2013年8月31日土曜日

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2013年8月29日木曜日

ドイツ・サッカーと、日本



日本で初めてサッカーW杯がライブ中継されたのは、今から約40年前の1974年、西ドイツ大会であった。

その決勝カードは「西ドイツ vs オランダ」。結果は、西ドイツが母国で栄光のトロフィーを掲げることとなる。



「当時を知る私にとって、近年におけるドイツ・サッカーの成功は決して『再興』ではありません」

そう語るのは、決勝戦の実況を担当した「金子勝彦(かねこ・かつひこ)」氏。

「サッカー界におけるドイツの時代は、むしろ1954年から半世紀以上もずっと続いている、と言っていいでしょう」

金子氏の言う1954年という年は、ドイツが初めて世界の頂点に君臨した年である(W杯スイス大会)。その時、西ドイツは決勝で、当時最強と謳われていたハンガリーを破った。

「この大会を機に始まった『ドイツの時代』は、以後、一度も凋落することなく今に至ったと言えるでしょう」



ちなみにそのW杯スイス大会の予選、日本は韓国に負けている。そして、その韓国はハンガリーに「0 - 9」と大敗。そのハンガリーをドイツは決勝で打ち負かしたのだった。

「韓国よりも遥かに上をいくドイツの強さなんて、想像すらできなかった」と、かつて日本代表だった「川淵三郎(かわぶち・さぶろう)」氏は振り返る。「当時はまだ、世界のサッカーが自分たちの住む世界とは全く別のところにあるという感覚だったからね」



サッカーW杯の歴史において、ドイツは優勝3回、準優勝4回、3位3回を誇る(西ドイツ時代を含む)。

Number誌「'66年イングランド大会は”疑惑のゴール”に屈したものの、ドイツは準優勝。自国開催の'74年大会は優勝、さらに'80年代は2大会連続で準優勝に輝き、'90年イタリア大会はマラドーナ(アルゼンチン)を打ち破って再び世界の頂点に君臨。'00年代は”不振の時代”と言われながらも、'02年大会は準優勝、'06年大会は3位と結果は十分」

そうした安定的なドイツと比較すれば、順を追って訪れたイタリア、スペイン、イングランドの隆盛は「長い流れの中のアクセント」に過ぎないようにも見える。ブラジルは'70年メキシコ大会をペレとともに制してから、'94年夏、灼熱のパサデナ(アメリカ)でトロフィーを掲げるまで実に四半世紀もの長い間、表舞台から姿を消していた。

「やはりドイツ・サッカーは再興したのではなく、約50年間もトップに君臨し続ける唯一の存在なのです」と金子氏は自信をもって語る。






ドイツが世界を制する原動力は、第二次世界大戦による敗戦だった、と金子氏はみている。

「戦後のサッカー・クロニクル(年代記)を紐解くと、その源流は『敗戦国』のレッテルをサッカーの舞台で剥がそうとする西ドイツにあります」

同じ敗戦国だった日本は、そのドイツを手本とすることとなる。Jリーグの生みの親となる川淵三郎氏は、1960年、日本代表の一員としてドイツを初めて訪れている。

「あの欧州遠征以来、毎年のようにドイツに遠征していた僕らにとって、ドイツのサッカーは唯一の教科書だった」と川淵氏は当時を振り返る。遠征中は毎晩のように16mmフィルムを見て、サッカーの基本技術が'54年W杯でどのように使われていたかを学んだという。








「そう言えば、かつてブラジル人がドイツ人のサッカーを『ギブス』と揶揄したことがあった(笑)。つまり、足にギブスを巻いているんじゃないかというくらい、彼らの動きには”しなやかさ”がなかったということなんだ(川淵三郎)」

それでも、ドイツには「ゲルマン魂」があった。逆境を次々と跳ね返す「圧倒的な精神力」があった。

かつて川淵氏は、ドイツ・チームとの練習試合でコテンパンにされた後、「日本人には『大和魂』があると聞いていたが、君たちにはないのか?」と言われたことがあったという。その言葉を言い放ったのは、のちに日本代表コーチとして西ドイツから派遣されることになる「デットマール・クラマー」だった。



漫画「キャプテン翼」の作者である高橋陽一氏は、こう語る。

「日本とドイツのサッカーはクラマーさん以来の縁で繋がっていて、どちらも組織的なプレーやチームワークを重んじる。ゲルマン魂と大和魂はよく比較されましたしね。勤勉さや真面目さを重んじる国民性も似ていると言われます」

川淵三郎は「Jリーグの開幕にあたって、僕は最初からドイツのブンデスリーガをお手本とすることを決めていたんですよ」と話す。「というのも、ヨーロッパの中でも最後のほうにプロリーグを立ち上げたドイツのルールは、どの国よりも整備されていると思い込んでいたからね」

ちなみに、かつて日本の歴史が江戸から明治に変わった時、新国家の手本としたのは、やはりドイツであった。そしてその理由も、ドイツがヨーロッパでは新しい国家であったからだった。








「サッカーはある種の学問であり、ドイツ人はこれを学ぶ能力に長けている」と、金子勝彦氏は語る。「しかも彼らは、とても勉強熱心で身体能力も十分。つまり、サッカーというスポーツで名選手や名将を生み出す素地があるのです」

さらに、高橋陽一氏はドイツのブンデスリーガをこう評する。

「リーガ・エスパニョーラ(スペイン)やセリエ(イタリア)の場合は、ともすれば日本人が色眼鏡で見られてしまうきらいが残っていますが、ブンデスリーガ(ドイツ)は、選手の実力をきちんと評価してくれる傾向が強い」



かつて日本に海外サッカーの情報があまり入って来なかった時代、ドイツのブンデスリーガの情報だけは日本に伝わりやすかった。それは、奥寺康彦や尾崎加寿夫などの日本人選手がブンデスリーガでプレーしていたからだった。

「奥寺さんや尾崎さんは、何もないところから身体一つでドイツに渡り、第一線で活躍していました」と、実際のドイツに漫画取材に行った高橋陽一氏は話す。

「後には風間八宏さんもブンデスリーガでプレーしますが、日本人選手が海外で本格的にプレーするようになった最初の国がドイツだったというのは、意外な相性の良さも関係しているような気がします」






日本初となったプロリーグ「Jリーグ」が発足してから20年、日本代表は急成長を遂げ、W杯出場国としての地位を築くまでに至った。

Jリーグを生んだ川淵三郎氏は、「ドイツのサッカーは、日本のサッカーそのものを大きく変えたと言っていいだろうね」と感慨を込めて語る。

「こんなに多くの日本人選手がブンデスリーガでプレーするなんて信じられないよ」

清武弘嗣(ニュルンベルク)、乾貴士(フランクフルト)、内田篤人(シャルケ)、酒井高徳(シュツットガルト)、長谷部誠(ヴォルフスブルク)、細貝萌(レバークーゼン)…。香川真司はドイツからイングランド・プレミアリーグへと雄飛した。



最後に、金子勝彦氏はこう締める。

「ドイツの時代は、これからも続くでしょう。1年後に迫った'14年ブラジルW杯、私はこの大会で、新たなサイクルに突入しつつあるドイツの新時代が幕を開ける気がします」



サッカーにおけるドイツの時代は、浮沈はあれど紛れもない。

そして日本も、その歩みは確かなものとなりつつある。日本にとっての幸運は、世界のどの国よりもドイツに認められていることかもしれない。

なにせそれは、世界一への道なのだから。













(了)






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香川真司の不遇に涙する、古巣のクロップ監督 [サッカー]



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/5号 [雑誌]
「ドイツがサッカーを日本に教えてくれた 川淵三郎」
「No.1は常にドイツだと思っています 金子勝彦」
「シュナイダー誕生秘話 高橋陽一」

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ソース:BEーPAL (ビーパル) 2013年 09月号 [雑誌]

2013年8月28日水曜日

なぜ強くなった? ドイツのサッカー事情



なぜ、ドイツのサッカーは強くなったのか?

