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2015年4月9日木曜日

”ありのままの自分”とは [宮里藍]



宮里藍(みやざと・あい)は2010年、ゴルフの世界ランキング1位にまで登りつめた。







あれから5年、現在の世界ランクは104位。予選落ちが続いた昨季は過去最低の成績だった。

転落のきっかけは2013年の終わりに”気分転換のつもりでパターを変えたこと”。最初は良かった。だが、使い続けるほど合わなくなってきた。あわてて元のパターに戻すも、時すでに遅し。パッティングという武器を失ったことで、ゴルフに対する自信が恐怖心に変わってしまっていた。



宮里は言う。

「試合中、パットの話をしていて(キャディの)ミックから『これ以上悪くならないからさ!』と言われたんですよ。私、それがすごく気に入らなくて。パンチしてやろうかっていうくらい腹が立ったんです。アイツ、あんな失礼なこと言って、一番近くで私が努力しているのを見てるのに!」

ミック・シーボーンは10年間、宮里と二人三脚でアメリカ・ツアーを戦ってきたキャディだ。その日の夜、宮里はホテルのお風呂につかりながら悶々としていた。

「(ミックの冗談を)笑って受け流せなかった自分に凄い違和感を感じて、なんかおかしい、と。一番のチームであるキャディにさえも自分の弱いところを見せられていなかったなって思ったんですよ」

そしてハッと気がついた。

「ずっと邪魔していたのはコイツだったんだ! なにかピッて棘(とげ)がとれたみたいな感じで、すごく楽になったんです」






思えば5年前、世界の頂点にいた宮里はこう言っていた。

「”ありのままの自分”でいればいいとわかってから、自分のゴルフを見つけられた」



”ありのままの自分”とは誰なのか?

それは”最高の自分”だけなのか?

”最悪の自分”はどうなのか?



いまの宮里は言う。

「”自分らしさ”ってすごく難しい言葉だなって思うんです。ゴルフも私もずっと同じではいられない。その時の自分っていうのが”らしさ”じゃないのかなって、今は思ってます。(昨季は)ゴルフ人生でまったく体験したことのないことばかりで、輝けてはいませんでした。自分自身を受け入れられなくて、自分にだけどうして、こういうことが起こるんだろうって」

宮里は続ける。

「調子が良かったころの自分と比較して、『こんなはずじゃない…』って。自分に対して、いつまでも合格点をあげられず、常に(最高の自分との)ギャップとの戦いでした」



松岡修造は言う。

「藍さんの話を聞いて、僕が現役時代、ケガに苦しみ試合に勝てずにもがいていた時に、大切にしていた言葉を思い出した。苦しいときほど Why? ではなく、Howでとらえる。こんなに頑張っているのにナゼ(Why)自分だけと考えるのではなく、今の状況でドウヤッテ(How)前に進めるのかと捉えることで突破口が開けたのだ」

松岡は続ける。

「人は時に、”ありのままの自分”を最高の状態にあった自分とすり替えて、そうでない今の自分を否定して苦しむことがある。しかし”ありのまま”とは、強かった自分でも弱さを否定し続ける自分でもなく、強さも弱さもひっくるめて、今ここにいる自分なのだ」



ありのまま

強さも弱さも、ありのままに



自分の中の棘(とげ)は、それを否定するほどに痛みを増してゆく。

その棘もまた自分だったと受け入れたとき、宮里の大きな瞳が輝いた。太陽のような笑顔が湧き出した。



「ありのままの藍さんであれば、必ずメジャー制覇は叶う」

松岡修造はそう断言する。













(了)






ソース:Number(ナンバー)875号 羽生結弦 不屈の魂。フィギュアスケート2014-15 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
宮里藍「宮里藍が受け入れた”ありのまま”の自分とは」



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「名選手にして名監督」 岡本綾子 [ゴルフ]

跳ねるように歩くマキロイ [ゴルフ]

「フェードの罠」と宮里藍(ゴルフ)




2013年11月14日木曜日

跳ねるように歩くマキロイ [ゴルフ]




10代の頃から、ポスト・タイガーウッズとして期待されてきた「ローリー・マキロイ」。昨年は世界の頂点にたち、新時代の幕開けを予感させた。

ーー2012年、メジャーの全米プロで2位と8打差という大会記録をうちたて、米ツアーと欧州ツアーの両方で賞金王に輝いた(Number誌)。



彼のトレードマークは、その独特の歩き方。

ーーマキロイはいつも跳ねるように歩く。あふれる才能と若さが体内でパチパチ弾けあっているようで、何よりゴルフが楽しそうに見える(Number誌)。






ところが今年は一転、マキロイは不調に苦しんでいた。

ーー誰もが新時代の到来を予期して迎えた2013年。しかしフタを開けてみれば、上下に体を弾ませるマキロイの”バウンス”はすっかり消え失せていた(Number誌)。

最高位はテキサス・オープンの2位。メジャーどころか米ツアーでも1勝もあげられなかった。トップ10すら5回と前年から半減。



「シーズンがはじまった頃には、”悪いクセ”が顔をのぞかせていたんだ」

マキロイは言う。

「具体的には、テークバックでクラブがアウトサイドに上がりすぎて、下りてくるときにインサイドになっていた。それを直そうと思っていたのに、今度は直しすぎてテークバックがインサイドから上がるようになった」

スイングの修正をいったりきたりしているうちに、マキロイは世界ランキング1位の座から滑り落ち、自らのゴルフを「まったく馬鹿なゴルフ」と言い捨てた。

「スイングの修正というのは練習場でやるべきことで、コースではそういうのを忘れてスコアを出すことに集中しないといけないのに…」



すっかり舞台の隅っこに追いやられてしまったマキロイ。

ーー心地よくフェアウェーを飛び跳ねていた両足は、重りがついたかのようにラフに沈み、さえない足取りから抜け出せずにシーズンを終えてしまった(Number誌)。

一方、取って代わるはずだったタイガー・ウッズは完全復活。賞金王に輝いた。






苦悩のシーズンを終えたマキロイ。

ーーそんな時の彼には、いいショットが打てたときに地道に書き留めているスイング・ノートがある。不振の最中にはそのメモから必死にヒントを探すこともあった(Number誌)。

そして好調時の映像を見返していたとき、彼は気づいた。

”あの弾むような足取り”を失っていたことを。



「とくに意図的に歩き方を変えたつもりはなかった。でも、違っていた」

「たくさんバーディをとっている時なら、そういう歩き方をしたり、前向きな気持ちをキープするのは難しくない。調子が良ければそういう歩き方になるんだろうけど、調子の悪いときでも同じように振る舞うべきなんだと思う。少しでも”バウンス”を入れることで、ポジティブなエネルギーが戻ってくるんだから」



ーーゴルフではボギーの直後にバーディーを取り返すことを「バウンス・バック」という。不振の1年を過ごしたマキロイ、来年はバウンス・バックできるのか?(Number誌)

「もちろん、できる」

マキロイは力強くうなずいた。

そして、跳ねるような足取りでフェアウェーへと向かっていった。






(了)






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 11/14号 [雑誌]
「バウンス・ステップをもう一度 ローリー・マキロイ」



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「名選手にして名監督」 岡本綾子 [ゴルフ]



2013年9月1日日曜日

「名選手にして名監督」 岡本綾子 [ゴルフ]


