2014年8月26日火曜日
新時代ゴールキーパー、ノーマン [ドイツ]
ドイツ
「シャルケ」のBユーゲン(U-17に相当)
一人の老人は、そのゴールキーパーのプレーに目を奪われた。キーパーでありながらも、ときにハーフウェイラインにまで出ていって、相手チームの攻撃の芽を摘んでいたのだ。
試合が終わると老人は、その若いゴールキーパーに声をかけた。
「オマエさんみたいな攻撃的なプレースタイルは新時代のものだな。ワシはそんなプレーをずっと見てみたい」
老人の名はハンス・ヒーデルス。地元の熱心なサッカーファン。そして若きゴールキーパーの名は「マヌエル・ノイアー」。いまだ無名であったが、10数年後のブラジルW杯ではドイツ優勝の盾となる男であった。
■シャルケ
ノイアーの父は警察官。父ペーターは若い頃にサッカーやハンドボールをしており、少年ノイアーと一緒にボールを蹴るのが何よりの楽しみだった。
ノイアーは少年時代を振り返る。「僕はクリスマスのプレゼントにレゴやTVゲームをお願いしたことは一度もなかった。もらったのはサッカーボールだけだった」
——毎年、冬休みに家族でスキー旅行にいくことが恒例になっていたが、ノイアーはスキー場に新品のサッカーボールを持っていき、雪の上でボールを蹴っていたという。まるでドリブラーの少年時代のような経験が、彼の足元の技術を鍛え上げていった(Number誌)。
1991年、ノイアーはドイツ「シャルケ」のユースでキャリアをスタートさせていた(5歳)。憧れだったのは当時シャルケの守護神、イェンス・レーマン。彼は2006年、地元開催のワールドカップで、下馬評の低かったドイツを3位にまで導くことになる名キーパーである。
ノイアーのトップデビューは2006年(20歳)。シャルケの正ゴールキーパーの座を手にすると、翌2007/2008シーズンにはシャルケ初となるCL(チャンピオンズリーグ)ベスト8という成績に貢献する。
ちなみに日本代表の内田篤人とはチームメイトだった。偶然にも同じ誕生日(3月27日)の2人には、こんなエピソードがある。
日本が東日本大震災にみまわれた翌日、内田は被災地にむけたメッセージをユニフォームに書いていた。それを見たノイアー、「それを観客に見せるのか?」と聞いた。すると内田、「勝ったら見せる。負けたら見せない」と答えた。「じゃあ勝つ」。ノイアーは自信満々にそう言った。「僕が守るから今日は勝つ」。試合はノイアーの宣言したとおりに勝った。
■バイエルン
2010年、ノイアーはドイツ代表の正ゴールキーパーとなる(24歳)。
しかしそれは、当時正ゴールキーパーだったロベルト・エンケの死、そしてその代役となったレネー・アドラーの怪我によって転がり込んできたものだった。
——いまでこそ冷静沈着なノイアーも、かつてはもっと子供っぽく、感情の起伏が激しく、それゆえ凡ミスをすることも多かった。2010年の南アフリカW杯に出場できたのも、第1GKのアドラーが直前に肋骨を骨折したからだ。当時のノイアーにはまだ、絶対的な信頼感はなかった(Number誌)。
ノイアーが明らかに変貌するのは「バイエルン」に移籍してからだった。2011年の移籍当初、バイエルンの熱狂的サポーターの歓迎は手荒かった。
「バカ野郎!」
「裏切り者!」
そんな罵声でむかえられたのだ。というのも、それまでノイアーが所属していたシャルケは、バイエルンにとっては憎きライバルだったからだ。
「僕らが君を受け入れることはない」
「ノイアーの死をここに偲ぶ」
そんな屈辱的な横断幕が掲げられていた。
——このゴールキーパーの高額移籍(1800万ユーロ)をバイエルンのサポーターは認めようとせず、バイエルンの一員になってもブーイングを浴びせ続けた。味方のゴール裏から野次を飛ばされるのだからたまらない。しかし、この試練がノイアーから幼さを削ぎ落とした。ノイアーはストイックさを増し、自分のスタイルを追い求めるようになった(Number誌)。
——相手と1対1になっても、両手を広げてじっと動かず、全身で壁をつくってシュートコースを消す。ミドルシュートを打たれれば、193cmの長身をネコのようにしならせて横に飛んで弾き出す(同誌)。
ノイアーと親しいベネディクト・ヘベデス(同じシャルケユース出身で、ドイツ代表でもともにプレー)は、こう言う。「シャルケ時代にもモノ凄い活躍をみせる選手だったけど、バイエルンへ移籍してさらに成長したんじゃないかな」。
■グラルディオラ監督
ノイアーがさらなる進化を遂げるのは、バイエルンに名将「グアルディオラ」が監督として赴任してからだった(2013〜)。
ノイアーは語る。「監督はディフェンスラインを高く保つので、僕もこれまで以上にフィールドプレーに関与することになったんだ。ロングボールを蹴ってゲームの組み立てに参加しないといけないし、『ゴールからはずいぶん離れたところ』に立つ必要があった。もはや普通のキーパーのようにシュートを止めることだけ意識しているだけではダメだったんだ」
1992年にゴールキーパーがバックパスを手でキャッチすることを禁止されてからというもの、キーパーはより積極的に攻撃に参加することが求められるようになっていた。
そしてノイアーは、さらにゴールキーパーの範疇を広げた。
——チームがボールを保持しているときには、何のためらいもなく「ペナルティエリア」の外に出ていくようになった。攻撃の組み立てに参加するためには、あるいは相手がロングボールでカウンターで狙ったパスをカットするためには、従来よりも「ずっと前寄りのポジション」にいる必要があったからだ(Number誌)。
グアルディオラ監督は、ノイアーの居残り練習を増やした。
——コーチがディフェンスラインの裏にめがけてボールを蹴り、そこに選手が反応して飛び出す。対するノイアーは「ペナルティエリアの外」に出ていき、胸や頭をつかってそのボールをクリアしたり、味方につないだりする。そうした練習を繰り返した(Number誌)。
ノイアーは言う。「こうした練習が一人のキーパーとして、本当に貴重な経験になっているんだよ」
——グアルディオラ監督のもとで、最も変化したのが「ペナルティエリア外」への飛び出しだ。まるでディフェンダーのようにノイアーはボールに関与するようになった(Number誌)。
そうしたバイエルンの試合を見た岡田武史氏(元日本代表監督)は絶句した。
「なんだこいつは?」
ペナルティエリアに囚われないキーパーなど見たことがなかった。
「僕らの常識としては、ディフェンスラインを押し上げると、裏を取られてゴールキーパーと1対1にされる危険性が常にある。ところがバイエルンはどんどんディフェンスラインを上げてくる。裏を取られても、全部ノイアーが防いでくれるから(笑)」
■ブラジルW杯
「ペナルティエリアの呪縛」から解放されたノイアー。
2014ブラジルW杯では、その新スタイルで世界を瞠目させることになる。
決勝トーナメント1回戦
ドイツ対アルジェリア
——ノイアーのプレーは従来のゴールキーパーの範疇をはるかに超えていた。その典型がアルジェリア戦。56回のボールタッチのうち、じつに21回(38%)が「ペナルティエリアの外」だった。1対1でのセーブが4回くらいあった(Number誌)。
ノイアーの飛び出す回数があまりにも多かったので、ドイツのメディアからは「リスクが大きすぎる」と批判の声があがった。だがノイアー、「120分間のいい練習になった」とアルジェリア戦を俯瞰した。
そして準々決勝のフランス戦でも「エリア外の掃除」に成功すると、もはや誰も批判するものはいなくなった。
じつは今大会、ノイアーは万全の状態ではなかった。
——ドイツ杯の決勝(5月17日)で転倒して右肩を痛め、一時は包帯で固定しなければならなかった。必死のリハビリによって開幕には間に合わせたが、完全には治っていなかった。にもかかわらず、アルゼンチンとの決勝戦でイグアインとのイーブンのボールに突進したように、少しも接触プレーを恐れることがなかった(Number誌)。
ノイアーは言う。「もちろんリスクがわるのはわかっている。少しでも恐かったら飛び出さないほうが身のためだ。それくらいギリギリの勝負なんだ。けれど、それでも僕は迷わない。『100%成功する』と思って飛び出すようにしている」
アルゼンチンに辛くも競り勝ったドイツ代表。大会期間中の失点はわずか3で、24年ぶりの優勝を果たす。その守護神ノイアーは当然のように、大会最優秀ゴールキーパーとして「ゴールデングローブ賞」に選ばれた。
岡田武史氏はW杯でのノイアーをベタ褒めする。「だって、すごかたでしょ? MVP(最優秀選手賞)はメッシだったけど、あれはおかしいと思った。絶句したよ。僕ならノイアーを選ぶなぁ」
——今ブラジル大会のノイアーの功績は、近代的ゴールキーパーの理想像を示したことにある。ペナルティエリア外に飛び出してカウンターを阻止したかと思えば、正確なキックでビルドアップに参加する。ノイアーのパス成功数は、メッシよりも2本多い244本だった(Number誌)。
■偽5番
W杯が終わってから1ヶ月後、ドイツの年間最優秀選手が発表された。選ばれたのはノイアーだ。
——ノイアーが「偽の5番」という新たなポジションを確立しつつあることが評価された。ドイツにおける5番は「リベロ」を意味する。「偽の5番」とは、リベロのような働きをするキーパーを指す(Number誌)。
かつてドイツの5番は、「皇帝」と呼ばれたベッケンバウアーが背負っていた番号だ。1974年のW杯、開催国であった西ドイツを優勝に導いたベッケンバウアー。「リベロ」というポジション(攻撃に参加するスイーパー)を確立した人物でもある。
ノイアーは手をつかうゴールキーパーでありながら、その足下の技術も充分に高い。ドイツ代表のチームメイトも「ノイアーならドイツリーグでフィールドプレーヤーとしても活躍できる」と太鼓判を押す。
——左右の足でボールを正確に扱うことができ、ロングキックの精度も抜群に高い。グアルディオラ監督の方針で、ノイアーはフィールドプレーヤーと同じメニューを行うことも多く、密集地帯のパス回しにも目が慣れており、相手に激しくプレスをかけられてもクリアせず、隙間にパスを通すこともできる。ノイアーは今や「ゴールスイーパー」。キーパー像の変更を迫る存在になっている(Number誌)。
キーパーとしてはドイツ伝説のカーンと並び賞され、フィールドプレーヤー(リベロ)としては皇帝ベッケンバウアーに比されるようになった「偽5番」ノイアー。
「カーンとベッケンバウアーのハイブリッドだ」と、ドイツでは讃えられている。
ドイツ伝説のゴールキーパー、カーンはこう苦笑する。
「ノイアーは史上最高のキーパーだ。あんな選手がでてきてしまうと、後に出てくるキーパーにとってはきついだろうね」
(了)
ソース:Number(ナンバー)859号 W杯後の世界。 (Spots Graphic Number)
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2014年8月25日月曜日
教師のごとき監督、ファンハール [サッカー]
「おめでとう。君たちは『世界最高の監督』と契約したのだ」
オランダのサッカークラブ「アヤックス」の監督に就任したとき、「ルイ・ファンハール(Louis Van Gaal)」はそう言い放った。関係者らが唖然としたのは言うまでもない。当時の彼はまだ、監督としての実績は何もなかった(1991)。
その過剰なまでの自信は、幸いにもCL(チャンピオンズリーグ)優勝というタイトルをアヤックスにもたらすことになる(1994/95シーズン)。するとファンハールはさらに傲慢な発言を繰り広げる。
「私は、バルセロナ(スペイン)が達成するのに100年かかった偉業を、わずか6年で成し遂げた」
この異端児、ファンハールはメディアにも容赦なかった。
「今回の質疑応答はレベルが低い。君は勝手な解釈を口にすべきではない。事実を踏まえて『どうしてですか?』とシンプルに尋ねるべきだ。君は馬鹿なのか、それとも私が賢いだけか?」
記者会見の席上、ファンハールはまるで「教師」であった(実際、彼は学校の体育教師を務めた経験をもつ)。
——アヤックスの監督時代、練習を中断して選手を集め、怒鳴り散らす場面も度々見られた。後ろに手を組み、神妙な面持ちでうつむく選手らに、血相を変えながら指示を与える様は、プロチームの練習風景というよりは、まるで体育の授業のようだった(Number誌)。
このファンハールという人物を、フェラン・ソリアーノ(現マンチェスター・シティのCEO)は的確にこう表現する。
「ファンハールは他の監督に比べると”かなり異質”だ。彼は多くのクラブで優れた手腕を発揮する反面、周囲の反感も買ってきた。それでも彼は試合に勝ってみせるが、その代わり、いったん成績が伴わなくなると、反感を抱く人々がこぞって牙を剥きはじめる。ファンハールとは、そういう監督なのだ」
彼の言うとおり、ファンハールはバルセロナの監督時代、「頭のネジが1〜2本、抜けているんじゃないかと思うよ」と、前任者クライフから痛烈に批判されている。
——自分と同じオランダ出身で、アヤックスの後輩にあたるファンハールを、クライフは変人扱いするようになった。かくして求心力を失ったファンハールは、CL(チャンピオンズリーグ)を取り逃したことも災いし、3年でバルセロナを解任(2000)。以降、監督としてはなかなか結果を出せない日々が続く(Number誌)。
もともとクライフとファンファールは、同郷オランダ出身ということもあり、ともにオランダ伝統の「トータル・フットボール」の信奉者であった。トータル・フットボールとは、オランダサッカーの父とされるリヌス・ミケルスが具現化した戦術で、「全員攻撃、全員守備」などと解説される。その選手としての体現者が、現役時代のクライフであった(バロンドールを3度受賞)。
リヌス・ミケルスは「クライフのスタイルをさらに進化させた」と、ファンハールを高く評価。「クライフ以上に詳細なディテールにこだわる人物だ」とも述べている。
——事実、ファンハールは配下の選手にポジション取りを覚えさせるため、GPSに似た装置を装着させ、cm単位で修正を行ったこともある。だが完璧を期そうとするあまり、やがてファンハールには「難解な理論ばかりをこねまわす監督」というレッテルが貼られた(Number誌)。
クライフとファンハール、その両者をよく知るデニス・ベルカンプはこう言っている。「クライフは本能にしたがって動くタイプで、現役時代に自分がやっていたプレーの仕方を教えようとした。彼の指導は戦術的というよりは、テクニカルなものだったと思う。それに比べれば、ファンハールは学校の教師のようなタイプだった。彼はテクニカルな部分に関しては選手に任せてくれたけど、戦術の指導は名人の域に達していたね」。
ファンハールが復権を果たすのは、オランダのAZを28年ぶりのリーグ優勝に導き(2008/09シーズン)、ドイツの巨人「バイエルン・ミュンヘン」に白羽の矢をたてられてからだった。
