2014年8月1日金曜日
佐々木明、「次」へ。 [スキー]
佐々木明(ささき・あきら)
彼は、日本のアルペンスキー史上、最高の成績を残した選手である。
——明るい性格、人懐っこい笑顔、派手なパフォーマンス。そして何より、過激で思い切りの良い滑りで、われわれ日本人ばかりでなく、本場ヨーロッパの人々まで強く魅了した(月刊スキージャーナル)。
そんな佐々木明が、昨冬(2013/14シーズン)をもって、アルペンスキーW杯の第一線から身を退く決断をくだした。
本稿では、その足跡を振り返る。
◼︎スキー小僧
中学そして高校時代、国内では敵なし。
18歳のときに出場したイタリア選手権でも、4位(スラローム競技)という好成績をおさめてた。
当時のことを、佐々木はこう語る。
「周囲から、海外に行ったらケチョンケチョンにやられるぞ、ってさんざん脅かされていたけど、言われるほど大したことはなかった。『えっ、これのこと? だったら全然大丈夫だし、俺だっていけるんじゃないか』って思えた」
アルペンの本場、ヨーロッパ諸国の選手層は、後進アジアに比べて恐ろしく厚い。硬いアイスバーン、荒れるコース、難しいポールセット…。日本とは比べものにならないほど、世界のレース環境は厳しい。
——多くのジュニア選手は、自信のかわりに焦りを、ポイントのかわりに敗北感を土産に帰国するというパターンが、残念ながら少なくない(月刊スキージャーナル)。
そんな中、佐々木明は珍しくも、ヨーロッパのレースにあっさりと順応できた選手であった。
「いままで誰にもスキーを教わったことがない」
佐々木はふてぶてしくも、そう言い放つ。それは、自分自身の技術は自分自身で磨いてきた、という強烈な自負のあらわれでもあった。
「オレのスキーはすべて自己流。身近にいる“自分よりも速くて上手い奴”を追い越すことだけを考えて滑ってきた。小学生時代は、いつかダイスケ(吉岡大輔)を超えてやろうと思っていたし、サロモン・チームに入ったら、ケンタロウさん(皆川賢太郎)が超えるべき大きな壁だった」
——佐々木明の性格は、良くも悪くも自由奔放。自分で納得したことはトコトンやるが、人から強制されるとつい意地を張ってしまう。子供の頃から、とにかく滑るのが好きで、コーチが呆れるほどの滑走量をこなした(月刊スキージャーナル)。
「明のことは、それこそ子供の頃から知ってはいたけれど、はじめて強く意識したのはアイツが高校一年か二年の頃だったと思う。自分の担当していたナショナルチームの選手が、野沢のファーイーストカップで明に負けたんだ!」
そう語るのは、のちに佐々木明専属のサービスマンとなる伊東裕樹氏。
「明は身体も大きいし(身長182cm)、独特な柔らかい滑りをしていた。たくさんの選手を見てきたけど、その中でもスキーのうまさは際立っていた。海和俊宏さんもスキーのうまさは断トツだったけど、またタイプが違う。海和さんが“柳のようなしなやかさ”だとしたら、明は“ゴムのような弾力をもった柔らかさ”。まちがいなくそれは才能だと感じた」
当時のジュニアチームを担当していた児玉修氏は、こう語る。
「明が中学生のときだったと思う。ピョンヤン(韓国)で行われたコンチネンタルカップのレースで、明は10番台に入った。バランスも良いし、とにかく元気の良い選手だというのがそのときの印象。ジュニアチームに入った頃はフィジカルに足りない部分はあったけど、滑りを見ても腰から下の動きがすごく速い。大柄なのに敏捷性は高い。海外のコーチや選手からも、一目置かれるような存在だった」
◼︎ワールドカップ、デビュー
佐々木明がW杯の舞台にはじめて立ったのは、2001年2月17日、志賀高原・焼額山でおこなわれたスラローム・レースであった。
——当時19歳。まだヒョロっとした少年だったが、なめらかなスキー操作で、やたらと威勢の良い攻撃的なラインを攻めた(月刊スキージャーナル)。
結果は、一本目で敗退。
アルペンスキーは二本勝負であり、一本目の順位が悪ければ、二本目の決戦に挑むことはできない。
このデビューの年、佐々木は予想以上の苦戦を強いられている。
