戦で、2枚目のイエローカードの反則を犯して出場停止に追い込まれていた。
——パニック状態のブラジルは、守備ではボールばかりを見てしまい、各自が人を離してしまった。ゾーンでもマンマークでもない中途半端な守備では、ただのマネキンの集まりだ。2失点目では簡単に裏に走り込まれ、3失点目ではサイドを崩された。4失点目は中盤でボールを失う凡ミス(Number誌)。
2点目以降は、たった6分間で大量4点を決められてしまった。
前半だけで、スコアは0対5という惨状であった。
守備の脆さを露呈していしまったブラジル。
——ブラジルが見せたのは数十年前のサッカーだ。ブラジルは足下にボールが入ってから、何かを生み出そうとする。モダンなドイツは正反対。何かを生み出すために事前に動き出す(Number誌)。
ブラジルの守備戦術は、現代では珍しいマンツーマンを基本にしていた。身体能力の高い選手の集まりであるブラジル代表は、選手間の距離が離れてもスピードとパワーでカバーできるという自信があったからだ。この点、小柄な日本人がコンパクトな陣形で選手間の距離を近く保とうとするのとは、正反対である。
ただ、さすがのブラジルとはいえ、選手間の距離が互いに遠いため、一人が抜かれれば致命的な穴が空いてしまうのだった。その穴を埋めるため、ブラジルは「戦術的ファール」、すなわちラフプレーに走らざるを得なかった。
そうしたブラジルの見せる激しい守備は、大会前から問題視されていた。
ドイツはFIFA(国際サッカー連盟)にこう抗議していた。「ブラジルはカウンター攻撃を受けそうになると、身体の強さを活かしてファールで止める。これではサッカーにならない」
ドイツが提出した進言書にはこうあった。「もしW杯でブラジルの戦術的ファールに笛を吹かなければ、優勝者は大会前から決まっているようなものだ」と。
ドイツが憂慮したとおり、ブラジルの戦術的ファールは他国を蹴散らした。
決勝トーナメント1回戦のチリ戦後、元ブラジル代表のトスタンは言った、「この大会が自国開催でなければ、ブラジルはすでに敗退しているだろう」。
——ブラジルの選手たちは戦術的ファールを連発した。同じ南米のチリとコロンビアは、体格で優るブラジルにパワーでねじ伏せられた。見事にこのダーティーな守備が機能した(Number誌)。
しかし、それは両刃の剣ともなった。
その戦術的ファールが奏効せず、キャプテン、チアゴ・シウバは累積イエローカードで出場停止。エース、ネイマールは逆に相手ディフェンダーの膝蹴りを背中にくらって、腰椎骨折。このドイツ戦のピッチに立つことができなかった。
後半がはじまっても、ブラジルが輝くことはなかった。
——スタンドの黄色が少しずつ薄くなっていく。スコアボードには、もはや追いつくのは不可能な数字が映し出されている。カナリア色のユニフォームを着たファンが、ひとり、ふたりと立ち上がり、やがて列となって、ふらふらと出口へ続いた(Number誌)。
——数千人がぞろぞろと去ろうとしていた。悲しげなその光景は、民族大移動のようだった。彼らの顔に涙はなかった。涙を流すにはあまりにも悲惨すぎたのだ(アレックス・ベロス)。
攻撃の急先鋒であったネイマールを欠いたブラジルに、ドイツの堅固な守備を崩すアイディアはなかった。ただ、オスカルのみが孤軍奮闘。一人で1点を返した。
しかし、最終スコアは1対7。傷口はさらに広がり、終了のホイッスルとともに、新たな悲劇「ミネイロッソ」が確定した。
——ブラジルの選手たちには、涙を流す余力さえ残っていなかった。ビッチに倒れ込んで目頭を抑えたのは、最後に1点を返したオスカルだけだった。ピッチに残されていたのは、魂を失った英雄たちの抜け殻だった(Number誌)。
——木っ端みじんに粉砕されたカナリアの姿は、今後、世界中の人々のサッカー観を変えるかもしれない。…サッカー界がブラジルを中心に回っているという”天動説”は、ブラジルで否定されてしまった(金子達仁)。
誰も予想だにできない結果だった。そんな中、ドイツの『ビルド』紙は、スコアを的中させた5歳の幼稚園児がいたことに喜んだ。
