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2017年5月10日水曜日

浅田真央の21年間[フィギュア]






浅田真央(あさだ・まお)。

スケートをはじめたのは5歳のとき。

「わたしもトリプルアクセルを跳びたい!」

伊藤みどりに憧れた少女は、その一心で氷上をぴょんぴょんと跳ねまわっていた。



2005年3月、14歳で世界ジュニア優勝。

日本スケート連盟は浅田真央を「将来のオリンピック金メダル候補」として、一足早くシニアへと移行させた。




◇15歳の世界女王



2005年12月16日
GP(グランプリ)ファイナル
SP(ショートプログラム)

冬の代々木第一体育館は、一万をこえる大観衆の熱気でむせかえっていた。



居並ぶ世界のトップ6。

本命視されていたのは絶対の世界女王、ロシアのスルツカヤ。この日まで、7大会連続優勝、圧倒的な強さを誇っていた。

日本からは中野友加里、安藤美姫。そして一ヶ月前にシニアデビューしたばかりの浅田真央(あさだ・まお)がいた。まだ中学生、可憐な15歳であった。



〜Number誌より〜

16日、いざショートプログラムが始まると、予想は覆された。オレンジの鮮やかな衣装をまとった浅田が演じるのは「カルメン」。冒頭のトリプルルッツを決めると、つづくトリプルフリップ、トリプルループも難なく決め、最後は腰の横で右手をひらひらと振って締めくくる。

得点が出ると、キス&クライで「すごーい!」と浅田の口がうごく。64.38点の自己最高得点。スルツカヤを抑えトップに立つ。

「まさか」の出来事に、観客席は惜しみない拍手を贈った。



翌17日、GP(グランプリ)ファイナル最終日、フリーの演技。

歴史的な瞬間への期待と興奮が、代々木第一体育館に渦巻いていた。その喧騒のまっただ中にいたのは浅田真央、15歳。ちょうちん袖の衣装に身をつつんだ、身長わずか158cm。



最終滑走者のアナウンスが場内にひびく。

「6番、浅田真央さん。ニッポン」

15歳の少女は、弾むようにリングへ飛び出した。まるで発表会で踊るかのような気軽さで。



しばしの静寂。

そして曲がながれる。

「くるみ割り人形」



振付師、ローリー・ニコルは言う。

「彼女の純粋さをうまく表現させてあげたかった。クララという無垢な少女のキャラクターを与えようと思ったのです」


冒頭、浅田はトリプルアクセルを軽やかに跳ぶ。

控え室のモニターを見守っていたロシアのソコロワは、「ハラショー(すばらしい)…」と思わずつぶやいていた。



〜Number誌〜

アクセル成功への大拍手に応えるように、浅田は波にのる。

後半、3回転 - 2回転のコンビネーションジャンプに成功すると、ガッツポーツまで飛びだす。氷上で演じることそれ自体への喜びがあふれるような滑りだった。

最後のポーズを決めると、観客がいっせいに立ち上がる。四方に手を振っておじぎをする浅田に、次々に花束が投げ込まれる。浅田は観客席に向かうと、笑顔で花束、ぬいぐるみを受け取り、両手いっぱいに抱えた。

…

技術点が出る。笑顔。

演技構成点にも笑顔。

総合得点が出る。「189.62」。

観た瞬間、「えーっ!」と驚きの表情を浮かべた浅田を、コーチの山田満知子が抱きすくめた。ふたたびスタンディングオベーションとなった観客席に右手で懸命に手を振ると、おじぎをした浅田は、左手にドラえもんのぬいぐるみを抱えて去っていった。

15歳の世界女王が誕生した瞬間だった。

なによりも天真爛漫としか言いようのない、はつらつとした演技と笑顔で、会場であれテレビを通してであれ、観る者の心に強烈なインパクトを与えた。


振付師のニコルは、当時を振り返る。

「なんてかわいいんでしょう! 当時の真央はまだ小さくて、本当にあどけなかった。無垢に滑っている才能の塊でした」

伊藤みどりは言う。

「あの日の演技を、今でも私はよく覚えています。とうとうトリプルアクセルを受け継ぐ後輩が現れてくれた。そう思うと嬉しくて、カナダのキッチナーのリンクで『よし、やった!』と跳びあがって喜びました」



中野友加里(3位)は、こう言う。

「あれ(トリプルアクセル)は素晴らしかったですね。いとも簡単にやってのけるので、自分が一生懸命跳んでいるのが嫌になったくらいです。衝撃的でした。誰もトライしようとしない難易度の高い構成を、15歳でやってのけたのですからね」

敗れた女王、スルツカヤ(2位)だけは不機嫌さを隠さなかった。

「わたしは負けていません。ただ、彼女の若さ、ひたむきさを、うらやましく思う自分もいたかもしれません」



ジャーナリスト、タチアナ・フレイドは記者仲間とこんな会話をかわしていた。

「きっとマオは、今後世界のトップを争っていくんだろうね」







◇オリンピックの年齢制限



ISU(国際スケート連盟)の規定にしたがえば、オリンピック前年の6月30日まで「15歳」に達していなければ、オリンピックへの出場資格があたえられない。

1990年9月15日生まれの浅田真央は残念ながら、トリノ五輪の前年であった2005年6月30日、まだ「14歳」、87日ほど足りなかった。浅田本人は当然、オリンピックへの出場資格がないのはわかっていた。



あどけない笑顔で、浅田はマイクに向かって言った。

「オリンピックは4年後のバンクーバーでがんばります。今は、ファイナル優勝のご褒美にレゴブロックを買ってもらうので楽しみです」

張り詰めていた記者たちは、ドッと笑った。



しかし、GP(グランプリ)ファイナル優勝の強烈なインパクトは、世間に待望論を沸き上がらせていた。

「オリンピック規程を変えて、浅田真央をトリノ五輪へ!」

朝日新聞は社説で、「真央さんを外した争いでは、トリノの優勝者は真の世界一とはいえなくなる」と主張した。

当時首相であった小泉純一郎氏までがコメントを発した。

「浅田選手はきれいで素晴らしい。なぜオリンピックに出られないのか不思議なんだよ。(トリノ五輪に)出てもらいたいと思う。やっぱり優秀な人にどんどん出てもらった方がオリンピックも盛り上がるよ」

