2015年8月31日月曜日

「100mはショーで、200mはアートだ」 [ウサイン・ボルト]



最初の衝撃は、2008年の北京オリンピックだった。

その時のボルトは、左スパイクの紐がほどけポイントを一つ失ったにもかかわらず、9秒69という世界記録を樹立した。

ボルトは言う。

「僕よりも他の選手たちが迷惑で大変だったかもしれないが …、まぁいい。あの出来事は、走っているときの僕は何も気にならないことの証明であるわけだ。ただ速く走ることしか頭の中にはない。そして勝つこと。完全に研ぎ澄まされているときは、身体のことなど何も気にならないし、集中力をなくすことのほうが難しい。何年もかけて僕は自分に自信がもてるようになったし、自分をよく把握するに至った」

この北京オリンピックの100m決勝、ボルトは最後を流したうえに、2位に0.20秒というオリンピック史上最大差をつけた。






子供時代のボルトは、父の影響を受けた。

「情熱は父親ゆずりなんだ。彼はクリケットが大好きで、すべての試合を見ていた。僕も6歳で父のウィルスに感染した。一緒にテレビを見て、ある試合でテレビで覚えたやり方でプレーしてみたんだ。僕が最年少だったから、みんな驚いていたよ。父は僕に一切のプレッシャーをかけなかった。陸上競技すらも、ジュニア世界陸上(2002、ボルト15歳)まではそれほど真剣ではなかった」



2004年、ボルトは17歳にしてジュニアの200m世界記録、19秒93を打ち立てる。

「周囲は練習の成果がでたと喜んだけど、僕はタイムが速すぎるし結果も早すぎると思っていた。スプリントの練習をしたことすらなかったからね。実際、その3週間後には怪我をして、シーズンが終わってしまった」

当時のコーチはフィッツ・コールマン。ボルトは自著『9.58』のなかで、筋力トレーニングのやり過ぎで自分が ”台無しにされた” と記している。

「現実の僕に何ができるかは一切考慮されず、まだ高校を出たばかりのジュニア選手に、一人前のプロ選手のトレーニングが課せられた。学校での僕は、全力を出し尽くす練習はしていなかった。生来の能力に頼って、適当に流していたんだ」


 


じつはボルト、陸上選手としては致命的な欠陥をかかえていた。背骨が湾曲していて左右の脚の長さが違ったのだ(脊柱側彎症)。

「2004年には真剣に引退を考えた。スピードトレーニングのたびに怪我してしまう。僕が側彎症(そくわんしょう)にどれだけ苦しんでいるか誰もわからなかったし、いくつかのメディアは僕はもう終わりだと報じた。僕自身も、彼らの言葉を信じはじめていた。グレン・ミルズにコーチを替えて、彼とある医者のところに行ったときに、はじめて希望がもてるようになった。その医者が適切な診断をして、腰と腹、背中のトレーニングメニューをつくってくれたんだ」

しかし、つづく翌年のヘルシンキ世界陸上、ボルトの評判は地に堕ちる。26秒27の最下位だった(ボルト18歳)。

「2005年のヘルシンキでは決勝まで進んだけど、股関節と脚を負傷して本来なら棄権すべきだったんだ。恐れをなしたとも、わざと負けるよう金銭を受け取ったとも言われた。スポーツは情け容赦のない世界だ。とりわけジャマイカでは、トップに立つ人間が転落する瞬間を待ち望んでいる」



そして2008年の北京オリンピック(ボルト21歳)、冒頭に記したとおり、ボルトは世界の頂点に立つ。

100m(9.69秒)
200m(19.30秒)
4×100mリレー(37.10秒)

三冠にして、すべて世界新記録という完全勝利だった。






ところが2011年(ボルト24歳)、ふたたび転落する。

韓国大邱(テグ)で開かれた世界陸上、ボルトは100mでDSQ、失格した。

「負傷で中断したシーズンの後に、大邱(テグ)の世界陸上に出場したときはちょっと不安だった。100mのフライングからは多くを学んだ。つねにリラックスすると同時に集中しなければならないこと、自分を見失ってはならないこと…。あの決勝はそうではなかった。誰もがよく知る、陽気でくつろいだ僕ではなかった。酷かったシーズンの汚名返上というプレッシャーを背負い、ふたたびピークに到達するために僕は戦いつづけねばならなかった。最高の舞台に到達したとき、すべてが同時に崩壊して僕は集中力を失った」



浮いては沈み、沈んでは浮く。

「必死で練習に取り組んだ。僕は若くして成功し、その後に困難なときを迎えた。その両方が、僕に自信を与えてくれた」

2012年のロンドン五輪では、ふたたび3冠(100m, 200m, 4×100mR)。モスクワでの世界陸上も3冠。不公平なほどに、ボルトは金メダルを首にかけた。

「マイケル・ジョーダンを見ればいい。超一流のアスリートであり、その世界で10年以上トップであり続けた。僕もそのうちの一人で、そこに不公平さは何もない。才能は誰にもある。とはいえ、他人よりも秀でた者がいるのも事実だ」

背中の障害(脊柱側彎症)に対して、ボルトはこう語る。

「神がうまく配慮したのだろう。背中の障害がなかったら、たぶん僕はこれほど速く走れなかった。脊柱に不安があったから努力したし身体を鍛えた。ものごとにはポジティブとネガティブの両面がある」





本来の彼は、”なまけ者”だという。

「家でゴロゴロしながらテレビを見ているよ。誰かが僕の代わりに仕事をしてくれるならば、喜んで代わってもらうね(笑)。ハードな練習の後はウダウダしたいし、ゆっくり休みたい。今は以前ほど怠けてはいない。相変わらずものぐさなのは認めるけど。(20年後は)自分のボロ家でくつろいでいるよ。3人の子供と妻といっしょに、沈んでいく夕陽を眺めている。そうありたいね」