元プロ・ゴルファー
「岡本綾子(おかもと・あやこ)」

日本人として唯一、最高峰の米国ゴルフツアーで「賞金女王」に輝いたレジェンド。

Number誌「古くは樋口久子から、宮里藍や宮里美香、上田桃子、有村智恵など、多くの選手がアメリカに活躍の場を求めている。だが、年間チャンピオン(賞金女王)に輝いたのは岡本綾子、彼女一人しかまだいない」










■型破り



岡本は、そもそもゴルファーとしてのスタート時点から型破りだった。

高校ではソフトボール部に所属。ゴルフに転向したのは21歳と遅かったが、ゴルフを始めてほんの1年ほどの23歳で早々、プロテストに合格してしまった。初優勝は、そのデビュー1年目の年である(1975)。専任コーチすらいなかった。

岡本は語る。「一打一打を考えながら練習していたからだと思います。一球一球を打つたびに、神経を研ぎ澄ませながら取り組んでいました。だから、一日300球以上打ったことがない。その代わり、その300球のどれにも意志が籠っていました」

ソフトボールで鍛えた身体は、ゴルフにも活きた。

「ソフトボール時代の投手の経験も生きました。投手は指先の感覚が鋭いので、ゴルフのコントロールにはそれほど苦労しませんでした」



順風満帆。

だがプロ3年目、岡本綾子はメディアに散々叩かれた。

「馬鹿ですよねぇ。ソフトボールでは勝ったらガッツポーズが当たり前だったから、思わず癖が出てしまったんです」

国内メジャーのワールドレディス、女王・樋口久子と首位で並んでいた最終ホール、樋口がパーパットを外した瞬間、岡本は思わずガッツポーズをしたのだった。

「すると、プロ仲間やメディアに『人のミスを喜んで!』と散々叩かれてしまいました」

それからだった。岡本が喜怒哀楽をすっかり表に出さなくなってしまったのは。



もともとマイペース。

朱に交わることをよしとしない。

デビュー戦で勝利を飾った時も、記者から「目標とする選手は?」という問いに、岡本は「いません」と素っ気なく答えていた。

「いません」「ありません」とぶっきら棒な岡本の受け答えに、ある男性記者はついに切れた。「目標を聞かれたら、普通は”樋口久子”って言うんだよ! 覚えとけ!」



「生意気」というレッテルが貼られた岡本。

反面、先輩たちからは「ふにゃ」とアダ名された。自分の考えを容易には表さないその態度が「ふにゃふにゃ」していると取られていたのである。

岡本は言う。「当時は、先輩後輩の規律が厳しく、先輩の言うことはすべて正しいと受け入れなければなりませんでした。でも、私には私の考えがあった。それを曲げるのが嫌で、イエス・ノーをはっきりしなかったために付けられたニックネームだったんです」






■アメリカ



周囲に何と言われようと、岡本の飛距離とショットの正確さは「当代随一」。

Number誌「とくに飛距離は、当時の女子プロの平均飛距離210〜220mを大幅に上回る240〜250m。パワーの時代を切り拓いた」



1979年から、岡本綾子はアメリカの女子ツアーにスポット参戦(28歳)。1983年からは、日本女子では初めて、米国LPGAツアーに本格参戦を決めた(32歳)。

すると、日本のゴルフ界は蜂の巣を突っついたように大騒ぎ。その頃には岡本は、日本のゴルフ界を一身に背負う大スターになっていたため、その不在となれば、女子ゴルフの興行収入が大幅に減ると懸念されたのだった。協会をはじめ、関係者がこぞって猛反対するのであった。

「二度と日本でゴルフが出来なくしてやるとまで言われ、かなり神経を擦り減らしました」と岡本は、追い詰められていた当時を思い起こす。

「でも正直に言うなら、もう日本でやることがなくなってしまっていたんです。ドン詰まりの状況を変えるには『アメリカに行くしかない』というくらい切羽詰まっていたんです」



岡本は、鎖を断ち切った。

そして、新天地アメリカの懐へと飛び込んだ。

ジェスチャー混じりの、片言の英語で。



「アメリカを本拠地にしていたのは私くらいだったので、遠征に行く先々でツアー仲間が『私の家に来れば』と誘ってくれました」と岡本は言う。

そんな「たらい回し」が、もともと大陸的な性格であった岡本には心地良くもあった。

「いろんな家を渡り歩くのは苦痛じゃなかったですね。むしろ、さまざまな家族に出会えて楽しかったな…」



Number誌「この発想は、海外に活躍の場を求める日本人選手との大きな違いである。近年の選手は、通訳とかトレーナーなど帯同スタッフとともに移動し、日本といる時と同じような環境を求めようとする傾向が強い」

岡本は言う。「選手らと友達になれば、おしゃべりの中から貴重な情報もないります。コースの特徴、クラブの特性などから、あの記者は変わっているとか。彼女たちがくれた情報にどれだけ助けられたことか…」

現地の環境に慣れるというのも、岡本に言わせると「ゴルフ技術の一つ」であった。






■頂点



米国ツアー本格参戦のその年(1983)、早くも岡本は優勝した。

翌1984年には3勝を飾り、賞金女王争いにも顔を突っ込み始めた。

「ショットに関しては、あらゆることがクリアに見えました。どう打てばどこにボールが落ち、どう転がってカップのどの辺りで止まるかはもちろん、ボールとクラブ・フェースの間に芝が何本絡んだかまで感じ取れました」

まさに岡本綾子、絶頂期。

「私はどこまで行っちゃうの? とさえ思えました」



自らのもつ無限の可能性を体現していたちょうどその時、岡本を襲ったのは持病の腰痛だった。

Number誌「激痛でベットからも起き上がれず、手足が痺れた。痛み止めを飲むものの、副作用が強く試合中も睡魔に襲われる。試合途中で動けなくなった1985年夏ついに、腰にメスを入れた」



「自分にピタリ、ピタリとはまるあの感覚を思い出したい」

相変わらず重い腰を引きずりながらも、手術の半年後、岡本は復帰を果たす。

Number誌「一打一打に願いを込めてクラブを振り続けたところ、それまでの豪快なゴルフから、丁寧で繊細なスタイルに変わっていた。結果的にはそれが功を奏し、1987年(36歳)にアメリカ国籍以外の選手では初めて、岡本が米ツアーの賞金女王に輝いたのである」



本人は、その抜群の名誉を誇る風はない。

むしろ、「頂点というのは一瞬なんです」と達観していた。

自分の極みを覗いてしまったからか、「賞金女王としての栄誉は、いわば付録にしか過ぎなかった(Number誌)」。










■チーム岡本



子どもの頃に夢見ていた「農業」。

それをやりつつツアーに参加するという「半農半ゴルフ」の生活を考えていた岡本は、実家にほど近い広島のゴルフ場を購入。半分を畑にしてしまった。

Number誌「畑をゴルフ場に造成する例はゴマンとあるが、ゴルフ場を畑に変えたのは岡本くらいである」

両親の介護もはじまり、自身も腰痛ら入院生活を強いられるようになると、岡本は日本女子ツアー44勝、海外女子ツアー18勝の実績に区切りをつけた。



母が亡くなると、岡本は喪失感に包まれていた。

そんな2007年の暮れ、ミズノから服部真夕の「指導」を依頼される。服部はその年にプロテストをトップ合格した新進気鋭であった(当時19歳)。

「私は根っからのお人好しなんです」と言う岡本は、現役時代から後輩に聞かれれば何でもアドバイスしていた。その岡本のちょっとした助言で蘇った選手も多かった。

「困ったら、綾子さんに聞け」と女子ゴルフ界では言われていたほどに。



正式に岡本の門下生となったのは服部真夕が最初であったが、「なら私も」と、表純子と青山加織が翌年に、そのまた次の年(2009)には森田理香子が「チーム岡本」に参加してきた(2011年には若林舞衣子も)。