——2009年からドイツのバイエルンを率いたファンハールは、ポゼッションを軸にしたプレースタイルの明確化と人材育成に着手。さらにロッベンを獲得した後は、カウンターという武器に磨きをかけた。ファンハールの改革は実を結ぶ。CL(チャンピオンズリーグ)では2000年以降、決勝に駒を進めていなかったバイエルンだったが、ファンハールはこの長い冬の時代に終止符を打った(Number誌)。
だが、厳格なカトリック教徒の家庭で育てられたファンハールは、その権威主義的な態度が選手らとの確執を起こしている。リベリーは「ファンハールの下でプレーするのは、まったく楽しくない」と公言。ルカ・トーニは「選手を交換可能なパーツのように扱う人間だ」とファンハールを怨んだ(トーニは戦力外通告をうけた)。
結局、CL(チャンピオンズリーグ)準優勝を果たした翌シーズン(2010/11)、バイエルンはリーグ4位に転落。「人情味のない管理主義者」と蔑まれたファンハールは解任された。
そして率いることになったオランダ代表(2012)。
ブラジルW杯の予選では、10戦無敗という圧倒的な強さを見せつけた。だがオランダ国内では、ファンハールに対する批判が渦を巻いていた。
——「オランダサッカーを裏切った男」。これが大会開幕前に、ファンハールにつけられた蔑称だった。テレグラフ紙とアルヘメン・ダフブラット紙、そしてフットボール・インターナショナル誌の論調は、批判一色で統一されていた(Number誌)。
前述した通り、ファンハールは元々、オランダ伝統の「トータル・フットボール」の原理主義者であった。ボール支配率(ポゼッション)とウインガーの活用など、ファンハールはオランダサッカーを「3-4-3」というシステムで実現していた。ファンハール自身、「3-4-3は、オランダの攻撃的で魅力的なサッカーを実現するためには最適なシステムなのだ」と書籍でも述べている。
ところがワールドカップ本大会でファンハールが採用したのは、ウイングそのものがいない「5-3-2」。ポゼッション(ボール支配)によってゲームの主導権を握るのではなく、カウンターによる一撃必殺を狙ったのであった。
ファンハールと40年以上の親交のあるジャーナリスト、レオ・ヴァーヘイルは言う。「ルイは、現代表の問題点をよくこぼしていたよ。守備陣は脆く、中盤のバランスも悪いと。そしてルイはシステム変更に踏み切ったんだ。守備の不安を解消しつつ、三銃士(スナイデル、ファンペルシ、ロッベン)を活かすためには、5バックでカウンターを狙うのが唯一の解決策になるからね」。
ファンハールは仕掛けた、一世一代の大博打を。
それはグループリーグ初戦から的中する。前回王者スペインを「5-1」と粉砕した。
——オランダ代表が披露した新たなカウンターサッカーは、決して見苦しい代物ではなかった。イングランドの戦術史家、ジョナサン・ウィルソンはこう指摘する。「今大会の意義の一つは、カウンターが悪いサッカーだとか、美しくないサッカーだなどという馬鹿げた固定観念を払拭したことだと思う。それに貢献したチームの一つがオランダであるのは間違いない」(Number誌)
準決勝でPK戦の末にアルゼンチンに破れたものの、3位決定戦のブラジルには「3-0」と完勝。今大会でファンハールは、オランダの過去の印象「才能ある選手は多いが、勝負弱い」を一蹴した。
——彼は見事、ギャンブルに勝った。あれだけ批判されていたファンハールを、2,000人以上ものファンが空港で出迎えるなど、誰が予想していただろう(Number誌)。
ファンハールは言う。
「オランダの人々は目からウロコが落ちた思いだろう。サッカーのシステムが一つだけではないと気づいたのではないだろうか。われわれは少し新しい種類のサッカーを披露することができたと思う。次期代表監督(ヒディンク)は『オランダ伝統のサッカーを取り戻す』と言ったらしいが、私は常にオランダ流のサッカーを実践してきたし、その上で今回、別のスタイルを提示することを決めたのだ」
W杯後、オランダを去ったファンハールはイングランドへと乗り込んだ。低迷の淵にある「赤い悪魔」、マンチェスター・ユナイテッドの再建を託されて。
ファンハール節は健在だ。さっそくアメリカツアー中に一席ぶっている。
「君たちが主張するのは勝手だが、私のサッカー哲学はまったく変わっていない!」
記者の「人間として成熟したのではないか」という質問に対して、ファンハールは気色ばんだ。
「またもや君たちは勝手な説を唱えている。世間の連中は、私が独裁者で誰の意見も聞かないなどと吹聴するが、私は他人の意見に耳を傾けるし、経験からも学ぶ。ただしサッカーチームでは、ボスは必ず一人でなければならない。さもなければカオスになるからだ」
そして、こう続ける。「バルサ時代、私はリバウドを翻意させたし、バイエルンでもトーニを外すだけの度量があることを証明している。彼が主張するように『自分でパンツを下げて、金玉のデカさを見せつけるような真似』をした記憶はないがね」
——ファンハールは時代の寵児になれなくとも常に未来を先取りし、さまざまな場所で「種」を蒔きつづけてきた。今、新風を吹き込もうとしているイングランドは、オランダ、スペイン、ドイツに次ぐ4番目の赴任地になる。ファンハールは果たして本当に変わったのか。彼が新天地にどのような痕跡を刻んでいくのか。これは相当な見物である(Number誌)。
(了)
ソース:Number(ナンバー)859号 W杯後の世界。 (Spots Graphic Number)
オランダ「ファンハールの壮大な実験」
ルイス・ファンハール「時代をつくる名将のマンU改革」
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2014年8月23日土曜日
美しき新星、ハメス・ロドリゲス [サッカー]
ワールドカップの歴史に残るにふさわしい、美しいゴールだった。
2014ブラジル大会
決勝トーナメント1回戦
コロンビア 対 ウルグアイ
大会のベストゴールは、この試合で生まれた。決めたのはコロンビアの「ハメス・ロドリゲス」。
——後方から来たボールを胸でトラップし、エリア外から左足でゴールを狙った。ボールは綺麗な弾道を描き、左隅へと飛んでいく。目の肥えたブラジル人も、歓喜するコロンビア人も、敗れたウルグアイ人さえも、目の前で生まれた美しいゴールについて語り合っていた(Number 誌)。
「いったい何が起きているんだ? 本当にこれは現実なのか?」
決めたハメス・ロドリゲスは、輝くスコアボードを見渡し、大きく息を吸い込んだ。
「最高のゴールだった。本当に夢のようだった。ピッチ上で僕は、その喜びを噛み締めていたんだ。コロンビアは歴史を刻むことができたんだ」
ハメスの2得点で強豪ウルグアイを下したコロンビア、同国史上初のベスト8進出を果たした。
「準々決勝ではブラジルに負けたけど、僕らは歴史をつくった。あの歴史的なスタジアムで、僕の名が呼ばれるのを聞いたときは感動したし、あの喜びは一生忘れることはないだろう」
「今、伝説がはじまった」
コロンビアの大手「エル・ティエンポ」紙は、若き童顔の10番、ハメス・ロドリゲスの活躍を讃えた。それまでのコロンビア・サッカー界の伝説といえば、黄金のアフロ、カルロス・バルデラマ。最強と謳われた、1994年のW杯アメリカ大会メンバーの一人である。
——それから20年を経た今ブラジル大会、同じ10番を継承する22歳の若武者によって、ついに伝説は塗り替えられた。コロンビア国民はようやくバルデラマを超えるカリスマ的存在を見つけることができた。今回のコロンビア代表は、絶対エース・ファルカオ不在という苦境をものともせずに、グループリーグを全勝で突破すると、決勝トーナメント1回戦でウルグアイに2-0と完勝したのである(Number誌)。
「コロンビア! コロンビア!」
「ハメス! ハメス!」
——気が遠くなるほどの人の波が地上を覆い尽くしていた。コロンビアの首都ボゴタ。自国を史上初のW杯ベスト8に導いた英雄たちの凱旋パレードを見に集まったおよそ12万人の人々は、嬉してたまらず野生じみた声で喝采を叫んでいた(Number誌)。
ワールドカップが熱狂の幕を閉じてから数週間、欧州サッカーの移籍市場は、俄然活発さを増していた。そして、ブラジルW杯で新しく生まれた英雄、ハメス・ロドリゲスを獲得したのは、スペインの「レアル・マドリー」であった。
——ハメス獲得のために、クラブは8,000万ユーロ(約110億円)を支払った、昨夏、ポルトからモナコに移籍したときの移籍金は4,500万ユーロ(約60億円)だったから、1年で彼の市場価値は約2倍になったことになる。高騰のきっかけとなったのは、ワールドカップ得点王を呼んだ6得点と、ウルグアイ戦での一発だろう(Number誌)。
レアル・マドリーの会長、フロレンティーノ・ペレスは得意げに「ハメスは、美しいサッカーを愛する人たちを惹きつけることになるだろう」と壇上でスピーチをした。
■生い立ち
ハメス・ロドリゲスは1991年7月12日、コロンビアで生まれた(ベネズエラとの国境の街ククタ市)。
「両親が離婚して、7歳のときに母の再婚相手とともにイバゲ市に引っ越してきたんだ。イバゲ市は母親の故郷だからね」
当時のことを回想するのは、ハメスが少年時代に所属したサッカークラブ「アカデミア・トリメンセ」の監督、アルマンド・ジュルブライネル。
「うちのクラブに入団してきた7歳当時、彼はいかにも子供めいた雰囲気をもっていたけど、グラウンドでは才能あふれる左足のプレーを見せてくれた」
——コロンビア西部に位置するイバゲ市は人口およそ55万人、アンデス山脈などの山々に囲まれた坂の多い街である。日中は荒々しい日射しに見舞われ、夜は暑くも寒くもない微妙な気候がつづく(Number誌)。
転校少年ハメスは、1年目からレギュラーになった。チームメイトだったディエゴ・ノレニャは、こう振り返る。
「とにかくゴールシーンが多彩だった。いろんなテクニックを披露しながらゴールまで持ち込むんだ。得意の左足でゴールを決めると、次はあえて右足を振り抜いてネットを揺らしてみせた。同じパターンで続けて得点を決めることを嫌うようにね。練習態度は誰よりも真面目で、プレーの質はズバ抜けていた」
監督はこう語る。「左足のミドルシュートやドリブルはうまかった。でもヘディングや守備はあまりやらないほうだったね。10歳の頃からは練習や試合でもよく走る選手になって、みるみるうちに上達していった。年長組の練習に参加させても頭ひとつ抜けていたよ」
12歳のとき全国大会で優勝。天才少年として国内の注目を一気に集める。
監督は言う。「彼の血がそうさせたのかな。実の父親(ウィルソン・ハメス・ロドリゲス)も元プロサッカー選手だからね。U-20の元コロンビア代表選手だったんだ。実父とはほとんど接点がないまま離ればなれになったみたいだ。それでもハメスは、父のようにプロのサッカー選手になりたがっていたし、母と継父はそんな彼をとても可愛がっていた」
母ピルラさんは言う。「息子にははっきりとした目標がありました。プロのサッカー選手になること。他の子は学校へ行ったり遊んだり、友達と会ったりすることばかりを考えている中、息子はプロチームで先発を目指して戦っていました」
プロ契約は14歳。国内の「エンビガドFC」というクラブに入団。17歳でアルゼンチンの名門「バンフィエルド」へ。そして19歳でポルトガルの「ポルト」へと、ハメスはトントン拍子にサッカー人生を駆け上がっていった。
■ポルトガル
代理人ジョルジュ・メンデスが初めてハメスと出会うのは、ポルトガルでのことだった。
「彼のプレーはひと目で印象に残ったね。これはトンでもない逸材だと思ったものだ。当時からテクニックには並外れたものがあったし、それだけでなく内に秘めた大いなる才能も感じた。私が契約した頃から、彼は常に差を生みだす選手だった」
「ポルト」でのハメスはまだ、一部でしか知られていなかった。同クラブにはファルカオ(コロンビア)とフッキ(ブラジル)がおり、ハメスの出場機会はまだ限られていた。それでも代理人メンデスの目には、ハメスが宝石のように輝いて見えていた。ちなみに代理人メンデスは、C.ロナウド(ポルトガル)などを発掘したことでも知られている。
メンデスは言う。「この仕事を続けてきて思うことだが、選手というものは才能だけでは大成しない。成功するかどうか、それは本人の頭の中次第なんだ。私が契約してきた選手で、才能だけで大物になった者などいない。努力がなければ、トップになることはできないんだ。ハメスはその点、当時から年齢のわりに落ち着いており、プロ意識も高かった。よくいるような、才能だけの若き逸材ではなかったんだ」
メンデスがこれまで契約してきた、クリスティアーノ・ロナウド、ファルカオ、そしてハメスらには共通点があるという。
「それがまさに、才能をもちながらも、常にそれ以上のものを求め続ける姿勢だ。ロナウドもファルカオも、ハメスも、日々の練習で手を抜くようなことは一切ない。このプロ精神と姿勢こそが彼らの成功の一番の秘訣だと思っている。その意味ではハメスは幸運だった。なぜなら彼はポルトでファルカオと共にプレーし、彼の姿勢を目の当たりにすることができた。そして今はレアル・マドリーでクリスティアーノと共に過ごしている。どちらもプロ選手としては最高の手本だ。若いうちにそんな選手に触れられたのは、ハメスにとって大きな財産となるはずだ」
メンデスは続ける。「また、この3人に共通して言えるのが、ビッグクラブに行く前にポルトガルという成長のために理想的なリーグでプレーしたことだ。私は多くのリーグを訪れ、関係者と話をし、試合や選手を見ているが、ステップアップの段階でポルトガルほど優れたリーグは存在しない。ポルトガルにはレアル・マドリーやバルサ(スペイン)、マンU(イングランド)ほどの競争は存在しないため、若手でも出場機会は得やすい。もちろんリーグのレベルもそれなりに高い。最適のバランスがあるんだ。クリスティアーノはスポルディングでの経験がその後の成長に役立った。ファルカオとハメスはポルトだ。若くして突然ビッグリーグにいった若手よりも、その後の伸びが違う。若い選手はここでプレーし経験を積み、やがてより広い世界のビッグリーグへと羽ばたいていく。個人的にポルトガルリーグは、欧州サッカー界における大学だと考えている」
■フランス
2013年、フランス国内の移籍金記録が更新された(当時)。
5年契約で4,500万ユーロ(約60億円)
21歳の若者、ハメス・ロドリゲスのために、フランスのサッカークラブ「モナコ」は破格の値段を支払ったのだ。
「モナコは莫大な資金を投下して多くの選手を集め、提携する代理人メンデスに、手持ちの最高の選手を売るように依頼したんだ」。レキップマガジン誌のクリストフ・ラルシェは言う。
——フランスリーグ1部(アン)に昇格したばかりのモナコは、リーグ優勝とCL(チャンピオンズリーグ)出場権獲得を目標にかかげ、総額1億6,000万ユーロ(約210億円)というなりふり構わぬ補強をおこなった(Number誌)。
「彼(ハメス)には、リーグ最優秀新人になってほしい」