——参戦したワールドカップはすべて一本目で姿を消し、はじめてのオリンピックとなったソルトレイク五輪でも不発におわった。あふれる才能のまま、ただ好きだからという理由だけでスキーを続けてきた佐々木は、ここで初めて世界の壁に直面した(スキージャーナル)。
翌年もまた、失敗ばかりが重なった。
いける、と思ったラインがトレースできない。踏ん張れる、と思ったミスをこらえきれない。誤算つづきの、不本意なレースばかりであった。
「なんでレースになると、自分の滑りができないのだろう? いったいどうすれば、二本目に残ることができるのだろう?」
そんな苦悶の内に、彼はいた。
◼︎無想無念
それでも、転機は着々と迫っていた。
そして遂に、爆発の日がやって来る。それは、ある突拍子もない思いつきから火がついた。
「ひょっとしたら、余計なことを考えすぎているんじゃないか?」
度重なるミスの原因は、“考え過ぎ”ではないかと佐々木は疑った。
「レースになると、ここがヤバイとか、あそこが危ないとか、余計なことばかり考えてしまっている。じゃあ、練習のときはどうか? 何も考えずに、ただ身体が自然に反応するままに任せているじゃないか」
「そうだ! インスペクションをやめてしまおう」
彼は大胆にも、そんな決断にたどり着いた(インスペクションというのは、レースコースを滑走する前に、そのコース状況やポールセットを下見すること)。
——クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)で行われたヨーロッパカップで、さっそくその突拍子もないアイディアを試してみた。インスペクションでは上から下まで横滑りで流し、ほとんどポールを見ることはしなかった。コースの長さだけを身体に覚えさせると、あとは何の予備知識もなくスタート台に立った(月刊スキージャーナル)。
この日、佐々木明のゼッケンは61番。それはそのまま出走の順番でもあった。アルペンレースにおいて、それほど遅い出走順位は“ほとん絶望的”といってもよい。60人も滑った後のコースは荒れ放題。好タイムなど、望むべくもなかった。
——ところが佐々木は一本目の中間計時を、なんと5位で通過した。その直後、ほとんど止まりかけるミスを冒したため35位にまで順位を下げたものの、二本目に追い上げ、合計タイムで23位にまで挽回した(月刊スキージャーナル)。
確かな手応えであった。
“何も見ないインスペクション(下見)”は予想通り、佐々木の頭に雑念を生じさせなかった。
この地でのヨーロッパカップは、2日つづけての連戦。翌日もまた、佐々木はポールセットを覚えずレースに臨んだ。
——1本目は54番目のスタート。前半の緩斜面、佐々木は柔らかい雪に足をとられ、つんのめるように転倒。すばやく起き上がりコースに復帰したが、中間計時ではビリから2番目という致命的なミスだった。しかし、そこからの追い上げが凄まじかった。後半の急斜面を攻めに攻めまくり、ゴールでは17位にまで順位を戻していたのである(月刊スキージャーナル)。
そして2本目。
——彼の勢いはさらに加速した。身体の本能的はスピードに任せた滑りは、荒れたコースにも破綻を見せず、最後までスピードを失うことがなかった。合計タイムでは3位に浮上。ヨーロッパカップで初めて表彰台に立った(月刊スキージャーナル)。
「おかしなレースをする奴だ…」
サービスマンの伊東裕樹氏は、そう呟いた。
「1本目はコース序盤で大きな失敗をして、中間計時では60位くらいなのに、後半のスプリットタイムで3位のタイムを出して取り戻す。何やってんだと思った反面、それで2本合計で3位に入るのだから、スゴイと思った」
佐々木自身は、こう語る。
「それまでは滑っているときに、あれこれ考え過ぎていた。考えている余裕があるんだったら、もっと攻めろよ、という話。インスペクション(下見)をしなければ、考えたくても考えられない。試しにやってみたら、それで全然問題なかった。生まれてから何万、何十万、ひょっとしたら何百万回もターンしてきたわけだから、何かあっても自然に身体が動いてくれた」
このクラニスカ・ゴラでの3位入賞を、佐々木は「壁を破って向こう側に突き抜けたような瞬間」と表現した。