コーチのミルズは、そんなボルトに厳しい。

「(禁欲生活は)シーズンの間じゅう求められるさ(爆笑)。できるものなら彼は、シーズンを通して僕にセックスを禁止するだろう(笑)」

ボルトは、”800m走れば死ぬ” と言っている。

「間違いなく死ぬな。2回ほど走ったけど、どうなったかといえば…。いや、僕には絶対に無理だ。あれを走れる人間を心から尊敬するよ。それからさらに距離が伸びていくわけだけど、まるで大気圏外に出るようなものさ。ときどき5,000mを見るけど、ほとんど病気としか思えない」





ボルトは語る。

「100mはショーでありドルだ。200mはアートでありテクニックであって、僕はこっちの方が好きだね。ミスする可能性も高いけど、スターティング・グリッドで滑ってもその後の走りで挽回できる。コーナーをうまく回れなくとも最後の直線で追いつける。とても複雑なんだ」

「とりわけ200mのコーナーワークに関しては、何年間ものトレーニングの集積だ。コーナーは僕の弱点で、克服のためモノ凄く努力した。ドン・クォーリーやマイケル・ジョーダンのビデオをよく見たし、クォーリーには直接質問をした。彼の説明はとても役に立った」






そして6度目となった世界陸上2015、北京大会。

レース前、ボルトはこう語っていた。

「(望むのは)伝説になること。すでに伝説だという人もいるけど、僕はそうは思っていない。今の僕は、先駆者たちが成し遂げたことを繰り返したにすぎない。金メダルを獲ること。世界記録を破ること。それを繰り返してこそ伝説になれるというのが僕の信条だ。僕は記録それ自体にこだわったことは一度もない。リオ五輪まで世界ナンバー1であり続けること。それこそが重要で、ほかは後からついていくる」



結果は、2大会連続の3冠(100m, 200m, 4×100mR)。

"ショー” である100mでは宿敵ガトリン(米国)を、0.01秒差で退けた(9秒79)。

「ここ何年かで、ガトリンが世界陸上に出場すれば必ず強敵になると思っていた。だから勝つためには、最高の走りをする以外ないとわかっていた。間違いなく、今までで一番難しいレースだった。今季は浮き沈みがあったし、良いタイミングでいろいろなことがうまくはまったという意味で、自分にとっては間違いなく、これまでで最高の勝利だ。僕は自分を疑っていないし、自分の力をわかっている。僕がやるべきことは良いレースをすることだ。完璧ではなかったが、良いレースはできた」

"アート” である200mでもガトリンに競り勝ち、大会4連覇(ベルリン、大邱、モスクワ、北京)。



余談ながら200m決勝後、ちょっとした事件が起こった。

セグウェイ(電動立ち乗り2輪車)の操作を誤った中国人カメラマンが転倒。乗り主を失ったセグウェイがボルトの脚を直撃。ボルトは後ろ向きにひっくり返った。

幸い怪我はなく、ボルトはこうおどけて見せてた。

「倒されちゃったよ。ガトリンによる復讐説を、これから広めようと思っている(笑)。でも大丈夫だ、心配ない」



このアクシデントに、ネット市民はこう反応した。

「ボルトを倒せるのは、あの男(カメラマン)だけだった」







 (了)






ソース:Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
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2015年8月28日金曜日

織田裕二、マイケル・ジョンソンを語る [世界陸上]



〜話:織田裕二〜



 18年間キャスターを務めさせてもらって、一番の記憶はマイケル・ジョンソン選手(米国)の400mです。開催地セビリアは、訪れてみると酷い暑さで夜でも気温が40℃近い状態。

「こんな場所で記録なんて出るわけない!」

と思っていました。事実、大会中はひとつも世界記録は出ていなかったんです。そんな中で、マイケル選手は大会前の「世界記録を出して引退」という公言を見事に達成しました。あれは鳥肌が立ちましたね。


 


 もっと驚いたのが、次の大会で彼がコーチとして来ていた時のこと。現役時代は派手なネックレスや金のスパイクを履いて目立っていたのに、地味なジャージに身を包んで佇んでいた。主役は選手で自分は裏方に徹するという意識を感じて「カッコいいな」と思いました。






ソース:Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
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2015年8月27日木曜日

本田圭佑と「三国志」 [サッカー]



本田圭佑が「三国志」の話題に触れた部分を、Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑より抜粋引用。





Number誌(以下、N):そもそも、経営者としての挑戦、野心のようなものは、いつ頃から本田選手のなかに芽生えたのですか。

本田圭佑「三国志、ですかね」

N:ほう。誰が一番好きなんですか?

本田「曹操孟徳です」

N:イメージとぴったりですね!

本田「そうですか? やっぱり影響を受けている部分があるのかな。幼少の頃から父親に教えられたこともあって、三国志が好きなんですよ。最初はマンガから入って、その後、活字で劉備が主役のもの、曹操が主役のものなどを含め、いくつか読みあさった。彼らトップの人間がそれぞれひとつの城を築いていく。そういったプロセスが好きでしたね。その頃の影響は確かにあるかもしれません。グループ、組織というものには子供のときから興味がありましたからね」






N:それでは、経営者で尊敬している人、本田さんが目標にしている方はいますか?

本田「たくさんいますよ。たとえば、どのあたりの人を聞きたいですか?」

N:誰もが想像するのは、一代でソフトバンクグループを築いた孫正義さんや、マイクロソフトを立ち上げ世の中を画期的に変えたビル・ゲイツとか…。

本田「間違いないです。(スティーブ)ジョブズもそうですよね」


 


N:なかでも本田さんが憧れて、目標とする人物がいたら教えていただきたいのですが。

本田「いま挙げていただいたような方々は尊敬していますし、日本でも尊敬している経営者はたくさんいますけど、極めて好きというような人ですか? …そうですね、曹操孟徳とでも言っておきましょうか」

N:やはり、そこですか。彼のどういうところが好きなのでしょうか?