もはや「浅田真央」の名は、社会現象と化していた。



過熱する世論に、樋口美穂子コーチは表情を曇らせた。

「ここからが試練だろうな…」

15歳にして一躍「世界女王」という肩書きを得た浅田に、メディアは容赦なくプレッシャーをかけてくる。

「あの日(GP優勝)以来、それまでのように一般の人と同じリンクで練習することができなくなりました」

無心で挑んだGPファイナルとは、もう同じではいられない。純粋にジャンプを跳ぶ楽しさに身をゆだねていた日々は終わっていた。



中野友加里は言う。

「フィギュアスケートがメジャーになっていったのも、トリプルアクセルというものが凄いジャンプなんだと多くの人に認識してもらえるようになったのも、あのときの真央ちゃんの影響が大きいと感じます。まさに時代が変わったのです」

宇都宮直子は言う。

「トリノ五輪の前後、浅田真央は守られていませんでした。浅田の母は『誰も助けてくれないから、自分たちでやるしかない』と口癖のように言っていました。







◇孤高のアスリートへ



ジュニア時代、浅田は「緊張ってしたことがありません」と話していた。

しかしシニア移行後、即、世界女王となった浅田は「ノーミスしなきゃ」と社会の重圧を感じるようになっていた。身長は一気に160cmを越えていた。

無邪気な少女から「孤高のアスリート」へ。浅田の心は着実に大人へと近づいていた。トリプルアクセルの前に、あえて難易度の高いステップをいれるなど、「アグレッシブ」に戦いつづけた。



16歳で迎えた全日本選手権2006。

フィニッシュと同時に涙があふれた。

「うれし涙がでたのは初めてです。ハードに練習してきて、今年はじめてトリプルアクセルを跳べたので。演技が終わったら、モワーって出てきました」

大会一週間前に右手小指を骨折しながらも、総合得点は自己記録を更新した。



試練はつづく。

2008年の世界選手権は、足首捻挫など満身創痍でのぞんだ。

そのフリーの冒頭、氷の溝にエッジがはまるという、まさかの不運。トリプルアクセルを跳ぶ前に転倒してしまった。それでも、残るジャンプをすべて成功させた浅田真央。逆転優勝を果たした。

「もう、追い込まれることには慣れました」

17歳にして、浅田の心は鋼のように鍛えられいた。







◇バンクーバー五輪



ラフマニノフの『鐘』。




不安や怒りがテーマの、重厚感あふれる楽曲だ。浅田はバンクーバー五輪に、この曲を選んだ。衣装は赤と黒。強いアイラインと派手な口紅。まったく新しいイメージに挑戦しようとしていた。






このシーズン、結果の振るわない浅田に、「曲を変更すべきだ」と周囲は批判した。しかし浅田はそれらを一蹴。

「わたしが滑りこなせないから、そう言われてしまう。完璧な演技をみせたい」

と、ひたすら練習に没頭した。「いちばんの武器」、トリプルアクセルに何度も跳ね返されながらも、ジャンプ一本ごとにエッジの跡を確認。根気のいる練習を毎日欠かさず続けた。

ようやく成果があらわれたのは、オリンピック切符をかけた全日本選手権。激しいストレートラインのステップは「神ステップ」と絶賛され、楽曲『鐘』への評価を一変させた。



いよいよ狙うは、バンクーバー五輪の金メダル。日本にいながら、バンクーバーの時間で生活していた。見たいテレビ番組は録画して、起きている時間に見ていた。

「オリンピックで金メダルを獲りたい」

それが浅田真央の夢だった。

宇都宮直子は言う、「彼女の人生は、その実現のためにありました。そう言い切っても過言ではありません。夢は手のとどくところにありました。誰もがそう信じていました」



2010年2月23日
バンクーバー五輪
SP(ショートプログラム)

滑走順は、浅田真央22番、キム・ヨナ(韓国)23番、鈴木明子24番、安藤美姫30番。



確実に精度を高めてきたトリプルアクセルを、浅田は完璧にきめた。つづくコンビネーションジャンプ。世界で彼女にしか跳べない構成だ。

得点は「73.78」。今季のシーズンベスト。

浅田は言う。

「緊張はアップをしているときからほぐれてきました。試合中は、オリンピックで滑っているんだという喜びを感じていました。トリプルアクセルは、跳べると信じて跳びました。山場だと思っていたショートを無事に滑り切れて、うれしかったです」



だが、この日トップに立ったのは浅田ではなかった。

「78.50」のキム・ヨナだった。






2月25日
フリー

最終組がリンクに登場すると、会場の空気は明らかに変化した。そう、オリンピックチャンピオンは、この組から誕生するのだ。

滑走順は、首位キム・ヨナが先で、浅田はその次だった。



キム・ヨナは涼やかな笑顔で、これ以上ないといった演技を見せた。まったくミスをしなかった。総得点は「228.56」、驚くほどの加点を得た。

その得点が、出番を待つ浅田には聞こえなかった。あまりの大歓声にかき消されてしまっていたのだ。「すごくいい演技だったんだろうな」と思っただけだった。



静寂ののち、ラフマニノフの『鐘』が流れはじめた。

浅田は2本のトリプルアクセルを成功させた。しかし演技後半、いくつかのミスが重なった。

「後半は、滑りながら緊張を感じてました。トウループのときは、もうけっこう足にきていました。いつもだったら跳べたのに、エッジを取られたような感じになってしまって…」



「205.50」

掲示された得点は、キム・ヨナの下だった。



〜Number誌〜

その場では泣かなかった。

でも、すぐに込み上げてくるものがあった。浅田は、泣いた。悲しくて、悲しくて、泣いた。

表彰式では泣くのをこらえた。首にかけたメダルの重さを感じながら、上ってゆく「日の丸」を見ていた。


バンクーバー五輪2010

金メダル キム・ヨナ(韓国) 228.56点
銀メダル 浅田真央(日本) 205.50点
銅メダル ロシェット(カナダ) 202.64点



タチアナ・タラソワは、バンクーバーをこう振り返る。

「もう過ぎ去ったことなのですが、ひとつ私が言いたいのは、私が計画していなかった練習がフリーの前に行われてしまったのは残念なことでした。私はこの練習に反対しました。むしろ真央には休息が必要でした。そして実際に、その練習をおこなって彼女は力が失われてしまいました。エネルギーを消耗し、フリーでは完璧に滑ることができなくなってしまいました。

真央がもし、フリーでミスなく演技を終わらせることができたら…、優勝する可能性が十分にありました。わたしは今でもバンクーバー五輪のフリーで真央は1位になることができたと確信しています。なぜなら、私はコーチとしてずっと真央のそばにいて、真央がどれくらい一生懸命に練習して、どのように彼女のスケートのレベルが上達してきたかを把握していましたから。

わたしはオリンピック後に行われた世界選手権には同行しませんでした。もう私は信用されておらず、私は必要とされていないと感じました。真央は何も悪くありません。彼女は私の言うことをいつも聞いてくれていたから」