クラブの副会長、バディム・バシリエフはその期待を隠さなかった。
——だが期待に反して、ハメスのスタートは「驚くほどに地味」だった。初戦のボルドー戦では先発出場したものの、しかし動きに精彩を欠き72分で交代。アウェーで快勝したチームにあって、ひとり攻撃のブレーキになってしまった(Number誌)。
以後、ハメスはベンチを温める日々が続く。第8節までスタメンはわずか一度きりだった。
メディアは「なぜ先発で起用しないのか?」と、モナコの監督、クラウディオ・ラニエリに問うた。監督はこう答えた。「単純にパフォーマンスの問題だ。ハメスは他の選手たちに劣っている。だが心配はしていない。彼がクラッキ(名手)であるのは間違いない」
ハメスは当時をこう振り返る。「ボールを受けると、すぐに2〜3人がスペースに詰めて奪いにくる。厳しさがポルトガルとは全然違ったんだ」。
この低迷の時期、ハメスの身にはさまざまことが起こっていた。
——コロンビア代表での南米予選で、ふくらはぎと腰を続けざまに負傷し、調子を落とした。さらには恋人(バレーボルの元コロンビア代表)との間に娘が生まれ、私生活でも転機をむかえた。いろいろな要因が適応を難しくしていた(Number誌)。
破格の契約金ほどにパフォーマンスの上がらぬハメスに、ラニエリ監督はときに切れた。
「彼は自分をフォワードだと思っているが、守備もしなければダメだ。努力していない。ハメスはメンタリティが問題だ」
ハメスは言う。「彼は僕に大きなプレッシャーをかけた。でもそれが監督の仕事で、選手は寛大な気持ちで言葉を認めないとね。監督がああ言うには理由がある。僕に問題があった。だから彼の言うことを聞いて欠点を直した。それで良くなったんだ」
それ以降、ハメスの調子は上がりはじめる。
だが、チームには次の不幸が起こってしまう。エース、ファルカオの戦線離脱である。相手のタックルを受けて、左膝の靭帯を損傷する重傷を負ってしまったのだ。ファルカオは後のシーズンばかりでなく、ワールドカップへの出場機会さえも失ってしまった。
——それでもモナコはその影響をほとんど受けなかった。理由の一つはハメスのゲームメイクだった。彼の創造性は、皮肉なことに絶対のエースを失ってさらに奔放になった(Number誌)。
ハメスは言う。「たしかにファルカオがいた頃は、自分がシュートを打てる場面でも彼を探していた。それでパスをミスして、得点機会をみすみす逃したこともあった」
——1試合あたりの平均得点は、ファルカオ出場時(1.53点)よりも彼を欠いてからのほうが増加(1.73点)。モナコは1部昇格直後のシーズンにもかかわらず2位に食い込んだ。優勝こそならなかったものの、もう一つの目標であるCL(チャンピオンズリーグ)出場権は獲得した。ハメスは34試合に出場し9得点(リーグ16位)、12アシスト(同1位)という結果を残した。フランスリーグのベスト11にも選ばれ、1年目にして彼は「リーグアン最高の10番」になった(Number誌)。
レキップマガジン誌のラルシェは、こう評する。「ファルカオの離脱でハメスは精神的に自立した。すべてのボールがハメスを経由し、創造力を駆使して前線に自在にパスを送る。そのうえ彼はドリブルでも仕掛け、シュートも放つ。フリーキックも決める。ハメスはチームの頭脳であり心臓だった。私にはジダンのイメージが重なった」。
■スペイン
W杯ブラジル大会での活躍は、冒頭に記した通り。
代理人メンデスは言う。「今回のワールドカップで、ハメスは6得点を決めて得点王に輝いた。世界は一時的なハメスブームに沸いたが、もちろん私は驚かなかった。彼であれば、あれくらいのことは充分にやれると思っていたからね」
モナコから「レアル・マドリー」への移籍を手がけたのは、他ならぬメンデスだった。
——かつて若きハメスを虜にしたチーム。それがレアル・マドリー。銀河系といわれた2000年代初頭のレアル・マドリーには、ジダンにフィーゴ、ラウールにロナウドがいた。ハメス少年は当時のマドリーの試合をテレビに食いついて眺めた。彼が熱狂的なマドリディスタ(マドリーのファン)になったきっかけだ(Number誌)。
ハメスは言う。「憧れの存在はジダンだ。彼のプレーは本当にスペクタクルだった。あの頃はいつもマドリーの試合を見ていたよ」。
その夢はずっと変わらなかった。コロンビアからアルゼンチンに渡っても、ポルトガルでも、フランスでも。
「クラブ(レアル・マドリー)は、W杯の大会前から僕に興味を示してくれていた。実際、すでにクラブ側とは交渉を進めていたからね」とハメス。
「ただ、あの一点が移籍のあと押しになったのは間違いない。ウルグアイ戦でのゴールだ。大会で決めた6点の中で一番記憶にのこっている。マドリー移籍を実現する、大きな力になってくれたんだからね」
W杯後、鳴り物いりでレアル・マドリーに入団したハメス。
——マドリード(スペイン首都)はハメスブームに沸いた。クラブのオフィシャルショップでは、1時間で9,000枚ものハメスのユニフォームが売れた。在スペインのコロンビア大使がかけつけるなど、その日のマドリードはハメス一色となった(Number誌)。
しかし、マドリディスタ(マドリーのファン)の間では、疑問の声もあった。「ハメスは厚い選手層のなかで先発の座を得られるのか?」。
——マドリーは昨季、長年の目標であったCL(チャンピオンズリーグ)優勝を果たした。クリスティアーノ・ロナウド、ベイル、ベンゼマの3トップは絶妙な連携をみせ、モドリッチとディマリア、シャビ・アロンソの中盤は成熟度を増している。この完成されたチームの中に、ハメスの居場所はあるのか(Number誌)。
代理人メンデスもそれを認める。「レアル・マドリーのボジション争いは熾烈だ。彼は日々の練習で、ポジションをつかみ取らなければならない。大事なのは、これまでのように努力をし、攻撃だけではなく守備面でもチームのためにハードワークをすること。ハメスの才能は疑いようがない。しかしまだまだこれからだ」。
ハメスは言う。「ポジションに関しては、監督が求めればどんなところでも問題なくプレーできる。中央でもサイドでも。ポルトでは右のウイングでプレーしていたし、ワールドカップではトップ下でプレーした。攻撃だけじゃなく、守備で相手からボールを奪う仕事も問題ない」。
今年(2014)8月12日
UEFAスーパーカップ セビージャ戦
ハメス・ロドリゲスはボランチで先発起用された。
「ひとつの時代がはじまろうとしている」
レアル・マドリーのアンチェロッティ監督は、今季初タイトルとなったこの試合を嬉しそうに語った。
ハメスも「勝利とともにデビューできて嬉しい」と顔をほころばせた。
マドリディスタ(マドリーのファン)は期待していた。ハメスのあの「美しいゴール」が生まれることを。だが、彼はクリスティアーノ・ロナウドのゴールの起点とはなったものの、自身の得点はなかった。
ハメスは笑う。「あれは練習でもよくトライするんだけど、40回打って1回入るかどうかというものだから」。
そして彼は、こう締めた。
「チームの攻撃を、さらに美しいものにしたいと思っている」
憧れの白いユニフォームをまとい、白い歯をのぞかせながら。
(了)
ソース:Number(ナンバー)859号 W杯後の世界。 (Spots Graphic Number)
ハメス・ロドリゲス「憧れのマドリーで 美しきサッカーを」
代理人メンデス「C.ロナウド、ファルカオ、ハメスの共通点」
「ハメス・ロドリゲスがバルデラマを超える日」
「ハメスを覚醒させたモナコでの400日」
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2014年8月21日木曜日
やりきったレース人生 [スキー・皆川賢太郎]
オリンピックのメダルまで
「0.03秒」
アルペンスキー・レーサー
皆川賢太郎(みながわ・けんたろう)
トリノ五輪の開催された2006年、彼は絶頂のなかにいた。
その軌跡を追う。
■余り物
アルペンスキーの歴史は、2000年をまたぎながら大きく変化した。
——いわゆるショート・カービングスキーの時代がはじまったのである。これによってスキーの操作性は飛躍的に向上し、ターンはよりシャープになった。こうした流れはまず一般用のモデルではじまり、やがて競技用GS(大回転)モデルがそれに追従。最後にスラローム(回転)モデルへと波及した。皆川賢太郎が世界への階段を駆け上がったのは、スキー界にそんな大きなうねりが押し寄せていた頃のことである(月刊スキージャーナル)。
皆川がカービングスキーのSL(スラローム)モデルに出会ったのは、幸運であり偶然だった。それは、当時のスラローム王者、トーマス・シュタンガッシンガー(オーストリア)のために作られものだった。しかし、当のシュタンガッシンガーはその新しいスキーに興味を示さなかった。いわばその「余り物」を皆川はいただくことになる。
——見たこともない独特のフォルムのスキーに興味をひかれた皆川は、シュタンガッシンガーに「そのスキーを使わせてくれないか」と頼んだ。何本か滑ってみたがレースで使う気はまったくなかったシュタンガッシンガーは、ふたつ返事でOK。皆川はリフト2本分をフリースキーで滑った(月刊スキージャーナル)。
「これはメチャクチャいいぞ!」
思わず、皆川は声をあげていた。
その板の長さは168cm。従来のものに比べ20cmも短かったが、そのターンは強烈な切れ味を放つのだった。
試乗から戻った皆川は、図々しくもシュタンガッシンガーにこう頼んだ。
「もし使わないのなら、譲ってくれないか?」
あっけなくシュタンガッシンガーはOKしてくれた。
シュタンガッシンガーはリレハンメル五輪(1994)でスラローム・チャンピオンに輝いてから、ずっとトップ・スラローマーとしてW杯で活躍していた。だから、あえて新しいモデルに手を出さなくとも充分に戦えるという自信があった。そのため、スキーメーカーのサロモンが彼のために開発した「5本のテストスキー」は、完全に宙に浮いてしまっていた。
90年代の偉大なチャンピオンの一人、オーモット(ノルウェー)もやはり冒険はしなかった。彼はこう語っている。「僕は1994年に深いサイドカーブをもつスラロームスキーをテストしたことがある。フラットな斜面ではかなり良い感触だった。でも長さがノーマルのものと変わらなかったせいか、あまりスピードは出なかった。当時はまだ『スピードを上げるために長さを短くする』という発想がなかったから、レースで使うにはいたらなかったんだ」。
——この頃、W杯レベルで主流だったスラロームモデルの長さは198cm。年々短くはなっていたものの、基本的なフォルムはもう何十年も変わっていなかった。それに対し、ショートスキーは明らかに異質な形状だった。多くのレーサーにとって、それは「冗談」としか思えず、とても受け入れがたいものだった(月刊スキージャーナル)。
一方、当時の皆川賢太郎はワールドカップに参戦するようになって、まだ2年目。若く勢いのあった彼は、ショート・カービングスキーの潜在性に賭けてみることに躊躇はなかった。
皆川は言う。「当時の僕は、守るべき何かも、まして成績を出さなければいけないという責任もなかったので、なにも迷わずショートスキーにスイッチすることができた。他の選手たちがこんなに素晴らしいスキーを使おうとしないのが不思議でしょうがなかったけれど、僕は『これは自分にとって大きな武器になる』と直感したんだ」。
こうして皆川は、その時点では世界で数台しか存在していなかったスラローム用のショートスキーを手に入れた。それは長野オリンピックの翌冬、1998/1999シーズンが始まったばかりの頃であった。
■寵児
——1999/2000シーズンは、スラロームに本格的なショートカービングの波が押し寄せた。先陣を切ったのは、若い世代の選手たち。まだ特筆するような実績はないが、失うものも何もなく、したがって新しい流れに積極的に飛び込んでいける先鋭的な若者たちである(月刊スキージャーナル)。
まずはオーストリアの若手、マリオ・マットが飛び出した。キッツビューエル(オーストリア)で行われた男子スラローム第6戦、彼は176cmという短いスキーで、いきなり優勝をかっさらった。
皆川賢太郎の世界デビューも、期せずしてこの同じレース。60番という遅いスタート順から、一足飛びに6位へと食い込んだ。
——この日のチロル地方は、どんよりとした曇り空。気温は少し高めで、雪もけっして硬くはなかった。60番のゼッケンをつけた皆川が滑る頃には、すでにコースには深い溝が刻まれ、後方スタートの選手にとっては不利な条件ばかりがそろっていた。しかし皆川は、そんなことはお構いなしに激しいアタックをかけた。どこに飛んでいくかわからない鉄砲玉のように。そんな皆川は、2本目のゴールエリアに滑り込み、その時点でのベストタイムをすると大観衆の歓声に応えた。他の選手よりも明らかに短いスキーを高く掲げて(月刊スキージャーナル)。
——それまでほとんど名前の知られていなかった2人の新鋭が、いきなりアルペンの聖地キッツビューエルの主役に躍り出た。皆川にとって、これが初めてのワールドカッブ入賞。2本目に残ったのも初めてのレースだった(アルペンレースは2本滑った合計タイムで競う。1本目の成績が悪ければ2本目を滑ることはできない)。偶然にも彼のひとり前、5位に入ったのはシュタンガッシンガー。1年前には雲の上の存在にしか思えなかったシュタンガッシンガーだが、このレースでのタイム差は100分の7秒しかなかった(月刊スキージャーナル)。
シュタンガッシンガーの「余り物」を頂戴してから、わずか1年。皆川は世界に先駆けて、その「冗談のようなスキー」を乗りこなしていた。そして華々しい世界デビューを飾った。
その衝撃的な6位入賞から1ヶ月後、ヨンピョン(韓国)でもふたたび6位入賞。皆川は「ショートスキー使いの名手」として各国から注目を集める存在となる。
皆川は当時を振り返る。「W杯で初めて入賞した2000年前後の滑りを見ると、やはり自分はけっしてスキーがうまくないんだと感じる。この滑りで当時の主流だった180cm以上の長いスキーを扱うのは難しかっただろう。だからこそ、自分にとって早いタイミングでショートカービングスキーと出会ったことは何よりも大きい。長いスキーを使っていた選手たちがは見向きもしなかったが、自分だけがその可能性を直感的に感じていた」
翌2000/2001シーズンも、皆川は着実にワールドカッブ入賞を重ねる。
セストリエール(イタリア)6位
キッツビューエル(オーストリア)8位
シュラドミング(オーストリア)10位
続く志賀高原の大会で、皆川は念願の第一シード(世界トップ15)入りを果たす。日本人選手としては木村公宣(きむら・きみのぶ)以来の快挙であり、これ以降、皆川は日本のエースとなる。