「『チーム岡本』というのは、私が言ったのではなく、選手たちが勝手に言い出したものです」と岡本は言う。「でも、彼女たちはメンバーをチームとして捉えた。それが大事なんです」



個人競技であるゴルフは、基本的に「自分以外はライバル」である。そこには「仲間であるがライバル」という矛盾を内包している。

チーム岡本の最年長、まとめ役の表純子(39)はこう言う。「食事はほとんど毎日一緒。家族といる時間より、このメンバーと過ごす時間の方が多いので、お互いのことは熟知しています。でも、食事のときはゴルフの話はしません。ライバルなんだけど仲間、という微妙なバランスがうまく機能している気がします」

岡本は「ゴルフはどんなにテクニックを磨いても勝てる競技じゃありません。最後は人間性がものを言う。それも『ゴルフ技術の一つ』」と言う。「ゴルフは個人競技ですが、仲間意識を持つというのは人間性を高める上でとても大切なことです」










■名監督



意地の悪い見方は、「名選手、名監督にあらず」と言う。

だが、「名選手」岡本は同時に名監督でもあった。彼女の指導を受けた門下生らは、その途端にジャンプアップしてしまうのである。

Number誌「服部真夕は2008年11月、IDC大塚家具レディスでプロ2年目にして初優勝。若林舞衣子も入門直後に西陣レディスクラシックで4年ぶりの優勝を手にした。毎年シード権のボーダーラインにいた表純子にいたっては、なんと今季、ヨネックスレディスで8年ぶりに優勝を果たした」



岡本の指導は、型にはめることなく足りない部分を埋めていく。

岡本はゆったりとした口調で、こう言う。「赤い色の選手がいるとします。この選手に白を加えたらどうなるか? もし黒を足したら赤の発色は消されてしまうのではないか? あるいは緑を足して青にした方が、この選手は活きるかもしれない…」

そんな「ありとあらゆること」を想定しながら、岡本は選手らと向き合う。



「私は褒めるのが基本。叱ると、脳と身体が萎縮してしまい、人の話に耳を貸さなくなるんです」

岡本は、「アドバイスが届く環境」を念入りにこしらえてから、選手と話す。

「まず、彼女たちの個性や考え方を知らないことには、教えることはできませんから。だから、この選手が興味をもつものは何かをいつも探っています」

岡本は食事にも同席。携帯アプリの「LINE」も頻繁に使う。それが彼女らの用いるコミュニケーション・ツールであるからだ。



「岡本さんのアドバイス通りに練習すると、なぜかパフォーマンスが上がるんです」と、チーム岡本の若林舞衣子(25)は不思議がる。

「岡本さんの言葉は偉大です。たとえば誰かが岡本さんと同じことを言ったにしても、すんなり耳に入らないけど、岡本さんの言葉は『骨の髄にまで届く』んですから」

森田理香子も同じようなことを言う。「一つ一つの言葉が重くて、褒める言葉もそうだし、試合前の一言一言が心に染みる」



岡本の言葉はさり気なく、時に指導されていると選手は意識していないこともある。年齢差の壁も感じさせなければ、かつての偉大な実績すらおくびにも出さない。

それは、「その選手の目線」に岡本が巧みに合わせてくるからだ。

「たとえば、10のことを教えるにしても、選手によっては1、2、3の順番がいい人もいれば、1、4、2の順で教えた方がいい場合もある。効率を求め、5人一緒に1、2、3で教えちゃったら、みんなを潰しかねない」と岡本は言う。










■勝負師



時に岡本は、禅問答のような言葉も発する。

「『悩む』ということと、『考える』ということは違うよね」

その真意を図りかねる服部真夕。

「悩みを岡本さんに相談すると、『そんなことは誰にでもある。考えなさい』って。だから考えるんですけど、考えがまとまらなくて、また悩んじゃう…」



最近の選手の多くは、小さい頃から親やコーチから指導を仰いでいるために、自分の頭で考える癖ができていないという(もっとも、物心つく前から徹底してレッスンを受けるからこそ、20歳前後でプロにもなれるのだろうが)。

「たとえば、テクニック的に壁にブチ当たると、すぐに他人にすがるんです。失敗すると責任転嫁をしたがる」と岡本は言う。「だから、うちの選手にはまずそこから、気づかれないように鍛え直しているんです(笑)」

岡本は「勝負師としての魂」を見据えている。それは教えられて作られるものではない。自らが修羅場のなかで磨き上げていくものだ。



今年(2013)6月、サントリー・レディス

試合終盤になっても6人もの選手が首位タイに並び、互いに一歩も引かない「ひりひりするような魂の擦り合い」が展開されていた。

そのギリギリの競り合いを逆転で制したのは、森田理香子(23)。チーム岡本の最年少、末っ子であった。



その最終ホールのプレイを見ていた小林浩美(女子プロゴルフ協会会長)は

「あれこそ、勝負師のプレイです」

と、森田理香子のプレイに感情を高揚させた。

Number誌「小林会長に『勝負師』と讃えられた森田は、『岡本さんから”勝負はバックナイン”といつも言われていたので、10番からは気持ちを入れ替えて勝負にでました』と、儚げな表情を浮かべながら小声で言った」



今季絶好調の「勝負師」森田理香子。

Number誌「meijiカップを終えた8月11日現在、2位の堀奈津佳に3,000万円の大差をつけ独走している」

まさに森田は「最強遺伝子」を受け継いでいる。その理由を、森田はこう語る。

「(チーム岡本のメンバー)それぞれが勝負の場面で得た経験を、自分の経験として重ねることが出来るので、力が3倍4倍にもなります」






■半農



岡本綾子も62歳になった。

「何だかんだ言っても、選手の成長を目の当たりにするのは楽しい。人を育てるのは、こんなにワクワクさせられるものだとは知らなかった。私も彼女たちににエネルギーをもらっているのかな(笑)」

そう言って笑みを浮かべるその肌はツヤツヤし、のんりびした言葉にもハツラツさを感じさせる。

「私はもともとマイペースな人間だから、人様を教えるなんて考えてもいなかった。でも、縁あって選手を預かった以上は、私が現役時代に得たものを少しずつ伝授していこうかなとは考えています。でもこれ以上は増やせません。5人を指導していると、どうしても畑仕事をする時間がなくなってしまいます(笑)」



思うに任せぬ畑仕事に、岡本は名案を思いついた。

「予選に落ちた罰で、畑の草取りをやってもらっているんです」

ところが、メキメキ腕を上げる「勝負師」らはそう簡単には予選落ちをしない。

「誰も予選落ちしなくなったら、うちの畑はどうなっちゃうのかしら?」

岡本は嬉しそうに、そう悩むのであった。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/5号 [雑誌] 「最強遺伝子を継ぐものたち 岡本綾子」

2013年8月20日火曜日

ドン底からのアメリカ一年目 有村智恵 [ゴルフ]



プロ8年目、今季の「有村智恵(ありむら・ちえ)」はアメリカ・ツアーに参戦していた。日本で13勝、賞金獲得額3位という、たいそうな鳴り物入りで。

ところがシーズン序盤、「予選落ち」の続いた有村。いきなりドン底に沈んでいた。



4月上旬、映えあるメジャー第一戦となるはずだったクラフトナビスコ選手権。

Number誌「過去2回はともに10位以内に入っていた相性の良い大会にも関わらず、ショットミスが相次ぐなど『有村らしさ』は影を潜めた。まさかの予選落ちである」

敗戦のショックは大きかったが、試合後は大勢集まった報道陣を前に気丈に対応した。しかし、その輪が解けると、それまで張り詰めていた気丈の糸までがほどけてしまったかのように、大粒の涙が頬を伝った。