◇新コーチ



バンクーバーを終えた2010年9月、浅田真央の母、匡子は佐藤信夫のもとを訪ねていた。

「どうか、真央とソチを目指してください」

そう言って、低く低く頭を下げた。母の真摯さに心うごかされた佐藤は、浅田のコーチに就任した。




佐藤信夫は、50年以上のスケート経験をもつ名伯楽。

「すべて崩してから構築していくには3年はかかる。それでもいいのか?」

浅田真央の「ゼロからやり直したい」という希望に、佐藤コーチは厳しさで応えた。




スピード感。

佐藤コーチは浅田にそれを求めた。ジャンプを変えたければ、まずはスケーティングから変えなければならない。

ダメ出しが続いた。15年来の癖は、そうそう抜けるものではない。



2011年の世界選手権は、自己最低の6位に沈んだ。

スケーティングでの迷いが、ジャンプをも狂わせた。「真央はどうなってしまったんだ?」と、あちこちで囁かれた。

それでも「まだ我慢のとき」と耐え、1年目は暗中模索のトンネルの中で終わった。



「フィギュアスケートは、ジャンプだけではない」

滑りの美しさやスピードを磨くことで勝てる、と佐藤コーチは繰り返した。

しかし浅田は「トリプルアクセル」への執着を捨てきれない。2011年の世界選手権も、佐藤コーチに「回避」を提言されていたトリプルアクセルを強行したゆえの不振だった。



2011年のNHK杯、男子の演技を見ていた浅田は、ハタと気づいた。

ショートの演技で高橋大輔は4回転を「回避」しながらも首位に立った。一方、世界初の4回転ルッツを成功させたアメリカの選手は3位だった。

じつはこの大会、浅田は前日のショートで、トリプルアクセルが1回転半に終わるという痛恨のミスを犯しており、3位にとどまっていた。4回転を「回避」した高橋大輔の演技をみた浅田は、自身のフリーで初めてトリプルアクセルを「回避」、みごと首位、総合で2位に浮上できた。

「やっと(佐藤)信夫先生の言う、身体感覚がわかってきました。ジャンプなしでも、お客さんが引き込まれる滑りをする戦い方もあったんです」と、浅田は声をはずませた。

トリプルアクセルを「回避」し、演技全体で得点をかせぐ、という佐藤コーチの考え方に納得すると、成績はともなうようになっていった。







開眼した矢先、最愛の母、匡子さんが還らぬ人となった。

浅田真央の心は、空っぽになってしまった。



ローリー・ニコルは言う。

「母を亡くした真央は落ちこんでいて、まだ競技活動をつづけるのかどうかの決意がついていませんでした。そして亡くなったお母様に捧げる作品を滑るために、なにか美しくてメランコリックな音楽を選びたい、と考えていたようです。

私が『メリー・ポピンズ』とガーシュウィンの『アイ・ガット・リズム』の音楽を聞かせてあげると、真央の表情が少しずつ明るくなっていくのがわかりました。それはまるで、長い冬のあとに昇ってきた、春の太陽のようでした。

そして私たちが『アイ・ガット・リズム』のステップを振り付けている作業の最中に、真央はようやく再び笑ったのです。心からの自然な笑い声で、そんな彼女を見たのは、本当に久しぶりのことでした。私も一緒に笑いながら、同時に嬉しさのあまりに泣きたくなる思いを必死でこらえました」










◇ソチ五輪



浅田真央と佐藤信夫コーチは、ソチ五輪へ向けたトリプルアクセルの計画を話し合っていた。

「先生、トリプルアクセルは(フリーでは)、1本のほうがいいですか?」

佐藤コーチは内心、得たりと思ったが、冷静にこう答えた。

「そうだね、アクセルが2回つづくと、同じ方向に滑るので、プログラムがつまらなくなる。それに連続ジャンプを入れたほうが得点は高い。この4年間でやってきたジャンプを入れるのも、一つの挑戦だ」

”挑戦”という言葉が、浅田の心をくすぐった。

「一回にします」

と浅田は決めた。



佐藤コーチは思った。

「真央は大人になった。もうトリプルアクセルを跳びたいと駄々をこねる子供じゃない」



ソチに入ってからの練習は好調だった。

ところが2月8日の団体戦、女子ショート。浅田真央は平常心を失った。世界選手権とは明らかに雰囲気がちがう。野次のようなコールも多く、佐藤コーチの声はまったく聞こえなかった。

浅田真央は、冒頭のトリプルアクセルで転んでしまった。



急遽、立て直しのため、浅田は隣国アルメニアのリンクへと飛んだ。

しかし、浅田の調子は上がらない。むしろ悪化していった。

小塚嗣彦は言う。「アルメニアのリンクは状態がよくなかったみたいですね。服をすべて着込んでいないといけないくらい寒かったり、曲をかけるにも不十分だったり。何より、天井のサビとかいろいろなものが氷の上に落ちていたらしい。そんなリンクで選手たちは練習していたんです。簡単に言うと、やすりの上で滑っていたような状態。真央のエッジはつるつるに丸くなってしまっていた。帰国してから聞いた話ですが、佐藤さんが『びっくりした』というほど、エッジは酷いことになっていたみたいです」



小塚嗣彦は長年、浅田真央のエッジを研いできた。母・匡子さんに「エッジを研いでやってくれませんか?」と頼まれてのことだった。

小塚氏は言う。「エッジは1回研ぐと、5日間とか1週間は慣れないため、ジャンプを跳ぼうにもフィーリングが合わなかったりする。真央は努力家だから、それにイライラしてしまうんですが、どこに頼んでもうまくいかなかったそうなんです。高校時代、お母さんの勧めによって、私が研ぐことになりました。初めて研いだあと、中京大のリンクを一周して戻ってきた第一声が『あれ? ぜんぜん違う、普通に滑れる!』。そこから今に至るまで研ぎつづけてきました」

しかしソチ五輪、残念ながら浅田真央のそばに「磨(と)ぎ職人」小塚氏はいなかった。





2014年2月19日
ソチ五輪
SP(ショートプログラム)


〜Number誌〜

氷に降りた浅田は、身体がまったく動かない自分に気づいた。

「滑り出してから『いつもと違うけど行かなきゃ』と思って、最初のアクセルから、気持ちも身体も付いてきませんでした」

トリプルアクセルは転倒、フリップは回転不足になり、明らかにスピードがない。最も得意のループが2回転になると、呆然として連続ジャンプに出来なかった。全ジャンプでミスを重ね、演技を終えると、虚ろな目で氷を見つめた。