Number誌「2014年のW杯で、ドイツ代表はスペイン代表と並んで『優勝候補ナンバーワン』と言ってよい」



代表のレベルは、その国内リーグのレベルから直結する。

「'90年代後半から'00年代半ばまでのドイツ代表が良くなかったのは、国内クラブのレベルが低かったからだ」と、バウル・ブライトナーは言う。彼は元ドイツ代表で、'74年にW杯優勝、'82年にW杯準優勝を果たしている。

彼は続ける。「だが、ブンデスリーガ(ドイツ国内リーグ)は今や、バイエルン以外にもドルトムントなど欧州を代表する強豪も登場し、スペインと並んで、欧州最強リーグとなった。それゆえ、ドイツ代表も素晴らしいサッカーを展開している」



昨シーズン、欧州最強を決めるCL(チャンピオンズ・リーグ)の4強として準決勝に残ったのは、スペインの2強(バルセロナとレアル・マドリー)、そしてドイツの2強(バイエルンとドルトムント)であった。

Number誌「おそらく多くの人が、バルセロナとレアル・マドリーによるスペイン勢同士の決勝カードをイメージしていただろう。だが、バイエルン(ドイツ)がバルセロナを破り、ドルトムント(ドイツ)もレアル・マドリーを退け、決勝は『ドイツのクラブ同士』の戦いになった」

それはまさに、「ドイツ時代の到来」を予感させる出来事であった。






なぜ、ドイツのサッカーは再びそこまでのレベルに達することができたのか?

「それはひとえに、ドイツ人がようやく他国から学ぼうという姿勢になったからだ」と、元ドイツ代表のパウル・ブライトナーは言う。

「かつて我々は、多少の浮き沈みはあっても『自分たちのパワーがあればW杯で優勝できる』と思っていた。だから他国から学ぶことなく、立ち止まってしまっていたのだ」



「ドイツ人は働くために生きている」という言葉がある。それを踏まえて、パウルはこう指摘する。

「サッカーでもドイツ人は『力任せの労働者』になってしまっていた。闘うばかりで、サッカーは『労働』だった。本来、サッカーは『プレーする(遊ぶ)もの』だというのに…」

その間、よりプレーしていた(遊んでいた)他国に、ドイツはいつの間にか追い抜かれてしまっていた。

パウルは自嘲気味にこう続ける。「'98年のW杯から'04年のEUROまで、ドイツのサッカーはお粗末なものだったろう?」



「お粗末」だった頃のドイツでは、「子供たちはランニングばかりさせられていた」とパウロは言う。

「ボールの扱い方、技術を高めるよりも、パワーが大切だったのだ。それを考え直した。子供たちを再び『プレイヤー』にしなければならない、と」

危機感を抱いていたドイツ・サッカー協会は'00年、年間1,000万ユーロ(約13億円)の予算を組み、国内390ヶ所に育成センターを立ち上げた(エリートを育成する東ドイツ流のやり方で)。その結果、才能ある若者たちが次々と国内に芽吹いてきた。マリオ・ゲッツェ、トーマス・ミュラー、トニ・クロース…。






現在、ドイツ最強チームであるバイエルンで辣腕を振るう「ウリ・ヘーネス」は、早くから育成に力を入れてきたことを、こう語る。

「移籍金を払いたくないからだ」

彼はソーセージ会社の経営に成功して億万長者になった男だが、「現金主義」を自称する「生まれながらのケチな性格」が武器になったと語る。

彼が育てた「自前の代表選手」は、ラーム、シュバインシュタイガー、ミュラーと数多い。やむなく他国から選手を「買う」時は、値切りまくるのが彼の流儀であるという。



ヘーネスが「バイエルンのマネージャー」に就任したのは27歳の時。それ以来35年間、ギャラを誰かが懐に入れるような「悪しき風習」にメスを入れ続け、バイエルンの収益を伸ばし続けた('09年からは会長に)。

今や、バイエルンは「欧州一の健全経営と資金力」を誇り、選手に給料を未払いすることなどあり得ず、「世界一の監督」の呼び名も高いグアルディオラさえをも引き寄せた。






バイエルンに限らず、ドイツのクラブ・チームの経営は他国に比べて健全である。

ドイツのシャルケで活躍する「内田篤人(うちだ・あつと)」は、こう言っている。「他のリーグとか見ていると、給料未払いみたいなニュースとか聞くけど、(ブンデスリーガ)はそういうことがないし、経営もしっかりしている」と。

しかしなぜ、ブンデスリーガ(ドイツ国内リーグ)だけが、経済的な安定を保てているのであろうか?

Number誌「ボスマン判決以降、サッカー界は巨大な金が動くようになり、大きく膨れ上がった。隆盛を誇ったセリエA(イタリア)が凋落し、リーガもスペイン経済の不況に勢いをなくし、プレミアリーグ(イギリス)も停滞気味だ」



FIFAマスターの授業で「各国リーグの収入源のバランスシート」を見せてもらったという、元日本代表キャプテンの「宮本恒靖(みやもと・つねやす)」は、こう分析する。

「他国リーグが『放映権収入』に大きく依存する中、ドイツは『収入の4本柱』のバランスが非常に良い」

宮本の言う「収入の4本柱」とは、「放映権料」「試合収入(入場料など)」「スポンサー料」「物販など(他のコマーシャル事業)」。

宮本は続ける。「スペインはバルセロナとレアル・マドリーという2大クラブを頼りとした放映権への依存傾向にあり、国の経済も相まって危険な状況にある。イタリアも放映権への依存度が高く、基本的に物販面で整備されていなところが多いので、コマーシャル事業での収入が少ない。プレミア(イギリス)も放映権が突出している。これはプレミアが世界中に人気がある証拠でもあるのだが、そのバブルが弾けた時、どうなってしまうのか…」



ドイツ・サッカーの収入源は、4つにバランス良く分散しているため、一本足で立っているような他国のリーグよりずっと安定的である。

「そこに魅力を感じている選手は多い。とくに他国リーグで発生している『給料未払い問題』などが、ドイツに良い選手を呼び寄せるキッカケにもなった。そうして各クラブのレベルは上がり、CL(チャンピオンズ・リーグ)や欧州リーグで結果を出しつつある」と宮本は説明する。






現役でプレーする内田篤人は「お客さんが入るのはやっぱりデカイ。俺もそうだけど『満員のスタジアムでやりたい』という選手は多いはずだから」と話す。

現在、ドイツの平均入場者数は4万4,221人、平均収容率90%という驚異的な数字を生んでいる。それは世界一の数字である。2004年、それまで世界一であったイングランドのプレミアリーグの平均入場者数を抜き去り、横ばいを続けるプレミアリーグを下方に見ながら、ドイツのブンデスリーガは上昇曲線を描き続けている。



それは、ブンデスリーガが顧客満足度をいかにアップさせるかに腐心した結果である。

「ドイツは平均的にサービスの質が高い印象を受ける」と宮本は言う。

イングランドのプレミアリーグは、いまだにフーリガン的な危険な空気が漂っている('85年以降その根絶を目指しているというが)。とくにビッグマッチなどでは「何が起こるかわからない」という不安が、家族や子供連れを遠ざけているという。

「スタジアムはどこも安全だし、ファンの質も高い。こうした環境がドイツのサッカーの質や文化的な価値を高めているのだと思う」と宮本は語る。






「ブンデスリーガが、日本人に扉を開いていることの凄さをもっと理解してほしい」

日本人選手がブンデスリーガに進出するうえで、「最も貢献したドイツ人」といわれる代理人「トーマス・クロート」はそう言う。彼は高原直泰にはじまり、稲本潤一、小野伸二、長谷部誠、香川真司、内田篤人、清武弘嗣など、名だたる選手たちのブンデスリーガ移籍を実現させてきた実績をもつ。

「ドイツ勢対決となった昨季の欧州CL(チャンピオン・ズリーグ)決勝を見ればわかるように、ブンデスリーガは間違いなく世界一のリーグだ。だから、世界のベストプレーヤーがドイツに来ることを望んでいる。競争が激しくなれば、当然求められる能力が高くなる。にも関わらず、『日本人は常に必要とされている』んだ」と、トーマスは言葉を強める。



「ドイツのクラブの多くが、南米の選手に比べて日本人は『適応が早い』という印象を持っている。日本の選手は理解力があり、他の選手から学ぶのを得意としている」とトーマスは言う。

その模範的な例として、トーマスは内田篤人の名前を挙げた。

「アツト(内田篤人)がまさにそうだ。注意深く観察して、すぐに行動に移す。今やアツトはドイツ人選手になったと言ってもいいくらいのプレーをしている」

香川真司には「日本人通訳」を付けたが、内田にはチームの事情により付けてやれなかったとトーマスは言う。

「だが、アツトは通訳なしで全てをやってのけたんだ。すごい根性だよ。これには私も驚かされた。チームに完璧に溶け込んだし、ドイツ人ファンのお気に入りの選手にもなった。アツトが右サイドを駆け上がると、スタジアム中に『ウシィィィ』と響き渡るからね」