拭っても拭っても止まらぬ涙。カリフォルニアの抜けるような青空を背に、有村はずっと肩を震わせていた。



その後、有村は一時帰国し、心機一転、地元熊本で行われたバンテリン・レディースオープンに出場。

Number誌「得意なコースに意気込んでいたが、米ツアーを含めると『3試合連続での予選落ち』という異例の結果となった」

不甲斐ない自分…、先を失った不安…、またしても涙は止まらない。



「アメリカに戻りたくない…、怖い…」

久しぶりに郷里の家族や友人と会って里心がついてしまったか、有村はアメリカへの意欲を忘れ、ただ暗闇の中をさまよっているような心細さだけを感じていた。

そんな有村の不安はプレーにも現れており、父・明雄さんも「どうしてそんなに怖々プレーをしているんだ?」と、らしくない娘に戸惑いを隠せない。



一昨年に痛めた「左手首」という爆弾もあった。それをかばうあまり、有村のプレーからは「思い切りの良さ」が失われていた。それが持ち味であったにも関わらず。

「手首をかばって、自分の思うようなスイングができなくて…」

春先から手首の調子が思わしくなく、テーピングをして試合に臨んでいたこともあり、有村は本能的に手首をかばうようなスイングをしてしまっていた。それは「ショット・メーカー」の異名をとるほどの有村にとっては致命的だった。



「ゴルフってこんなに難しかったっけというくらい、すべてが本当に怖かったんです…」と、有村は当時の心境を語る。

「自分のゴルフが見えなくなっていました。身体の大きなアメリカ人選手に(飛距離で)置いていかれるなら納得できるんですけど、自分よりも身体の小さいアジア人選手にも置いていかれて…」






米ツアー第9戦「キングスミル選手権」

あいくにの悪天候、5月とは思えぬほどの寒気と強風。冷たい雨が有村の体温を奪い、そしてスコアも初日3オーバーと大きく出遅れていた。

またもや脳裏にチラつく「予選落ち」。この時、有村は珍しくも姉の美佳さんにメールを送ったほど落ち込んでいた。

「これから先、ドンドン落ちちゃうんじゃないかな、っていう恐怖感がすごいありました…」



辛うじて持ちこたえた有村は、2日目に1アンダーで回って何とか「4試合ぶりの予選通過」を果たす。

ようやく、ほっと息をつけた有村。「兆しが見えた」とようやく小さな笑顔が戻った。スコアには大きく結びつかなかったものの、「勇気をもって振れた」ことが暗闇からの大きな一歩となった。



不調の影には「言葉の壁」もあった。

「ここでは追風に感じるけど、ピンは右から吹いているよね」

そうキャディに聞きたくとも、限られた時間の中、「端的な英語」で表現する術を有村は知らなかった。クラブの選択もラインの読みも基本的には自分で決める有村だが、キャディに的確なアドバイスを必要とする時がもちろんあった。

「(聞けなかったことは)大きなディスアドバンテージだったと思います」と有村は振り返る。



その一方、「言葉の通じる」先輩たちは的確なアドバイスを有村に与えてくれた。

東北高校の先輩である宮里藍は、「日本は空気を読む慣習があるけど、アメリカではそれがないから、きちんと言葉で伝えないと」と有村を諭し、「こっちに来た以上、その努力をしないといけないよ」と発奮を促す。

そうして背中を押された有村は「悩んでいる暇があったら、英語を勉強しよう」と、予選落ちの無念を新たな力に変えはじめた。



また、体力の問題もあった。

Number誌「米ツアーの多くが4日間大会で、最終日にラウンドを終え、シャワーを浴びたらすぐに空港に直行。翌日には次戦のコースを回り始める。前の試合の反省をする暇さえない」

米ツアーではルーキーの有村。プロアマにもまだ名前が入っていないため、試合前日にコースを回るためには、プロアマがスタートする前、つまり陽が昇る前にはコースに出ていなければならなかった。

「陽が長いから、いつまでもプレーできるし、日本にいるよりも体力がいるなぁと思いました」と言う有村は、休養が必要だと知りつつも、ついついオーバーワークになってしまいがちだった。予選落ちが続き、「練習しないと」という焦りも彼女にそうさせてしまっていた。



「自分の『身体の声』に耳を澄まさないと」

米ツアー5年目になる先輩・宮里藍は、じつにシンプルな答えを有村に与えた。

「藍センパイと話をして、『日本の当たり前を捨てよう』と思ったんです」と有村は話す。






見えなくなっていたゴルフが見えてきて、スイングに有村らしい思い切りが見られはじめると、そのスコアはぐんぐんと伸びてきた。

Number誌「ここまで13試合を戦って、3試合で10位以内に入った。優勝が見える位置で戦い、一時首位に立った試合もある」

一緒に回っていた選手が「どうやって打ったか教えて」とつい口にしてしまうほどの「スーパーショット」も有村のクラブから飛び出すようにもなっている。



予選落ちが続いた時には「なぜアメリカに来たんだろう…?」と思い悩み、幾度となく「もう帰りたい…」と願った有村。

春先のドン底で歯を食いしばり続けた彼女は、今ではもうすっかり吹っ切れている。

「アメリカ挑戦は自分が決めたことで、誰から頼まれたわけじゃないですよね。だから、『イヤなら帰ればいいや』って考えるようになったんです」

そう言ってクスクス笑う。夏らしい涼やかなワンピースとちょっと踵のある靴に身を包み、フワリとした柔らかな雰囲気を醸し出しながら。



上手く話せなかった言葉も、今やネイティブの速い英語にたじろがない。

一人暮らしで三食自炊を心がける彼女は、どこのスーパーが安いかもすっかり心得ている。運転の荒いアメリカ人ドライバーももう怖くはないし、近所ならばカーナビもいらなくなった。

すべてを恐る恐るやっていた日々が、今では懐かしくさえ感じられる。



「アメリカでのプレーは楽しくてしょうがないんです」と、今の有村は言葉を弾ませる。

眼下に見える、いつも練習しているグリーン。休暇中の人々がプレーを楽しみ、子供たちはコース横のプールで水遊びに歓声を上げながら、父親のホールアウト待っている。

かつては鈍く沈んで見えたグリーンも、今の有村の目には鮮やかに輝いて見える。



たとえ試合の結果が悪くとも、コーチやスタッフが「次があるさ」と温かく励ましてくれる言葉も、今は素直に聞ける。

「できないことがたくさんあるから、練習したくてたまらない気持ちになるし、すごくキツイと感じることがあっても、それが間違いなく自分のプラスになるだろうなというワクワク感になるんです。乗り越えたら、スゴイものが見えるんだろうなって」

スカートの裾を夏の風に翻す彼女は、ごく普通の25歳。

彼女にとってのアメリカは、まだ季節も一巡していないのであった。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 8/22号 [雑誌]
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2013年5月23日木曜日

巌流島の小次郎もどき、「長尺パター」を禁じられる [ゴルフ]




ゴルフ場のグリーン上

妙に長い「長尺パター」

巌流・佐々木小次郎か?