本田「三国志って2千年ちかく前の話で、絶対にフィクションだろうという部分も多いじゃないですか。そんな強いわけないだろう! みたいな。でも、そのマンガチックな部分も含めた曹操孟徳の完璧具合ですよね。武将としても強いし、何よりもリーダーとしてカリスマ性がある。行動でも引っ張るし、背中でも口でも語る。総合的にバランスがよくて、本当にカッコいいとおもいます。もちろん、フィクションだよと言われればそれまでなんですが、夢があるわけですよ。僕が幼い頃から憧れた曹操の姿には、影響を受けているかもしれないですね」






Number誌「本田圭佑が日本代表に必要な理由」より


 聞くところによると、歴史上の人物では「三国志」の曹操孟徳が好きだという。ライバルの劉備玄徳のように神輿として担がれるより、自ら先頭に立って突き進むタイプだから当然か。戦国大名なら織田信長だろう。本田が信長を演じる姿を想像するとハマリ役に思える。その際、木下藤吉郎は長友佑都に是非やってもらいたい。

 もっとも、フットボーラーとしての本田は曹操や信長のような天才タイプかと問われると、答えに窮してしまう。吸いつくようなボールタッチに象徴されるセンスや足の速さといった天賦の才に恵まれていないことは本田自身が認めるところだ。






ソース:Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑



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2015年8月26日水曜日

なでしこ大儀見の見た「本田圭佑」



以下、Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑 より引用




大儀見優季(なでしこジャパン)は言う。

「本田選手を興味をもって見るようになったのは、彼がモスクワでプレーしていた頃からです。発言も面白いんですけど、その言葉を受けてピッチの中でどうプレーしているのかを見ると、言葉とプレーがしっかりと繋がっているんですよ。しかも1試合ごとに常に変化があって、見ていて興味深かったです。

 本田選手は強気な発言や、ポジティブな言葉が多いイメージがありますよね。それは自分に言い聞かせている部分や自分の弱さを見せたくない部分があるから、誰かに何を言われようとブレずに自分を貫こうとしているんだと思います。そういう部分は自分にも似ていると思いますし、自分でもたまに「こういうときに本田選手なら何て言うのかな」とか考えたりすることもありますね。



 プレーの面では、たとえば1本のパスを通すにしても、パスの受け手にどう動いてほしいのか、次にどういうプレーに繋げてほしいのか、明確な意図をもって出しているように見えます。先の先まで考えているから、受け手の選手も選択肢を自然ともてる。本田選手は自分の視界に入っていない世界までイメージできているんだと思います。ボールを持って瞬間だけではなくて、ボールを受ける前から受けた後までの”時間軸”の流れがつながっている感じが、ピッチの中で見えるんです。

 「自分がボールを持つことでどのくらい状況が変化するのか」ということが頭に入っていて、状況判断を感覚的に、しかも的確にできている。2012年5月の親善試合のアゼルバイジャン戦で出したスルーパスは、味方の走るスピードと相手のスピード、ボールのスピード、そのすべてをコントロールしたパスで、鳥肌ものでした。もちろんミスはあるんですけど、それはまだ再現性が高められていないプレーにトライした結果であって、”完璧を求めつつ、ミスもする選手”だからこそ、面白いし興味がわくんだと思います。



 最近はピッチ外での活動もふくめて、自分自身だけでなく、日本のサッカー界の未来を考えて動いているように見えますよね。クラブを経営するにも、サッカー関連の施設をつくるのも、多くの人は現役を引退してから考えます。それを、現役選手としてのキャリアと同時進行で行えているのがすごいと思います。新たなサッカー選手としての生き方というか、ひとつのモデルケースをつくっている気がします。

 欧州にいると、とくに女子選手なんかはすごくセカンドキャリアについて考えているので、現役時代からピッチ外での活動も同時にやっている選手は多いです。本田選手とは規模は違いますけど、自分もできる範囲で日本のサッカー界や社会全体に貢献していきたい思いはあるので、そういうときに先にやってくれている人がいるのは心強いですね。



 人間的な面で言うと、自己表現がはっきりしていて自分のパーソナリティを表現できる力は、私には真似できないですね。それがインパクトにもなるし、影響力にもつながっていくんだと思うんですけど。やることが大胆ですよね。私は思い切って金髪とか、両腕に腕時計とかはできないです(笑)。

 本田選手には常に先頭を走るリーダーでいてほしいですね。サッカー界だけではなくて、日本社会全体に影響を与えられる存在でいてほしい。道なき道をいく生き方は、試行錯誤や苦悩もたくさんあると思います。でも、そういうなかで一つの指標を作り続ける人であってほしい。それが子供たちの夢にも繋がるんだと思います」






本田は言う。

「もっと凄いことを考える人はこの先あらわれると思いますよ。というのも、僕自身が先代のサッカー選手から学んできたことが多いですしね。まずはカズさん。僕と同世代のほとんどの選手は、カズさん、そしてゴンさんに憧れてサッカー選手を目指し、プロになった。そかもそのカズさんが未だ現役で活躍されている。さらには、ヒデさん。自分自身も大きな影響を受けましたし、現役を終えられてからはサッカー以外の分野でも活動されている。では、本田圭佑は何で道をつくろうかと考えたとき、先人の歩んだ道は参考にさせてもらいましたし、それがなければ今のアイディアに至ったかどうかは自信がありません」






(了)






ソース:Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))



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2015年8月25日火曜日

イタリアにおける「本田像」[ACミラン]




日本代表の柱、本田圭佑(ほんだ・けいすけ)は現在イタリアのビッグクラブ、ACミランのレギュラー陣に名を連ねている。加入から1年半、はたしてその評価は?