55.51点で16位発進。

優勝候補を襲った悲劇に、アイスバーグ・スケーティングパレスは騒然となった。



午前0時すぎ、浅田は記者の前にあらわれた。

「明日どう乗り切るか、まだ自分でも分からないです…」

選手村に戻ったのは深夜1時すぎ、この夜、浅田はずっと友人たちからのメールを読んでいたという。



翌朝、浅田は公式練習に寝坊して現れた。

「真央!」

と佐藤コーチは叫んだ。

「ボーッとしている場合じゃない! フリーはショートの約2倍の点数。試合はまだ3分の2残っている。気合い入れなきゃだめだ!」

浅田がジャンプを失敗するたびに、

「気合だ!」

と佐藤はドンドンと握りこぶしで胸を叩いた。



選手村に戻った浅田は、日本から持参したレトルトのお赤飯を食べた。

不思議と、迷いも焦りも消えていた。

「残されたのは自分の演技だけ。昨日はオリンピックの怖さが勝ってしまったけど、今日は感謝の思いを込めて、最高の演技をしよう」







本番前の6分間練習。

昨日とは別人のような浅田がそこにいた。

次々とジャンプを成功させた。



2014年2月20日
ソチ五輪
フリー



ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』

重厚な旋律にあわせ、浅田はトリプルアクセルを成功。



3回転+3回転ループ

3回転ルッツ

ダブルアクセル+3回転トウループ

3回転サルコウ



次々と大技が決まっていく。

浅田が跳ぶごとに、会場の拍手は大きくなっていく。

佐藤も思わず、同時に跳びあがっていた。



最後のループを降りた浅田に、大歓声が湧きあがった。

スタンディングオベーションのなか、142.71点という自己最高得点が表示された。トリプルアクセルをはじめ6種類の3回転を成功させたのは、女子フィギュア史上初の快挙である。



〜Number誌〜

満場の歓声のなか、浅田真央は、天井を見上げる演技終了のポーズのまま、顔をくしゃくしゃにしていた。笑おうとして2度こらえた涙が、目からあふれた。

「最後の最後まで、思いを込めて演技しようと考えていました。終わった瞬間は『やった』。心配してくれた皆さんに笑顔を見せようと思ったのに、つい泣いちゃいました」

前日のショートでは、3つの全ジャンプでミスして16位。そこから一夜、フリーはトリプルアクセルを含む8本の3回転を着氷し、自身が初めて挑んだ最高難度のプログラムを見事に滑り抜いた。

自己ベストの142.71点で10人をごぼう抜きにしての総合6位。フィギュアとしては前代未聞の巻き返しだった。



「昨日と今日とでは、天と地の差です」

浅田は落ち着いてメディアに向かった。

「自分が目指していたのは、昨日のような演技ではなく、今日のような演技。でも、これも自分なんだな、というのを受け止めています」



鈴木明子は言う。

「フリーが終わったとき、言葉もなく真央と(村上)佳菜子の3人で抱き合いました。みんな、号泣しました」

小塚嗣彦は言う。

「ショートプログラムはプレッシャーがあったから? 違いますよ。フリーが奇跡だとも、神がかり的だったとも思わない。あのフリーこそ、真央の本来の力です。だからメールに、こう書きました。『あなたのいつものフリーだったね』と」







ソチ五輪の一ヶ月後、さいたまスーパーアリーナで世界選手権が開催された。

この大会、浅田真央は4年ぶり、3度目の世界女王となる。ショートプログラムは歴代最高得点。総合得点でも自己ベストを更新する凄まじい滑りであった。

このとき、浅田真央23歳。

以後、1年間の休養へとはいった。






◇引退へ



1年間の休養ののち、2015年5月に競技復帰を宣言した。

伊藤みどりは言う。

「やっぱり真央もアスリートタイプなんだな、と思いました。私もやはり、試合でしか得られない達成感や緊張感が恋しくて、一度は現役復帰しましたから。

でも、やはり身体は限界に来ていたのでしょう。20歳を超えると、トップ選手はみんな怪我との戦いです。とくにトリプルアクセルだけはどうしても決めたいでしょう? そうなると、若いときの倍以上の練習量が必要になる。でも練習量を増やすと腰や膝を痛めてしまう。真央が、左膝や腰の痛みをこらえてギリギリまで練習していたのは、言われなくてもわかります」



復帰後、次々とトリプルアクセルを成功させた浅田は、完全復活を印象づけた。

「『やり切った』と思えるまでやることが、私のスケート人生だと思って、ここに戻ってきました」

平昌オリンピックへの期待が高まった。

「オリンピックという最高の舞台に、もう一度行きたい。それが私の最終目標であり、夢です。だから、正夢になればもっといいですね」



しかし、左膝には相当な負荷がたまっていた。

代名詞たるトリプルアクセルは、その踏切で左膝を大きくすり減らす。疲労による痛みは、練習量を減らすしか癒せない。しかし、練習量を減らすと技の精度が落ちてしまう。

成績は次第に、ずるずると落ちていった。



〜Number誌〜

2016年12月の全日本選手権。

ショートではトリプルアクセルが1回転半になり、フリーでは転倒した。挑戦できたことに、浅田は納得していた。キス&クライで得点を待つ。12位の順位が表示された。

「ああ、もう、いいんじゃないかな」

悩んだ末の2017年4月10日、恩師の山田満知子と佐藤信夫に決意を報告すると、その夜、自身のブログで引退を発表した。


浅田真央の登場以前、フィギュアの採点方式は6点満点だった。選手の格や過去の業績というものが少なからず採点に影響を与えており、名のある選手は「下駄を履かせてもらえる」ということもあった。

だが、現在の加点式の採点方法は、ずっと実力主義の傾向が強い。若手でも無名でも、技を決めた選手が勝つ。15歳だった浅田真央がいきなり世界一になれた背景には、この新採点方式があった。

だが、この採点方式では、たとえトップ選手であろうと、ミスをすれば容赦なく減点されてしまう。この強烈な下克上のなか、浅田真央を10年以上も世界のトップとして戦いつづけてきたのである。




2017年4月12日
引退記者会見

白いブラウスに白いジャケット。
約50分間の質疑応答。



Q、一番印象にのこる演技は?

A、「やっぱりソチのフリーかな」



Q、生まれ変わったら?