そうした内田篤人や香川真司の活躍のおかげで、ドイツでの「日本人ブランド」が確立された。

「ドイツにおける『攻撃的MF(ミッドフィルダー)』と『サイドバック』の日本ブランドが確立されたんだ」とトーマスは誇る。

イングランドのプレミアリーグへの移籍を果たした香川真司はやはり、とりわけインパクトが強く、「第2の香川」を求める呼び声も高い。その大きな期待に、トーマスはすでに次の候補を見つけているという。



「シンジ(香川真司)の才能と質を受け継ぐ選手がすでにいる。『ヒロシ・キヨタケ(清武弘嗣)』だ。彼はトップ・プレイヤーとしてベストな道を歩み始めている」

現在、ドイツ市場における日本人選手のトップが「清武弘嗣」。

選手の市場価値を算定するWebサイトの権威「Transmarket.de」によれば、600万ユーロ(約7億8,000万円)である。それに次ぐのは、乾貴士の500万ユーロ(約6億5,000万円)。内田篤人は400万ユーロ(約5億2,000万円)。






いまや、ドイツのサッカーは「世界のロールモデル」となりつつある。

あるイタリアのクラブ関係者は、こう言っている。「イタリアのクラブは世界からあまりにも遅れを取り過ぎている。それを取り戻すには、ドイツのクラブを参考にして、改善していかなければならない。モデルはドイツだ」

イタリアではクラブが税金を払えないと、クラブを守るために国が法律を変えてしまうこともある。そんな規律のなさがイタリア・セリエAを凋落させる因ともなった。だが、規律を何よりも重視するドイツでは、そんなことはあり得ない。

Number誌「ドイツは極めて健全であり、正しい道を歩んできたゆえに、今の隆盛があるのではないか」

それはサッカーだけに限ったことではない。大きなマクロ経済を見ても、ドイツは欧州で突出している優等生だ。






真面目な労働者が、遊び心をもって良い仕事をしだした時に、そこが世界の中心となった。

自分だけの力に自惚れずに、他者にも学ぼうとした時、世界は回り始めた。

確かに今、世界の大きなうねりはドイツを抜きには語ることができなくなっている。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/5号 [雑誌]
「90分でわかる ブンデスリーガ講座」

2013年8月23日金曜日

「最強 × 最強」、グアルディオラ(ペップ)とバイエルン [サッカー]



「あなたは『世界一の監督』だと思うか?」

会見の席でそう質問された「グアルディオラ」監督。彼は、スペインの「バルセロナ」でタイトルを総ナメにし、一時代を築いた名将である(リーガ3連覇、2度のチャンピオンズリーグ制覇)。

グアルディオラ、通称「ペップ」はこう答えた。

「監督自身が『私は世界一の監督だ』というのは間違っていると思う。それを決められる唯一の存在は『選手』だ。監督にとって大切なのは、いかに選手に助けられるかだ」



バルセロナを去って一年の休養をへて、ペップは今季より、ドイツ最強チームである「バイエルン」を率いることとなった。

Number誌「ドイツ・サッカーは闘争心にあふれ、気持ちを全面に押し出す。同時にドイツ人はとても知的だ。合理性とディシプリン(規律)を重んじる。彼らは伝統に回帰することの意味をよく理解している。全力で戦い、惜しみなく走る。走って走って走り抜くことで、相手に差をつける。プリミティブ(原始的)ではあるが、これこそサッカーの原点である」

そうしたドイツ・サッカーを体現するナショナル・ブランドが「バイエルン」というチーム。昨季はバルセロナを破りCL(チャンピオンズ・リーグ)を制覇。記録ずくめでドイツ史上初の3冠を達成した(国内リーグ、ドイツ・カップ、CL)。

「だからこそバイエルンは、勇退したユップ・ハインケスに代わり、グアルディオラ(ペップ)を新監督に招聘した(Number誌)」






スペイン生まれのペップは、その完璧主義からドイツ語を猛勉強。バイエルンにおける会見はすべてドイツ語で行われ、笑いまで引き起こす。

練習場でもペップのドイツ語が響き渡る。

「リニエ(ラインを一直線にしろ)!」

「ツーザーメン(一緒に連動して)!」

「ラウス(ラインを上げろ)!」

練習中はしばしばメニューに参加し、選手と共にボールを追いかける。



Number誌「ペップの真骨頂は理論に溺れてしまわないことだ。無味乾燥になりかねない練習を、燃えるような情熱で料理する。両手を派手に使ったジェスチャーで要求を伝え、練習後には一人ひとりに話しかけてアドバイスする。ユースの選手に対しても、まったく熱量が変わらない」

ペップいわく、「選手とは同じ目線に立って話したいからね。疑問があれば、その場で伝える。私は隠し事をしないストレートなタイプなんだ」

時にじゃれるように後ろから選手を蹴ったり、子供のように抱きついたり。

Number誌「熱くて、知識があって、教え方がうまい。学校の先生だったら、瞬く間に人気者になるだろう」






選手たちには隠し事をしないというペップだが、バルセロナ時代はほぼ全ての練習を非公開にしていた。「戦術練習を見せたくないから」という秘密主義からだった。

バイエルンに来てからは、練習をやや公開しているものの、大事なメニューの日には堅く門を閉ざしてしまう。それでも記者らは練習場の裏にある古城(273m)から、バイエルンの非公開練習を双眼鏡で覗きこむ。

すると、「見たこともないような練習」が…。



ゴール前には、4体の人形が4バックの位置に並べられている。

それら人形の1mほど後ろには小さなコーンが4つ。そのコーンが攻撃者のスタート・ポジション。つまり、オフサイド・ポジションからシュート練習がはじめられていた。

Number誌「わざとオフサイド・ポジションに立っておいて、そこからUの字を描くように動き、相手を惑わす。そういえばメッシ(バルセロナ)は、よくこういうアクションを起こしていた気がする」



クロスの練習も独特だ。

Number誌「一般的にクロスと言えば、サイドから弧を描く軌道を思い描く。だが、ペップ流は違う。ボールは浮かさず、相手のセンターバックとサイドバックの間にグラウンダーのスルーパスを通そうとする」

ゴール前の崩しに関しては、とにかく指示が細かったという。



ペップといえば攻撃的なイメージが強いが、その合宿においてはかなりの時間が守備練習に費やされていた。

ペップいわく、「私にとって、攻撃と守備は一つのもの。切り離すことはできない。いい攻撃がいい守備をもたらし、いい守備がいい攻撃をもたらすんだ」

選手の一人、クロースはこう言う。「ボールを奪われた瞬間、素早く『中央を閉めること』をペップは求めている。そうすればゲームをコントロールできるからね」

食事にもこだわるペップは、練習後にバナナ・シェイクを飲むことを義務づけたという。






そして迎えた開幕戦(vs ボルシアMG)。

Number誌「先制点は、まさに合宿で練習していた形の再現だった。前にボールを運ぶと、リベリーとロッベンがドリブルで相手の組織を叩きのめす(まるでメッシが2人いるかのように)。リベリーが正確なパスを送り込むと、ロッベンのゴールが決まった」

ところがボールを失った途端、「学生チーム顔負けのナイーブさを見せてしまった」。相手のカウンターをケアできず、センターバックのダンテが「中央を閉められなかった」と反省した失点だった。



試合は「3対1」でバイエルンが勝利したものの、途中、ペップは大声を出し続け、修正も余儀なくされた。

Number誌「ペップ率いるバイエルンを開幕戦で舞っていたのは、とてもCL(チャンピオンズリーグ)王者とは思えない支配と混乱の目まぐるしい交錯だった。CL王者が多重人格になってしまったような試合だった」

しかし、このバランス感覚の欠如にこそ、大きな可能性が潜んでいるのかもしれない。

Number誌「無難にやろうと思えば、ペップでなくていいのだ。バルセロナ以上のチームを作るために、伝説のカタラン人は異国にやって来たのだから」



「ペップ × バイエルン」

それが爆発的な化学反応を起こすのは、これからだろう。

「長編小説の1ページ目が、ついにめくられた(Number誌)」













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/5号 [雑誌]
「ペップの謎を解き明かせ」
「ドイツを中心に欧州は回り始めるのか」


2013年8月20日火曜日

ドン底からのアメリカ一年目 有村智恵 [ゴルフ]