以下、Number誌より各人の証言を抜粋引用する。



まずはACミランのCEO(最高経営責任者)、ガッリアーニから。

「彼には本当に驚かされることばかりだよ。非の打ち所がないプロフェッショナルな選手だし、人間性も最高だ。場違いな発言はしないし、誰かを嫌な気持ちにさせるジェスチャーも決してしない。問題を引き起こすことも絶対にあり得ない。本田はスーペル(スーパー)、スーペル、スーペルな人間で、まさに理想のサッカー選手だね。

 サッカーに対し、常に集中力をマックスに保っているあの精神力にも、いつも驚かされる。たとえば、日本代表に召集されイタリアに戻って来るとき。彼はマルペンサ空港(ミラノ)に到着するといつも、すぐに自宅には戻らず、その足でミラネッロ(ミラノ郊外にある練習場)に向かう。そして1時間後には、ミランの練習着に着替えて練習をしている。南米の選手なんかは、飛行機に乗り遅れ予定日に戻ってこないことさえもよくあるけど、彼はそういったこともこれまで一度もないですからね。

 本田は今季ももちろん、ミランでプレーすることになるでしょう。彼がチームを去るといった仮定でさえ、われわれはこれまで考えたことがないですから。彼自身がそのようなことを言ってきたこともありませんしね。今シーズンも、本田がチームに重要な貢献をしてくれると期待しています。彼はレベルの高い選手ですから、チームにとって必ず役に立つ存在であるはずです。

 インザーギ(前監督)は昨季、彼を主に 4-3-3 の右サイドアタッカーとして起用していました。でも、監督がミハイロビッチに替わり、今季は 4-3-1-2 のトップ下で使われることが多くなるでしょう。彼が最も力を発揮できるポジションは、私も友人のザック(ザッケローニ元日本代表監督)が主張しているように、トップ下だと思います。

 ただ、トップ下ではメネズ、ボナベントゥラとの激しいポジション争いが待ち受けています。ビッグクラブではこういった厳しい競争があるのは当然ですけどね。とにかく、本田がトップ下の定位置を確保できるかどうかは、彼次第ということになるでしょう。もしかしたら、メッザアーラ(インサイドハーフ)で起用される可能性もあるかもしれません。その場合、はたしてどう機能するのか。それは結果を見てみることにしましょう」



次に、前監督インザーギの言葉。

「昨季、僕がACミランの監督になる以前から、選手としての本田は知っていたし、他の多くの者たちと同じように僕も彼を高く評価していた。そして実際に監督と一選手という関係になってからも、その僕の評価に変化は一切なかった。互いを深くリスペクトする。これ以上ないまでに良好な関係だったと思うよ。

 本田は昨季、当初は構想外だったのではないかだって? なにを根拠に誰がそう言っていたのか。当の監督である僕が知らないはずはないんだが、じつに不思議な話だね。昨季、全38節を通して本田が大半の試合でスタメンに名を連ねていたという事実。この僕が知っているのはそれだけだよ。

 シーズン中も何度となく繰り返したように、本田のプロ意識は本当に素晴らしかった。練習に取り組む姿勢は言うまでもなく、すべての試合に彼は誰よりも高い集中力で臨んでくれた。もちろん、そのプレーがうまくいく時もあれば、そうじゃない場合だってある。でも、どんな状況であれ、本田は全力を尽くしてチームのために走っていた。

 本田はミランの背番号10を背負った。長いクラブ史を偉大な10番たちが彩ってきたのは周知の事実なんだけど、誰もが知る通り、今日のミランが置かれた状況は過去のそれとは明らかに異なる。大きな分岐点にある今、本田が10番を背負うことになんら問題はない。

 何よりも大切なのは、いかなる番号であれ、属するクラブのユニフォーム、つまりは伝統への敬意を絶対に忘れないこと。その意味で、まさに本田は最高の模範とされるべき選手だと思う。”ミランの10番”に刻まれた意味とその重さを知り、耐えながら決して屈することなく、これ以上ないまでの努力を重ねることで、彼は最大限の敬意を払い続けていた。もちろん今も。むしろ、彼ほどミランの伝統に対して深い敬意を払う選手はほかにいないとさえ思うんだよ。

 彼は最大限の敬意を払い続け、その責任を果たそうと懸命に走り続けていた。難しい状況に置かれたときこそ、本田は誰よりも熱く”魂を込めて”プレーしていた。誰よりも近い場所で見ていた僕が言うのだから、それは絶対に間違いないよ」



次にACミランの新監督、ミハイロビッチ。

「(本田には)最高の印象をもっていますよ。国際レベルの選手ですから。間違いなく日本サッカー史上でもベストプレーヤーのうちの一人。それには誰も異論を唱えないと思います。

 本田は完成された選手ですね。強靭なフィジカルをもっていますし、テクニックも素晴らしい。一番の長所は無論、あの身体能力です。セリエAの選手の平均値を上回っています。チーム内でも、テストでは常にトップクラスの数値を叩き出していますから。あとはパスセンスも非凡なものをもっています。でも、もうちょっとゴールを決めて欲しいですね。

 (監督就任前から)彼に対しては良い絵を描いていました。直接指導してみて、自分の思い描いていたとおりの選手であると再認識しましたよ。人間性の部分については知りませんでしたけどね。彼は典型的な日本人ではありませんね。日本人であることは間違いないですが、骨の髄まで日本人とは思えませんね。彼はちょっとナポリ人のようなところもあります。なぜなら、ずる賢いですから(笑)。練習中に自分のなかで何かが上手く消化されないと、私の問いにいつも『わかりません』と言いますから。

 私はザッケローニ(元日本代表監督)のように、本田はトレクワルティスタ(トップ下)だと考えています。彼は右サイドをやれるフィジカルと高い戦術理解力をもっていますが、私は私で自分なりの意見ももっています。もし圭佑(本田)が戦術面でさらに向上できたなら、素晴らしいメッザアーラ(インサイドハーフ)になれると確信しています。