A、「スケートの道はないかと思います」

この答えに、鈴木明子はほっとした。彼女は言う、「そう思えるところまで、悔いがないところまでやれた、オリンピックの金メダルはなかったとしても、それ以上のものが手に入ったんだろうな。と感じました」



会見の最後、涙がこぼれそうになった。

浅田は後ろを向いて涙をふくと、ふたたび笑顔で振りむいた。



伊藤みどりは言う。

「真央の引退会見はテレビで観ました。『笑顔でよかったなあ』とホッとしましたよ。とても清々しい表情でしたね。最後の涙を隠す姿をみて、『なんて良い子なんだ』と思いました。応援してくれた皆さんに心配をかけたくない、そんな真央の奥ゆかしい立ち振る舞いが、本当に可愛らしくて…」



「トリプルアクセルが跳びたい!」

その一心で無邪気に跳びつづけた少女は、何度も世界の頂点に立った。

どんな強い風が吹こうとも、凛として咲きつづけた。



伊藤みどりは言う。

「真央は本当に魅力的なスケーターでした。とにかく華がある。30m × 60mの氷の上にあらわれると、真っ白な草原にお花が咲いたような感じでした。

引退は悲しくないことです。だってスケートの幸せはまだ続くのですから。

真央ちゃん、引退おめでとう」



浅田真央の21年間の選手人生は、

ここに幕をとじた。



(了)





出典:Number5/5特別増刊号「永久保存版 浅田真央 ON THE ICE 1995‐2017」
Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー)



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2016年8月30日火曜日

王道と新風、2つの金メダル [柔道、大野将平・ベイカー茉秋]



ロンドン五輪(2012)

日本柔道の男子は、まさかの「金なし」

「惨敗」「不振」と、強い批判をあびた。



”ロンドン五輪を思い出す。

初日、平岡拓晃が銀メダルを獲得した。

すると「金メダルではなかったこと」に失望し、当時の首脳陣は表彰式をみることもなく、選手を置いて会場を後にした(『Number誌』)”









あれから4年、

日本柔道界、悲願の「金」。



ブラジル、リオ五輪でその重責を誰よりも強く背負ったのは、

大野将平
おおの・しょうへい

だった。



”その実力がこの階級(男子73kg級)で抜きん出ているのは、誰の目にも明らかだった。柔道関係者やメディアからは、

「優勝候補筆頭」

と期待が集まった。



大野もそれを意識していた。

「皆さまや周囲からは、『勝って当たり前』といった声も聞こえていました」


周囲の視線だけではない。日本代表男子監督の井上康生にも、期待を寄せられていた。日本代表が決まったあと、井上は言い続けてきた。

「大野はオリンピックで金メダルに最も近い一人です」

井上監督は意図を説明する。

「あえて言い続けてきた部分がありました。彼はそれをエネルギーにして、最高のパフォーマンスをしてくれると想定していたところがありました」

大野が金メダルを獲ることは、半ば「宿命」づけられていた(『Number誌』)”






さあ、金メダルを宿命づけられた大野将平。



”そのために大野が掲げたテーマは

「圧倒的な差をつけること」

金メダルを必ず手にするには、「心技体すべての面で世界中のどの選手よりも上回らなければならない」と心に決め、練習に励み、時間を送ってきた(『Number誌』)。”






2016年8月

ブラジル、リオデジャネイロ五輪

いよいよ大野将平が登場した。



初戦となった2回戦

畳にあがると、大野は深々と長い一礼をし、はじめてのオリンピックの舞台に敬意を表した。

相手はミゲル・ムリーリョ(コスタリカ)。試合中盤、大野は足払いでムリーリョを倒すと寝技へ。横四方固めで、そのまま一本。



つづく3回戦

ビクトル・スクボルトフ(アラブ首長国連邦)を、内股で美しく投げ飛ばした。華麗なる一本。まさに「美しき柔道」。



準々決勝

対するはロンドン五輪金メダリスト、ラシャ・シャフダトゥアシビリ(ジョージア)。

大野は腰車で技ありを奪うと、そのまま優勢勝ち。






準決勝

ディルク・ファンティシェル(ベルギー)

大野は巴投げで技あり、そしてまたも巴投げで胸のすくような一本勝ちを決めた。



”しっかり組んで、きれいな投げ技を披露する大野は、場内の各国の観客をひきつけ、登場するたびに歓声をあびた(『Number誌』)”



決勝戦

ルスタム・オルジョフ(アゼルバイジャン)

まずは内股で技あり、そして小内巻き込みで一本。

大野は全試合まったく危なげなく、そして美しく、金メダルへとたどり着いた。







”「これぞ日本の柔道」

そう叫びたくなるほどに、立ち技を中心に、73kg級の大野将平は「圧倒的な強さ」を見せつけた。

圧倒的な勝者は、しかし、決勝戦が終わった直後も、表彰式でも、ニコリともすることがなかった。表情を一切変えずにいた(『Number誌』)”



”大野将平選手は、決勝での見事な一本勝ちにもかかわらず、相手との礼を終え、畳を降りるまで表情を緩ませなかった。

清く正しく美しく。

敗れた相手をも慮る、という「礼」の精神だ(『Number誌』)”



礼をつくした大野は言う。

「相手を敬おうと思っていました。冷静に、きれいな礼もできたのではないかと思います。(オリンピックは)日本の心を見せられる場でもあるので、よく気持ちを抑えられたと思います」



抑えた気持ちは、井上監督からこう声をかけられたときに堰をきった。

「よくプレッシャーに耐えてくれた」

大野の両頬にあふれた涙は、とどまるところを知らなかった。



大野は言う。

「達成感より、安心感の方が強いです。当たり前のことを当たり前にやる難しさを感じました」



”大野にとって、必ず手にしなければいけない金メダルであった。

宿命づけられた、いわば「金メダルを守らなければならない」重圧から解放された瞬間であった(『Number誌』)”









大野将平、金メダルの翌々日

大野とはまったく対照的な男が、もう一つの金メダルを日本柔道にもたらした。

ベイカー茉秋
べいかー・ましゅー


”対照的な二人が、日本柔道界の悲願をかなえた。

一本勝ちで勝負をきめ、静かな礼で締めた大野。

人差し指を天にかかげ、喜びを爆発させたベイカー。

90kg級で日本男子2個目の金メダルをもたらした若き柔道家は、あらゆる面で異彩をはなった (『Number誌』)”







”決勝のリパルテリアニア戦では2分17秒、ベイカーは大内刈りで有効をうばう。

ここから意外な展開をみせる。

ベイカーは攻めに出ることなく、逃げ切りを図ったのだ。最後まで攻めに行くのをよしとするのが日本の柔道である。その点でも異質であった。その消極的な姿勢によりベイカーは2度、指導をうけたが、目論見どおり試合は終了。