皆川は語る。「ショートカービングスキーで自分が大きく躍進することができたのは、何よりもその特性が自分の滑りに合っていたから。自分は繊細な雪面タッチでスキーをきれいに曲げていくタイプでは決してない。スキーを雪面に鋭く切り込ませ、自分から仕掛けていくことでターンごとの加速を求めていくタイプ。ショートカービングスキーは、スキー自体が仕事をしてくれる割合が大きく回転力が強いため、早いピッチでターンを刻んでいくことができるようになったんだ。もしショートカービングスキーに出会うことができなかったら、決して世界のトップに近づくことはできなかっただろう」
■不運
ショートカービングを武器に、順風満帆に思えた皆川賢太郎。
しかし次の冬から、「冷水をぶっかけられるような出来事」に重なって襲われる。
——声帯ポリープの切除手術にはじまり、過剰なトレーニングによる心臓の不調、コンディション・トレーニングでの足首の捻挫。シーズン開幕を迎えた頃、捻挫した足首の湿布が低温火傷を引き起こし、彼の右足首は無惨なほどただれ、腫れ上がってしまった。激痛に耐えながらブーツを履き、スタート台に立ったが、そんな状態で本来の滑りができるはずもなく、皆川の勢いは徐々に衰えていった(月刊スキージャーナル)。
アスペン(アメリカ)16位
クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)24位
アデルボーデン(スイス)28位
シュラドミング(オーストリア)14位
失速しながら迎えたソルトレイク五輪(2002)。
それでも皆川は強気に大風呂敷をひろげていた。
「オリンピック前までにW杯で2勝し、ソルトレイク五輪ではメダルを獲得」
すでにオリンピック前のW杯勝利は叶っていなかったが、それでも彼は強気の姿勢を崩そうとしなかった。
——マイクを向けられれば派手なアドバルーンを上げ、威勢のよいコメントを連発した。日に日に自信は失われていったが、それを他人に悟られることが恐くて仕方がなかったからだ(月刊スキージャーナル)。
皆川は当時の自分をこう振り返る。「自分で自分の背中を押していないと、すぐにでも倒れそうだった。どんなに苦しくたってオレだけは大丈夫、そんな根拠のない自信をもとうとすることで、辛うじて自分を支えていたんだ」。
結局、ソルトレイクは皆川にとって「辛いオリンピック」となった。
1本目で途中棄権。考えられ得る最悪の結果だった。
——ゴールエリアで記者に囲まれた彼は、大粒の涙を流し、言いようのない悔しさにまみれた(月刊スキージャーナル)。
■低迷
気がつけば、急激に進んだショートカービングの波は、ほとんどのレーサーに及んでいた。真っ先にこの波にのった皆川だったが、もはやアドバンテージは薄かった。誰もが短いスキーをはくようになったこれからが真の勝負であった。
しかし試練は続く。
オリンピックの失意を引きずったまま、帰国後の国内レースで、皆川は左膝の前十字靭帯を断裂。「夢ならば醒めてほしい」と願ったものの、その激烈な痛みは現実そのもの。アルペンレーサーとしては致命傷を負ってしまった。
「ドン底」
彼がそう言うように、その低迷は深かった。
——靭帯の再建手術をうけ、長く苦しいリハビリをへて雪の上に復帰したが、1日滑ると左の膝はまるでボールのように腫れ上がってしまうため、数日間は練習を休まなければならない。酷いときは歩くことさえままらなず、何とか日常生活をおくるのがやっとという状態(月刊スキージャーナル)。
2002/2003シーズン
クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)28位
ヨンピョン(韓国)20位
翌2003/2004シーズンは、記録が一つも残らなかった。4シーズンぶりに0ポイントに終わり、皆川はWCSL(W杯スタートリスト)の圏外に消えた。世界ランキングは95位にまで落ちた。
——皆川が下り坂を転げ落ちはじめる一方、ほぼ時を同じくして、4歳年下の「佐々木明(ささき・あきら)」が急成長。彼が第1シードのレーサーとして世界で活躍をはじめると、日本のエースの座も奪われた。皆川の気高きプライドは、もはやズタズタだった(月刊スキージャーナル)。
■かすかな明かり
しかし、ギリギリのところで皆川は踏みとどまった。
彼は持ちまえの「不屈の闘志」で、深く暗い穴から這い上がってきた。
2004/2005シーズン
ビーバークリーク(アメリカ)18位
セストリエール(イタリア)11位
シャモニ(フランス)21位
シェラドミング(オーストリア)14位
クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)7位
——クラニスカ・ゴラの第8戦では7位となり、じつに37レースぶりに一ケタ入賞を記録。一時は60番台にまで下がっていたスタート順も、20番台に戻した(月刊スキージャーナル)。
復調のきっかけは、靭帯断裂した左膝の状態がようやく快方に向かいはじめたことだった。
皆川は言う。「靭帯自体がケガをする前に比べてタイトになったが、それを自分の身体の一部として認め、受け入れるまでにはだいぶ時間がかかってしまった」。
こうも言う。「これまでは、何もかもを手に入れようとして欲張っていた。とうてい届くはずのないものに手を出そうとしたり、欲張りすぎて手の中にあるものを放してしまったり。いつも何かに焦っていたから、自分をコントロールできなかった」。
目前には、自身3度目のオリンピックとなるトリノ五輪が迫っていた。
皆川は語る。「滑りを大きく変えなければ、トリノ五輪までに思うような位置にたどり着けないと思っていた。だから、それまでの滑りを一度すべて壊し、新たにベースを築き上げる作業に集中した。最初は外力に身を任せたターンがどれくらいできるかを、一つ一つのターンで確認していき、それを徹底していった。(低迷した)2003/2004シーズンとの一番の違いは、ターンを『待つ』ことができるようになったこと。だから、スキーを雪面に対して包丁のように切り込ませ、スパッと抜く作業を安定してできるようになった」
■トリノ五輪
2005/2006シーズン(トリノ五輪前)
ビーバークリーク(アメリカ)13位
マドンナ・ディ・カンピリオ(イタリア)22位
ウェンゲン(スイス)4位
キッツビューエル(オーストリア)12位
シュラドミング(オーストリア)6位
オリンピックへの準備は順調だった。ウェンゲン(スイス)で記録した4位は自己最高位であり、充分にメダルを狙える位置に戻って来たことを世に知らしめた。スタート順も、オリンピック直前に第1シード(トップ15)に戻した。まさに理想的な形でオリンピックを迎えようとしていた。
佐々木明・皆川賢太郎の二枚看板で挑むこととなったトリノ五輪。日本アルペン史上、最強のチームと下馬評は騒ぎ立てた。
——新エース・佐々木明が「勢いにまかせた博打」に出て突破口を開こうとするのとは対照的に、皆川はさまざまな要素を総合的に組み立てる「理詰めのレース」を志向した(月刊スキージャーナル)。
皆川は言う。「出たとこ勝負というのは、何も考えずに『ただがむしゃらに滑ったら勝ち』みたいなレース。でも僕はそういう戦いはしたくなかった。あくまで一つ一つのターンの質を高めて、そのトータルで勝負しようと思った」。
大祭典をまえにしても、皆川は心を静かに保っていた。
——高い目標を掲げ、それを周囲に公言して自らに重圧をかけたソルトレイク五輪のときとは対照的に、トリノ五輪に挑む皆川は、メディアには努めて冷静に対応した。派手なアドバルーンを上げることなく、ごく自然でフラットなコメントだけを発した。レースへの意気込みを静かに語り、メダルを意識した表現はあえて封印した。もちろん心の中には『燃えたぎる熱い塊』があった。触れれば火傷しそうなパッションが、いまにも吹き出てきそうだった。しかし、彼はそんな奔流を意識的に冷まし、落ち着いたレースをしようと努力した(月刊スキージャーナル)。
スラローム1本目、皆川は3位につけた。
トップのベンジャミン・ライヒ(オーストリア)とのタイム差は、わずか100分の7秒。メダル、いや優勝さえも射程距離におさめて、心静かに2本目を待った。
一方、日本の新エース・佐々木明は一本目8位とまずまずの位置につけていながら、ゴールエリアで暴れていた。「見えねぇ!」、そう叫んで夕闇せまって視界の悪くなっていたコースにいちゃもんをつけていた。
勝負を決する2本目。
皆川は自分の出走を待っていた時のことを、こう語る。「妄想とか願望ではなく、現実としてメダルが目の前にあるというプレッシャーは本当に良いものだった。2本目のスタート前には、武者震いをするほど興奮した」。
佐々木のほうが先にスタートした。しかし滑り出した直後、彼は3番目のゲートをまたいでしまい失格となった。
皆川もスタート直後、アクシデントに襲われる。
——スタートして間もなく、スキーブーツのバックルが外れてしまったのだ。あまりに直線的にポールにアタックし、その結果、バックル部分でポールをなぎ倒す形となった。究極ともいえる攻撃的な滑りだったが、その衝撃でバックルが開放してしまったのだ。ミスというよりも、あまりに調子が良すぎたゆえのアクシデントと言うべきだろう(月刊スキージャーナル)。
その影響の多寡はいかほどであったのか? 結果は2本合計で4位。メダルまでの差は、わずか100分の3秒(0.03秒)しかなかった。
レース後、皆川はこう語った。
「1本目の滑りは完璧だった。それでもメダルを取れなかったのは、オリンピックという大舞台で、これまで一度も入ったことのない領域で戦わなければならなかったから。そして、そこでの勝ち方を僕が知らなかったからだろう」
彼はこのレース、最初から最後まで冷静さを失わなかった。そして、あくまでも潔かった。
オリンピック後のW杯レースでも、皆川は着実にポイントを重ねた。
2005/2006シーズン(トリノ五輪後)
志賀高原(日本)14位
志賀高原(日本)7位
オーレ(スウェーデン)11位
■2度目の大怪我
翌2006/2007シーズン、皆川は「生涯で最高の滑り」ができていたと言う。
「あのままワールドカップを戦っていれば、僕はあと数レースのうちに絶対に勝っていた」
謙虚な冷静さを心がけながらも、その自信が全身にみなぎっていた。それほど彼の滑りは、かつてないほど絶好調だった。
「この頃はスキーのことが面白いくらいわかっていたし、技術も最高に高まっていた。どんな難しい斜面でも、難しいポールセットでも、自分の間合いで滑れていたと言っても過言ではない。ポールに対してギリギリのラインはリスクも高いが、だけどこの頃は、そのラインでも通れることが自分でも感覚的にわかっているし、減速をしない確信をもっていた。さらに言えば、このシーズンこそ自分の技術のピークだった」
このシーズンは、ビスマルク(スウェーデン)が台頭してきたところだったが、トレーニングでタイムレースを行うと、皆川とビスマルクだけが「飛び抜けたタイム」を記録していたという。
ところが練習中、彼はふたたび膝の靭帯を切ってしまう。前の左足ではなく、今度は右足だった。結局、自身最高となるはずだったシーズンは、棒に振ることとなった。
——振り返ってみれば、この2度目の前十字靭帯断裂というケガは、彼のスキー人生において致命的なものとなった。約1年のリハビリを経て、レースに復帰はしたものの、かつてのように表彰台を争うレベルまでの回復にはいたらなかった(月刊スキージャーナル)。
「ケガをする直前の、あの絶好調時の感覚が鮮明に残っていただけに、レースに戻ったとき、悔しくて仕方がなかった。なんであの時にできていたことができないのか。身体とスキーがバラバラになってしまい、何とかそれを元どおりに修復しようと努力したが、どうしても無理だった」
——自らのレースを振り返るとき、皆川はいつも冷静に淡々とした口調を崩さないのだが、この時期のことを語るときだけは唯一、表情に悔しさをにじませる。結局、これ以降の彼は、全盛時の勢いを取り戻すことができず、ときおり下位入賞を記録するのがやっとという戦いが続いた(月刊スキージャーナル)。
「最初の靭帯断裂のケガ(2002)は、いま振り返ると『這い上がるために必要なケガ』であったと言えるかもしれない。だけど2回目のケガだけは、最盛期にあった自分にとってマイナスにしかならなかった」
バンクーバー五輪(2010)は、あっという間に終わってしまった。
わずか10秒たらずでコースアウト。
39番という遅いスタート順。高温と降雨によって荒れたコースで上位進出を狙うには、「一か八かのギャンブル」を仕掛けざるをえなかった。本来、ギャンブル的な勝負とは無縁となっていたはずの皆川。だがこの時ばかりは不利な条件が重なり、戦略もなにも立てられなかった。
「自分はけっしてスキーセンスがある選手ではなかった。絶妙な雪面タッチを武器にする選手などとはタイプが違う。どこがストロング・ポイントかというと、体力の強さをフルに活用して、エッジを雪面に食い込ませ、それをターン後半に瞬間的に抜くことで加速を求めていく点。ただ、そうした滑りは身体とスキーが一体になって動いているからこそ可能になるもの。身体とスキーがバラバラになって身体だけ動いてしまうと、自分のストロングポイントを引き出すことができなくなってしまう。『アクセルを踏んでも加速することができない車』のようなものだった。(この2009/2010シーズンの滑りは)30位に入ることはできるかもしれないけど、優勝することはできない滑りだった」
■引退
もう30歳を越えていた。
それでも皆川の技術には卓越したものがあった。
しかし、身体はそろそろ悲鳴を上げはじめていた。とくに問題となったのは「目」だった。
「見えている景色が昔とは違う。以前は滑っているときに、ボールにスキーのトップをわざとぶつけるのも簡単にできるくらい視界がクリアだったのに、今は本当にアバウトにしか見えない。あぁ、これが年齢的な衰えなんだなと痛感した」
引退を決意せざるをえなかった。
目の衰えばかりは、トレーニングでカバーすることはできなかった。
現役最後のレースとなったのはウェンゲン(スイス)。W杯で最も難しいといわれるこのコースを、皆川はむしろ得意としていた。
——しかし、現在の彼にこの難コースを攻略するだけの力は残っていなかった。1本目のコース半ばで途中棄権。しばらくコース脇でたたずんだあと、彼はゆっくりとゴールエリアに滑り降り、長かったレース人生に別れを告げた(月刊スキージャーナル)。
「やり残したことはない。なんの悔いもなく、ここから立ち去れる自分は幸せだと思う」
さっぱりとした表情で、彼は長年親しんだピステをあとにした。
■実感
ワールドカップ出場:104レース
最高位:4位(10位入賞9回)
オリンピック出場:4回
最高位:4位(トリノ五輪)
カービングスキーとともに世界に勇躍した皆川賢太郎。そのレース人生は18年に及んだ。
——レースになれば闘志をむき出しにしてポールに挑んだ。触れれば手が切れそうなアスリートだった。ワールドカップでは表彰台に上ることはできなかったが、ヨーロッパのファンの記憶にも、ケンタロー・ミナガーワの名前は強烈に刻み込まれている。第1シードで臨んだレースは、オリンピックも含めて7レースのみ。しかし、第1シードから陥落後、一度ランキングを大きく下げながらも、ふたたび第1シードに返り咲いたことこそが、皆川の真骨頂といえるだろう(月刊スキージャーナル)。