じつはそれ、パッティング時に身体の一部に固定して打つ「アンカーリング」のためのもの。

このアンカーリングは1980年代から見られていたものであるが、ここ数年、さかんに流行しているものでもある。

「直近のメジャー大会では、優勝者6人のうち4人が『長尺パター』を使用してタイトルを獲得している(AFP通信)」







その小次郎連中に挑むのは、宮本武蔵よろしく「タイガー・ウッズ」。

「早急に規制を適用してほしい」と訴える。

「ゴルフというのは緊張も自分の力でコントロールしなければならないスポーツだ」と、世界ランク1位のウッズは言う。







すでに、この長尺パットによるアンカーリングは2012年、USGA(全米ゴルフ協会)とR&G(ロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフ・アソシエーション)では、その禁止が提言されていた。

だが、長尺パターを愛する選手たちからは、「反対の声」が上がっていた。プルプル震えるパターを、身体のどこかに当てて固定したいのだから。



そして今日(5月22日)、ついに禁止が決まった。

「USGAとR&Aは、2016年シーズンからパッティング時のアンカーリングを禁止すると発表した(AFP通信)」

「この決定は対立を生むものだと考えているが、ゴルフにとっては正しい判断だと確信している」と、R&Aのピーター・ドーソン最高経営責任者は語った。



小次郎、敗れたり!

巌流島の決闘は、やはり武蔵に軍配が上がった。







(了)






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ソース:AFP通信
「パッティング時のアンカーリング禁止が決定、2016年から導入」

2013年5月22日水曜日

寡黙静謐、松山英樹。アメリカへの想い [ゴルフ]




今年(2013)4月にプロとなったゴルファー「松山英樹(まつやま・ひでき)」21歳。

19歳ですでに、アジア・アマチュアゴルフ選手権を制し、その翌年に連覇を成し遂げていたほどの彼であるが、プロ転向にはずっと慎重な姿勢を貫いていた。



そして今年のプロ一年目

「国内ツアー4試合に出場して1勝、2位が2回という好成績で、賞金ランキングの首位につけている(AFP通信)」

プロ転向後、まだ2ヶ月。それでも松山は十分すぎるほどの成功を、すでに収めている。



ところで、松山の同年代には「石川遼」がいる。彼はすでにアメリカ・ツアーに参戦している。

多弁な石川遼に、寡黙な松山英樹。

今回、日本外国人特派員協会で松山英樹の見せた緊張は、そんなイメージ通りだった。



「Hello, my name is Hideki Matsuyama. Thank you for coming here today……」

英語で話すのは、ゴルフよりも緊張するという松山。この場に呼ばれるのは、尾崎将司、宮里藍、片山晋呉、石川遼に次いで5人目だ。

「その緊張ぶりは少し離れたところから見ていても、十分に伝わってきた(sportsnavi)」



ゴルフ場では何百、何千というギャラリーに囲まれてプレーする松山も、外国人特派員協会という場には、言い知れぬ重圧がある。

それでも松山は丁寧に、「一刻も早く、アメリカ・ツアーに参戦したい」と明言した。

「(メジャーで)勝てる要素はあります。マスターズではラフがほとんどなくてグリーンが硬くて速い。正直ティーショットは曲がっていいから、その他を極めれば勝てると思っています」



現在、松山英樹の世界ランキングは80位。石川遼の114位を上回り、日本人選手では藤田寛之に次いで2番手につけている。

華やかな雰囲気をもつ石川遼に対し、この松山英樹という男は静謐を好むかのようであり、「20歳でマスターズ優勝」と金看板を掲げた石川に対して、松山は「とりあえず一戦一戦、一打一打やっていきます」とじつに謙虚である。

「語るよりも、いま何をやるかの方が大事。松山の全身が、プレーが、そんな言葉を発しているようだ(sportsnavi)」



朴訥さの中に「勝負強さ」をあふれさせる松山のプレー。

「無言の凄みが、その重量感を増長する」



そんな彼が口にした「アメリカ参戦」。

いよいよ大きな歯車が動き出す…!













(了)






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ソース:
AFP通信「松山英樹 米国ツアー早期参戦に意欲」
sportsnavi「松山英樹が持つ、石川遼と対照的な凄み」

2013年5月6日月曜日

「オンニ(姉)がいたからこそ」。全美貞(ジョン・ミジョン)[ゴルフ]



「来日直後は、言葉が分からず電車にも乗れず、食事はスーパーの冷えたお弁当…」

日本にやって来た韓国人プロゴルファー「全美貞(ジョン・ミジョン)」。今年で来日9年目。毎年着実に勝利を重ねながら、「昨季は4勝を挙げて初の賞金女王に輝いた」。



「はじめて日本に来た時、東京のビルの隙間から、ディズニーランドの花火が毎日見えて、とても不思議でした。姉と2人で『いつか行きたいね』と言って眺めていたのが、つい昨日のようです」

賞金女王の授賞式、ミジョンのスピーチは驚くばかりに流暢な日本語であった。

Number誌の記者も舌を巻く。「これまで数多くの韓国人アスリートを取材してきたが、日本語の上手さは彼女が断トツだ」。



「独学です。『天空の城ラピュタ』や『ハウルの動く城』など、宮崎駿監督のアニメを流しっぱなしにしたりして(笑)」

そう言って、全美貞(ジョン・ミジョン)は朗らかに笑う。







もともとインライン・スケートの選手だったという全美貞(ジョン・ミジョン)。ゴルフを始めたのは中学3年生(15歳)からだという。

「それからわずか4年で韓国のプロテストに合格。2001年に賞金ランク10位、その翌年には初優勝。韓国国内では飛ぶ鳥を落とす勢いだった(Number誌)」

ところが、当時の韓国のツアーは年間12〜13試合と、どこか張り合いがない。そこで目指したのが隣国・日本。



「日本LPGA(女子プロゴルフ協会)のQTを受けたら、運良く合格してしまって…。身近な隣国で海外経験してからアメリカに行くのも悪くないと思い、日本に来たんです」とミジョン。

