2013年8月29日木曜日

ドイツ・サッカーと、日本



日本で初めてサッカーW杯がライブ中継されたのは、今から約40年前の1974年、西ドイツ大会であった。

その決勝カードは「西ドイツ vs オランダ」。結果は、西ドイツが母国で栄光のトロフィーを掲げることとなる。



「当時を知る私にとって、近年におけるドイツ・サッカーの成功は決して『再興』ではありません」

そう語るのは、決勝戦の実況を担当した「金子勝彦(かねこ・かつひこ)」氏。

「サッカー界におけるドイツの時代は、むしろ1954年から半世紀以上もずっと続いている、と言っていいでしょう」

金子氏の言う1954年という年は、ドイツが初めて世界の頂点に君臨した年である(W杯スイス大会)。その時、西ドイツは決勝で、当時最強と謳われていたハンガリーを破った。

「この大会を機に始まった『ドイツの時代』は、以後、一度も凋落することなく今に至ったと言えるでしょう」



ちなみにそのW杯スイス大会の予選、日本は韓国に負けている。そして、その韓国はハンガリーに「0 - 9」と大敗。そのハンガリーをドイツは決勝で打ち負かしたのだった。

「韓国よりも遥かに上をいくドイツの強さなんて、想像すらできなかった」と、かつて日本代表だった「川淵三郎(かわぶち・さぶろう)」氏は振り返る。「当時はまだ、世界のサッカーが自分たちの住む世界とは全く別のところにあるという感覚だったからね」



サッカーW杯の歴史において、ドイツは優勝3回、準優勝4回、3位3回を誇る(西ドイツ時代を含む)。

Number誌「'66年イングランド大会は”疑惑のゴール”に屈したものの、ドイツは準優勝。自国開催の'74年大会は優勝、さらに'80年代は2大会連続で準優勝に輝き、'90年イタリア大会はマラドーナ(アルゼンチン)を打ち破って再び世界の頂点に君臨。'00年代は”不振の時代”と言われながらも、'02年大会は準優勝、'06年大会は3位と結果は十分」

そうした安定的なドイツと比較すれば、順を追って訪れたイタリア、スペイン、イングランドの隆盛は「長い流れの中のアクセント」に過ぎないようにも見える。ブラジルは'70年メキシコ大会をペレとともに制してから、'94年夏、灼熱のパサデナ(アメリカ)でトロフィーを掲げるまで実に四半世紀もの長い間、表舞台から姿を消していた。

「やはりドイツ・サッカーは再興したのではなく、約50年間もトップに君臨し続ける唯一の存在なのです」と金子氏は自信をもって語る。






ドイツが世界を制する原動力は、第二次世界大戦による敗戦だった、と金子氏はみている。

「戦後のサッカー・クロニクル(年代記)を紐解くと、その源流は『敗戦国』のレッテルをサッカーの舞台で剥がそうとする西ドイツにあります」

同じ敗戦国だった日本は、そのドイツを手本とすることとなる。Jリーグの生みの親となる川淵三郎氏は、1960年、日本代表の一員としてドイツを初めて訪れている。

「あの欧州遠征以来、毎年のようにドイツに遠征していた僕らにとって、ドイツのサッカーは唯一の教科書だった」と川淵氏は当時を振り返る。遠征中は毎晩のように16mmフィルムを見て、サッカーの基本技術が'54年W杯でどのように使われていたかを学んだという。








「そう言えば、かつてブラジル人がドイツ人のサッカーを『ギブス』と揶揄したことがあった(笑)。つまり、足にギブスを巻いているんじゃないかというくらい、彼らの動きには”しなやかさ”がなかったということなんだ(川淵三郎)」

それでも、ドイツには「ゲルマン魂」があった。逆境を次々と跳ね返す「圧倒的な精神力」があった。

かつて川淵氏は、ドイツ・チームとの練習試合でコテンパンにされた後、「日本人には『大和魂』があると聞いていたが、君たちにはないのか?」と言われたことがあったという。その言葉を言い放ったのは、のちに日本代表コーチとして西ドイツから派遣されることになる「デットマール・クラマー」だった。



漫画「キャプテン翼」の作者である高橋陽一氏は、こう語る。

「日本とドイツのサッカーはクラマーさん以来の縁で繋がっていて、どちらも組織的なプレーやチームワークを重んじる。ゲルマン魂と大和魂はよく比較されましたしね。勤勉さや真面目さを重んじる国民性も似ていると言われます」

川淵三郎は「Jリーグの開幕にあたって、僕は最初からドイツのブンデスリーガをお手本とすることを決めていたんですよ」と話す。「というのも、ヨーロッパの中でも最後のほうにプロリーグを立ち上げたドイツのルールは、どの国よりも整備されていると思い込んでいたからね」

ちなみに、かつて日本の歴史が江戸から明治に変わった時、新国家の手本としたのは、やはりドイツであった。そしてその理由も、ドイツがヨーロッパでは新しい国家であったからだった。








「サッカーはある種の学問であり、ドイツ人はこれを学ぶ能力に長けている」と、金子勝彦氏は語る。「しかも彼らは、とても勉強熱心で身体能力も十分。つまり、サッカーというスポーツで名選手や名将を生み出す素地があるのです」

さらに、高橋陽一氏はドイツのブンデスリーガをこう評する。

「リーガ・エスパニョーラ(スペイン)やセリエ(イタリア)の場合は、ともすれば日本人が色眼鏡で見られてしまうきらいが残っていますが、ブンデスリーガ(ドイツ)は、選手の実力をきちんと評価してくれる傾向が強い」



かつて日本に海外サッカーの情報があまり入って来なかった時代、ドイツのブンデスリーガの情報だけは日本に伝わりやすかった。それは、奥寺康彦や尾崎加寿夫などの日本人選手がブンデスリーガでプレーしていたからだった。

「奥寺さんや尾崎さんは、何もないところから身体一つでドイツに渡り、第一線で活躍していました」と、実際のドイツに漫画取材に行った高橋陽一氏は話す。

「後には風間八宏さんもブンデスリーガでプレーしますが、日本人選手が海外で本格的にプレーするようになった最初の国がドイツだったというのは、意外な相性の良さも関係しているような気がします」






日本初となったプロリーグ「Jリーグ」が発足してから20年、日本代表は急成長を遂げ、W杯出場国としての地位を築くまでに至った。

Jリーグを生んだ川淵三郎氏は、「ドイツのサッカーは、日本のサッカーそのものを大きく変えたと言っていいだろうね」と感慨を込めて語る。

「こんなに多くの日本人選手がブンデスリーガでプレーするなんて信じられないよ」

清武弘嗣(ニュルンベルク)、乾貴士(フランクフルト)、内田篤人(シャルケ)、酒井高徳(シュツットガルト)、長谷部誠(ヴォルフスブルク)、細貝萌(レバークーゼン)…。香川真司はドイツからイングランド・プレミアリーグへと雄飛した。



最後に、金子勝彦氏はこう締める。

「ドイツの時代は、これからも続くでしょう。1年後に迫った'14年ブラジルW杯、私はこの大会で、新たなサイクルに突入しつつあるドイツの新時代が幕を開ける気がします」



サッカーにおけるドイツの時代は、浮沈はあれど紛れもない。

そして日本も、その歩みは確かなものとなりつつある。日本にとっての幸運は、世界のどの国よりもドイツに認められていることかもしれない。

なにせそれは、世界一への道なのだから。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/5号 [雑誌]
「ドイツがサッカーを日本に教えてくれた 川淵三郎」
「No.1は常にドイツだと思っています 金子勝彦」
「シュナイダー誕生秘話 高橋陽一」

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