「将来はオリンピックに出て金メダルを取る」
小学3年生のときに書いた作文が、地元の新聞にのった。しかし、その夢はついに叶わなかった。
今の彼はこう語る。「目標に向かって必死にがんばった証としてメダルがあれば、それはそれで嬉しいだろう。でも自分の人生にとっては、メダルなんて実はたいしたことではないんじゃないかと今は思う」。
この言葉は、少しも負け惜しみじみていなかった。彼には「やりきった」という実感があった。その実感以上に確かな証など必要なかった。
■スキードーム
現在、ピーク時には2,500億円の市場規模だったスキー産業は、500億円(およそ5分の1)にまで縮小している。
——スキー産業自体の低迷、それにともなう選手育成・強化費用の不足、その一方で確実に増えつつある海外からのスキーヤー、観光客など。現在、日本のウィンタースポーツ業界が抱える問題は大きく、しかも多角的だ(月刊スキージャーナル)。
そんな現況を踏まえ、皆川は引退パーティーでこんな話をした。
「自分が選手としてのキャリアを終えたあとに、日本のウィンタースポーツに焦点をあてて、新しい『ジャパンモデル』をつくり、業界のシステムや人材、問題に対応するシンクタンク的な役割を果たしたいというビジョンをもっています。日本のスキー界を盛り上げて、独自に財源を確保できる形にするためには、スキーを『観るスポーツ』として興行化することと、それを継続していくことが必要です」
さしあたり40歳までの3年間は、日本国内で開催されている「全日本スキー技術選」に選手として参戦することを表明した。
「前走をやらせてもらって技術選に身を置くとか、いろいろな方法を考えました。でも、なんかすべて言い訳っぽいんです。選手をやるのが一番早いから。だから選手としてやろうと」
——スキーをはじめとするウィンタースポーツが盛り上がるジャパンモデルをつくり、将来的にはアジアに輸出できるようにしたい。というのは、皆川が競技の現役時代から考えてきたことだった(月刊スキージャーナル)。
「僕は雪は『資源』だと考えていて、そう考えると、日本のウィンター産業というのはものすごいポテンシャルを持っていると思います」
——世界を見渡したときに、自然の雪が降る国はそう多くはない。現在の日本の内需に対する考え方では、雪は邪魔物だが、今後、アジア諸国が経済成長し、その人々が冬のレジャーとしてスキーを考えたとき、雪は「資源」になる。観光立国を目指す日本政府は、ビザの発給要件を緩和するなど、海外からの観光客を積極的に迎える政策を進めている(月刊スキージャーナル)。
「そのポテンシャルを発揮するための起爆剤として、僕が作るべきだと思うのは『スキードーム』です。スキーリゾートと手を組んで、通年で情報が絶えない場所を確保する。産業的に考えても、数万年する道具を買って使えない時間が長くあるのはもったいないし、メディアが何か仕掛けたいときにも滞らないで済む。そういうことを考えると、一番大変だけど、スキードームを作ることが実は近道」
皆川の計画は具体性を帯びはじめている。
「スキードームを作ることで、通年でスキーを『観るスポーツ』として興行化して、独自に財源を得られるようにすることにつながっていくと思います。僕は10年以内にという目標を立てていますが、大型施設なので認可に最低5年はかかります。すると、この3年以内にキックオフしなければ間に合いません。たとえ国の認可が下りたとしても、それまでに場所の選定もしなければならないし、エビデンスもとらなければならない。大きな話になってしまいますが、それが一番やりたいことなので、しっかりやっていくつもりです。」
皆川の考える「ジャパンモデル」において、スキー選手が活躍する場をつくれば、プロとして生活の糧を得ることにもつながる。それは選手の育成・強化にもなっていくはず。その流れにリゾート経営者や他の産業も巻き込んでいく。
「アジアの人々に『スキーの聖地』として日本にやってきたもらいたい」
■スキー少年
一方、選手として新たに参戦する「全日本スキー技術選」に関して、皆川はこう語る。
「これから技術を習得できるというのは、異常なまでの楽しみなんですよ。単純に『いちスキー少年』としてすごく楽しみ」
レース最高峰の技術を誇る皆川に、「そのままでいい」と関係者は口をそろえる。だがそれでも、皆川は技術に対して貪欲だ。
「スラロームの技術とダウンヒルの技術がまったく違うのと同じで、だから、それを覚える楽しみがあるんです。コブ斜面は唯一のハードルだと思っています。ダダダダと縦にいくのは得意なんですけど、コブのなかを上手く滑るのはちょっと課題です」
皆川賢太郎、37歳。
——もし初挑戦の技術選で、優勝争いに絡むことなく終わった場合、皆川賢太郎というスキーヤーがもつブランド力や求心力が一気に下がってしまう可能性もある。実際、その可能性は決して低いものではない。ナショナルチームから技術選に転向して、その直後に総合優勝を争ったのは佐藤譲ただ一人(1989)。同じくナショナルチーム経験者の粟野利信や佐藤久哉、吉岡大輔らが初優勝を果たすまでには、6〜7年の時間を要している(月刊スキージャーナル)。
それでも皆川は、自らの挑戦に臆することはない。
ただ、新たなスタート台に胸を膨らませている。
ありし日のスキー少年のように。
(了)
ソース:SKI journal (スキー ジャーナル) 2014年 09月号 [雑誌]
皆川賢太郎「不屈の魂」
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2014年8月18日月曜日
「大人は演出できない。だから感動する」 [甲子園・馬淵史郎]
甲子園の宿舎宛てに、妻からの手紙が届いた。
馬淵史郎(まぶち・しろう)が封を切ると、中にはカミソリが入っていた。そして「これで首切って死ね」と書かれている。それは妻の名を騙(かた)った脅迫状だった。
「恐ろしいのぉ…」
馬淵はつぶやいた。
1992年の夏、明徳義塾の監督、馬淵史郎は完全な悪役だった。超高校球児だった松井秀喜を相手に「5連続敬遠」を敢行して、「高校野球界のデストロイヤー」となっていた。
馬淵は当時を振り返る。「もし松井君と勝負していたら、打たれていたと思います。あの時は、高校生の試合に一人だけプロのバッターが混じっていたような状況でしたから。だから敬遠して、次の打者で勝負したんです。ビートたけしさんが言ってましたよ、バレーでもテニスでも相手の得意なところにサーブを打つ人はいない、弱いところに打って勝負する。それは勝負の世界では『逃げ』ではないのです」
とはいえ、全打席を敬遠されたことによって負けた松井秀喜(星稜高校)。観客の多くは「勝負して欲しかった」と、その試合を悔しがった。
宿舎には、さらに電話がかかってきた。
「ピストルで撃ったる」
当時、馬淵監督はまだ2年目の新米監督。もっとビビったのは旅館のオヤジ。甲子園警察に電話を入れて相談したら、翌日の練習場には装甲車が2台派遣されてきた。
「高校野球とはスゴイもんやなぁ」
馬淵はそう思った。
それから6年後、馬淵監督率いる明徳義塾は甲子園、準決勝にまで駒をすすめる。
対するは横浜高校。試合は終盤までずっと明徳優位に進み、9回まで6点差をつけて勝っていた。当時の横浜高校には怪物・松坂大輔がいたが、この日の彼はマウンド上ではなくレフトを守っていた。というのも前日のPL戦、松坂は延長17回を250球も投げていたからだ。
明徳の勝ちが半ば決まったかと思われた9回裏、横浜高校はまさかの猛打をみせる。6 - 6 と同点に追いつき、ツーアウトなおも満塁。しかし次のバッターの打った球はフラフラとセカンドに上がり、横浜高校、万事休すかと思われた。ところが明徳は、ツーアウトにも関わらず前進守備を敷いたままだった。そして運命の打球は、前かがりになっていたセカンドの頭上を辛うじて越えていった。それがサヨナラヒットとなり、明徳はまさかの大逆転負けを喫してしまう。
のちに松坂大輔は驚いたように、こう語っている。「セカンドがジャンプしたのに、ギリギリ届かなくてポテンと落ちた。普通の守備位置だったら絶対、捕れてます。経験豊富な馬淵監督でも、前進守備を戻すのを忘れたのかも…」
馬淵監督が真紅の優勝旗を手にするのは、14回目の挑戦となった2002年の夏。
「僕は初めて優勝した2002年、智弁和歌山と決勝で当たるという朝、試合の前にね、『今日は勝てるんじゃないかな』と一つだけ思ったことがあったんですよ」
馬淵監督は当時の思い出を語る。「何かと言うとね、決勝戦の前って、取材が終わるのが夜の9時半くらいになるでしょう。明日が試合だというのに。あれは選手も大変です。だから僕はあの日、時間が時間なので『明日はゆっくり寝てええぞ。朝9時に近くの公園で軽いランニングやろうか』と選手に伝えていたんですよ。でも僕は夜ほとんど寝られなくてね、24時間営業の喫茶店に行ったりして、8時半くらいに公園に行ったんです。そうしたらね、もう選手が全員、先にジョギングしていた。みんな大汗をかいてね、素振りをしてたヤツもいました。『今日は男になれるかもわからん』と思っていたら、主将の森岡良介(現ヤクルト)がね、『監督、今日は男にします』と言うわけですよ、阿吽の呼吸というか。僕はあっち向いて涙がポロっと出ましたよ(笑)」
馬淵監督は感慨深げに続ける。「大人が演出できるものではないんです。大人が作り上げたものじゃないから感動するんですよね。ギリギリのところで自然に発生したものは強い」
そのとき負けた智弁和歌山の監督、高嶋仁氏もうなずく。「勝つ時というのは、こちらがコントロールできるもんじゃないんだ」。この名将は甲子園で63勝という歴代最多勝利記録をもっている。甲子園は春夏通算で優勝3回。しかし馬淵監督の明徳義塾には勝ち縁が薄く、甲子園での直接対決は0勝2敗といまだ勝ち星がない。
高嶋監督は言う。「優勝した時の監督のインタビューって、みんな一緒でね、『もうここまで来たら選手にまかせた』と絶対に言うんです。選手を信頼しきっていて、『もう好きなようにやれ』っていうときほど強いものはないですよ。甲子園の決勝から逆算したら、結局12試合。地方で6、甲子園で6。12連勝したら優勝なんです。それを1ヶ月半の間にやるわけでしょ、それも40℃近いところで。結局は、監督が甲子園で勝つんじゃなくて、勝てる選手を育てたら勝てるっちゅうことですね。指導というのはそういうもんだと思います。」
馬淵監督も同感だ。「『お前らに任せた』と思えるときは本当に嬉しい。2002年に、まぐれの優勝だったかもしれませんけど、男に生まれて良かった、明日死んでもいいと本当に思いました」
(了)
ソース:Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」
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2014年8月17日日曜日
批判を恐れぬ監督 [原辰徳と原貢]
レフトの亀井善行が一、二塁間に立ったとき、東京ドームがどよめきに包まれた。
内野手5人シフト
巨人、原辰徳の大胆な采配に、みな息を飲んだ。
——結果的には、この大胆なシフトは裏目に出る。巨人-阪神戦の6回1死二、三塁という場面(2014.7.11)、誰もいなくなったセンターの定位置付近に、西岡が打ち上げた飛球が落ち、タイムリー二塁打となって2人の走者が生還したのだ(Number誌)。
当然のごとく、翌日の新聞には原監督を厳しく批判する記事が並んだ。
しかし当の本人、「まったく気にしないね」と、どこ吹く風。「批判を恐れていたら何もできない。結果や批判を恐れて怯んでいたら、チームを動かせない。勝負の厳しさ、結果に対する責任を背負っているのは監督しかいない」。
そう語る原辰徳の心には、”ある風景”が浮かんでいた。
それは亡き父、原貢がかつて甲子園で見せた采配。
40年前の1974年の夏、東海大相模を率いていた原貢氏。初戦の土浦日大戦、1点をリードされて9回2死という土壇場。一塁には同点のランナー、鈴木富雄がいた。
「すると盗塁のサインが出た。僕はその瞬間にゾクゾクっとしましたね。アウトになったら、そこですべてがオシマイですから」
当時高校生だった原辰則は、父の指揮下のもと、選手として初めての甲子園に挑んでいた。
「もし盗塁がアウトになったら、監督・原貢はそれこそ袋叩きにあったはずです。でも、あのときのオヤジさんは平然とサインを出していた。批判などはまったく気にしていなかったのです。『批判するなら批判せい! オレは間違ったことは何一つしてやしない!!』、そういう強い信念をもっていたからでしょう」
結局、一塁にいた鈴木に二盗を敢行させ、みごと成功。同点に追いついた東海大相模は、延長16回の死闘を制することになる。
「あのときのオヤジさんの姿こそ、私の監督としての原点なんです」
息子・原辰徳はそう語る。そして続ける。「指導者としてそういう強さをもてたのは、そこに必ず”理”があったからでしょうね」
——原貢の野球に対するアプローチは、それまでの常識にとらわれない、理にかなった自由奔放さがあった。有名なのは、当時は御法度だった練習中や試合中の水分補給を奨励していたことだ。ベンチには必ずヤカンの氷水と盛り塩が用意され、選手は「水を飲んだら、必ずひとつまみ塩をなめろ」と指示されていた。また肩を冷やすと禁止されていた水泳も解禁し、当時はまったく見向きもされなかったウェイトトレーニングもいち早く取り入れていた。そうした先見性は誰に教わったのでもない、貢自身が考え、そこに理を見出したゆえの行動だったのだろう(Number誌)。
「もの凄い緊張感なんです。われわれ選手はただ監督である父を見ている。父は100人の選手の一人一人に鋭い視線を注いでいる感じでした」
——原貢は、普段の練習ではとにかく基本を重んじた。ノック一つとってみても、少しでも雑な捕球をすると、「そんな取り方は練習のための練習だ。”試合のための練習”をしろ!」と怒声を飛ばした(Number誌)。
「オヤジは試合で打てなくて起こることは絶対になかった。いちばん怒られるのは、油断して気を抜いた練習をすることでした。だから練習は常に凄まじい気迫で、オヤジがノックバットを持つだけで選手に緊張感が走るほどでした」
——長男の辰徳が東海大相模に進学したのは1974年。”父子鷹”と騒がれた時には、辰徳への鉄拳制裁は凄まじく、チームメイトもたじろいだほどだった。「野球は打ってなんぼ。球を遠くまで飛ばすんだぞ」とフリースイングを推奨した父・貢。その最高傑作が息子の辰徳で、細身の身体から意外なほどのパワーが生まれたのは、父の薫陶があったからに他ならない(Number誌)。
「とにかく選手の身体的な特長や、能力を見抜く力はすごかったです」
そう語るのは、菅野智之の父、菅野隆志氏。