「QT(クォリファイング・トーナメント)」とは、日本の女子プロゴルフツアーに参戦するために必要となる出場ライセンスを獲得するためのトーナメントである。



日本のコースはどこも手入れが行き届いていた。

「思い描いていた理想のゴルフ環境」

ギャラリーたちも多く、そしてマナーも良い。



だが、勝手の分からない「日本の生活」には少々苦労した。

「(一緒に来た)姉も私も、2人とも日本語が分からず、日本には頼れる友人もいませんでしたから…」

頼りは、韓国で買ってきた日本のガイドブックと電子辞書。



飛行機や鉄道の切符の買い方も分からない。

「面倒だったので、レンタカーを借りて移動していたのですが、日本があんなに広く長い国だとは思いませんでしたよ(汗)」

カーナビに指示を一任して転戦した姉妹。四国から関東、福島から兵庫、九州から中国…。日本人には考えられないほどの長距離を、レンタカーで走りまくっていた。



それもこれも「土地勘のなさ」が災いしたわけだ。時に、唯一の頼りであるカーナビが、人影のない山の麓に姉妹を置き去りにしたこともあったという。

「予約した宿泊先に電話しても、現在地を説明できず、移転先も聞き取れない。暗闇の中で立ち往生するしかありませんでした」



日本語が読めず、喋れない。

言葉ができないゆえに、ゴルフ場でも右往左往。来日1年目は、5回も予選落ち。

「言葉のストレスと不甲斐ないスコア。姉と二人っきりになれるレンタカーの中で、いつも泣いていました…」とミジョン。



ただ、姉は決して妹ミジョンの前で涙を見せなかったという。

4歳年上の姉・美愛(ミエ)。妹のために会社勤めを辞め、ゴルフ未経験ながらもキャディとして妹のために尽力していた。

レンタカーのハンドルを握る姉ミエ、たとえ心の中では泣いても、妹の前では気丈な姉だった。



「ふたりして泣いても、気が滅入るだけですからね」と姉ミエ。

むしろ、泣く妹を叱咤する。「勝てないのは、アンタが下手だから。勝ちたかったら練習しなさい!」

予選落ちした翌日でさえ、無理やり妹ミジョンを練習場に引きずって行ったという。



その姉にとっても忘れられないのが、ビルの隙間から見えた「ディズニーランドの花火」。

遠くに見える小さな花火は、自分たち姉妹の希望の灯でもあった…。



来日2年目、全美貞(ジョン・ミジョン)は悲願の日本ツアー初優勝を果たす(2006 Meijiチョコレートカップ)。

「滅多に泣かないオンニ(姉)が初めて大泣きしたんです」と、ミジョンは振り返る。

ミジョンは、キャディバッグを担いだままの姉としっかと抱き合い、泣きに泣いた。



のちに姉ミエは、妹のコーチ金鐘哲と恋に落ち、2008年に結婚。それを機に、韓国へ帰っていった。

妹ミジョンは、そのまま日本ツアーでプレーを続け、冒頭で述べた通り、着実に勝利数を積み上げ、昨季は「賞金女王」にまで輝く。もう、日本語だってお手のものだ。



当初の目標だったアメリカも、今ではさほど魅力を感じなくなっている。

「日本のレベルはアメリカにまったく劣らないし、ギャラリーの多さや大会運営に関しては、むしろ日本のほうが上だと思いますから。それに私、青い目や金髪の人たちが苦手なんでよ(笑)」とミジョンは笑う。

なにより日本人は心優しい。彼らにとっては外国人であるはずの全美貞(ジョン・ミジョン)が賞金女王になっても、一緒に喜び、祝福してくれる。



「私、アリガトウという日本語が大好きなんです」

この言葉は、言う方も、言われる方も、その両方を幸せにしてくれる。

「日本は私に幸福感を与えてくれる国なんです。そして、私をプロゴルファーとして成長させてくれた国。この国で、いつまでも長くプレーしたいんです」

そう言って、ミジョンは控えめに微笑んだ…。








(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 5/9号 [雑誌]
「姉がいるからこそ 全美貞」

2013年4月7日日曜日

魔女好み? タイガー・ウッズの悲話と完全復活。



「完全復活」か?

3月のアーノルド・パーマー招待を制した「タイガー・ウッズ」。今季3勝目にして、ツアー通算77勝目を達成。

「そのプレーぶりには、かつての『強い』というイメージよりは、むしろ『熟達した盤石さ』が漂う(Numbrer誌)」



思えば4年前、2009年末に「不倫騒動」を巻き起こしたタイガーは、その後の2シーズンを未勝利に終わっていた。

復調の兆しは昨季から。昨年、年間3勝を上げた勢いのままに、今季は早々に3勝目を上げたのであった。

「29ヶ月ぶりに世界一の座に返り咲いた(Number誌)」



メジャー大会では、ジャック・ニクラスの歴代1位、メジャー通算18勝という偉業に、タイガー・ウッズは「あと3つ」と迫る。

かつてそのニクラスは、こんなことを言っていた。「タイガーの素晴らしいところは、カッとなっても2秒で切り替えられることだ」。



「その沈着さを完全に取り戻した感のあるタイガー。もしかすると、プレーの冷静さは『絶好調のとき以上』かもしれない(Number誌)」

まさに、世阿弥のいう「離見の見」。37歳になるウッズは、プレーしている自分の姿を客観的に眺めているかのようである。



世界中が一斉に「復活」と報じた時、タイガー自身は冷静にこう返していた。

「起こるべくして起こったことだ」

タイガーは、「すべての時間を練習とトレーニングに費やしてきた」と語った。



ふたたびニクラスの言葉。

「プレッシャーの中で戦うことが中毒になるくらい愉しいと思えること」

それが彼の勝利を導いたのだ。



タイガーが次なる勝利を目指すメジャー大会は、魔女が棲むといわれる「オーガスタ」。

このコースと相性の良いタイガーは、このコースの最小打数(270)と通算スコア(−18)という最高記録をもつ(ともに1997年)。



オーガスタの魔女は「スポットライトを浴び続けさせるより、苦労話や悲話に溢れる人物を表舞台に引っ張り上げるのが好み(Number誌)」とも云われる。

そんな魔女の好みを考えると、「今年の優勝候補の筆頭はタイガー・ウッズだ」。

かの不倫騒動から始まった悲話をとりあえず締めくくるには、「オーガスタでの完全復活」が最も相応しいストーリーだろう…!








(了)



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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/18号 [雑誌]
「タイガー・ウッズ、完全復活の日は近いのか」
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2013年3月25日月曜日

不振にあえぐ石川遼。スクラップ&ビルド



石川遼が発する言葉に、「物足りなさ」を感じるようになったのはいつの頃からだっただろうか…?

「態度が横柄になったわけではない。ただ、どこか予定調和で、かつてに比べてどうも面白みを欠くようになっていた(Number誌)」



「かつて」の石川遼のコメントは冴え渡っていた。

2009年夏のサン・クロレラクラシック。初日から首位独走の石川。3日目終了後に「完全優勝に大手ですね」という記者に、石川はこう返した。

「王手はおこがましいでしょう。僕には将棋の『歩』が『と金』に成ったぐらいです」と。

幼い頃から「笑点」を見て育んだという、彼らしい当意即妙のコメントであった。



「かつて」の石川は、不躾(ぶしつけ)でもあった。

「不甲斐ないショットに叫び声を上げ、クラブを投げつけて問題視されたこともあった(Number誌)」

こうした行為はマナー上は許されるものではない。しかしそれは、アスリートたちが内に秘める膨大なエネルギーの発露でもあった。しかし、今はこうした仕草もすっかりと影を潜めている。



6歳でゴルフを始めたという石川遼。

15歳だった2007年、マンシングKSBで日本ツアー「史上最年少優勝」。プロ転向後2年目の2009年には、4勝を挙げて「史上最年少の賞金王」となった。

2010年の中日クラウンズでは、驚異的なスコア「58」を叩き出して逆転優勝。石川は「これをゾーンというのかもしれない」と名ゼリフを残した。







「日本における5年間で、自分のパフォーマンスを最大限発揮できれば、国内で賞金王を獲れることはわかりました。でも、僕が目指すのはメジャー制覇」

そう語っていた石川は、その言葉通りに海を渡り、アメリカツアーに挑戦。

しかし本格参戦した今季、石川は初戦から3戦連続で予選落ち(135位タイ、125位タイ、121位タイ)。6戦目までで、予選通過は2回しかない。

「2年間でわずか1勝…。世界ランキングは94位にまで落ち込み、優勝争いとは程遠い絶望的な結果が続く(Number誌)」



日本ゴルフ界の若きスターは不振に喘いでいた。そして、その不振とともに、石川のコメントは面白みを欠くようにもなっていた。

「石川のコメントに本音よりも建前が並ぶようになった。それは勝利から遠ざかり始めた時期と重なる(Number誌)」



アメリカで石川の体験していたのは、「未知のゴルフ」だった。

「日本で打ったことのないショットを、アメリカに来たら打たされるんです。とりわけメジャー大会のコースセッティングは『自分の考えが及ばない次元』にありました」と石川。