金メダルが決まった瞬間、両手の人差し指を天に高々と突き出し、喜びを露わにした。



「金と銀では全然ちがいますから」

逃げ切りを図った理由を、ニコリと説明する。



決勝後の人差し指を突き上げるポーズを尋ねられれば、逆に聞き返した。

「かっこ良かったですか?」

そのあけっぴろげな明るさもまた、異彩をはなっていた (『Number誌』)”







”世界のJUDO選手たちは、勝った瞬間に感情を炸裂させる。主審の制止もよそに、リードを食いちぎった雄犬のように場外に駆け出し、吠え散らす。

いや、他の種目では皆やることだ。レスリングなら日本人も遠慮なくリングを駆け回る。むしろそんな喜びの爆発こそが、ここまでの苦しみの証明のようでもあり、観る者の心も揺さぶる。

ただ、柔道が唯一ほかと違うのは、勝利にまつわる美意識に、日本と外国とでは大きな隔たりがあることだ。

男子100kg超級の決勝で2連覇をはたしたフランスのリネール選手は、原沢久喜選手との組み合いをひたすら避けて指導一つ差で逃げ切ったが、勝負を終えるや両手を上げての大喜び。消極的な結末に会場でもブーインが起こったが、ルールの範囲で勝ったのに、はてここまで「卑怯」と評されるスポーツも他にないのではと私はぼんやり思った(『Number誌』)”






井上監督はベイカー茉秋を「新種の選手」と評し、その力を抜擢した。

”大野は伝統を守るために戦い、金メダルをつかんだ。

ベイカーは今回の代表7名のうちで最年少。失うものは少く、臆することなく金メダルをつかんだ。

両者の築きあげてきた柔道スタイルは、正統派のド真ん中と異端。

抑制された感情と、どこまでも突き抜けた明るさ。

あらゆる面で真逆の二人であった(『Number誌』)”



井上監督は「金メダルでなかれば意味がない」とは言わなかった。

むしろ、銅メダルにとどまった海老沼匡選手にも

「胸を張れ」

と、その労をねぎらった。



”髙藤直寿は言った。

「純粋に胸をはり、銅メダルをかけて帰ろうと受け止めています」

偽りの言葉でないことは、表彰式の笑顔が物語っていた。金メダルでなければ頭を垂れるのが常であったこれまでの選手たちの姿とは、明らかに異なっていた。

その結果が、52年ぶりの全階級メダル獲得であった(『Number誌』)”






(了)








出典:
Number9/9特別増刊号 五輪総力特集「熱狂のリオ」
大野将平・ベイカー茉秋「正統と異端」



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2016年8月29日月曜日

「やめたい」から金メダルへ [競泳・金藤理絵]



競泳選手

金藤理絵
かねとう・りえ


2008年(19歳)、北京オリンピック、女子平泳ぎ200mで7位入賞。

2009年(20歳)、日本記録をマーク。

しかし、

2012年(23歳)、ロンドン五輪はまさかの落選。腰のヘルニアが、痛くひびいていた。



「あのときは地獄のようでした」

そう語るのは、金藤理絵のコーチ、加藤健志(かとう・つよし)の妻、愛さん。

「選考会の応援に行った帰りの電車の中で私もボロボロ泣きながら、主人にも金藤さんにも声をかけられなかったんです。試合が終わった後、会場で応援団に理絵ちゃんが申し訳なさそうに頭を下げているのを見て、本当に辛かった。主人も自分のせいだと落ち込んで、コーチをやめようかと言うほど、ずいぶん悩んでいました」



金藤不在のロンドン五輪では、後輩たちが華々しい活躍を見せていた。

”後輩たちが自分を追い越していく…”

金藤は心中、穏やかではいられなかった。

”いったいどうして、自分は泳いでいるんだろう…?”



松岡修造は言う。

「彼女(金藤理絵)は、インタビューをするのが苦しくなるくらい、ネガディブな発言をする人でした」



マイナスへ、マイナスへ。

金藤の心は、深く深くしずんでいった。

「いつも『やめたい』、『やめたい』と思っていました」

と金藤は当時を振り返る。



それでも、金藤は水泳をやめなかった。

というよりも、やめさせてもらえなかった。スパルタコーチ、加藤健志が頑として彼女の引退を受け入れなかったのだ。

金藤は言う。

「わたしが何回『やめたい』といっても、加藤コーチが絶対に辞めさせてくれませんでした。『なんでこの人は分かってくれないんだろう』と思っていましたが、1を言うと100にして返してくる人なので、かなわなかったです(笑)」



金藤はマイナスの心をひきずったまま、競泳界に残りつづけた。日本代表には毎年のように選ばれた。しかし、タイムと結果はまったくついてこなかった。

2015年の世界選手権、金藤は女子平泳ぎ200mで6位に終わった。レースに敗れたあと、金藤は涙がとまらなかった。

「情けないよ…。レースの前から、さじを投げていたというか…。今後、どうやって泳いでいけばいいか、わからない…」



応援していた人々も、金藤の泳ぎに失望した。まるで闘争心が感じられない、その泳ぎに。

「全力で泳いだのかっ!」

その苦言に、金藤はハッと目が覚めた。

金藤は言う。

「応援してくださっている方たちに、そんなことを言わせてしまった。本当に申し訳ない。もし私がここで引退したら、記憶にのこる最後のレースはこんな消極的な、やる気のないレースになってしまう」

金藤はつづける。

「レース前は、いつも駄目だったときのことを考えてしまって、すごい緊張や不安ばかりだったんです。調子が良くても『普通です』とこたえ、結果が出なかったときのために、はじめから保険をかけてしまっていたんです」



金藤理絵が大きく変わったのは、それからだ。

『やめたい』虫はどこへやら、一心不乱、なりふりかまわぬ猛練習がはじまった。一日、じつに2万メートルを泳ぎこんだ。普通の選手の2〜3倍もの過酷な練習量だった。腰のヘルニアなど、かまっていられなかった。

「もう逃げるわけにはいきませんでした」






結果はほどなく現れた。

”今年(2016)の2月、オーストラリアでおこなわれた3ヶ国対抗戦で、自身がもつ日本記録を7年ぶりに更新。4月の日本選手権では、2分19秒65とさらに記録をのばし、リオ五輪代表に選ばれた(『Number誌』)”

シーズンタイムは世界ランキング堂々1位。

「いい意味で、『昔の理絵』とは全然ちがう」と、周囲はおどろきを禁じえない。



「オリンピックの舞台では、ありのままの自分で、がんばりたいと思います」

なんという力強い宣言だろう。かつてのネガティブな発言は、すっかり霧散していた。

金藤は日本競泳陣で「もっとも金メダルに近い」といわれ、ブラジルへ飛んだ。





金藤にとって最大のライバルと目されていたのは、ロシアのユリア・エフィモア(Y. Efimova)。一時はドーピング問題で出場禁止処分を受けたが、レースの数日前、急遽参加が認められていた。