そのときの賞金は、日本円にして約6万。「はじめてアルペンで金を稼いだ」と、彼は無邪気に喜んだ。
以後、佐々木明の“何も見ないインスペクション”は、彼のレーススタイルとして定着する。
佐々木の他にも、そうしたスタイルをもつ選手がいた。それはアメリカのボーディ・ミラー。彼は当時、すでに世界の頂点にあった。
——ミラーはインスペクションの時間になると、誰よりも早くコースに入り、誰よりも速く滑り降りていってしまう。コース内に立ち止まることはごく稀で、たとえそうした時もポールセットを確認するでもなく、遠くの山を見つめていたりする。佐々木とミラーはお互いの波長が合うのか、よく言葉を交わしていた。二人とも、感覚派の天才肌どうしである(月刊スキージャーナル)。
◼︎平常心
スイスのウェンゲンは、ヨーロッパを代表する山岳リゾート地である。
——下界とつながる交通機関は登山電車のみという別天地。アイガーやユングフラウといった4,000m級の名峰が間近に迫り、ワールドカップのレギュラー会場のなかでは、“もっとも美しいスキー場”といっていいだろう(月刊スキージャーナル)。
佐々木明は、その雄大な景観に魅了された。
だが、そのスラローム・コースとなると“世界で最も難しい”と、世界に恐れられている。
その日(2003年1月19日)、ウェンゲンの超絶なる急斜面は、不気味な青氷に輝いていた。
——全面にわたって大量の水が注入され、それをスイス軍の若い兵士たちが丁寧に踏み固め、さらに連日の寒さが雪の深い層まで凍らせていた。完全なるアイスバーン。あまりの硬さに、各国のコーチやコース係員が何人も斜面を滑落していくほどだった(月刊スキージャーナル)。
この日の佐々木は、65番のビブを着けていた。それは後ろから数えて11番目という遅いスタート順。
自分の順番が回ってくるまで、レース開始から2時間もあった。当然、その頃になるとコースはガタガタ。地力でまさる上位選手を追い上げることなど、まず無理な状況である。そのため、観客のほとんどが昼食へと向かい、関係者以外は人影もまばらだった。
そんな閑散としたレース場に、佐々木明が飛びだした。
そして、誰もが刮目する驚くべきタイムを叩き出す。
——ツルツルのアイスバーンは、彼が滑る頃には細かいエッジ痕が刻まれ、むしろ滑りやすかった。中間計時で11位のタイムをマークすると、後半さらにペースを上げ、トップからわずか0秒57差の7位で飛び込んだ(月刊スキージャーナル)。
その異常事態を、場内アナウンスは声を上ずらせて叫んだ。
「アキラ・ササキ!」
ヨーロッパの観客の誰もが、この東洋人の名を知らなかった。当時の佐々木は、ヨーロッパカップでの3位入賞はあったものの、ワールドカップではまだ鳴かず飛ばずだったのだから。
ゴールエリアの佐々木自身、自分のタイムに信じられぬという表情。
「モニターを振り返ったら、7位と出ていた。そこまで速いとは思っていなかったので、『マジかよ』って、思わずもう一度確認してしまった」
ワールドカップで2本目に残ったことさえ、初めてだった。2本目は上位30人による決戦の場だ。
サービスマンの伊東裕樹氏は、当時のことをこう振り返る。「強く記憶に残っているのは、2本目に向かうときの明の表情や様子。まったくいつも通りの様子だった。気負っている様子も、冷静さを欠いている様子もない。しっかりと腹をくくっていた」
2本目、佐々木は24番目にスタートバーを切った。
気温の上昇したコースは、1本目よりも荒れていた。だが、それまでのレースでずっと遅い出走だった佐々木は、いつもボコボコに荒れたコースと格闘してきた。だから、この程度の荒れはむしろ天国のようにすら思えた。
中間計時ですでにベストタイムをマークしていた佐々木は、後半はさらに加速してゴールラインを切った。その時点での1位はノルウェーのオーモットだったが、佐々木はそのタイムを0秒87もブッチぎった。圧倒的なトップタイムである。
佐々木の後に滑る6人は、いずれも1本目で佐々木よりも速かった選手ばかりだった。だが、彼らが次々とゴールしても、佐々木のタイムがずっと1位のままだった。
まさか優勝してしまうのか…?