 (本田の)出場機会は、私次第ではありません。彼次第です。もし与えられたチャンスを確実にものにし真価を発揮できたなら、なんの問題もないでしょう。出場機会はきっちり得られるはずです。とにかく私は、労を惜しまない日本人のメンタリティを知っていますから、本田がつねにベストを尽くすであろうことはまったく疑っていません。それは練習だろうと、試合だろうとね」



本田への評価は一様に高い。

だが昨季、ACミランはまさかの10位に終わっている。名門らしからぬ結果に対して、本田は以下のように語る。

「僕も含め、プレーしている選手が不十分なパフォーマンスだったということですよ。それに尽きます。とくにハードワークが足りなかったと思います。ミランの選手とはいえ、僕らはイブラヒモビッチでもなければメッシでもない。全員がハングリーになって、かつてのミランのような精神や姿勢を取り戻さないといけないと思います」

前監督インザーギを、本田はこう評する。

「インザーギには(今後に)期待したいですね。選手としては超一流、でもいきなりビッグクラブの監督を任されて、はっきりいうと失敗の烙印を押された。セリエAを戦い抜く指導者としての経験が浅かったのは否めない。だからこそ経験を積めば、名将といわれる日は遠くはないのではないかと期待しています。僕自身、インザーギ監督のもとで試合に出てプレーしていたわけですから責任が重いです。インザーギ監督は当初、僕を構想外と判断していたようです。開幕直後のゴールラッシュがなければ、どうなっていたかわかりません」



本田は今季の新監督、”鬼軍曹”ことミハイロビッチに対しては

「厳しい監督です。守備面ではまずハードワークが必要とされる。とくに自分がやっているポジション(トップ下)は走らなければいけないと感じています」

DF(ディフェンダー)出身のミハイロビッチ監督は、FW(フォワード)に対しても徹底した守備を求める。ミハイロビッチは「FWは第一ディフェンダーであるべきだ。FWは前線からプレスを掛けないといけないし、ハーフウェイラインまでは犠牲の精神をもって敵を追いかける必要がある。自陣にはいったら他のポジションの選手にバトンタッチすればいい」と言っている。

本田は言う。

「監督がどういうトップ下を望んでいるか。ミハイロビッチには『俺のチームにはこういうトップ下が必要なんや』というのがあるはず。それをより理解して、自分のもっている特徴をそこにアジャストさせていきたい。ミランでプレーするうえで一番大事なのは、『自分がどんなトップ下としてプレーしたいか』という以上に、『監督がどういうトップ下を欲しているか』だと思っているんですね。もし自分のスタイルを貫くのであれば、移籍というものも視野に入れたほうがいいと思う。でも今は、このチームで結果を出したいと思っている。このチームで何かひとつ成し遂げてから出て行きたい」



最後に本田は、こう締めた。

「今季も本田圭佑はミランで定位置を奪えるのか? ベンチスタート、もしくはベンチすら危ういのではないかと憶測している方もいると思います。でも、そんな人にこそ見ておいてくださいと言いたい。僕は尋常を超えた努力でそれを証明したいと思います」













(了)






ソース:Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))



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2015年8月24日月曜日

実質オーナー、本田圭佑 [オーストリア、SVホルン]



ホルン(Horn)という町を知っているだろうか?

日本人は言わずもがな、オーストリア国内でもその名を知らない人もいるという。首都ウィーンから北西に70〜80km、ホルンを含むニーダーエスターライヒ州は北の隣国(チェコ共和国)との境でもある。



現地を訪れたスポーツ誌、Numberの記者はその印象をこう記す。

”想像以上に、そこは小さな田舎町だった。数時間歩き回れば街の隅々まで行き尽くすことが出来る。周囲には広大なライ麦畑やトウモロコシ畑が広がる、牧歌的な空気漂う土地である。(中略)…鉄道も単線が通っているのみで、商店街は数十メートルしかなく、日本の感覚では村に近い(人口は約6,500人)。



この町(ホルン)には、住民らが誇りとするサッカークラブがある。それがSVホルン(Sportverein Horn)。1992年に創設されたこのクラブは、長らくオーストリアの下部リーグに甘んじていたが、2012年に3部優勝、2部への昇格を果たす(残念ながら、昨季ふたたび3部に降格)。

SVホルンのスタジアムは収容数4,000人と小箱のようだが、町のサポーターは熱い。

”2015年7月31日、オーストリア3部、東地区の開幕戦のことだ。ホルンの選手にイエローカードが出されると、怒った中年男性が立ち上がり、主審にビールを浴びせかけた。客席がピッチのすぐ横なので、誰でも命中させられる。レフリーの額からビールが滴ると、客席はどっと笑いに包まれた(Number誌)”




この町に、一人の日本人が降り立った。

スーツ姿にサングラス、両腕には腕時計が光る。

本田圭佑(ほんだ・けいすけ)。日本を代表するサッカー選手である。彼は現役のプレーヤーでありながら、SVホルンとサッカーの試合に来たわけではなかった。なんと、クラブの経営を担いたいというのだった。






スタジアムに設けられたビジネスラウンジ。そこに集結したSVホルンのオーストリア人役員らを前に、本田は口を開いた。

「自分が12歳の頃からプレーしてきたチームには、常に自分より上手い選手がいた。今もそうです(現在、イタリアACミラン所属)。でも、こんな自分でも、やっぱりどこかで『メッシやロナウドに勝ちたい』と思っている。今、ホルンというクラブも同じ立場だと思っています。まだ3部で、国内でも上のクラブがたくさんある。でも、2〜3年後には必ず1部に上がりたい。疑う人間はいるだろうけど、どれだけ信じてやっていこうという人をこの街で増やしていけるか。隣にいる人を巻き込めば、5人が10人、10人が20人、40人、80人と倍々ゲームになっていく。その結果、スタジアムに集まる4,000人が毎試合勝利を願うような存在のクラブになりたい」