この、出ないと思っていたライバルが急転、出場することになっても、金藤は動ずることも臆することもなかった。積みに積んできた練習の山が、金藤の心をしっかりと支えていた。

金藤は言う。

「相手は命がけかもしれない。でも、自分も命がけで取り組んできたんです」



2016年8月11日

ブラジル、リオデジャネイロ五輪

競泳女子、平泳ぎ200m決勝



スタート前、解説者は言う。

「準決勝でも、”後半の強さ”はみられていましたから大丈夫です。だからこそ、前半は守りに入らないことです。とくに100〜150mのこの50mですね、あわてずに、ひとかきが小さくならないように、金藤選手らしい”大きな泳ぎ”で、つなげてほしいです」



失意のロンドン五輪落選後、金藤は加藤コーチとともに「改革」に取り組んできた。

加藤コーチは言う。

「前半から攻める。前半からいける泳ぎをつくる」

金藤の筋肉には、乳酸をためこまないという特異な体質がある。それはすなわち、激しい動きを誰よりも持続できるということを意味する。

金藤は言う。

「『後半どうなってもいいや』という気持ちで、『前半速く』だけを意識していこうと思っています」

得意の後半に頼らない。前半から殻をやぶっていく。それが金藤の新たな戦い方だった。

オリンピック決勝の舞台、隣レーンのマッキーヨン(Mackeown, オーストラリア)は、金藤にとっては幸い、前半先行型。つまり、前半、マッキーヨンについていければ、後半、金藤は逃げきれることになる。



黒のキャップに日の丸。

5レーン、金藤理絵。

電子音とともにスタートをきった。



解説者は言う。

「金藤選手らしい、大きい泳ぎができていますよ。大丈夫ですよ」

50mの折り返し、金藤は3位。

8選手ともほとんど差がない、横一線。

「まずまずですね」と解説者。



隣5レーン、前半先行型のマッキーヨンが、100mのターンで首位にたつ。

そのマキーヨンに、金藤は0.27秒遅れで食らいつく。

「非常にいいですよ」

と解説者が言い終わらぬうちに、ついに金藤、頭ひとつ抜け出し先頭にたつ。そして、勝負の後半100mへと突入していった。



後半に入るや、前半おさえぎみだったロシアのエフィモアが猛然、追い上げてきた。

「エフィモア、要注意!」

最後のターン(150m)

1位 金藤理絵
2位 エフィモア( + 0.32秒)
3位 ペダーセン( + 0.72秒)

黒のキャップの日の丸を、ロシアのエフィモア、そして世界記録保持者のペダーセン(デンマーク)が猛追する。

レース後の金藤は、その戦況をこう語る。

「150mのターンで両側を確認して、ちょっと出ているのがわかって、一瞬『これは行ける』と思ったところはありました。でも『ここで油断してはいけない』と思って、ラスト50mは無心で泳ぎました」



ラスト50m

「金藤が先頭!」

ラスト25m

「世界一の練習をしてきました!」

ラスト15m

「金藤が逃げる! エフィモアがあがってくる!」

ラスト10m

「金藤、まだリードしている!」

ラスト5m

「金メダルが見えた!」



「やったー!!」

「ついに! ついに掴んだ金藤! 金メダルぅ!」

この種目を日本人が制するのは、バルセロナの岩崎恭子以来、じつに24年ぶりの快挙であった。







同時刻、地球の裏側、広島県で大歓声がおこった。

金藤理絵の郷里、広島・庄原市のパブリックビューイングが喜びに泣いた!

姉・由紀さんも、白いハンカチで目頭をおさえる。



思えば、姉・由紀さんの結婚式で流されたビデオレターが、金藤理絵を引退の瀬戸際から引き戻したのであった。

”泣きたい時は、思いきり泣けばいい”

そのビデオメッセージは、姉から妹への贈り物だった。

”お母さんがあなたの記事を切り抜きしていたファイルは8冊目になりました。一番最初は2000年8月、13年前、11歳のときから。たくさんの切り抜きやトロフィー、記念品がならんでいます”

金藤理絵が水泳をはじめたのは3歳。姉に追いつきたい、その一心からだった。

”理絵が頑張ってることで、たくさんの人が勇気をもらってる。なによりも両親が嬉しそうに大会にでかけていくことが、とても嬉しかったよ”



”そんなあなたに、人生の金メダルを贈ります”

姉が妹におくった「手づくりの金メダル」。その裏には、こう記されていた。

理絵ちゃんへ。
上には上がいる。
それでもきっと上を向く。
ひまわりのように、
いつも見守っています。



コーチ加藤健志の妻、愛さんも日本で泣いていた。

「金メダルが決まった瞬間、私といちばん上の子はもう号泣でしたね」

金藤には、こんなメッセージを送った。

「10年間、主人を信じてついて来てくれて、ありがとう」



ロンドン五輪を逃し、一時は現役引退も考えた。

だが、踏みとどまった。

加藤コーチ、そして家族の力で。



そして、つかんだ世界大会はじめてのメダル。

それがオリンピックという大きな金メダルだった。



「強かった」

スタートからついていき、持ち味の後半の強みを活かした泳ぎは、その一言で表せるほど、堂々としていた。… でも、一年前までは、今のような姿を想像することはできなかった。

「『変わった』と言ってもらえると、うれしいですね」

金藤はにこっと笑う(『Number誌』)






(了)








出典:
Number9/9特別増刊号
五輪総力特集「熱狂のリオ」
金藤理絵「変われることを信じて」



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2015年2月4日水曜日

高橋大輔の歩んできた道のり [フィギュア]



「岡山からモノすごく上手い人が来てる!」

まだ小学生だった織田信成は驚いた。

週末になると岡山から大阪へと来ていたその少年は「高橋大輔」。織田よりも一つ年上だった。



当時のことを織田は振り返る。

「リンクを使って伸びやかに踊る大ちゃんの曲かけ練習を、みんなで端っこに集まって見ていたこともあります。大ちゃんの凄さは、スケートで曲を表現するというよりも、むしろ”曲と一緒に滑っている”ということ。選手はそれぞれジャンプを跳ぶときに自分のタイミングがありますが、大ちゃんは曲に合わせて、ここは早く助走に入るとか、別の場所ではゆっくり曲を待ちながら助走をするとか、タイミングを自由自在に操って、すんなりとジャンプを跳ぶことができるんです」