——ブラウンシュバイクの幼稚園が遊びの予想をおこない、エリアーノ君が7対1と書いていたのだ。試合中は寝ていたというエリアーノ君、翌朝父親から結果を聞いて大喜び。賞品としてサンドイッチが贈られた(Number誌)。
ブラジルの敗戦をうけ、メディアらは好き勝手に巻くし立てた。そして、勝っていた間には隠されていた、ブラジルの恥部をさらけ出させた。
田邊雅之「ブラジルが準決勝で負けてからコパカバーナを通ったんですけど、黄色いユニフォームは誰もいない」
近藤篤「あのドイツ戦の大惨事で、ブラジル人がみんなカナリア色のユニフォームを脱いじゃったから。ネイマールは、ブラジルの低い実力を隠す”まやかしの魔法”だったんですよね」
木崎伸也「カボチャの馬車ですよね。ネイマールという魔法が解けた瞬間に、これ馬車じゃなくてカボチャだってことが判ってしまった」
——ネイマールという類いまれな個が、ブラジルの前時代的なサッカーを続けさせていたというのは皮肉でもある。そして彼を失ったとき、ブラジルは現実を目の前にすることになったのである(Number誌)。
ブラジルのネイマールだのみ。それはアルゼンチンのメッシだのみよりも深刻だった。それは大会中、随所に見られていた。
——今回のブラジルの攻め方は非常に拙(つたな)い。原因のひとつは中盤の弱さにある。中盤でパスをつなぐことができず、攻め方に幅をもたせられない。仕方なくネイマールに向けたロングボールに頼ってしまう。ブラジルはネイマールにいい形でボールが入らなければ、攻撃のスイッチが入らない。ネイマールはブラジルの攻撃を一人で支えてきた(Number誌)。
「(全治)6週間だ。彼のコパ(W杯)は終わったんだ…」
ブラジルの料理屋の主人は、テレビを見ながら呟いた。その画面には、ネイマールが搬送された病院の様子が映し出されていた。
「できれば自分がケガを代わってあげたい、みんながそう思っているはずだ。ブラジルの希望の星だったんだから…」
——ネイマールの負傷は、ブラジル人に大いなる悲しみをもたらした。彼こそが、真のブラジル人らしいプレーをする唯一の選手だったからだ。ネイマールのいないセレソンは、もはやブラジルですらなかった。人々は、W杯からブラジルの心が消えてしまったことを、何よりも悲しんだ(アレックス・ベロス)。
5歳の少女、アンジェリーナが最初に好きになったサッカー選手はネイマールだった。
母親は言う、「あの子はまだ、コパ(W杯)やセレソン(ブラジル代表)のことがわかってなくて、ネイマールが出てくるからコパに夢中になってるの。国歌も歌えるようになってきたのよ。わたしも幼い頃、コパを通じて国歌を憶えたような気がするわ」
アンジェリーナに限らず、ブラジルの子供たちはネイマールが大好きだった。
こんなこともあった。セレソンの練習中、興奮した男の子がグラウンドに駆け込んでしまった。数人の警備員が即座に飛び出すと、その子を捕まえようと追いかけ回した。
すると、ネイマールがその警備員らに割って入った。そして、男の子の手をとるとグラウンドへと迎え入れ、自分と一緒に写真まで撮ってあげた。
帰宅した男の子は、父親にこう言った。「逮捕されると思ったら、ネイマールが迎えに来てくれたんだ。うれしくて泣きそうだったけど、セレソンに笑われると思って我慢したんだ」
元ブラジル代表のソクラテスは、口癖のようにこう言っていた。
「ブラジルのサッカーは道ばたから生まれるんだ。本当のブラジルのサッカーには、遊びと喜びがある。子供が道ばたでイタズラのようなフェイントをして見せる、あるいは踊るように、ギターを弾くようにサッカーをするんだ」
しかし現在のブラジルでは、路地でボールを蹴る子供たちがすっかり少なくなってしまったという。
——道路であろうが、空き地であろうが、街の至るところで子供たちがサッカーボールを追っている、ブラジルに対してそんなイメージはないだろうか。少なくとも私の場合はそうだった。ところが、である。ブラジル入りしてからすでに2週間、残念ながら、そんな場面に遭遇する機会がほとんどない。…日本に行ったが、サムライは歩いていなかった、そう言って残念がる外国人と大差ない話をしているのかもしれない(浅田真樹)。
