話:桜井章一
カラダというものは、環境が絶え間なく変化する流れの中にあるものゆえ、その動きもまた同じように流れているのが自然である。ところが現代人は皆、流れるようにカラダを動かすことをしていない。”していない”というよりも、”できない”というほうが正しい。
動きが流れているとき、カラダには力が入っていない。ところが、目的意識をもって「ああしよう」「こうしよう」というときにはカラダに力が入り、動きは流れなくなる。思考することがクセになっている現代人は、カラダの動きより意識が先立ってしまい、どうしても流れるような動きができない。
カラダに流れをつくり、自然な動きをするにはどうすればいいか?
たとえば、こんな簡単な実験をしてみるといい。
立った状態で目の前の床に何かモノを置く。それを目標物として目でしっかり捉えながら、前かがみになり腕を伸ばしてつかみにいく。そして今度は、同様に立った状態から床の上のモノをちらっと見たあと”視線を外し”、モノのあるあたりを感覚に収めながら、同様に前かがみになって取る。
やってみると分かるのだが、カラダの動きは明らかに違う。前者は硬くて重いが、後者の動きは流れている。前者のように、”つかもう”といった「〜しよう」という目的意識をもつと、カラダの動きは途端に流れなくなってしまう。後者の場合は、目標物への視線を外すことで、流れをそこでつくっているのである。
このことは、”つかもう”ではなく、”さわりにいく”という感覚に置き換えてもいい。
たとえばプロの野球選手は、守備で飛んでくるボールに対して「つかみにいく」という意識でやっていないはずだ。むしろ「さわりにいく」という感覚に近いとおもう。「つかみにいこう」という意識だとボールはうまく捕れない。「さわりにいく」という感覚だと、カラダが流れる動きになってボールの流れとピタッと重なる。
全体が流れている中で動くカラダは、やはり流れていないといけない。
ものごとは流れの中で力を抜いて始末する。力が抜けてカラダが流れる動きになると、硬い動きのときに出来なかったことが出来る。”力を抜く”ということは力が入っていない状態だが、これは何に対しても”〜しよう”という思考のクセをもっている人にとっては難しい。だから力を抜こうと思うのでなく、”身体の動きを流れにする”という感覚をもったほうがカラダは素直になるかもしれない。
カラダが素直になる、正直になるということが、カラダの最も自然な状態なのである。流れの中で力を抜いたカラダというのは、常識では測れない力を秘めている。なぜならそれは、”自然から借りてきた力”に他ならないからだ。
引用:桜井章一『体を整える 』
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