プロ8年目、今季の「有村智恵(ありむら・ちえ)」はアメリカ・ツアーに参戦していた。日本で13勝、賞金獲得額3位という、たいそうな鳴り物入りで。

ところがシーズン序盤、「予選落ち」の続いた有村。いきなりドン底に沈んでいた。



4月上旬、映えあるメジャー第一戦となるはずだったクラフトナビスコ選手権。

Number誌「過去2回はともに10位以内に入っていた相性の良い大会にも関わらず、ショットミスが相次ぐなど『有村らしさ』は影を潜めた。まさかの予選落ちである」

敗戦のショックは大きかったが、試合後は大勢集まった報道陣を前に気丈に対応した。しかし、その輪が解けると、それまで張り詰めていた気丈の糸までがほどけてしまったかのように、大粒の涙が頬を伝った。

拭っても拭っても止まらぬ涙。カリフォルニアの抜けるような青空を背に、有村はずっと肩を震わせていた。



その後、有村は一時帰国し、心機一転、地元熊本で行われたバンテリン・レディースオープンに出場。

Number誌「得意なコースに意気込んでいたが、米ツアーを含めると『3試合連続での予選落ち』という異例の結果となった」

不甲斐ない自分…、先を失った不安…、またしても涙は止まらない。



「アメリカに戻りたくない…、怖い…」

久しぶりに郷里の家族や友人と会って里心がついてしまったか、有村はアメリカへの意欲を忘れ、ただ暗闇の中をさまよっているような心細さだけを感じていた。

そんな有村の不安はプレーにも現れており、父・明雄さんも「どうしてそんなに怖々プレーをしているんだ?」と、らしくない娘に戸惑いを隠せない。



一昨年に痛めた「左手首」という爆弾もあった。それをかばうあまり、有村のプレーからは「思い切りの良さ」が失われていた。それが持ち味であったにも関わらず。

「手首をかばって、自分の思うようなスイングができなくて…」

春先から手首の調子が思わしくなく、テーピングをして試合に臨んでいたこともあり、有村は本能的に手首をかばうようなスイングをしてしまっていた。それは「ショット・メーカー」の異名をとるほどの有村にとっては致命的だった。



「ゴルフってこんなに難しかったっけというくらい、すべてが本当に怖かったんです…」と、有村は当時の心境を語る。

「自分のゴルフが見えなくなっていました。身体の大きなアメリカ人選手に(飛距離で)置いていかれるなら納得できるんですけど、自分よりも身体の小さいアジア人選手にも置いていかれて…」






米ツアー第9戦「キングスミル選手権」

あいくにの悪天候、5月とは思えぬほどの寒気と強風。冷たい雨が有村の体温を奪い、そしてスコアも初日3オーバーと大きく出遅れていた。

またもや脳裏にチラつく「予選落ち」。この時、有村は珍しくも姉の美佳さんにメールを送ったほど落ち込んでいた。

「これから先、ドンドン落ちちゃうんじゃないかな、っていう恐怖感がすごいありました…」



辛うじて持ちこたえた有村は、2日目に1アンダーで回って何とか「4試合ぶりの予選通過」を果たす。

ようやく、ほっと息をつけた有村。「兆しが見えた」とようやく小さな笑顔が戻った。スコアには大きく結びつかなかったものの、「勇気をもって振れた」ことが暗闇からの大きな一歩となった。



不調の影には「言葉の壁」もあった。

「ここでは追風に感じるけど、ピンは右から吹いているよね」

そうキャディに聞きたくとも、限られた時間の中、「端的な英語」で表現する術を有村は知らなかった。クラブの選択もラインの読みも基本的には自分で決める有村だが、キャディに的確なアドバイスを必要とする時がもちろんあった。

「(聞けなかったことは)大きなディスアドバンテージだったと思います」と有村は振り返る。



その一方、「言葉の通じる」先輩たちは的確なアドバイスを有村に与えてくれた。

東北高校の先輩である宮里藍は、「日本は空気を読む慣習があるけど、アメリカではそれがないから、きちんと言葉で伝えないと」と有村を諭し、「こっちに来た以上、その努力をしないといけないよ」と発奮を促す。

そうして背中を押された有村は「悩んでいる暇があったら、英語を勉強しよう」と、予選落ちの無念を新たな力に変えはじめた。



また、体力の問題もあった。

Number誌「米ツアーの多くが4日間大会で、最終日にラウンドを終え、シャワーを浴びたらすぐに空港に直行。翌日には次戦のコースを回り始める。前の試合の反省をする暇さえない」

米ツアーではルーキーの有村。プロアマにもまだ名前が入っていないため、試合前日にコースを回るためには、プロアマがスタートする前、つまり陽が昇る前にはコースに出ていなければならなかった。

「陽が長いから、いつまでもプレーできるし、日本にいるよりも体力がいるなぁと思いました」と言う有村は、休養が必要だと知りつつも、ついついオーバーワークになってしまいがちだった。予選落ちが続き、「練習しないと」という焦りも彼女にそうさせてしまっていた。



「自分の『身体の声』に耳を澄まさないと」

米ツアー5年目になる先輩・宮里藍は、じつにシンプルな答えを有村に与えた。

「藍センパイと話をして、『日本の当たり前を捨てよう』と思ったんです」と有村は話す。






見えなくなっていたゴルフが見えてきて、スイングに有村らしい思い切りが見られはじめると、そのスコアはぐんぐんと伸びてきた。

Number誌「ここまで13試合を戦って、3試合で10位以内に入った。優勝が見える位置で戦い、一時首位に立った試合もある」

一緒に回っていた選手が「どうやって打ったか教えて」とつい口にしてしまうほどの「スーパーショット」も有村のクラブから飛び出すようにもなっている。



予選落ちが続いた時には「なぜアメリカに来たんだろう…?」と思い悩み、幾度となく「もう帰りたい…」と願った有村。

春先のドン底で歯を食いしばり続けた彼女は、今ではもうすっかり吹っ切れている。

「アメリカ挑戦は自分が決めたことで、誰から頼まれたわけじゃないですよね。だから、『イヤなら帰ればいいや』って考えるようになったんです」

そう言ってクスクス笑う。夏らしい涼やかなワンピースとちょっと踵のある靴に身を包み、フワリとした柔らかな雰囲気を醸し出しながら。



上手く話せなかった言葉も、今やネイティブの速い英語にたじろがない。

一人暮らしで三食自炊を心がける彼女は、どこのスーパーが安いかもすっかり心得ている。運転の荒いアメリカ人ドライバーももう怖くはないし、近所ならばカーナビもいらなくなった。

すべてを恐る恐るやっていた日々が、今では懐かしくさえ感じられる。



「アメリカでのプレーは楽しくてしょうがないんです」と、今の有村は言葉を弾ませる。

眼下に見える、いつも練習しているグリーン。休暇中の人々がプレーを楽しみ、子供たちはコース横のプールで水遊びに歓声を上げながら、父親のホールアウト待っている。

かつては鈍く沈んで見えたグリーンも、今の有村の目には鮮やかに輝いて見える。



たとえ試合の結果が悪くとも、コーチやスタッフが「次があるさ」と温かく励ましてくれる言葉も、今は素直に聞ける。

「できないことがたくさんあるから、練習したくてたまらない気持ちになるし、すごくキツイと感じることがあっても、それが間違いなく自分のプラスになるだろうなというワクワク感になるんです。乗り越えたら、スゴイものが見えるんだろうなって」

スカートの裾を夏の風に翻す彼女は、ごく普通の25歳。

彼女にとってのアメリカは、まだ季節も一巡していないのであった。













(了)






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2013年8月17日土曜日

「弱くても勝てます」 開成高校 [野球]



「今年は史上最弱のチームです」

開成高校(東京)野球部の「青木秀憲」監督は、確かにそう言った。

「最強」ではなく「最弱(さいじゃく)」、「最も弱い」と。



とはいえ、彼が端から勝利を諦めているわけではない。東大野球部出身の彼は、勝利に対してむしろ「執念深い」。

「弱くても勝てます」

それが開成高校野球部の掲げるセオリーだった。



開成高校といえば、言わずと知れた超進学校。日本一の東大合格者数で話題になる。だが、進学校の宿命として甲子園とは縁遠い。

それでも同校の野球部は「平成17年の東東京都大会でベスト16に入り、その翌々年も4回戦まで進み、同年の準優勝校・修徳高校に惜敗。しばらくは低迷するが、昨年も4回戦進出を果たし、その勢いから察するに『甲子園はかなり近づいている』(Number誌)」






さて、「史上最弱」と監督のいう今年のチームは…。

「それにしても下手すぎやしないか…。グラウンドでの練習を見て、私は半ば呆然とした(Number誌)」

Number誌「バッティングは山なりの緩い球を次々と空振りしているし、守備もサードがエラーして打球を後逸すると、それをレフトがまた後逸する。プレイ以前に選手たちは走り方もぎこちなく、とても勝てそうには見えない」



だが、弱ければ弱いほど、「弱くても勝てる」というセオリーを証明するのには好都合。

「常識を覆してこそ、開成野球」

さて、その秘策とは…?