当然ながら、本田圭佑はビジネスマンというよりは一人のサッカー選手だ。今季オーストリア3部で戦うSVホルンの選手たちに、同じ選手目線で何かを伝えようとしているのかもしれない。

本田は続ける。

「ここはオーストリアのクラブです。自分たち日本人がやって来たからといっても、クラブの基礎はオーストリア人の選手やスタッフであることに変わりはない。そこに、日本人やアジア人の選手を入れていきたい。もちろん、こんなことをやろうとしているクラブはまだヨーロッパのどこにも存在していない。そういう先駆けの存在に、ホルンがなっていくのです。これが今日、皆さんに一番伝えたかったことです。私は皆さんを信じています。皆さんも私たちを信じてほしい」

話すにつれ、本田の語気は強まっていた。



本田がサッカー事業に着手したのは3年前(2012年)。日本国内で小学生向けのサッカースクール「ソルティーロ(Soltilo)」を開校した。3年経った現在、ソルティーロは日本全国に49校を展開するまでに成長している。

本田は言う。

「最初は小学生の子供たちのためのスクールという形で始めたのですが、毎年スクールの数も増えていって、今は中学生年代対象のジュニアユース、そして近々、千葉県の幕張にグラウンドを建設して、ユースチームを立ち上げることになりました。ベースとなるサッカースクールを三角形の底辺として、ジュニアユース、ユースと上がっていき、ホルンを目指せる道筋をつくりたい。でも、ホルンがピラミッドの頂点というわけではないですよ。その先に描いている構想もあるのですが、今はまだ公表する段階ではないので、想像にお任せします」

日本からオーストリアへ、そしてさらに大きな世界へ。本田の頭のなかにはそんな道筋がある。というのも、日本のJリーグには実力のある選手がいるにもかかわらず、なかなか世界から注目されにくいという現実があるからだ。

本田は言う。

「僕がなぜヨーロッパのトップリーグではないクラブに目をつけたかという、扉の広さです。確かにJリーグはヨーロッパのリーグと比べても、レベルが高いと思います。実際に今季から武藤(嘉紀)がマインツに移籍したことからもそれは証明されていると思いますが、実際はJリーグで評価されているというよりも、日本代表でプレーしたことの方が大きいと言わざるを得ない。ただ、日本代表に呼ばれなくても、20歳前後でポテンシャルのある選手はたくさんいるんですよ。そういった選手はJリーグでプレーしていても世界的にはなかなか評価されづらい。でも、ヨーロッパで似たようなレベルのクラブ、つまりそれが2部だろうが3部だろうが、活躍すれば誰かが見ていて評価されるんですよ」

本田自身が、そうだった。

「それは、僕がオランダリーグ2部のフェンロでプレーしていたときの実感です。僕自身、フェンロでオランダ2部リーグMVPを獲った後は、オランダ1部のトップ、アヤックスやPSVだけでなく、その他のリーグの強豪クラブへの道も拓けていた。僕だけでなく、チームメイトも一気にプレミアやスペインリーグのクラブから注目されるという状況がありました。オランダ2部リーグのチーム戦術や組織と比較すると、はっきり言ってJリーグの方がレベルが高い。でも、そのなかで多少荒削りでも身体能力が高い選手や一芸に秀でた選手などは一気にトップクラブに引き抜かれたりする現実があるわけです。そういった可能性を実感していたからこそ、今回のアイディア(ホルンへの経営参画)につながった部分があるのかもしれません」



今季、SVホルンのトライアウト(入団テスト)には、現役の大学生からJリーグ経験者、アジアやヨーロッパの下部リーグでプレーする選手など、18歳から47歳まで200人以上の幅広い応募があった。

その一人に、コンサドーレ札幌から応募した日本人、榊翔太(22歳)がいた。見事、トライアウトに合格した榊は言う。

「本田さんと食事をして、『若い時はたくさん時間がある。すべてサッカーに捧げろ』とアドバイスを受けました。たとえばドイツ語の勉強もそうだし、フィジカル面の強化もそう。第1号として失敗できない。北海道の人たちに成長した姿を見せたいです」

開幕戦は体調不良のためにベンチ入りできなかった榊だが、第2節では後半からウィングとして初出場。日本人第1号としての第一歩をピッチにしるした。



ところで、本田はどの程度、ホルンの経営に関わっていくのだろうか。

本田は言う。

「すべて関わりますよ。われわれが右に行くと言えば、(クラブが)右に行くくらいの勢いで関わりたいと思っています。選手の補強やトレーニングのメソッドもそうですし、クラブの組織改革から経営戦略まで」

「オーストリアのルールでは51%がノンプロフィット(非営利)、つまりNPOでなければならないんです。だから残り49%を有限会社として管理して、NPOには過半数の役員をわれわれの会社(HONDA ESTILO)から送り込んでいる。つまりほぼ100%、われわれの意見が通る仕組みになっているわけです。僕自身の立場は、ミランの現役選手ということもあり、明確な肩書きはありません。だから、よくメディアで書かれているように、”実質(オーナー)”というようなことしか言えませんよね。誤解してほしくないのは、われわれがホルンを買収したわけではないということです。ノンプロフィット(非営利)カンパニーなので、買収云々という話ではないんです」

それでも、HONDA ESTILO(ホンダ・エスティーロ)はホルンに多額の出資をおこなっている。

「いやー、なかなかの額ですよ。まあ、数億とでも言っておきましょうか。それ以上は細かく明かせませんので」



経営参加に関して、Number誌はこう記している。

”それには二段階のプロセスを要した。まず前会長が本田の親族に会長職を譲り、理事会の過半数をホンダ・エスティーロ側の人間で占めることを仮決定した。その可否を問う投票が総会で行われ、満場一致で賛成。今後、重要な決定は理事会でなされるが、過半数は本田側が占めている。すなわち本田に決定権がある。”実質オーナー”と呼ばれる所以だ。ちなみに現時点でホルンは法人にすぎず、株式は持っていない。だが、今年中に本田側が49%出資して、クラブの有限会社が設立される予定だ。そうなればもっとビジネスに力を入れられるようになる。地元の報道によれば、ホルンの昨季の予算は約200万ユーロ(約2億6,000万円)で、今季も同規模を維持する見込みだ。”



ところで、オーストリアの人々の反応やいかに?