貢氏は、実孫の菅野智之にこう言った、「器用な指だなぁ。コントロールを意識していけば、いいピッチャーになれる」と。最初、内野手をやりたがっていた智之にピッチャーとなるよう勧めたのが貢氏だった。「お前の性格はとことんマイペースだ。お前はピッチャーしかできないから、ピッチャーに専念しなさい」と。
菅野隆志氏は言う、「智之は子供のころ、股関節やヒザ関節が固く、オヤジさんはそれを見抜いてピッチャーに専念させろと言いました。あと小学生のときに扁平足だったんです。それを見抜いたのもオヤジさんでした。扁平足は疲れやすいし、怪我もしやすい。それですぐに私が命じられて、発泡スチロールで中敷をつくって履かせた。すると中学に上がる頃にはすっかり治っていました」。
——原貢氏は今年5月4日、心筋梗塞と大動脈解離で倒れ、20日あまりの闘病のすえに5月29日、帰らぬ人となった。
原辰徳はその思い出を語る。「父が私の師だったのは、高校・大学合わせて7年間でした。その後、私がプロに入ってからは、父は私の一番の理解者でありファンでした。オヤジさんの凄いところは、私に対してああしろ、こうしろと強制したことは一度たりともなかったことです」
ただ一つだけ、2人の意見が分かれることがあった。
それは「心技体」の考え方。
——辰徳は、プロの世界で心が強いのは当たり前。まず強い肉体があり、技術が備わった選手にこそ、いざという時に頼りになる心が宿ると考えた(Number誌)。
「私がそう話すと、父は『そうかなぁ…、でもやっぱり、オレは”心が一番”だと思うぞ!』と、つくづく言っていました」
——野球を通じた人間教育を貫いた貢は、あくまで健全で強い心があって、初めて技と身体ができあがると考えた(Number誌)。
「オヤジにとって勝つことは目標だったけど、目的ではなかった。では目的は何だったかといえば、人間を育てること。野球だけではなく、人生でもここ一番で力を発揮できる、そういう人間を育てることだった」
息子・辰徳が巨人軍の監督に就任するとき、父・貢氏はこんな言葉を贈ったという。
「夜、枕の上で考えごとをするな。朝、背筋を伸ばして考えろ」
(了)
ソース:Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」
原辰徳「原貢の教えを継ぐ者たち」
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2014年8月11日月曜日
松坂大輔と、春夏連覇の優勝メンバー
芝生と土の独特の匂いが、強い潮風でぷーんと匂ってくる。
マウンド上で下を向くと、ポタポタと汗が滴り落ちる。
落ちた汗は、土のところでジュワーッ、ジュワーッと蒸発していく。それが熱気となり、モワッと顔に吹きつけてくる。
「あと一球で、全部おわる」
横浜高校の松坂大輔は、最後のバッターをツーストライクにまで追い込んでいた。
「これで優勝だ」
知らず、松坂は相手高校の応援歌を口ずさんでいた。
「僕は集中すると、何でも聞こえるようになるんです。だから相手の応援歌もよく聞こえるのかもしれません。集中すればするほど、よく聞こえてくるんです」
のちに松坂はそう語っている。
——あの夏、奇跡的なドラマが横浜高校によっていくつも描かれた。準々決勝のPL学園との試合で、松坂は延長17回、250球を投げ切った。先発できなかった準決勝の明徳義塾戦では、0 - 6 からの大逆転劇を演じた。その勢いを生んだのは、右ヒジのテーピングを剥がして最終回のマウンドに上った松坂の存在だった。そして決勝の京都成章戦ではノーヒットノーラン。1998年の夏に刻まれた横浜高校の記憶は、そのまま怪物・松坂の記憶だと言い換えることができる(Number誌)。
「準決勝の明徳戦では、甲子園の神様が降りてきたなと思いました。8回表まで 0 - 6 で負けてて、その裏に4点とって追い上げてるときでした。あぁ、これは横浜高校に対して『お前らが勝て』って神様が言ってるんだなって」
6点も離されてもなお、松坂は負ける気がしなかったという。前日、PL学園と延長17回を戦い、250球を投げた松坂はその日、レフトにいた。
「自分が投げてないから、打たれた感覚がなくて。負けてるのを感じたくなかったのかもしれませんね」
最後の場面、横浜高校は 6 - 6 の同点に追いついてなお、ツーアウト満塁。そして次のバッターが打った球が、フラフラとセカンドの頭を越えた。懸命にジャンプしたセカンドは、ギリギリのところで捕りこぼした。それがサヨナラ・ヒットとなった。
「ツーアウトですよ、ツーアウトなのに明徳は前進守備を敷いたままだったんです。普通の守備位置だったら、セカンドが絶対に捕れてます。経験豊富な馬淵監督でも、前進守備を戻すのを忘れていたのかも…」
決勝の京都成章戦、「あと一球」で終わると感じていた松坂。
最後に投げたのは、外角のスライダー。投げたあと、右足が前に出た松坂は、その勢いのまま、後ろを向いていた。
「優勝した瞬間、後ろを向いていたんです(笑)。ノーヒットノーランのことは頭になかったんですけど、でも最後の空振りで、なぜか『やった。ノーヒットノーランだ!』って(笑)」
甲子園、春夏連覇という偉業を牽引した松坂は、卒業後、ドラフト1位で西部入団(1999)。プロの世界でもあっという間に超一流の階段を駆け上がっていった。
高校時代のチームメイトだった常磐良太(彼はPL学園との準決勝、延長17回、決勝ツーランを放った)は、こう話す。
「プロの世界に入れば、お金もあって、遊び方も変わる。そういう人がほとんどなのに、マツ(松坂)は変わらない。中学の頃から知ってますけど、ほんとに変わらないですよ、アイツ(笑)。僕らがずっと変わらずにいられるのは、マツが変わらないでいてくれるからです」
常磐は続ける。「もともとマツは帝京と横浜で悩んでいたんですけど、中学時代、僕らと一緒にJAPANに選ばれてブラジルで戦ったとき、僕らがマツを横浜に誘ったんです。『オレら、横浜へ行くから一緒に行こうぜ』って。浜松から後藤(武敏)ってすげぇヤツも来るし、お前が来たら絶対、甲子園じゃんって(笑)」
1998年に春夏連覇した、横浜高校16人の優勝メンバー
常磐良太は大学で野球を終わらせたが、松坂以外に3人がプロの世界に飛び込んだ。ファーストの後藤武敏(ベイスターズ)、キャッチャーの小山良男(元ドラゴンズ)、ライトの小池正晃(元ベイスターズ)。
今なおプロの世界で野球を続けているのは、松坂(米メジャー)と後藤(ベイスターズ)の2人だけである。
アメリカへ渡った松坂は、2007年、レッドソックスで世界一になった。
——だが、レッドソックスを退団した松坂はその後、インディアンス、メッツとチームを渡り歩くことになる。その間、マイナー暮らしを強いられたり、慣れない中継ぎを任されたりと、かつての輝きを取り戻すにはまだ至っていない(Number誌)。
松坂はその日、約1年ぶりにマウンドに立っていた(2012年6月9日)。
右ヒジの靭帯を断裂し、再建手術をうけてからちょうど365日。1年間のリハビリを経て、ようやく松坂はメジャーのマウンドに戻ってきた。
高校時代のチームメイト常磐良太は、わざわざ日本からボストンにまで飛んできていた。”YOKOHAMA”の胸文字が入った、あのグレーのユニフォームを着て。
「涙、出てきましたよ。手術して1年ですよね。あの1年間は、心にポッカリ穴が空いちゃったような感じでしたからね。それまではマツの投げる姿を見て、僕も励みにしたし活力にしてきたし…。良いときも悪いときも、彼の姿は全部見ておきたかったんです」
今もプロで野球を続けている唯一のチームメイト後藤武敏(現ベースターズ)は、こう話す。
「頂点を極めた人というのは、挫折に弱いと聞いたことがあるんですけど、アイツ(松坂)が凄いのは、挫折してもそれで終わらないところだと思うんです。挫折しても弱いところを見せないし、ドン底からでも這い上がってくる。昔ももちろん凄かったけど、僕は今の松坂が一番強いと思っています」
あの当時、横浜高校の監督だった渡辺元智氏の言葉を、メンバーらは今も覚えている。
後藤は言う、「僕は『横浜丸という船に乗っている』という言葉が印象に残ってます。一人でも自分勝手な行動をする人がいたら、腐ったリンゴのように周りにどんどん影響を及ぼして、船は沈没してしまう。だからこそ、みんなが同じところを見るということだと思うんです。春のセンバツで優勝しても、僕らの中には誰一人、天狗になったヤツはいなかった」。
あの夏から16年の歳月が流れた。
——同じ夢を見て、同じ場所で戦った横浜高校の仲間たちは、今、それぞれの場所で別々の夢を見ながら行きている。しかし、松坂大輔がメジャーのマウンドに立った瞬間だけ、彼らは同じ夢を見る(Number誌)。
”YOKOHAMA”のユニフォームを観客席に見つけた松坂は、こう笑う。
「お前らのユニフォーム姿、笑っちゃったよ。ちょー恥ずかしい。めっちゃ、恥ずかしいんだけど」
心底うれしそうに、松坂はそう言うのであった。
(了)
ソース:Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」
松坂大輔「絶対エースが見た風景」
横浜高校「ふたたび同じ夢を、同じ場所で」
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2014年8月10日日曜日
160kmの夏 [大谷翔平]
時速160km
それはプロ野球の投手にとっても容易な数字ではない。それまでの日本人では、ヤクルトの由規 (佐藤由規)以外、記録したことがなかった。
当時、高校に入ったばかりだった大谷翔平(おおたに・しょうへい)。
「ぼくの中では、花巻東以外にあり得なかったです」
進学した花巻東には、憧れの菊池雄星がいた。菊池たちは2009年の夏、ベスト4という輝かしい成績を残しており、大谷は「この高校で日本一になろう」と心に決めていた。
監督の佐々木洋氏は、大谷の最初の投球を覚えている。
「これなら160kmまでいける…」
そう直感したという。
「大谷は、最初から135km出ていたので、3年間で20km伸びたら155kmに達する。そして彼の筋力、関節の柔らかさなら、さらに5kmプラスして『160km』に届くことも可能だと思ったんです」
花巻東には「目標設定用紙」というのがあった。野球部員は皆、このA4用紙に自分の目標を書き、監督に提出することになっていた。
大谷の紙には「160km」と書かれていた。
ところが後日、佐々木監督はトレーニングルームで「それ以上の数字」が書かれた紙を発見して驚く。
「目標 163km 大谷翔平」
天井に貼られていたその紙を、大谷はじっと見つめていた。仰向けにベンチプレスをしながら。
大谷は、こう振り返る。
「ぼくは無理だとは思わなかったです。真剣に実現できると思ってました。ずっと、速い球を投げることには長けていましたから。こういう恵まれた身体をしているので、160kmを出せる自信はありました」
2年の春には、大谷の球速は140km台後半にまで上がっていた。佐々木監督が前例を無視して、大谷にエースナンバーの「1」を背負わせたのは、ちょうどこの頃からだった。
監督は言う、「翔平はとにかく野球に対してすごい真面目でした。寮で雑談しているときも、野球の動作に関する話をずっとしゃべってる。そういう奴でした。先輩から可愛がられ、後輩にも慕われていた。だから、1番をつけさせることができたんです」。
ところが、その夏、大谷は練習中に痛みを訴えた。
左股関節の骨髄線損傷。成長期に特有の、成長軟骨の損傷だった。肩や肘に起こりやすい傷害だったが、大谷は珍しくも股関節にそれが見られた。これを治すには、静養に努めるしかなかった。
「大谷の身体を大きくするなら今だ」。そう思った佐々木監督は、この静養期間を利用して、大谷に毎日、詰め込むような食事を強いた。寮の食堂の余り物などを大谷に届けては、「完食しろ」とハッパをかけた。
「あれは大変でしたね」、大谷はそう振り返る。「ぼく、食が細くて、食べることは得意じゃありませんでしたし」
しかし、食べまくったお陰で、療養期間中、大谷の体重はみるみる増えていった。身体も見るからに厚みを増し、入学寺に65kgだった体重は80kgを超えるまでになった。
約半年ぶりに大谷が投球練習を再開したとき、捕手の佐々木隆貴は驚いた。大谷の球が以前よりもずっと重くなっていたのだ。入学当初から「あんなに速い球は見たこことも捕ったこともない」と感じていた大谷の球は、さらに捕るが難しくなっていた。
大谷が3年の春、花巻東は甲子園に行った。
初戦の相手は、あの藤浪晋太郎の率いる大阪桐蔭。
この大事な一戦、大谷は「最悪の投球」をしてしまう。
——1本塁打を含む被安打7と打ち込まれ、11四死球と制球を乱し、自責点は5。大谷の乱調ぶりが打線にも伝染したかのように藤浪に12三振を奪われ、守備での失策もからんで失点を重ねた。大谷は藤浪から本塁打を放って一矢報いたが、最後は 2 - 9 の惨敗だった(Number誌)。
「あれからしばらくの間、チームはバラバラになってました」
当時の主将、大沢永貴はそう振り返る。
「練習をやろうとして集まっても、気持ちが入らない。すぐにやめてしまったり…」
そんな沈鬱とした空気のなか、大谷ばかりが声を張り上げていたという。
「しっかりやれ!」
練習でミスが出るたび、大谷の怒声が飛んだ。
最後の夏まで、もうほとんど時間が残されていなかった。
大谷、最後の夏、3年の県予選。
捕手の佐々木隆貴が変化球のサインを出しても、大谷は頑なに首を振り続けた。そして直球を投げ込んだ。
そのうちの一球が「156km」を記録。
チームの皆んなが、大谷の強い気持ちを感じていた。
そして迎えた準決勝、一関学院戦(2012年7月19日)。
炎天下、大谷が放った、高校生離れのストレート。
電光掲示板は「160km/h」を表示。
——6回、ツーアウト二、三塁から大谷が投じた一球を、打者は立ちすくんだまま、呆然と見送った。その見逃し三振に仕留めた真っ直ぐが、高校野球史上、最速の数字を叩き出したのである(Number誌)。
「しゃあっ!」
マウンドの大谷は、雄叫びをあげた。
1万人を超えるスタンドからは、大歓声が湧き上がった。ほとんど総立ちの大拍手。
その一球を受け止めた捕手、佐々木隆貴はこう振り返る。
「いつもならワンバンするくらい低めにきた、その球が、地面スレスレのところから急に伸びてストライク・ゾーンに入ってきたんです。かなりの伸びでした」
ショートから見守っていた主将の大沢永貴は、「思わず鳥肌がたった」と言っている。
この試合、花巻東は 9 - 1 で一関学院にコールド勝ち。
この勢いのまま、決勝の盛岡大付属を撃破せんと意気盛んであった。
大谷自身、「甲子園に行きたい、というより、当然ぼくたちが行くものだと思っていました」と言っていた。
ところが、決勝戦まで10日間も開いてしまった。
——試合が雨で順延した影響に加え、岩手県営や球場でプロのオールスターゲームが組まれていたためだ。被災地の復興を目的とした球宴が、あまりに皮肉な形で花巻東の前に立ち塞がった(Number誌)。