隣国アルゼンチンでも状況は変わらない。ジュニア選手の育成に尽力したウーゴ・トカリはこう嘆いている。
「いまの子供たちはストリート・サッカーをやらなくなった。昔はそこで、ボールキープに必要な身体の使い方などを自然に覚えたものだが、そんなことまで教えなければならなくなったんだ」
こう言う人もいる。「もう、路地の時代じゃない。『クラッキ(名手)は路地から生まれる』という考えは、もはや過去のものとなりつつある。豊かになったブラジルは、路地というフチボウ(サッカー)の揺りカゴを失った。いまのセレソンのほとんどがトレーニングスクールで技を磨いた”養成されたクラッキ”だ。フチボウは”習うもの”になったんだ(熊崎敬)」
そんな時代の流れの中にあっても、ネイマールばかりは試合中も、遊び心にあふれていた。
サイモン・クーパーはこう記す。「”美しいゲーム”は、ブラジルという国のアイデンティティーにさえなってきた。根幹にあるのは、”ジンガ”と呼ばれる独特の動き方だ。ブラジルがW杯で5度も優勝して世界中の尊敬を勝ち取ることができたのも、このジンガによるものだ。
だが今大会のブラジル代表は、美しくもなければ機能的でもない。”美しいゲーム”は失われてしまったのだ。フレッジやルイス・グスタボは美しさからほど遠い。ジンガを試そうともしない。
唯一、ジンガの伝統を継承しているのはネイマールのみ。彼は雑誌のインタビューで、サッカーをダンスにたとえていた。『ブラジル人は皆、ダンスが好きだと思う。僕が育った家庭でも、みんな好きだった。自分も少しだけジンガを受け継いでいると思う。とくにお尻のあたりにね』。
ネイマールの仕事は、チームを優勝に導くことだけではない。彼は”美しいサッカー”を象徴する役割も担っている。事実カメルーン戦では、ふわりと相手の頭を超えるボールで相手をかわしてみせた。まるでサッカーの神様ペレのように」
ネイマールのシューズには、Alegria(アレグリア)と刻まれている。
ポルトガル語で「喜び、楽しみ」を意味する。
「ネイマールのプレーには遊び心があり、なおかつ人々にアレグリーア(喜び)を与えているからすごいんです」と、元日本代表のブラジル人、三都主アレサンドロは言う。
しかし、そのネイマールは大会中に骨折という悲劇に道を閉ざされてしまった。
「もし(骨折箇所が)2cm上にずれていたら、車椅子に乗っていたかもしれない…」
会見の席上、ネイマールはそう言うと感極まり、涙を流した。
そして起きてしまった、ブラジル二度目の悲劇「ミネイロッソ」。
惨劇のあとにはもう一試合、3位決定戦(対オランダ)が待っていた。
ブラジルのベンチには、ネイマールの姿があった。プレーはできない。それでも自らの希望で病院を離れて来た。
ブラジル国歌をチームメイトとともに歌った。
だが、ネイマールの耳には信じられない音が入ってきた。ブーイングだ。試合前の国歌斉唱にブーイングが入るのを初めて聞いた。まさか自国ブラジルで…。
それまでの試合では、国歌斉唱がはじまるとスタジアムのファンは一斉に立ち上がり、音楽が止んでもなお、アカペラで国歌を歌い続けることが恒例になっていた。その国民の声にネイマールは、涙を見せることさえあった。
しかし今は違う。
一夜にして白は黒に変わった。
国民の心はすでに、セレソンを離れてしまっていた。
試合は案の定と言うべきか、またしてもブラジルの完敗に終わった(0対3)。
ネイマールは試合後、傷む背中に手を当てながらも、スタンドへ向かって挨拶をした。
しかし無常、降り注ぐのはブーイングの雨。
黄色いカナリアたちは、いつもよりずっと小さく見えた。
(了)
ソース:Number(ナンバー)857 W杯 ブラジル2014 The Final
ネイマール「届かなかった願い」
ブラジル「ミネイロンの悲劇はなぜ起きたか」
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