「われわれは『ギャンブル』を仕掛けるんです」

青木監督によれば、常識的な野球のセオリーは「高いレベルで戦力が拮抗するチーム同士の戦いにおいて通用するもの」に過ぎない。すなわち、あまりにも弱すぎる開成野球部にはまったく当てはまらない。

Number誌「たとえば打順。通常のセオリーでは1番に俊足の選手、2番にはバントなどの小技ができる選手を置いて、3番に強打者というオーダーになる。これは確実に1点を取るためのものだが、開成はたとえ1点取っても、その裏に10点取られるので有効ではない」



青木監督いわく、「『1−0』の1点差は追いかけるのが難しいです。でも『10−5』の5点差ならワンチャンスで返せる。『20−10』の10点差だったら、なんとかなる気がするんです」

開成野球部は「10点取られる」ことを前提に、20点取りに行く。そのために、1番から強打者を並べて、いきなり打線を「爆発」させて一気に大量得点し、そのままコールド勝ちしてしまう。それが監督のいう「ギャンブル」。



「ドサクサに紛れて勝つんです」と監督は揺るぎない自信をのぞかせる。

見た目に弱そうな開成に打たれると、相手校は動揺する。その虚を突いて、勝ち逃げするのだという。

Number誌「実際、東東京都大会でも『勝つ時はほとんどコールド勝ち』なのだ」



青木監督は、選手らを奇襲攻撃用の打撃に集中させるため、守備練習は「捨てさせる」。

監督いわく、「守備が上手くなってもエラーは出るし、猛烈な守備練習が活かせるような難しい打球が来るのは1試合に1球あるかないかくらいだから」

そうした確率論のもと、監督は「守備を捨てる」というギャンブルに打って出る。



「サードを捨てようかと思ってます」

青木監督のギャンブルはいよいよ大胆になる。

「あまりに守備が酷いんで、むしろ置かないほうがよいのではないかと思うんです。あるいは外野を2人にするとか…」

通常の外野は3人だが、それを1人減らして内野を5人にしようと監督は企む(ちなみにルールブック上、ピッチャーとキャッチャー以外の守備位置に関しては規定がない)。

それは「大惨事」を避けるためだ。監督のいう大惨事とは「一気に20点取られること」。そうなってしまうと、コールド負けを食らってしまう。



そもそも、開成の守備の原則は「正面に来た球を確実に捕り、それ以外は『なかったことにする』」という実に割り切ったものだ。

「打球が外野に飛んだら諦めます」と監督は言う。「そして外野を守る選手たちにも、あらかじめ『どこを捨てるか』決めさせるんです」

そうすれば、外野手も自分がいる「正面」の打球に集中できるのだという。



ところで、肝心の「打撃」はどうなのか?

Number誌「主砲と目された星川君(3年)。185cmの長身を生かし、体力づくりに励んで立派な体格に成長したのだが、バットに球が当たらない。それもド真ん中の直球、緩い球でも当たらないのだ」

見かねた青木監督が、星川君に「プラスチックのバットとゴムボール」を与えたという。それでも、彼は空振りを繰り返す。



「ナイス空振り!」

監督に励まされながら、星川君は乱暴に振る、野蛮に振る、やけくそに振る。

「バットにかすりもしなかった生徒でも、キッカケさえつかめれば試合中に突然打てるようになり、それが連鎖して大量得点に結びつくことがあるんです」と監督はあくまで前向きである。

その時を信じて、素振りも「無闇やたらに振る」。数振りゃ当たるか? それもギャンブルか?






さて、一向に打撃が上向かぬまま、東東京都大会は幕をあけた。

初戦の相手は、進学校の城北高校。

Number誌「試合は呆気なかった。開成は主砲・星川君ほか3人がヒットを打っただけで、あとはほとんどが三振。気がつけば8回の裏に7点差が開いて『8−1』でコールド負け。あと1点でコールド負けになるということに気づいていない選手もいたようだった」

史上最弱チームの夏は、三振の山だけを残して終わってしまった…。



「弱くても勝てるんじゃなかったのか!」

スタンドからはそんな野次も飛ぶ。

Number誌「どうした? 開成…。観客席で私はつぶやいた。ギャンブルに負けたというより、まだギャンブルは始まっていないではないか…」



開成野球部にとって不幸だったのは、対戦相手が「強豪校」ではなかったことだった。開成のセオリーは強豪校に対してこそ「意表を突く」。すなわち、そこに戦力差があってこそ生きるものだった。

しかし悲しいかな、初戦の相手・城北高校は進学校ということもあり、開成と戦力が拮抗してしまっていた。お互いの戦力差が少ない時、そこに奇襲のスキは小さくならざるを得ない。

そんな時は皮肉にも、「常識」の方が幅をきかせてしまうのだった。開成がひっくり返し、捨ててしまっていた常識が…。






そもそも、開成のナインは「呑気すぎた」。その呑気さに、青木監督は負けた試合の5日後、グラウンドで罵声を響かせていた。

「お前たちは足に鉛でも入れているのか! 日常生活の移動より遅い!」

Number誌「野球は弱くても勝てるが、呑気だと勝負に間に合わないのである」



「われわれは徹底的に勝ちにいきます。勝ちが全てです」

来年に向けて、青木監督は早々にそう宣言した。じつは誰よりも負けず嫌いなのは彼であった。



ちなみに開成はグラウンドでの練習のことを「実験と研究」と呼ぶ。守備を捨ててみるのも、無闇やたらとバットを振るもの、それらは「弱者が勝つための道」を探る試行錯誤である。

のろのろ移動する選手たちに監督が激を飛ばすのも、新たな実験のはじまりなのであろう。



当たればデカイ(?)。開成のギャンブル。

Number誌「格下のチームが独自の戦法で強豪校を攻略する、そんな番狂わせが起こるのも、甲子園の醍醐味の一つだ」

開成高校が甲子園で「大番狂わせ」を演じるのは、いつの日か…













(了)






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2013年8月16日金曜日

甲子園「最後のバッター」 [野球]



一度負ければ全てが終わる甲子園。

その「最後のバッター」となる想いやいかん。ある者は力なく天を仰ぎ、ある者は地にへたりこむ。

その瞬間に、彼らが見た光景とは…?



2009年8月24日
夏の甲子園「決勝戦」
日本文理 vs 中京大中京

日本文理は「4−10」という大量6点リードを中京大中京に許して、最終回を迎えていた。



「もうダメかな…」

そんな雰囲気が日本文理のベンチには支配的だった。

最終回の先頭打者「若林尚希」が、さっそく見逃し三振に倒れたことが、ベンチの雰囲気を一層暗くしていた。



若林は日本文理の「正捕手(キャッチャー)」。ピッチャーの「伊藤直輝」と二人三脚で、甲子園決勝進出という長い物語を紡いできた。

若林と伊藤のバッテリーは小学4年生以来の名コンビであり、同じ郷里の新潟県関川村という人口6,000人あまりの小さな村でともに育った幼馴染みだった。

日本文理に進んでからは、ピッチャー伊藤が1年の時からエースナンバーを任されたのに対して、キャッチャー若林は2年になっても控えのまま。懸命に伊藤の背中を追った若林は、ようやく2年の秋になってからバッテリーを復活させることになる。



「しっかり捕るから、思い切って投げろ」

最後の甲子園、若林はエース伊藤にそう声を励まし続けた。そうしてピンチを凌ぎ切るたびに、バッテリーの絆はいよいよ深まっていた。

「やっぱり、若(若林)が一番投げやすい」

そんな伊藤の一声は、キャッチャー若林にとって何よりも嬉しいものだった。



しかし、深紅の優勝旗にあと一勝と迫った決勝戦。

優勝候補・中京大中京に一時、点差は7点と広げられ、最終回を迎えても6点を追わなければならない半ば絶望的な展開だった。

それでも奇跡を信じた最終回が、最後の幕を上げた。



冒頭記した通り、必勝を期した先頭打者・若林はあえなく見逃しの三振。続く打者も難なくショートゴロに打ち取られ、瞬く間にツーアウトの瀬戸際に追い込まれてしまっていた。