ストレートのボールは打てても、石川は「左右に曲がるボール」が打てなかった。

「基本的に日本のコースでは、まっすぐのボールしか打てなくても、精度がともなえば勝つことができます。だけど、そんなゴルフはアメリカでは通用しません。アメリカだと、そこに林があって邪魔をするんです」と石川は語る。



それからの石川は「自分のゴルフを壊しにかかった」。

左右に曲がるボールの習得、高い軌道のアイアンショット…。

「かつて」のゴルフはスクラップにし、新たなゴルフのビルドに取り掛かった石川。その新たなゴルフは、かつてのそれよりも恐ろしく高い精度を求めるものだった。



「同じスイングで100球打ったら、100球が同じところに飛ぶような技術を身につける時期だと考えているんです」と石川。

たとえば、ピンまで103ヤードの距離を狙う場合、かつての石川ならば、100もしくは105ヤードという5ヤード刻みのショットで対応していた。

「ところが今は違う。正確に103ヤードを狙う距離感を自分に求めている(Number誌)」



一年前、石川は「ロボットになりたい」と発言していた。

石川に言わせれば、その当時は「薔薇」という漢字を100回ノートに書いている段階だった。

「薔薇という漢字は、いくら何でも100回ぐらいノートに書き連ねれば覚えられますよね。でもしばらくして改めて『書いてみろ』と言われると忘れてしまっている。そこでパッと書くことができて初めて、自分に蓄積された知識となるんです」と石川は語る。







ロボットを目指した一年前の石川は、薔薇を100回書いている真っ最中だった。そのため、練習場では当たり前に打てる正確なショットも、コース上では思い通りに打つことが出来ずにいた。

ようやくその繰り返しが身体に蓄積されてきたのは、昨年9月の三井住友VISA太平洋マスターズの頃。この時の2年ぶりの勝利を、石川は「ひとつ殻は破れた」と振り返る。

「自分のレベルが一つどころか、二つも三つも上をいっていた」と石川。



彼の新たにビルドしたゴルフは、まさにロボットような精度に達していた。

こんなエビソードがある。3番から9番までのアイアンを試打していた時のこと、なぜか7番だけが思うよりも2ヤード飛ばない。

「あれ、おかしいなと思って確認していたら、ロフトが0.5度ぐらい寝ていたんです」と石川。「クラブの担当者も気づかなかったくらいだから、僕も少しはロボットに近づいているのかな(笑)」



今季の石川は、なおもスクラップ&ビルドの途上にある。

それゆえか、なかなか結果がついて来ない。それでも、石川は果敢に新しいショットをモノにしようとなりふり構わない。

「今は試行錯誤の時期と受け止めています」と石川。



「厳しい声を覆すには、結果を残すしかない」

そう話す石川は、突きつけられた現実に焦りも芽生えている。

それでも彼は、どこまでも遠い未来を見据えている。




「僕にはシード権を持つ唯一人のプロゴルファーとして、日本を代表してアメリカで戦っているという意識があります」

そう語る石川の矜持は高い。



今の石川に、コメントの面白さなど必要ない。

彼の欲するのは、笑点のザブトンではない。

石川遼は、メジャー制覇を志すプロゴルファーなのだ…!








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ソース:Number (ナンバー) WBC速報号 2013年 3/30号 [雑誌]
「石川遼 米ツアー1年目の挑戦」

2013年2月19日火曜日

「フェードの罠」と宮里藍(ゴルフ)



「30までに結婚するって昔は思っていたんですけど、あと3年しかなくなっちゃいました(笑)」

ゴルフの「宮里藍(みやざと・あい)」は、今年27歳。アメリカでの挑戦は早8年目。



「ミック(キャディ)に、『3年ってすごくリアルだけど、結婚できるかな?』って訊いたら、『Time will tell(時間が教えてくれるよ)』って言われて…(笑)」

宮里藍が高校生で優勝してから(ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン)、ちょうど10年。2人の兄から「弟」と呼ばれていたボーイッシュな少女は、そんなこと(結婚)を気にする年になっている。



昨シーズンの宮里は、序盤から好成績を連発。初戦で単独2位発進すると、続く4月のLPGAロッテ選手権では、4年連続となるシーズン1勝目を挙げた。

「バーフェクトな仕上がり。不安はない。期待しかない」

スイングコーチでもある父の優さんが、そう言う通り、昨季の出来栄えは渡米以来、最高であった。「手首の柔らかさを活かした、深いタメで玉を弾くことができている」と父の優さん。

父の期待通り、宮里は7月、ウォルマートNWアーカンソー選手権で、2勝目も手にすることになる。






しかしその後、前半の勢いはどこかへ消え去ってしまい、宮里の逡巡(スランプ)が始まることに…。それは「フェードの誘惑」でもあった。

フェードボールというのは、落ち際で左から右へと切れ、スライス回転がかかるために地面をとらえると転がらずに止まりやすい。このフェードを、宮里は苦手にしていた。



「『あぁ、ここでフェードが打てれば楽なのに…』ってラウンド中に何十回も思ったんですよ。『なんで、フェードが打てないんだろ?』ばっかり…」

そんな宮里に、キャディのミックは疑問を感じていた。宮里はフェードなしでも十分に戦える選手であったからだ。



それゆえ、「本当にフェードが必要なの?」と首をかしげるミック。

「必要だと思う!」。宮里はもう、意地になっていた。



かつて米ツアーデビューの2年目に、宮里はスランプに陥っているが、そのキッカケとなったのもフェードだった。アメリカではフェードを打てないと攻められないと、宮里は思い込んでいたのだ。

一ヶ月以上の試行錯誤、「クラブをどこに上げて、どこに下ろせば良いのかさえわからなくなっていた」という宮里。

そして結局、「なんかフェードが打てなくても戦えるんじゃない?」と薄々気づきはじめた宮里は、難なくスランプから脱出することになる。



その6年前と同じだった、昨シーズンのスランプは。

そして、「フェードが打てなくても、スマートに攻められる」と、今回も気づいた。



部外者から見れば、宮里は6年前と同じことを繰り返したように見える。だが、それは「まったく違う」と宮里は主張する。

「戻ってくる場所は同じなんですけれど、前回とは戻ってきた道筋が違うんです」と宮里。「前回はテンポの重要性を再認識し、今回はコースマネジメントに気づいたんです」。

「違う理由、違う思いがいっぱいあるから、そのたびに戻ってくる帰り道も違ってくる」と宮里は言う。



スランプに落っこちるたびに、宮里は何かを拾って、その穴から出てくる。

「そういう経験が、樹の幹が太くなるみたいに、私を強くしてくれるんじゃないかと思っています」と宮里。



アメリカでの試行錯誤は、彼女を大きく変えている。

日本にいた頃は、父の教えを素直に受け入れる「優等生」だったという宮里。しかし、昨季のスランプを脱出してからというもの、父がスイングをチェックしに行っても、「教えてくれるな!」という拒絶のオーラを発するようになったという。

「親離れ、コーチ離れも、ゴルファーにとっては必要なんです」と苦笑いの父、優さん。






宮里の強烈なオーラには、ときにキャディのミックも怯(ひる)んでしまう。

それはミックがクラブ選択をミスした時。

「ミックが『ここは絶対7番だ』って言い出すから、オーケーって。で、ふたを開けてみたら、ものすごいオーバーしてたんですよ!」と怒る宮里。

「そのときは彼に対して、すごぉく怒りましたっ!」



全身の毛穴から怒りを発する宮里。「藍ちゃん」などという可愛さは、もはや微塵もない。

その隣で、針のムシロに座らせれたようなキャディ・ミック。

宮里の怒りがおさまらないのは、「なんで自分の直感のクラブでいかなかったんだろう」という自分に向けられた怒りもあったからだ。「直感でプレーするというのが、自分のゴルフのコアな部分のはずなのに…」。