それは佐々木個人を超えた、日本アルペン界の悲願でもあった。それまでワールドカップで日本人の優勝はなかった。
ついに残りの走者は、1本目トップのジョルジョ・ロッカ(イタリア)のみ。1本目の佐々木とのタイム差は0秒57。
だがロッカは、中間計時ですでに1本目の貯金を使い果たす。いやむしろ0秒08、佐々木に遅れたのだ。
日本の悲願、ワールドカップ初優勝は一気に現実味を帯びて迫ってきた。
——場内アナウンスで、自分が負けていることを知ったのであろうか。ロッカはコース終盤、猛烈なラストスパートをかけた。そしてゴールまでのわずかな区間で再逆転。この結果、佐々木は2位に下がった(月刊スキージャーナル)。
二人のタイム差は、わずか0秒04であった。
まばたき一回分にも満たない時間が、勝敗を分けた。
翌日のヨーロッパの新聞には、このワールドカップでも稀にみる激闘が、でかでかと掲載されていた。ロッカにとっての初優勝。それと同じくらいのボリュームで、各紙は「アキラ・ササキ」の2位を讃えた。
——佐々木明は、アルペンレースの本場で鮮やかなデビューを飾った。当時ヨーロッパでもポピュラーになりつつあった回転寿しになぞらえ、佐々木は“スシ・ボンバー”とか、“ランニング・スシ”などと呼ばれることもあった(月刊スキージャーナル)。
さすがに優勝とまではいかなかったものの、久々のW杯表彰台に日本アルペン界は沸いた。
「ヘッドコーチとして、明とはじめて表彰台に上がったこと。あれは今でも夢のようなことだったと思う」と児玉修氏は語る。
「当時の代表チームは厳しい状態だった。皆川賢太郎はケガを抱え、木村公宣は力に衰えが見えはじめていた。どうやってチームを立て直していくのか、大きな悩みだった。明についても、ワールドカップに定着するには時間がかかると思っていた。それがあのウェンゲンの2位の表彰台。われわれの想定の及びもつかないデビューだったね。あのレースで改めて明のすごさを感じさせられた」
児玉氏は、そのレースのことをこう振り返る。
「コースはガチガチの青氷で、チームのスタッフも滑落するほど。そこを1本目65番スタートから7位。それまでワールドカップで入賞したこともない選手が、そんな順位につけたら普通はパニックに陥っても仕方ない。だけど2本目の前に『びびるなよ』と声をかけたら、明は冷静に『オレがそんな風になるわけないでしょ。いきますよ』と。実際に2本目の滑りも焦る様子はまったくなかった。当時から何事にも動じない、消極的にならない、負けん気の強さは際立っていた。それは最後まで明にとって、他の選手にはない武器だったと思う」
◼︎遊び心
ワールドカップ2位という快挙をなした2002/2003シーズン、その最終戦から佐々木明はスラロームの第一シード(世界上位15人)入りを果たした。
日本人選手としては、海和俊宏、岡部哲也、木村公宣、皆川賢太郎に次いで、史上4人目のトップ・スラローマーの誕生であった。
第一シードの選手は、レース前夜、出走順を決めるためのゼッケン・ドローに参加できる。
その晴れの舞台、佐々木は仮装パフォーマンスで外国人を楽しませた。スパイダーマン、スターウォーズ、ウルトラマン、ブルース・リー…。ときに浴衣姿でファンの喝采を浴びた。
それを、サービスマンの伊東裕樹氏は笑う。「公開ドローで仮装したり、ヘルメットにモヒカンをつけて滑ったり…。それはダメだとも思わないし、そういうエンターテイメント性は嫌いじゃない。子供っぽいところや遊び心を、明はつねに持っていたし、成長はしなかった(笑)。そのキャラクターがあるからこそ佐々木明なんだろうし、ヨーロッパでの人気も得られたんだろう」
佐々木は語る、「自分が子供のころに憧れてた岡部哲也さんと同じ表彰台に立つことができた。岡部さんはヨーロッパにファンクラブがあって、そのうちオレにもファンクラブができて。客観的に見ると成功だったと思う」
佐々木の遊び心が裏目にでたこともあった。それは2003年、オフピステ(山の中)でのフリースキーの際、膝を痛めてしまったのだ。