マウンド上で不敵な余裕を見せるのは堂林翔太。現在、広島カープで活躍する名投手である。だがこの後、勝利を確信していたであろう堂林は、「甲子園には魔物がいる」という俗説に肝を冷やすことになる。

いよいよ「奇跡の19分間」が始まろうとしていた。



日本文理の最後の攻撃は2番、3番が長打でつなぎ、ツーアウトから2点を返す。

この時点、スコアは「6−10」。点差はまだ4点。

そして、打席には4番の吉田雅俊が立つ。しかし吉田は、堂林のストレートを三塁後方のファールゾーンに打ち上げてしまう。



ベンチにいた若林は、その浮いたファール打球を目で追いながら「夏の終わり」を予感していた。その打球はそれほど平凡なフライだった。

ところが…、甲子園の魔物がそうさせたのか、中京大中京の三塁手はその平凡なフライを「まさかの落球」。

そのラッキーな結果、4番・吉田は最後のバッターとなることはなく、さらに堂林の制球の乱れから四球(ファーボール)で一塁へ。中京大中京の投手・堂林はここでマウンドを降りることになる。



「この時、中京の選手たちが魔物に呑まれようとしていると感じました」と若林は振り返る。甲子園に「異変」が起こるのは、この後である。

続く打者も四球を選び、ついに2死から満塁とした日本文理。4点の差に一打で追いつけるチャンスを迎えていた。

バッター・ボックスに立ったのは、若林の幼馴染みにしてエース、伊藤である。



「イトウ! イトウ! イトウ!」

アルプス席(母校応援団)からではなく、内野の一般席から「イトウ・コール」が巻き起こる。

「おい、『イトウ』って言ってるよな…」

ベンチにいた若林は、そのコールに鳥肌が立っていた。



Number誌「甲子園には甲子園にしかつくれない風がある。甲子園に高校野球を観に来るお客さんの多くは『浮遊ファン』。特定のチームを応援に来ているわけではなく、高校野球そのものを応援しに来ている。そのため、試合展開やプレーする姿によって心が揺れる。あっちを応援したり、こっちを応援したり。ただし、そんな『移り気なファンの心』をガッチリつかむと、球場はそのチームのホーム・グラウンドと化す」



甲子園の風に後押しされた伊藤は、レフト前に2点タイムリーを放つ。

「8−10」、2点差へと詰め寄る。

続く代打も初球をレフト前へと運ぶと「9−10」、ついに1点差。



世紀の大逆転劇の予感に、どよめくスタンド。

甲子園の魔物に助けられ、大観衆の心をとらえてしまった日本文理は打順一巡の猛攻に沸いていた。

9回の先頭打者として三振に倒れていた若林に、まさかこの回2度目のチャンスが巡ってくるとは。



若林のとらえたのは、2球目のストレート。

打球は快音を残してサードへ…!

「抜ける!」

打った瞬間、若林はそう確信していた。甲子園の大観衆も息を飲んだ。



だが、はかなくも甲子園の魔物は移り気だった。

その会心の当たりは、「磁石に吸い込まれるように」三塁手のグラブの中に収まっていた。

それを横目で見た若林は、一塁を踏むことなく、グラウンドに両膝をついて崩れ落ちていた…。



「この最終回、1人で2つもアウトになったことが悔しかった…」

最後のバッターとなってしまった若林は、ここまで繋いでくれたみんなに申し訳ない気持ちで一杯になっていた。



そんな自省の中にいた若林に、ピッチャー伊藤は声をかける。

「ナイス・バッティング!」

幼馴染みのこの言葉に、若林は救われた思いがした。若林自身も「最後の打席で一番いいスイングができた」と感じていたのだ。

不幸だったのは、中京大中京の三塁手が良い守備を見せたことであった。先に「まさかの落球」をしていた同じ三塁手が。



この夏、日本文理を「9−10」という激戦の末に制した中京大中京は、史上最多となる7回目の夏制覇を果たした。

だが、敗れはしたが最後の最後まで粘りをみせた日本文理に、甲子園の大観衆は「鳴り止まぬ拍手」でその健闘を讃えた。






新潟の小さな村に「歓喜と誇り」をもたらしてから、今年で4年が経った。

ピッチャー伊藤は東北福祉大学でも投手を続け、今秋のドラフト会議を待つ。

キャッチャー若林は実家で暮らしながら、隣接する村上市の警備会社で働いている。あの夏以来、キャッチャーミットを手にすることなく…。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 8/22号 [雑誌]
「ドキュメント 最後のバッター」

2013年8月13日火曜日

「5連続敬遠」で悪役になった男「馬淵史朗」 [甲子園]



「俺は少々のことじゃ、へこたれんよ」

そのカラっとした男は、快活にそう言った。



「馬淵史朗(まぶち・しろう)」

かつて甲子園で明徳義塾を率いた監督であり、超高校生スラッガー「ゴジラ松井秀喜」に対して「5打席連続敬遠」という前代未聞の勝利主義を示した人物である。

その「松井を相手にしない」という究極の作戦によって、松井秀喜を擁する星稜高校(石川県)との対戦は「3−2」というスコアで辛くも勝利をもぎとる(結局、松井はこの試合、一度もバットを振る機会すら与えてもらえなかった)。



だが大変なのは、その試合に勝った後だった。

球場では「帰れ!帰れ!」の大合唱とともに、客席からメガホンやゴミなどが大量に投げ込まれる。明徳義塾の選手たちが引き上げてもブーイングが鳴り止まない。

試合後、馬淵監督は「正々堂々と戦って潔く散るというのも一つの選択だった」と前置きした上で、「そうした潔さを喜ぶのは客と相手側だけだ」と言い切った。



その日の夜のニュースは、「5打席連続敬遠」の話題でもちきり。

明徳義塾の宿舎には「選手に危害を加える」などの抗議や嫌がらせの電話や投書が相次ぎ、監督・選手らの身を守るために急遽、警察やパトカーが出動する厳戒態勢が敷かれたほどだった。



翌日のスポーツ新聞各紙は、喜んで「松井5連続敬遠」の記事を第一面にでかでかと掲載した。

「馬淵監督の指示による『敬遠策』はまんまと成功して、明徳は勝ちを手にしたが、果たしてこの勝ち方で良かったのかどうか?」

「どんな手段を取ってでも勝つんだという態度はどう考えても理解し難い。まるで『大人のエゴ』を見せられたような気がして、不愉快ささえ覚えた」

「フタを開ければ『姑息な逃げ四球策』とは…」

マスコミ、メディアらによる非難は轟々であった。



そうした社会の論調に憤慨したのは当の馬淵監督。

「もう帰ろうと思った。監督は誰かに任せて」と、抗議の意味も込めて監督を辞めることも考えたという。

だが周囲になだめられた馬淵監督、6日後の3回戦「広島工業」との試合に臨むことになる。



その試合前、世間の批判を一身に浴びていた馬淵監督は、その抑えがたい怒りを闘争のエネルギーに転化していた。

「日本全国、敵に回してもいいから、『わしはやったる!』と思った」

罵声はもちろん、物も投げられるだろう。明徳の選手たちには「覚悟しとけよ」と腹を据えさせてから堂々とグラウンドに足を踏み入れた。



ところが…、である。

悪役を演じ切るつもりだった明徳ナインに、「明徳がんばれ〜」と声援が飛ぶほど、球場は生ぬるい雰囲気だった。

ファンらはむしろ、あまりにも強硬なマスコミの報道に対して、責められっ放しの明徳に同情すら感じていたのである。



当時の広島工業のキャプテン、加藤慶二は当時をこう語る。

「ゲームが始まったら、明徳に全然覇気がないんですよ」

必要以上に気張って試合に臨んでいた明徳ナインは、球場の同情的な雰囲気にすっかり牙を抜かれたようになっていた。

加藤は続ける。「こっちは何もしてないのに、向こうが勝手にエラーをしてくれて。やってるうちに彼らが可哀想になったぐらい」



結果は「0−8」。

「明徳は何の見せ場もつくれないまま完敗した(Number誌)」

この試合、順当に行けば明徳が勝つはずだった。この年、明徳は広島工業との練習試合を、2試合とも圧勝していたのであるから。






肩を落として旅館「志ぐれ」に戻った明徳ナイン。

そのミーティングの席で馬淵監督は、「おまえら、ようやった…」と労いをかけた途端、言葉に詰まった。そして肩を震わせ嗚咽する監督。

「負けて泣くな、泣くなら勝って泣け」、そう常々言っていたはずの馬淵監督その人が、その時とばかりは部員たちを前にはばかりもなく号泣したという。選手らも同様、堪えに堪えていた涙をみんなで存分に解放した。