”クリエ紙が本田の経営参加についてウェブ上でアンケートを行ったところ、「悲観的」という回答(32.1%)が、「素晴らしい」(29.8%)をわずかに上回った(Number誌)。”

オーストリア人が外国人の関与に否定的なのは、好ましくない前例がこれまで多々あったためだ。

”たとえば近郊のザンクト・ペルテンでは、VSEという2部のクラブが消滅に追い込まれたことがある。1999年11月、自称アメリカ人の男性がクラブに20億円規模の支援を申し出て、「5年でCL(欧州チャンピオンズリーグ)に出場する」と宣言をした。ところが、その男は詐欺罪で1ヶ月後に逮捕されてしまう。クラブはシーズン末に破産に追い込まれた。また、2004年12月、イラン人実業家がアドミラの経営に参加したが、わずか2年で撤退して翌年3部に降格。2003年にはUAEの王族がザルツブルグの経営に参加したが、経歴詐称のスペイン人スポーツ・ディレクターを送り込んで混乱を引き起こし、すぐに提携は解消された(Number誌)”



本田はこう言う。

「SVホルンは1922年創設で100年近くの歴史を誇るクラブですし、前会長のトーマスも、ものすごい愛情を注いできた。さらに、二代、三代にわたる根強い地元ファンの存在もあります。われわれが運営していく前提として肝に銘じておかなければならないのは、そうした方々の想いです。彼らの意を酌みつつ、同時にサプライズを与え続けるというのが大事になってきます。今まではどちらかというとドメスティック(国内的)な感覚で経営してきたと思うのですが、その意識の枠をオーストリア国内からヨーロッパ、アジア、アメリカというふうに世界全体に対してビジョンを広げていかなければならない。そのための我々だと思っています」

「ホルンに関しては、まずは5年のスパンでこのプロジェクトを考えています。もちろん、常に誤算はありますよ。そもそも、ホルンに着目した時点ではオーストリア2部に所属していたのですが、われわれが経営参入するタイミングで3部に降格してしまった。さっそく当初のプランを修正せざるを得ないわけですが、まずは1年で2部昇格、オーストリアのトップ4、優勝というステップで、5年後にはCL(欧州チャンピオンズリーグ)のプレーオフへの出場権を獲得するというのが目標です。僕が描いているホルンの最終形態はCL出場権。ミランのようなビッグクラブへの道を模索しているわけではありません。それは町の規模や財政的なものも絡んできますし、このクラブに関してはミランやバルセロナ、レアル・マドリーといった強豪へ人材を輩出できるようなクラブにしていきたい。ホルンを通じてトップクラブへの道が拓かれているということを、オーストリア人や日本人のみならず、世界中のサッカー選手たちに示していきたいなと思います」



しかしなぜ、現役バリバリの今、ビジネス畑に足を踏み入れるのか?

本田は言う。

「誤解してほしくないのは、今回のホルンの件がここ1、2年で思いついたアイディアではないということです。もしかしたら、『本田圭佑はブラジルW杯で日本が惨敗した後に、このプロジェクトを進めたのではないか』と思っている人も多いのかもしれない。でも、世の中の仕組みや物事を知っている人ならわかるはずです! たとえば半年前にこのアイディアを思いついて、実際に形になるまでにどれだけの時間が必要なのか、と。正直なところ、僕は2010年南アフリカW杯の前から構想を抱いていたということは、はっきりと伝えたいですよね。ホルンに行き着くまでに、どれだけのリサーチと交渉を経て今に至っているのか。一年、二年単位の話ではないですよ、というのは理解していただきたい。つまり、ニュースに出ていることだけが真実ではないということです」

「もともと、引退したら何をやろうかと考えていたんですよ。HONNDA ESTILOという会社を設立した21歳か22歳の頃から、それはイメージしていて、選択肢としてはいろいろな可能性を追求して、勉強もしてきた。笑われるかもしれないですが、本気で政治家を目指し、総理大臣を夢見たこともありました。世間の常識からすれば『本田は何を言っているんだ?』ということになるかもしれないですけど、僕はそういう人間なんです。そんな中で行き着いた答えは、『自分が生まれてきて物心ついたときから魅了されてきたサッカーで恩返しがしたい』ということです。しかも、サッカーを通じて少しでも世界を変えられるようなことをやりたい。そのステップ1として今回のSVホルンの経営に関わるというアイディアが生まれてきたわけです」



先のSVホルン上層部との会見に先立ち、本田はクラブの練習場で自らのトレーニングを行っていた。その様子をNumber誌はこう記す。

”グラウンドに現れると、厳しい表情を浮かべながら何本もスプリントを繰り返していった。本田の個人トレーナーがこちらに気づいて、言葉をかわす。

「いつだって、この積み重ねです」

走り込みだけに留まらず、どんどんメニューは進む。本田はそれを、すべてスタッフに動画で撮影させていた。スパイクに履き替え、ボールを使いはじめる。ステップワークの練習に必要なボールやパイロンも、すべて自ら並べて用意した。

本田「これだけ走った直後にボールを使う。これ、予想以上に結構しんどいでしょ。でもこういう時に、普段の試合ではあまりやらないボールタッチをやっていかないと。試合でも体力が消耗したときに急に求められることがある」