そんな怒りの宮里が良いショットを放った時、ミックは言った。

「Welcome back(お帰り)」

それでも怒っている宮里、「はっ? それ私に言っているの?」。

あわてたミックは、「違う、違う、ぼくのこと」と言い訳をする。



「思わず笑っちゃいました(笑)」と宮里。

笑うと途端に「藍ちゃん」が顔を出す。



アメリカという大地に根を張った宮里藍は、年を追うごとにその幹を太くしている。

そして、その大樹を慕うように、後輩たちが続々と彼女の背中を追いかけている。

「今まで米ツアーで日本人が5人もフル参戦したことはなかったと思います」と宮里。アメリカのマスコミも「ツアーに『ジャパニーズ・センセーション』が巻き起こる」と囃し立てる。



今年こそ、悲願のメジャー優勝へ。

パワーヒッター揃いの強敵とタフなコース。彼女の行く道は、長く険しい。



「メジャーに関しては『なるようになる』と思っています」と宮里。「それでダメだったら、しょうがない」。

彼女の言う「なるようになる」は、決して投げやりではなく、入念な努力の末の言葉である。

「アメリカで7年やって、まだメジャーでは全く結果が出せていません。でも、メジャーに対して毎年ちゃんと準備はしてきたつもりです」と宮里。



たとえどんな結果が出ようとも、宮里藍という大樹の幹は太くなり続ける。

そしてその大きな背中を今、未来の宮里藍たちはシッカリと見つめているはずだ…。








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前人未到の1億ドル。タイガー・ウッズ(ゴルフ)

賞金ランキング・トップ10に日本人が2人も! 女子ゴルフ



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/21号 [雑誌]
「今年こそ悲願のメジャー優勝へ 宮里藍」

2012年11月19日月曜日

アメリカに渡る理由。有村智恵(女子ゴルフ)


「まだ来ないな…」

宮里藍はそう感じた。後輩である「有村智恵(ありむら・ちえ)」の心の中にある「ためらい」に気がついたのだ。アメリカへ来ることへの…。

アメリカで戦う宮里には「海を渡らなければならない理由」があった。それは幼い頃からの夢だったのだ。宮里美香にしろ、上田桃子にしろ、アメリカ組にはそれぞれの然るべき理由があった。



しかし、有村にはアメリカ行きを決する明確な理由がなかった。

ただ漠然と、「アメリカに行くたびに、この環境で練習するのと、日本と練習するのとでは上達具合が全然違うな…」と感じているだけだった。アメリカなら丸一日練習しても飽きることがない。日本のコースではどうしても出来ない練習もたくさんある。

「そういうところで、どんどん『差』がつくんだろうな…」



長らく有村がゴルフに打ち込んできたのは、「家族のため」であった。

「今までの知恵は、まず家族のためにゴルフをしてきたんです」と、一緒に暮らす姉の美佳さんは言う。そんな妹のため、美佳さんはなけなしのバイト代を妹の小遣いとしてくれていたのだ。

「それが今は、家族の生活はもう大丈夫というぐらいにはなりました。だから、『何のためにゴルフをするのか』というのがハッキリしていないんだと思います」



「何のためにゴルフをするのか?」

もう、家族のためではない。じゃあ、何のために…?

そんな形にならない気分は、なかなかハッキリした想いに変わらずにいた。



そんな中、同い年の「チェ・ナヨン」の全米での大活躍が報じられてきた。7月上旬の全米女子オープンで、チェ・ナヨンが「ブッチギリの優勝」を飾ったのだ。その晴れやかな笑顔と圧倒的な強さ。

「それをテレビで見ているだけの自分…」

有村にもこの大会の出場資格があったのだが、その出場は見合わせていた。自ずと「後悔の念」が湧き上らざるを得ない。

「なんで私は出なかったんだろう…」



悶々が募る有村。

そこにまた友人たちの朗報が続々と届けられる。ロンドン・オリンピックだ。フェンシングの太田雄貴、競泳の立石諒…。同世代の選手たちは、美しく世界に名を轟かせていた。帰国した彼らに会った有村。太田からはピカピカの銀メダルを見せてもらった。テニスの錦織圭とは初めて会った。

有村にとって、「オリンピックのメダル」は垂涎の的だった。次のオリンピック(リオ・デ・ジャネイロ)では、ゴルフが復活する。



「みんな世界で活躍している。早く追いついて肩を並べたい!」

もはや悶々は晴れていた。そして、彼女にもついに「海を渡らなければならない理由」が心に芽生えた。



米ツアー挑戦。

その意志は固まった。覚悟も決めた。

決断の成否など誰にも分からない。それでも有村は「保証されていない道」へと一歩を踏み出したのだった…!





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号
「有村智恵 自分のためにアメリカへ」

2012年10月9日火曜日

前人未到の1億ドル。タイガー・ウッズ(ゴルフ)


ゴルフ史上初めて、獲得賞金の総額が1億ドル(約80億円)を突破したという「タイガー・ウッズ」。

続く2番手のフィル・ミケルソンが約53億円ということを考えると、ウッズがいかにズバ抜けているかが分かる。

2位のミケルソンがもう42歳なのに対して、ウッズはまだ「36歳」。ウッズはプロ転向(1996)からわずか17年目で1億ドルに到達したのである。そして、これからもまだまだ稼ぐ可能性が高い。



この1億ドル(約80億円)というラインは、「賞金を稼ぐかたちのスポーツ」では、今まで到達した選手はいなかった。

ゴルフに次いで賞金を稼げるのは「テニス」。テニスで獲得賞金歴代1位は、ロジャー・フェデラー。約60億円近くを稼ぎ上げている。

しかし、「テニスはゴルフほど長くトップレベルで活躍することはできない」。フェデラーはすでに31歳。ウッズ(36歳)よりも若いとはいえ、その競技生命はずっと短いのだ。おそらく、たとえフェデラーといえでも、1億ドルのラインに到達するのは困難だ。



一方、「年棒制」の野球やサッカーとなると、話はまったく別だ。ヤンキース(野球)のロドリゲスなどは、すでに3億ドル(約240億円)を超えてしまっている(ウッズの3倍)。

「賞金獲得スポーツ」が変動的な歩合制だとすれば、「年棒制スポーツ」は固定的。たとえ、パフォーマンスが振るわなくとも、契約された額はもらえるのである。場合によっては、代理人の手腕一つで年俸が跳ね上がることも珍しくない。



年棒制のスポーツに比べると、ウッズがいかに厳しい環境で大金を稼ぎ上げたのかが理解できる。

ご存知の通り、ウッズは不倫スキャンダルによってツアーの欠場を余儀なくされていた時期もあり、当然、その間は賞金が思うように稼げなかった。賞金ランキングで年間トップ5を維持していたウッズも、この時ばかりのランキングは、2010年68位、2011年128位と低迷している。



常識的にみて、ウッズはあと5〜6年は高パフォーマンスが可能だと言われている。

おそらく、これから記録するウッズの生涯獲得賞金は「当面、誰にも破ることのできない、前人未到の記録」となるだろう。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「前人未到の1億ドル」