当時、明徳の主将をつとめていた筒井健一は、こう回想する。

「まさか、あの監督が泣くとは思わなかった。これまでの人生で、あんなに感動したことはありません。あの瞬間、このチームでやってこれて良かった、悔いはないと思えました」



馬淵監督は「野球で泣いた記憶は2度しかない」と言う。

一度目は、この時に明徳ナインとともに流した涙。

そして二度目は、今度こそ「勝って泣いた」。「5連続連続敬遠」の夏から10年後の2002年夏の甲子園、その決勝戦。

Number誌「智弁和歌山の最後の打者を三塁ゴロに打ちとった瞬間、馬淵はメガネを外し、あふれる涙をユニフォームの袖で何度もぬぐった」



「あのときは野球やってて良かった、男に生まれて良かったと思ったね。それまで、いろんなことがあったから…」

このカラッとしたはずの男は、その時に思いを馳せると珍しく湿り気を帯びていた。






(了)






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5打席連続敬遠の夏 [松井秀喜]

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熱きキャプテン「阿部慎之助(巨人)」、愛のポカリ



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 8/22号 [雑誌]
「悪役にされたあの夏、牙を抜かれた完敗の後で 馬淵史朗」

2013年8月12日月曜日

5打席連続敬遠の夏 [松井秀喜]



今から21年前の「夏の甲子園」

1992年8月16日

その「事件」は起った。

Number誌「それが当時、星稜高校で4番を打っていた松井秀喜の伝説となる『5打席連続敬遠(vs明徳義塾)』だった」



「全打席敬遠」

それが明徳義塾の馬淵史朗監督が考えた、勝つための「究極の作戦」。

「松井と勝負をしない」

無理もない。先立つこと春のセンバツ大会で、星稜の松井秀喜は2打席連続を含む3本のホームランをマーク。この夏の大会でも「大会屈指のスラッガー」として全国的な注目を集めていたのであった。



Number誌「1回、松井が打席に入るとキャッチャーは立ち上がりこそしなかったが、外角の大きく外れるところにミットを構え、マウンドのピッチャーはそこに4つのボール球を投げ込んだ。3回と5回も同じように外角に4つのボールを投じ、バッテリーは松井と勝負する気配を一瞬たりとも見せることはなかった」

「そして明徳義塾1点リードの7回2死無走者の場面で、明徳のピッチャーが外角にボール球を投げ始めると、スタンドは騒然としたムードに包まれた。松井にとってこれほど極端な例は、その後の野球人生を含めてもちろんない」



当時のことを、松井はこう語る。

「『なぜ?』とは思わなかった。ただ、あそこまで極端なことは経験したことがなかったので、『ここまでやるんだ』という驚き…、その驚きの感情が強かったですね」

「敬遠されてイヤな気持ちになるバッターってほとんどいないと思うんですよね。もちろん打ちたいですけど『まあ、仕方ないか…』と。僕はジャイアンツでも何回も敬遠されましたけど、別にイヤな気持ちになったことはなかったですね」

「僕が敬遠されるのは仕方ないけど、うちのピッチャーが敬遠するのはイヤでしたね。僕は後ろから『敬遠する必要ないのに。打たれたら打たれたで仕方ない』って思いながら見てました」



淡々としていた松井とは裏腹に、多くの高校野球ファンは明徳義塾の卑劣なまでの作戦に憤った。

「高校野球にあるまじき行為だ!」

Number誌「9回2死三塁で明徳義塾バッテリーが、この日5度目となる敬遠をすると、球場は堰を切ったように騒然となった。怒号と野次が甲子園球場に飛び交い、メガホンやゴミがグラウンドに投げ込まれた。それを球場職員とボールボーイ、星稜の控え選手が拾い集める」

そんな光景を、一塁に立っていた松井は感情を押し殺したような表情でじっと見つめていた。



水島新司の野球漫画「ドカベン」には、主人公ドカベンこと山田太郎が「5打席連続敬遠」される場面がある。

Number誌「まさに漫画の世界の出来事が現実に起ったわけだ。しかし漫画と現実が違うのは、山田のいた明訓は主砲が歩かされても負けることはなかったが、現実の星稜は敗れ去ったということだ」

松井は言う。「『ドカベン』は読んでいました。山田太郎が同じように5打席連続敬遠されて、明訓は勝ちましたからね。勝てば別になんてことなかったんです。だから敬遠されても、”打ちたい”っていう気持ちより”勝ちたい”っていう気持ちなんです」








悲願の日本一。

松井はこの大会、主将として望んだ「最後の夏」だった。

一点差を追う最終回、敬遠されて塁に立った松井は決死の盗塁を決め、星稜はランナー二、三塁とし、一打逆転のチャンスに望みをつないだ。



しかし儚くも、最後の打者が三ゴロに倒れ、松井の三年間は悲願ならずに終わった…。

「まさか、こんな最後になるのかよ…!」

チーム全体に不完全燃焼の部分があった、と松井は振り返る。



「ついにバットを振らぬまま対戦相手の校歌を聞いた(Number誌)」

いや、明徳義塾の勝利を称えるはずの校歌は、スタンドから鳴り響く「帰れ!」の怒号にかき消されていた。その凄まじいブーイングは、明徳の選手が球場から去るまで鳴り止まなかった。

松井も確かに怒っていたのかもしれない。試合終了後に整列して礼をした後、松井は明徳ナインと握手もせずにクルリと踵を返し、背を向けてベンチに戻った。



その言葉にならぬ悔しさとは裏腹に、徹底的に敬して遠ざけられた松井は、この試合で「怪物」の評価を確定させることになる。

Number誌「この5打席連続敬遠という伝説が、その後の野球選手・松井秀喜のプライドとなり、パワーとなった。それだけは紛れもない事実だと松井は思っている」

松井いわく、「あの敬遠がその後の20年間のプロ野球生活の中で、どれだけ僕にエネルギーを与えてくれたかっていうことを考えると、途轍もないんです。あそこで『5回敬遠されたバッター』ということを、自分はどこかで証明しなくちゃいけないと思っていた。日本中の野球ファンの人に『松井だったら敬遠されても仕方ない』って思われる選手にならなくちゃいけないってね」



あの試合後、松井は明徳の選手たちと握手もせずに去ったことを「いま思うと大人気なかったですね」と話す。

そして、松井秀喜の野球人生にとって「またとない最高のプロローグ」となったあの夏の日の5打席連続敬遠を、現役を退いた松井はいま、「僕個人としては非常に感謝してるんです」と語る。



たとえ勝利できなくとも、

たとえ、その時は不本意な敗北に終わろうとも、

松井の野球人生は、まだ雄叫びを上げようとしていたばかりだったのである…!