左右両足のインサイド、アウトサイドだけでなく、頭も肩も縦横に素早くステップを入れて、パススピードも上げていった。

本田「シンプルなメニューひとつとっても、試合をイメージしたスピードでプレーする。俺は高校時代からそうしてきた。だらだらとウォームアップのパス交換をするのではなく、そこでもクイックにパス、トラップを繰り返して。このパイロンを使った細かいドリブルにしてもそう。これについては自分に後悔もしている。俺はこういうプレーが苦手。指導も受けてこなかった。でもメッシなんかはこういうメニューを今でもめちゃくちゃ丁寧にすると聞いた。だから、(自分もホルンの選手も)今からでもやっていかないといけない」

狭い間隔で置かれたパイロンに、本田のドリブルは何度も引っかかった。それでも繰り返し、実践同様のトップスピードで挑んでいく。不格好だろうと関係ない。こうしたトレーニングすべての重要性を説くために、カメラの前で本田は汗を流し、言葉を発していった。それは何を隠そう、自分のメソッドをクラブに伝えようとする姿勢だった”



汗のままに本田は言う。

「自分がやってきたメソッドが、本当にどれだけ通用するのか。今度は自分がピッチで走るだけではない意味での証明になっていく」



その後、本田はチームの練習試合を観戦した。

夜でも35℃以上ある熱暑のなか、本田は各選手のプレーを注視した。

本田は言う。

「こういう場所で生でサッカーを観たことは、本当に記憶にない。考えとして、自分は観られる側の立場だと認識して生きてきた。自分がプレーを観る、自分が応援して、ゴールに喜ぶ。そういうスタンスで今まで生きてこなかった。応援する選手、チームが自分の中にできた感覚が、非常に新鮮です」

クラブの施設も見て回った。

「はやくスタンドを増築しないと。1部に昇格するためには、この規模では条件を満たせていない。しかもこの大きさで臨場感を出すには、少し傾斜をつけたスタンドにする必要がある。そのための資金づくりも計画的にやっていかないといけない」

本田の経営者としての目標は、1部昇格、オーストリアリーグ優勝、そしてCL(欧州チャンピオンズリーグ)出場だ。

だが今季、ホルンの属するオーストリア3部の東地区からは、1チームしか2部に昇格できない。つまり、ホルンは3部で優勝しないかぎり2部への昇格はない。地元紙は「史上最強の3部」と優勝争いの熾烈さを語っている。

本田は言う。

「危機感。この言葉がぴったりだと思う。今までいろんなサッカー経営者を見てきたけど、サッカービジネスで成功している人は本当に少ない。だからこそ、この世界に自分も入ってきた。ワクワク感を超えるほどの危機感をもっている。もちろん自分は『As a player』の立場でも結果を出さないといけない。そこも言い訳は一切許されない。だから、両方楽しみにしておいてください」



危機感を抱いているのは、外国人に批判的な地元サポーターも然り。

ある初老のサポーターは、こう息巻く。

「もし今年2部に上がれなかったり、近い将来1部に上がれなかったりすれば、途中で投げ出すに決まっている。私は日本人が関わることに反対なんだ」

一方、21歳の若きGM(ジェネラル・マネージャー)、マーク・ケビン・プリンシングはこう語る。

「日本とオーストリアでは言葉も文化も違うし、全員にとって初めてのことばかりだ。でも、日を追うごとに連携は良くなっている。地元からもすごく期待されているんだ」



経営者としての野心について、本田はこう語った。

「ずっと言っているように僕は凡人なんです。実際にそうだし、それを自覚している。何が人と違うのか、何が人と違うのか、何が人より優っているのかというと、”決断力”と”行動力”なんですよ。僕が考えているよりもすごいプラン、天才的なアイディアをもっている人はたくさんいると思います。でも、それを実行に移せないまま終わってしまうことが圧倒的に多い。僕は、自分が信じた道はリスクを恐れることなく突き進むことができる。それは自分が誇れる本当の武器だと思っています。さらに言えば、そのビジョンのベースとなるのは、他人からのアドバイスを素直に受け入れる”耳”だとか、つねに情報を取り入れる”姿勢”だと思います」

口の悪い世間は、本田を「一匹狼」、「ビッグマウス(大ボラ吹き)」、「傲慢」と評する。「世界一」を公言しながら一勝もできなかったブラジルW杯は、本田の世評を著しく傷つけた。

本田は言う。

「確かに大きなダメージを受けた大会でしたから、少なからず影響されているとは思います。ブラジルW杯での自分に関しては、ギリシャ戦で点をとってコロンビア戦を難しい試合にしなければ、少なくともグループリーグを突破する可能性はあったわけで。当然のことながら、仲間に対してどうこうということもないです。それよりも僕は、日本人の血を信じていた部分が大きかった。ひとつ言えるとすれば、とくにW杯みたいな真剣勝負の場では”スキルではない部分”が勝敗を分けるんです。確かにスキルは重要です。でも、『最後に一歩足が出るかどうか』は、スキルではない部分もある。僕はどちらかと言えばスキルはあまりないのですが、そういう部分は持っていると自負しているんですよ。今の日本人選手は本当に巧いし、今後はもっとレベルが上がるでしょう。でも、自分が持っているような成り上がり精神でのし上がってくる選手は今後、なかなか育ちにくい環境であるのも事実だと思います。だからこそ、いまわれわれが運営しているソルティーロというサッカースクールでは、サッカーだけでなく、人間性の部分とか問題解決の能力を磨いていくことも重視している。5年後、10年後にわれわれのサッカースクール、もしくはJの下部組織も含めて心技体そろったスーパースターが育つことを僕は信じています。信じているからこそ、ここに力を注いでいるし、エネルギーを使っているんです」

「まあ、これまで何度も皆さんの期待を裏切っているので、期待してくださいというよりも、楽しませることは約束します。またそのうち、『本田が何かをしでかす』、それぐらいに今は思ってもらえたらいい」













(了)






ソース:Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))



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