佐々木監督はこう振り返る、「大谷が160kmを出して、よし、さあいくぞ、と思った矢先の1週間のブランクです。おかげで気持ちが続かなかった。当時はマスコミの取材もひっきりなしでしたから」。
高校生が160kmを投げたということで、毎日の練習が終わるたびに、大谷や部員たちは報道陣に取り囲まれていた。コンビニへ行くのにも、カメラが後ろをついてきた。
そして、待ちくたびれた決勝戦がようやく始まった。
先制したのは盛岡大付属。内野のミスから1点を献上してしまった。
さらに3回、ワンアウト一、二塁の状況で、大谷の高めに浮いた球がスタンドに運ばれた。
「ファウルではないか!」
左翼ポール際へ運ばれたその打球は、ポールの外側を通過したように見えた。佐々木監督は必死に抗議したものの、審判の判定は覆らなかった。
3ランで広がった4点のビハインドを、花巻東は最後まで取り返すことができなかった。
大谷は15奪三振と気を吐いたものの、花巻東は 3 - 5 で敗れると、甲子園への道を閉ざされた。
試合後、大谷は「あの3ランは、あそこまで飛ばされた僕がいけない。甘くなった球を見逃さなかった相手が上だったということです」と潔く語った。
チームのみんなが泣いた。
佐々木監督もショックのあまり、決勝戦後に寝込んでしまい、1週間も学校を休んだ。
敗戦の翌日、練習場にいたのは大谷だけだった。
ただ一人、黙々と練習をしていた。
主将の大沢は言う。
「翔平にとっては、まだ野球が終わったわけじゃなかったんです。あいつは常に上を目指していたから、決勝の翌日も自然と身体が動いたんじゃないですか」
捕手の佐々木は、大谷がメジャーリーグの使用球を投げていたことに気がついた。アメリカで使用されるその球は、日本製よりも大きく、表面がツルツルと滑りやすい。それでも、大谷はいつも通り平然と、真っ直ぐや変化球を投げていた。
「あぁ、翔平はアメリカへ行くんだな」
佐々木はそう思った。
卒業後、ドラフト1位で日本ハムに入団した大谷翔平。
今年(2014)のオールスターゲームでは、「162km」という日本人最速の記録に達した。
今季、投手として9勝、打者として5本塁打と、投打とも二刀流の活躍をみせている。
「最後の夏、甲子園に行けなくて悔しかったという気持ちはずっと持っています」
大谷は語る。
「いまでも、勝ちたかったと思う。それが、こうしてプロでやっていることにつながってるんです」
(了)
ソース:Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」
大谷翔平「160km右腕と、夏の続きを」
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2014年8月1日金曜日
佐々木明、「次」へ。 [スキー]
佐々木明(ささき・あきら)
彼は、日本のアルペンスキー史上、最高の成績を残した選手である。
——明るい性格、人懐っこい笑顔、派手なパフォーマンス。そして何より、過激で思い切りの良い滑りで、われわれ日本人ばかりでなく、本場ヨーロッパの人々まで強く魅了した(月刊スキージャーナル)。
そんな佐々木明が、昨冬(2013/14シーズン)をもって、アルペンスキーW杯の第一線から身を退く決断をくだした。
本稿では、その足跡を振り返る。
◼︎スキー小僧
中学そして高校時代、国内では敵なし。
18歳のときに出場したイタリア選手権でも、4位(スラローム競技)という好成績をおさめてた。
当時のことを、佐々木はこう語る。
「周囲から、海外に行ったらケチョンケチョンにやられるぞ、ってさんざん脅かされていたけど、言われるほど大したことはなかった。『えっ、これのこと? だったら全然大丈夫だし、俺だっていけるんじゃないか』って思えた」
アルペンの本場、ヨーロッパ諸国の選手層は、後進アジアに比べて恐ろしく厚い。硬いアイスバーン、荒れるコース、難しいポールセット…。日本とは比べものにならないほど、世界のレース環境は厳しい。
——多くのジュニア選手は、自信のかわりに焦りを、ポイントのかわりに敗北感を土産に帰国するというパターンが、残念ながら少なくない(月刊スキージャーナル)。
そんな中、佐々木明は珍しくも、ヨーロッパのレースにあっさりと順応できた選手であった。
「いままで誰にもスキーを教わったことがない」
佐々木はふてぶてしくも、そう言い放つ。それは、自分自身の技術は自分自身で磨いてきた、という強烈な自負のあらわれでもあった。
「オレのスキーはすべて自己流。身近にいる“自分よりも速くて上手い奴”を追い越すことだけを考えて滑ってきた。小学生時代は、いつかダイスケ(吉岡大輔)を超えてやろうと思っていたし、サロモン・チームに入ったら、ケンタロウさん(皆川賢太郎)が超えるべき大きな壁だった」
——佐々木明の性格は、良くも悪くも自由奔放。自分で納得したことはトコトンやるが、人から強制されるとつい意地を張ってしまう。子供の頃から、とにかく滑るのが好きで、コーチが呆れるほどの滑走量をこなした(月刊スキージャーナル)。
「明のことは、それこそ子供の頃から知ってはいたけれど、はじめて強く意識したのはアイツが高校一年か二年の頃だったと思う。自分の担当していたナショナルチームの選手が、野沢のファーイーストカップで明に負けたんだ!」
そう語るのは、のちに佐々木明専属のサービスマンとなる伊東裕樹氏。
「明は身体も大きいし(身長182cm)、独特な柔らかい滑りをしていた。たくさんの選手を見てきたけど、その中でもスキーのうまさは際立っていた。海和俊宏さんもスキーのうまさは断トツだったけど、またタイプが違う。海和さんが“柳のようなしなやかさ”だとしたら、明は“ゴムのような弾力をもった柔らかさ”。まちがいなくそれは才能だと感じた」
当時のジュニアチームを担当していた児玉修氏は、こう語る。
「明が中学生のときだったと思う。ピョンヤン(韓国)で行われたコンチネンタルカップのレースで、明は10番台に入った。バランスも良いし、とにかく元気の良い選手だというのがそのときの印象。ジュニアチームに入った頃はフィジカルに足りない部分はあったけど、滑りを見ても腰から下の動きがすごく速い。大柄なのに敏捷性は高い。海外のコーチや選手からも、一目置かれるような存在だった」
◼︎ワールドカップ、デビュー
佐々木明がW杯の舞台にはじめて立ったのは、2001年2月17日、志賀高原・焼額山でおこなわれたスラローム・レースであった。
——当時19歳。まだヒョロっとした少年だったが、なめらかなスキー操作で、やたらと威勢の良い攻撃的なラインを攻めた(月刊スキージャーナル)。
結果は、一本目で敗退。
アルペンスキーは二本勝負であり、一本目の順位が悪ければ、二本目の決戦に挑むことはできない。
このデビューの年、佐々木は予想以上の苦戦を強いられている。
——参戦したワールドカップはすべて一本目で姿を消し、はじめてのオリンピックとなったソルトレイク五輪でも不発におわった。あふれる才能のまま、ただ好きだからという理由だけでスキーを続けてきた佐々木は、ここで初めて世界の壁に直面した(スキージャーナル)。
翌年もまた、失敗ばかりが重なった。
いける、と思ったラインがトレースできない。踏ん張れる、と思ったミスをこらえきれない。誤算つづきの、不本意なレースばかりであった。
「なんでレースになると、自分の滑りができないのだろう? いったいどうすれば、二本目に残ることができるのだろう?」
そんな苦悶の内に、彼はいた。
◼︎無想無念
それでも、転機は着々と迫っていた。
そして遂に、爆発の日がやって来る。それは、ある突拍子もない思いつきから火がついた。
「ひょっとしたら、余計なことを考えすぎているんじゃないか?」
度重なるミスの原因は、“考え過ぎ”ではないかと佐々木は疑った。
「レースになると、ここがヤバイとか、あそこが危ないとか、余計なことばかり考えてしまっている。じゃあ、練習のときはどうか? 何も考えずに、ただ身体が自然に反応するままに任せているじゃないか」
「そうだ! インスペクションをやめてしまおう」
彼は大胆にも、そんな決断にたどり着いた(インスペクションというのは、レースコースを滑走する前に、そのコース状況やポールセットを下見すること)。
——クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)で行われたヨーロッパカップで、さっそくその突拍子もないアイディアを試してみた。インスペクションでは上から下まで横滑りで流し、ほとんどポールを見ることはしなかった。コースの長さだけを身体に覚えさせると、あとは何の予備知識もなくスタート台に立った(月刊スキージャーナル)。
この日、佐々木明のゼッケンは61番。それはそのまま出走の順番でもあった。アルペンレースにおいて、それほど遅い出走順位は“ほとん絶望的”といってもよい。60人も滑った後のコースは荒れ放題。好タイムなど、望むべくもなかった。
——ところが佐々木は一本目の中間計時を、なんと5位で通過した。その直後、ほとんど止まりかけるミスを冒したため35位にまで順位を下げたものの、二本目に追い上げ、合計タイムで23位にまで挽回した(月刊スキージャーナル)。
確かな手応えであった。
“何も見ないインスペクション(下見)”は予想通り、佐々木の頭に雑念を生じさせなかった。
この地でのヨーロッパカップは、2日つづけての連戦。翌日もまた、佐々木はポールセットを覚えずレースに臨んだ。
——1本目は54番目のスタート。前半の緩斜面、佐々木は柔らかい雪に足をとられ、つんのめるように転倒。すばやく起き上がりコースに復帰したが、中間計時ではビリから2番目という致命的なミスだった。しかし、そこからの追い上げが凄まじかった。後半の急斜面を攻めに攻めまくり、ゴールでは17位にまで順位を戻していたのである(月刊スキージャーナル)。
そして2本目。
——彼の勢いはさらに加速した。身体の本能的はスピードに任せた滑りは、荒れたコースにも破綻を見せず、最後までスピードを失うことがなかった。合計タイムでは3位に浮上。ヨーロッパカップで初めて表彰台に立った(月刊スキージャーナル)。
「おかしなレースをする奴だ…」
サービスマンの伊東裕樹氏は、そう呟いた。
「1本目はコース序盤で大きな失敗をして、中間計時では60位くらいなのに、後半のスプリットタイムで3位のタイムを出して取り戻す。何やってんだと思った反面、それで2本合計で3位に入るのだから、スゴイと思った」
佐々木自身は、こう語る。
「それまでは滑っているときに、あれこれ考え過ぎていた。考えている余裕があるんだったら、もっと攻めろよ、という話。インスペクション(下見)をしなければ、考えたくても考えられない。試しにやってみたら、それで全然問題なかった。生まれてから何万、何十万、ひょっとしたら何百万回もターンしてきたわけだから、何かあっても自然に身体が動いてくれた」
このクラニスカ・ゴラでの3位入賞を、佐々木は「壁を破って向こう側に突き抜けたような瞬間」と表現した。
そのときの賞金は、日本円にして約6万。「はじめてアルペンで金を稼いだ」と、彼は無邪気に喜んだ。
以後、佐々木明の“何も見ないインスペクション”は、彼のレーススタイルとして定着する。
佐々木の他にも、そうしたスタイルをもつ選手がいた。それはアメリカのボーディ・ミラー。彼は当時、すでに世界の頂点にあった。
——ミラーはインスペクションの時間になると、誰よりも早くコースに入り、誰よりも速く滑り降りていってしまう。コース内に立ち止まることはごく稀で、たとえそうした時もポールセットを確認するでもなく、遠くの山を見つめていたりする。佐々木とミラーはお互いの波長が合うのか、よく言葉を交わしていた。二人とも、感覚派の天才肌どうしである(月刊スキージャーナル)。
◼︎平常心
スイスのウェンゲンは、ヨーロッパを代表する山岳リゾート地である。
——下界とつながる交通機関は登山電車のみという別天地。アイガーやユングフラウといった4,000m級の名峰が間近に迫り、ワールドカップのレギュラー会場のなかでは、“もっとも美しいスキー場”といっていいだろう(月刊スキージャーナル)。
佐々木明は、その雄大な景観に魅了された。
だが、そのスラローム・コースとなると“世界で最も難しい”と、世界に恐れられている。
その日(2003年1月19日)、ウェンゲンの超絶なる急斜面は、不気味な青氷に輝いていた。
——全面にわたって大量の水が注入され、それをスイス軍の若い兵士たちが丁寧に踏み固め、さらに連日の寒さが雪の深い層まで凍らせていた。完全なるアイスバーン。あまりの硬さに、各国のコーチやコース係員が何人も斜面を滑落していくほどだった(月刊スキージャーナル)。
この日の佐々木は、65番のビブを着けていた。それは後ろから数えて11番目という遅いスタート順。
自分の順番が回ってくるまで、レース開始から2時間もあった。当然、その頃になるとコースはガタガタ。地力でまさる上位選手を追い上げることなど、まず無理な状況である。そのため、観客のほとんどが昼食へと向かい、関係者以外は人影もまばらだった。
そんな閑散としたレース場に、佐々木明が飛びだした。
そして、誰もが刮目する驚くべきタイムを叩き出す。
——ツルツルのアイスバーンは、彼が滑る頃には細かいエッジ痕が刻まれ、むしろ滑りやすかった。中間計時で11位のタイムをマークすると、後半さらにペースを上げ、トップからわずか0秒57差の7位で飛び込んだ(月刊スキージャーナル)。
その異常事態を、場内アナウンスは声を上ずらせて叫んだ。
「アキラ・ササキ!」
ヨーロッパの観客の誰もが、この東洋人の名を知らなかった。当時の佐々木は、ヨーロッパカップでの3位入賞はあったものの、ワールドカップではまだ鳴かず飛ばずだったのだから。
ゴールエリアの佐々木自身、自分のタイムに信じられぬという表情。
「モニターを振り返ったら、7位と出ていた。そこまで速いとは思っていなかったので、『マジかよ』って、思わずもう一度確認してしまった」
ワールドカップで2本目に残ったことさえ、初めてだった。2本目は上位30人による決戦の場だ。
サービスマンの伊東裕樹氏は、当時のことをこう振り返る。「強く記憶に残っているのは、2本目に向かうときの明の表情や様子。まったくいつも通りの様子だった。気負っている様子も、冷静さを欠いている様子もない。しっかりと腹をくくっていた」
2本目、佐々木は24番目にスタートバーを切った。
気温の上昇したコースは、1本目よりも荒れていた。だが、それまでのレースでずっと遅い出走だった佐々木は、いつもボコボコに荒れたコースと格闘してきた。だから、この程度の荒れはむしろ天国のようにすら思えた。
中間計時ですでにベストタイムをマークしていた佐々木は、後半はさらに加速してゴールラインを切った。その時点での1位はノルウェーのオーモットだったが、佐々木はそのタイムを0秒87もブッチぎった。圧倒的なトップタイムである。
佐々木の後に滑る6人は、いずれも1本目で佐々木よりも速かった選手ばかりだった。だが、彼らが次々とゴールしても、佐々木のタイムがずっと1位のままだった。
まさか優勝してしまうのか…?