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 8/22号 [雑誌]
「あの夏があったから 松井秀喜」

2013年8月4日日曜日

「こけの一念、岩をも通す」 化石のようなスパーズ一家 [バスケNBA]



「101回目に叩いたときに岩が2つに割れても、それは最後の1回によって割れたわけではない。その前に叩いていたからこそ、割れたのだ」

アメリカ・プロバスケNBA「スパーズ」のポポビッチ監督はそう語る。



「Pounding the Rock(岩を叩き続ける)」

ロッカールームの壁に掲げられたこの言葉は、ポポビッチ監督が'90年代からずっとチームのモットーとしてきたものである。

元はニューヨークのジャーナリスト「ジェイコブ・リース」の名言であり、結果が見えなくても努力し続け、積み重ねることの大切さを、「大きな岩を叩き続ける石切職人」の話に喩えて語ったものだった。



ポポビッチ監督は「凡庸なことは大嫌い」であり、「どのロッカールームにもあるような馬鹿げた言葉にはうんざりしていた」と話す。

だが、この「Pounding the Rock(岩を叩き続ける)」という言葉ばかりは、他の「馬鹿げた言葉」とは違い「選手たちに考えさせることができる」と思ったのだという。






知識欲があり読書家のポポビッチ監督は、空軍士官学校を出てスパイのトレーニングを受けたこともある「いろいろな顔をもつ人物」である。

ワイン好きが高じて、自宅には3,000本ものワインを所蔵すると同時に、ワイン専門店の共同経営者でもある。



記者会見ではいつも苦虫を噛み潰したような顔をしているポポビッチ監督。彼は「スパーズ」の選手たちに多くを要求し、厳しく接する。

だが、ポポビッチ監督にとって選手たちは単なる戦略の駒ではなく、チームは単にコート上で結果を出すだけの集団ではない。

Number誌「全員が家族であるかのように大事にする。個々の選手が育ってきた環境や性格を理解して、家族のような信頼関係を築くのがポポビッチ流のやり方なのだ」



ポポビッチ監督をスパーズ家の「父」とすれば、その長兄は「ダンカン」。

チーム最年長選手であるダンカンは、30代後半に入ってなお、いまだに高いレベルでプレーを続けている「スパーズBIG3」の筆頭である。ファイナルMVP3回、シーズンMVP3回を誇る「史上最高のパワー・フォワード」。攻守ともに隙のないチームの大黒柱だ。

以前、ダンカンとの関係についてポポビッチ監督はこんなことを言っていた。「バスケットボールの関係だけでは長くは続かない。年月が経つにつれ、お互いに飽き飽きし、うんざりしてしまうんだ。そんなとき、親密な関係を築いていれば、言葉を交わさなくてもお互いを理解し合える」

家族のような「親密な関係」を築くポポビッチ流は、海外から来た選手を相手にその国の文学や政治の話をすることもあるという。








そんな「家族」は、そうそう入れ替わるものではない。

Number誌「他チームではヘッドコーチが次々に入れ替わり、キャリアを通して一つのチームで終える選手が減っている今、スパーズだけはそんな変化とは無縁だった」

ポポビッチ監督は1996年の就任以来、今年で18年目。ダンカンを筆頭とする「スパーズBIG3」は10年以上も不動のメンバーである(結成11年目)。



Number誌「スパーズは、目まぐるしく変化するNBAの中で、ある意味、『化石のようなチーム』だ」

選手にもコーチにも変化が少ないスパーズを、世間は「退屈なチームだ」とも言う。こうした評価は、「凡庸なことが大嫌い」というポポビッチ監督にとっては全く皮肉なことである。



だが、投資の神さまウォーレン・バフェットが言ったように、「並外れた結果(extraordinary results)を出すのに、並外れたことをやる必要はない。ただ、普通のこと(the ordinary)を並外れて行うだけでよい」のかもしれない。

ポポビッチ監督のキャリア17年間のうち、なんと「16季連続」でプレイオフに進出し、「4度の優勝」に輝いている。

変化のない「化石のような退屈なチーム」スパーズは、岩のような堅固な強さを維持しながら、激動のNBAで勝利を積み重ね続けているのである。2007年を最後に優勝からは遠ざかっているものの、その勝率は6割以上という高い数字を誇っている。






今季(2013)のファイナル、スパーズは「6年ぶりの優勝」を目前としていた。

MVP男レブロン・ジェームズを筆頭とする昨季の王者「マイアミ・ヒート」に対して、互角以上に戦い続け、王者を敗者の淵まで何度も追い詰めたのだ。



「あと28.2秒で優勝」という第6戦、その時点でスパーズは5点もリードしており優勝は手のうちにあるように思えた。事実、ヒートのファン数百人は早々に諦め、試合終了を待たずに会場を後にしたほどだった。だが、なんとなんと、ファンたちよりもずっと諦めの悪いヒートの選手たちは、その絶体絶命から同点に追いつき、延長線をものにしてしまうのである。

シリーズ3勝3敗で迎えた第7戦。スパーズは最後に珍しく脆い一面を見せてしまう。終盤まで競りながらも、勝負どころでダンカンのシュートが決まらない。「ディフェンスに戻ったダンカンは、珍しく感情を露わにし、床を叩いて悔しがった(Number誌)」。

結果は「88 - 95」。スパーズは「手のすぐ先にあった優勝」を取り逃がしてしまった。あと一歩及ばず、スパーズのシーズンは終わったのであった…。






ポポビッチ監督は試合後、痛む心のままに「また、このチームでやってみるよ」と、しっかり言った。

スパーズ家の長兄ダンカンには、すでに引退が近づいている。ポポビッチ監督が18年前の就任後、すぐにドラフト1位で指名したのがダンカンであった。

ダンカンにあと何回優勝のチャンスがあるのかは分からない。だが、彼は現役続行の意思を表明した。

「優勝できるかどうかはわからないけれど、最大限の努力はする。それは確かだ」



「Pounding the Rock(岩を叩き続ける)」

このロッカールームの言葉は揺るがない。

「こけの一念、岩をも通す」

叩き続ける限り、いつか岩の割れる日は来るはずだ。少なくとも、スパーズ一家はそう信じ続けている。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 7/25号 [雑誌]
「一念岩をも通す サンアントニオ・スパーズ」

2013年8月1日木曜日

大河のごとき流れから、一瞬で「虚」を突く。中村俊輔 [サッカー]



「数的優位をつくれ!」

日本のサッカー界では「数の論理」が殊の外、重視される。

Number誌「指導者は子どもたちに敵が1人なら2人、2人なら3人で応対するよう教え込む」



素直な日本の選手は、教えられた通りの数的優位が保たれている時、「人数が足りているから大丈夫」と安心する。

ところが残念ながら、そうしたシステム依存は時に「虚」を生んでしまう。



そうした虚を、達人たちは突いてくる。

1990年イタリアW杯、マラドーナ(アルゼンチン)は4人もの敵の裏をとり、一本のパスからブラジルを倒した。

かくの如く、不確定要素に満ちたサッカーにおいて達人たちは敵方の数的優位を「逆手」を取ってくる。たとえ数の論理は強力だといえども、そこには「盲点」も確かにある。それが見える人には見えている。



日本の「中村俊輔(横浜マリノス)」もまた、そうした目をもつプレーヤーの一人。

Number誌「中村は、隙のない守備に隙を見出す。時間にして2秒、空間にして3mあれば、彼は磨きぬかれた左足でゴールを陥れてしまう」



中村の力がもっとも発揮されるのは「セットプレー」。だから中村と横浜マリノスは、意図してセットプレーを獲りにいく。

開幕間もなかった4月13日、川崎フロンターレとの一戦。横浜マリノスが決めた2つのゴールはどちらもセットプレー、コーナーキックから生まれたものだった。

Number誌「まんまとセットプレーを獲得すると、中村はボトルを手にしてゆっくりと水を飲む。もったいぶるようにしてソックスを上げ、最後にボールを置き直す。この儀式によって、彼はスタジアムの空気を支配する。息を整え、鋭く頭脳を回転させた中村は数秒後、その左足によってチャンスを呼び込むのだ」



数的優位をつくれ! 運動量で上回れ! ボールを下げるな!

こうした日本のサッカー界に染み付いた決まり事に、中村はまったく忠実ではない。

彼はもっと深いところでサッカーを考え、いつも何かを企んでいる。中村ひとりが大勢の敵に囲まれれば、ほかの味方が数的優位に立てる。ボールの動きを予測できれば、歩いてでも先回りできる。

Number誌「身体が小さく、考えてプレーするしかなかった幼少期に培った考える力が、35歳になっても中村を輝かせ続けている」



そんな中村俊輔がつくるリズムは「大河の流れ」のようにゆったりとしている。

じれったいほど後ろへ横へとパスをつなぎ、無理して縦に行くことは少ない。当然、攻撃に手数がかかることにより、敵の陣形は堅さを増す。

だが、陣形を固めて敵方が安心したその時、「虚」は生まれる。それは日本サッカー界を支配する常識が生み出す「虚」だ。

Number誌「無理もない。鉄道がダイヤ通りに運行され、停電や断水が滅多にない国に暮らしていれば、人は当然、システムに依存する」



今季、「面白いプレー」をする中村俊輔はJリーグの観衆を愉しませている。

そして、それは「誰にも真似できないプレー」。まさに円熟の技巧。稀代のレフティーはまだまだ健在である。

Number誌「ボール扱いは滅法うまいのに、日本代表は一つのリズムでしかプレーできない。悪い流れを変えられず3連敗したコンフェデを観て、中村が必要かもしれない、と思った」












(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 8/8号 [雑誌]
「日本代表に足りない中村俊輔のリズム」