3回転や4回転という難しいジャンプになればなるほど、選手は”自分のタイミング”で跳びたくなるというが、高橋はあくまでも曲が先にあったという。

織田はつづける。

「大ちゃんはいつも曲をしっかり聞き、曲に合わせて跳んでいる。彼の中にはまず曲があり、そこからジャンプが生まれてくるんだと思います。だから、ジャンプが演技にマッチしてなめらかに滑ることができるんです。僕なんて、曲を聞かずにジャンプを跳んでいましたからね(笑)」



織田が高橋について思い出すとき、お互いが10代だったことが頭に浮かぶという。

「お互いにドキドキしながら少しずつ話をしたりしたこと、懐かしいです。大ちゃんは先輩ですが、いつも優して、ご飯を食べに行ったり仲良くしてもらいました」










■ 怪我



鋭い感性

豊かな表現力

世界一と言われたステップ



そうした持ち味を武器に、高橋大輔は世界の階段を駆け上がった。

そしていよいよ、オリンピックでのメダルが視野に入ってきた。

だが、その矢先(2008年10月)、練習でトリプルアクセルを跳んだ高橋は、無理な体勢で踏ん張ってしまい”右ヒザ”を怪我してしまった。



トレーナーだった渡部文緒は言う。

「その日、長光歌子コーチからの電話でケガを知り、大輔とも話をしました。その時点で大輔は、間近に迫っていた中国GPは欠場になっても、11月末のNHK杯には復帰できると考えていたようです」

ところが検査の結果はもっと残酷だった。

”前十字靭帯と半月板の損傷で手術が必要”

渡部は言う。「右足は大輔がジャンプを着氷する足でした。このケガは、手術をしなくても真っ直ぐ走る状態までは治すことはできますが、切り返したり踏ん張ったりするためには、手術をするしかない。氷上への復帰まではおそらく6ヶ月。以前のコンディションに戻るまでにはどのくらいの時間が必要か、その時は私にもわかりませんでした」



手術は12月の中旬に終えた。

そして始まったリハビリ。地味にコツコツ、決まった時間に決まったメニューを繰り返さなければならない。いつものメリハリのある練習とは違い、気の滅入る毎日だった。高橋の表情は、相当行き詰まっているように見えたという。

「そしてある日突然、大輔と連絡が取れなくなりました。リハビリの予約時間に現れず、家にも帰ってこない」と渡部。極度の心配がつのりながらも、とにかく待つことにした。

「長光コーチとも話し合い、『とにかく信じるしかない。帰ってきたら叱るのではなく、受け入れよう』と。子どもの時から大人に囲まれ、なかなか自分の意見が伝わらなかった大輔にとって、こうした葛藤も必要だと思っていたからです」



そして2週間後、高橋はふらりと戻ってきた。

渡部は言う。

「『もう逃亡するなよ』と冗談にできるまでは、しばらく時間がかかりました(笑)」










■ 復帰



ケガの後、はじめて氷に乗ったのは2009年の4月。

バンクーバー五輪まで、あと10ヶ月という時だった。



渡部は言う。

「ジャンプの許可がでたのが6月。ところがシングル・ジャンプすら転倒してしまいます。フィギュア独特の、加速してひねりながら跳ぶという動きに体がついていかないのです。跳べる身体ではあったのですが、怖がりの大輔は跳ぶことへの怖さから腰が引けてしまい、転ぶことの繰り返し」

渡部は「2回転くらいはスムーズに跳べるだろう」と予想していたが、それは完全に裏切られた。こんな状態で、3回転や4回転など跳べるようになるのだろうか? 不安は募る一方、オリンピックは近づくばかりであった。



そして迎えた復帰戦

2009年10月フィンランディア杯

渡部は言う。「転倒はあったものの、優勝することができました。”人前でまとまったものを滑れるようになったな”と私がホッとできたのは、この時です。五輪まであと4ヶ月。あとは大輔やスタッフみんなで『必ずできる』と信じ切って進むしかありませんでした」










■ バンクーバー



目標は「オリンピックの金」

ケガをしようが、それは変わらなかった。



しかし、結果は銅メダル。

それでも日本男子フィギュア初の快挙であった。



渡部は言う。

「フィギュアスケートで日本男子初となるメダルはもちろん嬉しかったですが、終わった瞬間、会場で感じたのは悔しさでした。あんなに練習してきた4回転も失敗してしまいましたから。でも、あの怪我の術後1年あまりで銅メダルをとるなんて、奇跡としか言えません」



バンクーバーでの悔しさは、同年3月のトリノ世界選手権へと向けられた。

”日本人男子初の世界王者”

そのタイトルを高橋大輔は手に入れたのだった。










■ 引退



現役生活は20年にまで及んでいた。

その間、出場したオリンピックは3回。



2014年10月

高橋大輔は引退を宣言した。



その会見の席上、高橋は言った。

「バンクーバーの表彰台の景色は、今でもすぐに思い出せます。旗が上がっていく…、国家は流れなかったけど、旗が上がっていくところは鮮明に覚えています。バンクーバーでは怪我があったからこそメダルが獲れたし、自分を見つめ直して体をつくろうと思えた。ケガは大きなチャンスになります。諦めずにその大変さを楽しめば、その経験は自分のものになって、自分の幅を広げることができますから」



現役最後の演技となったソチ五輪。

フリーの曲は「ビートルズ・メドレー」

高橋は言う。「終盤の”ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(The Long and Winding Road)”は、いつも暖かい気持ちで滑っていました。あのメドレーに出会えて、現役生活最後があの曲で良かったと思っています。(振付師の)ローリー・ニコルからは”感謝”というテーマをもらいましたが、僕自身、いつもそういう気持ちを持っていたので、ファンの方々に伝えることができてありがたかったです」






♩ The Long and Winding Road ♩

うねりながら、どこまでもつづいていく道のり

高橋大輔が必死に拓いた道のりに、いまや多くの若手たちが続いている。



最後に、織田信成はこうねぎらった。

「大ちゃんは誰よりも日本を背負って立つ意識も強かっただろうし、”自分が頑張らなければ”というプレッシャーもあったはず。ちょっとスケートから離れたいというのも聞いていたので、今はとにかくゆっくり休んでほしい。でも、休んだ後はスケートリンクに戻ってきてほしい。大ちゃんにしかできない、大ちゃんのスケートを楽しみに待っているファンも大勢いますから!」











(了)






ソース:Number(ナンバー)867号 Face of 2014 写真で振り返る2014年総集編 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
高橋大輔「The Long and Winding Road」



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