それは佐々木個人を超えた、日本アルペン界の悲願でもあった。それまでワールドカップで日本人の優勝はなかった。
ついに残りの走者は、1本目トップのジョルジョ・ロッカ(イタリア)のみ。1本目の佐々木とのタイム差は0秒57。
だがロッカは、中間計時ですでに1本目の貯金を使い果たす。いやむしろ0秒08、佐々木に遅れたのだ。
日本の悲願、ワールドカップ初優勝は一気に現実味を帯びて迫ってきた。
——場内アナウンスで、自分が負けていることを知ったのであろうか。ロッカはコース終盤、猛烈なラストスパートをかけた。そしてゴールまでのわずかな区間で再逆転。この結果、佐々木は2位に下がった(月刊スキージャーナル)。
二人のタイム差は、わずか0秒04であった。
まばたき一回分にも満たない時間が、勝敗を分けた。
翌日のヨーロッパの新聞には、このワールドカップでも稀にみる激闘が、でかでかと掲載されていた。ロッカにとっての初優勝。それと同じくらいのボリュームで、各紙は「アキラ・ササキ」の2位を讃えた。
——佐々木明は、アルペンレースの本場で鮮やかなデビューを飾った。当時ヨーロッパでもポピュラーになりつつあった回転寿しになぞらえ、佐々木は“スシ・ボンバー”とか、“ランニング・スシ”などと呼ばれることもあった(月刊スキージャーナル)。
さすがに優勝とまではいかなかったものの、久々のW杯表彰台に日本アルペン界は沸いた。
「ヘッドコーチとして、明とはじめて表彰台に上がったこと。あれは今でも夢のようなことだったと思う」と児玉修氏は語る。
「当時の代表チームは厳しい状態だった。皆川賢太郎はケガを抱え、木村公宣は力に衰えが見えはじめていた。どうやってチームを立て直していくのか、大きな悩みだった。明についても、ワールドカップに定着するには時間がかかると思っていた。それがあのウェンゲンの2位の表彰台。われわれの想定の及びもつかないデビューだったね。あのレースで改めて明のすごさを感じさせられた」
児玉氏は、そのレースのことをこう振り返る。
「コースはガチガチの青氷で、チームのスタッフも滑落するほど。そこを1本目65番スタートから7位。それまでワールドカップで入賞したこともない選手が、そんな順位につけたら普通はパニックに陥っても仕方ない。だけど2本目の前に『びびるなよ』と声をかけたら、明は冷静に『オレがそんな風になるわけないでしょ。いきますよ』と。実際に2本目の滑りも焦る様子はまったくなかった。当時から何事にも動じない、消極的にならない、負けん気の強さは際立っていた。それは最後まで明にとって、他の選手にはない武器だったと思う」
◼︎遊び心
ワールドカップ2位という快挙をなした2002/2003シーズン、その最終戦から佐々木明はスラロームの第一シード(世界上位15人)入りを果たした。
日本人選手としては、海和俊宏、岡部哲也、木村公宣、皆川賢太郎に次いで、史上4人目のトップ・スラローマーの誕生であった。
第一シードの選手は、レース前夜、出走順を決めるためのゼッケン・ドローに参加できる。
その晴れの舞台、佐々木は仮装パフォーマンスで外国人を楽しませた。スパイダーマン、スターウォーズ、ウルトラマン、ブルース・リー…。ときに浴衣姿でファンの喝采を浴びた。
それを、サービスマンの伊東裕樹氏は笑う。「公開ドローで仮装したり、ヘルメットにモヒカンをつけて滑ったり…。それはダメだとも思わないし、そういうエンターテイメント性は嫌いじゃない。子供っぽいところや遊び心を、明はつねに持っていたし、成長はしなかった(笑)。そのキャラクターがあるからこそ佐々木明なんだろうし、ヨーロッパでの人気も得られたんだろう」
佐々木は語る、「自分が子供のころに憧れてた岡部哲也さんと同じ表彰台に立つことができた。岡部さんはヨーロッパにファンクラブがあって、そのうちオレにもファンクラブができて。客観的に見ると成功だったと思う」
佐々木の遊び心が裏目にでたこともあった。それは2003年、オフピステ(山の中)でのフリースキーの際、膝を痛めてしまったのだ。
それを児玉修コーチは悔やむ。「明はやんちゃで、根っからのスキー好きで、放っておくと”飛び”に行ったり、パウダー(新雪)に行ったりしてしまう。明に関して後悔していることを挙げるとすれば、彼をコントロールできなかったことかな。たとえばシーズンの開幕直後にフリースキーで怪我をして帰ってきたことがある。W杯2レースを欠場して、年明けからW杯に復帰することになった。その故障明けの復帰レースとなったシャモニ(フランス)で、様子見と言いながらも激しく攻め立てて9位入賞。怪我も治りきっていなにのに、2〜3日滑っただけでその結果。それは明の凄さでもあるんだけれども、もしその怪我がなかったら…、という思いは今もある」
いずれにせよ、佐々木明の突然のブレークは、低迷していた日本アルペン界の起爆剤となった。先輩の皆川賢太郎が復活し、後輩の湯浅直樹が台頭してきた。
児玉氏は語る。「自分にとって、明は新人類だよ(笑)。たとえば木村公宣のように、ひとつ一つ順位を積み重ねてトップにたどり着くのが、それまでの日本人選手の典型的なパターンだった。そこを一気に飛び越えてきたから、想像もできなかった。でも、彼が登場したおかげで、それが当たり前のことにように思えるようになった。明が一気にブレークして、表彰台、第一シード、ワールドカップの優勝、オリンピックのメダルと、どんどん目標を高めていってくれた」
■オリンピック
佐々木明が世界の頂点に最も近づいていたのは、トリノ五輪が開催された2005/2006シーズンだった。
オリンピック直前、最後のW杯となったシュラドミング(オーストリア)で、佐々木は自身2度目となる2位の表彰台に立った。その勢いのまま、佐々木はオリンピックに臨んだ。メダルの最有力候補として。
ところが、佐々木明はメダルに届かなかった。
——佐々木はこれまでのスキー人生のなかで、唯一後悔することがあるとすれば、このトリノ五輪のスラロームがそれだと言う。ただし、悔やんでいるのはメダルを逃したことではなく、1本目の出遅れを、コースの視界が悪かったせいにしてしまったことである(月刊スキージャーナル)。
「見えねぇ!」
1本目のゴールエリアで、佐々木は珍しく荒れていた。
乱暴にブーツを脱ぎ捨てた。
じつは佐々木は、極度の乱視に悩まされていた。
——この日のレースは、1本目の開始が午後3時。あたりは薄暗く、かといってナイターのように照明に照らされることもない薄暮の頃。最も見えにくい条件がそろっていた(月刊スキージャーナル)。
レース前日まで佐々木はてっきり、ナイター照明下のナイトレースを戦うものと思っていた。それは日本チームがレースの開始時間を正しく把握していなかったことに原因がある。しかし、そうした心の乱れを人のせいにした時点で、佐々木にメダリストの資格はなかった。
佐々木自身、こう振り返る。「冷静さを失い、言い訳をした時点で負けだった。技術的には間違いなく成熟していたのに、マインドが未熟だった。そのバランスの悪さ。たったそれだけのことでメダルを取り逃がしたんじゃないかと思うと、すごく悔しい」
冷静に振り返れば、佐々木の1本目のタイムはそれほど悪くなかった。1秒差の8位につけていたのだ。まして2本目は佐々木の望んだナイター照明の下で行われた(スタートは午後6時半)。絶頂期の佐々木にとって、1秒差くらいはまだ充分にメダル圏内にあった。
さらに、2本目開始までには心を整え直す時間もあった。実際、佐々木は2本目を前にいったんホテルに帰ると、ジムの自転車こぎで汗を流し、気持ちの切り替えをはかった。
しかし、2本目のスタート台の上でも、佐々木の心中は穏やかならぬものがあったのだろう。
スタート直後の第3ゲート、彼はあえなくポールをまたいでしまい、当時の彼としては珍しい片足反則で失格となってしまった。逆転への望みは、あまりにも早く消えてしまったのだった。
「言い訳や責任転嫁は、もう二度としない。絶対にしない」
トリノ五輪後、佐々木はそう固く誓ったという。
「アルペンスキーは、相手とタイムを競うスポーツだけど、その前にまず、自分と戦わなければならない。自分を厳しく律しなければならない」
サービスマン、伊東裕樹氏も悔やむ。
「明と二人三脚でやってきた中で、一番悔しいこと、それがトリノ五輪だ。俺にははっきりとメダルが見えていたから。直前のシュラドミングで2位になってオリンピックに乗り込んだ。自分の中では、メダル獲得の可能性は99%だった。残りの1%がレースが行われる時間と視界の問題。スタートする時に明が『見えにくい』と言ってきた。それでも1本目を終わって1秒差の8位。その時点でも、半分はメダルに手が届いたと思っていたんだ。だけど、明はゴールで荒れていた。そのときに明にああいう気持ちの切れ方をさせないようにコントロールできていれば…。そんな後悔は今でもある。とにかく一番悔しいレースは、あのトリノ五輪のスラロームなんだ」
佐々木が”いつもの自分”に戻ったのは、オリンピックが終わってすぐだった。
オリンピック直後に行われた志賀高原でのW杯スラローム、佐々木は堂々の2位に入った。その時のトップは、オリンピックで金メダルをとったベンジャミン・ライヒ(オーストリア)。その金メダリストとのタイム差は、わずか0秒17でしかなかった。
■最後のワールドカップ
以後、佐々木の成績は下り坂となる。
——2006/2007シーズンからは、スキーをブリザード、ブーツをテクニカに変えて戦ったが、滑りをアジャストする作業に時間をとられ、成績は伸び悩んだ。そのシーズン終盤には第一シードから陥落。結局、ブリザード&テクニカで戦ったのは、翌2007/2008シーズンまでの2シーズン限りだった(月刊スキージャーナル)。
——マテリアル(スキー用具)をサロモンに戻して臨んだ2008/2009シーズン。あばら骨を骨折したり股関節を痛めたりと、細かい怪我がつづき本調子を取り戻すことはできなかった。2009/2010シーズン、バンクーバー五輪にむけて我慢のレースが続いたが、メダル獲得はならなかった(同誌)。
——2010/2011シーズンは、原因不明の手の痺れに悩まされた。右手とストックをガムテープでぐるぐる巻きにしなければ、ストックを握っていられなかった。2011/2012シーズン、とうとう一度もW杯で2本目に進出することができずに終わった。次の年にはナショナルチームからも外されてしまった(同誌)。
2012/2013シーズン、彼はついに個人で戦うしかなくなった。資金を集めるのも自分、トレーニングを組むのも自分、練習に入れてくれるチームを探すのも、すべて自分だった。
2014年3月9日
佐々木にとって結果的に最後となったワールドカップが、クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)で行われた。
クラニスカ・ゴラ
ここは、かつて佐々木が開眼した場所だった。インスペクションを放棄し、無想無念でヨーロッパカップ3位を勝ち取った因縁の地である。
もしここで、もう一度表彰台に上がれれば、最終戦に出場する権利が与えられる。佐々木は最後まで諦めず、その可能性に賭けていた。
一方、後輩の湯浅直樹は、これが先輩のラストレースになることを予感し、ゴールエリアで花束を渡そうと秘かに用意を進めていた。
それを察した佐々木。「バカ言ってんじゃねぇ!」と湯浅を一喝。
「オレはまだ、最終戦を諦めてないからな」
そう言い放った。
すっかり春めいていたクラニスカ・ゴラ
だが幸いにもレース前夜、思いもかけず冷え込んだ。そしてコースはアイスバーンと化した。これは出走の遅くなっていた佐々木にとっては、またとない好条件だった。
——だが残念ながら、奇跡は起こらなかった。1本目を2秒61遅れの27位で通過した佐々木は、2本目で5人を抜いて22位に浮上するのが精一杯だった(月刊スキージャーナル)。
だが、引退レースで2本目に残れた日本人選手は、この佐々木が初めてだった。
さらに2本目の区間タイムで、佐々木は全選手中のベストタイムをマークしていた。最後の最後、佐々木は意地を見せたのだ。
——2本目を滑り終えると、彼はゴールエリアで満面の笑顔で観衆に応えた。スタンドには両親や兄弟、そして友人たちがいて、皆、声を枯らして応援していたのだ。やがて、他国チームからも多くの選手が佐々木のもとにやって来た。みんな笑顔だったが、その一方で、誰もが名残り惜しそうな表情を浮かべていた。それは、佐々木明というレーサーがいかに人々に愛され、W杯のなかでどれほど確かな足跡を刻んできたかがよくわかる、素敵な光景だった(月刊スキージャーナル)。
サービスマン、伊東裕樹氏はこう振り返る。
「最も嬉しかったレースを挙げるとすれば、明の最後のW杯となったクラニスカ・ゴラのレースだ。今までは、どの選手も最後は思うような結果を残せずにやめていった。だけど、明はそうじゃなかった。最終戦に出場するためには、このレースで表彰台に上らないといけない。可能性はゼロではないけど、ゼロに近い。それでも明はどうやって滑れば最終戦に行けるか、本気で考えてやっていた。ただ現実は厳しい。スタートリストを見て、このメンバーで30位に残るのはかなりハードルが高いと思ったし、攻めなければいけないけれど、そのぶん途中棄権のリスクも高くなる。明はそんな状況でもすごく良い滑りをした。トレーニングやアップ以上の滑りを。今日で終わるような滑りじゃない、ここであの滑りをできるのは明しかいない、やっぱり明はすごいな、そう思わせてくれる滑りをあのレースでしてくれたことが、何よりも嬉しかった」
19歳のデビューから、足かけ14シーズン
全部で146のW杯レースに出場。トップ10入り21回。表彰台にも3度立った(いずれも2位)。
佐々木明は32歳になっていた。
——ほとんどの数字で、過去の日本人選手の誰よりも優れた成績を残している。文字通り、日本のアルペン史上、最強のレーサーと言ってもよいだろう(月刊スキージャーナル)。
■次
W杯から身を退くことを、佐々木は引退とは言わなかった。
「次のレベルに進むためのスタート」と表現した。
佐々木はアルペン人生を振り返る。
「19歳のときに世界選手権にでて、そのあとヨーロッパに行こうと決めた。語学もゼロ、知識もゼロ、お金もない、友達もいない。すべてゼロからだった。ただ、ゼロからの構築ほど心を強くしてくれるものはなかった」
「毎日が、家と練習場との往復だった。レゲエが好きで、音楽フェスやクラブにも行きたかったし、みんなとメシを食いに行きたいときもあったけど、そういう時間をずっと我慢して陸上トレーニングをやっていた。そうしなければ雪上で自分の出したい動きが出せないから。苦しくはなかった。たまに大変だなと思うことや、食いたいもん食いてー! と思うことはあったけど、どれも我慢できた。『自分がいきたいとこのイメージ』が明確すぎて。アルペンスキーというものは、それだけ人生をかけられるものなんだ。アルペンスキーヤーとしての最高到達地点は、世界一というのは、それだけ魅力的なんだ」
「世界は、思った以上にチョロくて、思った以上にむずかしかった。それが『2番』という結果。一度も2本目に残ったことのない奴がひょっこり表彰台に立ち、それから何度も何度も一ケタに入ったけれど、最後まで勝てなかった」
「最後に出場したワールドカップで、22位という成績で終われたのは嬉しかった。中間までラップを取ったことも嬉しかった。そのときに満足できるかは、それまでどれだけ努力したか、どれだけそこに時間を注ぎ込んできたか、全力でやり切ったかで決まると思う。それで終わったときに『よし、次に行こう!』って思えたら、ある意味で成功だと思う」
「スキーをやっている子供たちや親御さんにもよく話すんだけど、成功の意味をはき違えない、と。1番という目標を決めたときに、そこにたどり着かなかったとしても、2番でも3番でも、終わったときにその子が『よし、次に行こう』と思えたら、それはある意味、成功なんだ、と。オレはそうやって育てられたから」
佐々木がW杯を去ることを、サービスマンの伊東裕樹氏は、昨季の終わりの3月に聞かされたという。それは佐々木が全日本選手権で優勝した夜、その車内だった。
伊東氏は語る。「もったいないとは思ったけど、引き留めることはしなかった。寂しさはなくはない。だから未練はあるのかもしれない。世界のどこへ行っても、日本人レーサー、アキラ・ササキの名前は覚えているだろうし、忘れない。それを簡単に成し遂げたように見せているけど、俺たちが考えている以上の苦労や犠牲を、明は払ってきた。それを絶対に人には見せなかったが。もちろん俺にも。そこが偉大であり、常識では収まらない型破りなレーサーだったよね」
いまの佐々木の心は、山に向いている。
「人の登っていない山を、斜面を滑る」
「オレはこのままアルペンスキーヤーだけで終わっていいのか? 決断するなら今しかなかった。アルペンスキーヤーとして世界で戦える”今”じゃなければ。今回の決断は、自分の中では勇気のいることだった。決めたのは去年。それまでの31年間のなかで、一番勇気のいることだったかもしれない。でも、今だったら保証がある。自分の心が”できる”と言っている。だから今なんだ」
「100年たっても、200年たっても
オレにしかできないことをやる。
アルペンスキーという最高峰の舞台で戦ってきたオレにしかできない、まったく違う頂を目指して」
(了)
ソース:SKI journal (スキー ジャーナル) 2014年 08月号 [雑誌]
総力特集「佐々木明の過去、現在、そして未来」
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