それを児玉修コーチは悔やむ。「明はやんちゃで、根っからのスキー好きで、放っておくと”飛び”に行ったり、パウダー(新雪)に行ったりしてしまう。明に関して後悔していることを挙げるとすれば、彼をコントロールできなかったことかな。たとえばシーズンの開幕直後にフリースキーで怪我をして帰ってきたことがある。W杯2レースを欠場して、年明けからW杯に復帰することになった。その故障明けの復帰レースとなったシャモニ(フランス)で、様子見と言いながらも激しく攻め立てて9位入賞。怪我も治りきっていなにのに、2〜3日滑っただけでその結果。それは明の凄さでもあるんだけれども、もしその怪我がなかったら…、という思いは今もある」
いずれにせよ、佐々木明の突然のブレークは、低迷していた日本アルペン界の起爆剤となった。先輩の皆川賢太郎が復活し、後輩の湯浅直樹が台頭してきた。
児玉氏は語る。「自分にとって、明は新人類だよ(笑)。たとえば木村公宣のように、ひとつ一つ順位を積み重ねてトップにたどり着くのが、それまでの日本人選手の典型的なパターンだった。そこを一気に飛び越えてきたから、想像もできなかった。でも、彼が登場したおかげで、それが当たり前のことにように思えるようになった。明が一気にブレークして、表彰台、第一シード、ワールドカップの優勝、オリンピックのメダルと、どんどん目標を高めていってくれた」
■オリンピック
佐々木明が世界の頂点に最も近づいていたのは、トリノ五輪が開催された2005/2006シーズンだった。
オリンピック直前、最後のW杯となったシュラドミング(オーストリア)で、佐々木は自身2度目となる2位の表彰台に立った。その勢いのまま、佐々木はオリンピックに臨んだ。メダルの最有力候補として。
ところが、佐々木明はメダルに届かなかった。
——佐々木はこれまでのスキー人生のなかで、唯一後悔することがあるとすれば、このトリノ五輪のスラロームがそれだと言う。ただし、悔やんでいるのはメダルを逃したことではなく、1本目の出遅れを、コースの視界が悪かったせいにしてしまったことである(月刊スキージャーナル)。
「見えねぇ!」
1本目のゴールエリアで、佐々木は珍しく荒れていた。
乱暴にブーツを脱ぎ捨てた。
じつは佐々木は、極度の乱視に悩まされていた。
——この日のレースは、1本目の開始が午後3時。あたりは薄暗く、かといってナイターのように照明に照らされることもない薄暮の頃。最も見えにくい条件がそろっていた(月刊スキージャーナル)。
レース前日まで佐々木はてっきり、ナイター照明下のナイトレースを戦うものと思っていた。それは日本チームがレースの開始時間を正しく把握していなかったことに原因がある。しかし、そうした心の乱れを人のせいにした時点で、佐々木にメダリストの資格はなかった。
佐々木自身、こう振り返る。「冷静さを失い、言い訳をした時点で負けだった。技術的には間違いなく成熟していたのに、マインドが未熟だった。そのバランスの悪さ。たったそれだけのことでメダルを取り逃がしたんじゃないかと思うと、すごく悔しい」
冷静に振り返れば、佐々木の1本目のタイムはそれほど悪くなかった。1秒差の8位につけていたのだ。まして2本目は佐々木の望んだナイター照明の下で行われた(スタートは午後6時半)。絶頂期の佐々木にとって、1秒差くらいはまだ充分にメダル圏内にあった。
さらに、2本目開始までには心を整え直す時間もあった。実際、佐々木は2本目を前にいったんホテルに帰ると、ジムの自転車こぎで汗を流し、気持ちの切り替えをはかった。
しかし、2本目のスタート台の上でも、佐々木の心中は穏やかならぬものがあったのだろう。
スタート直後の第3ゲート、彼はあえなくポールをまたいでしまい、当時の彼としては珍しい片足反則で失格となってしまった。逆転への望みは、あまりにも早く消えてしまったのだった。
「言い訳や責任転嫁は、もう二度としない。絶対にしない」
トリノ五輪後、佐々木はそう固く誓ったという。
「アルペンスキーは、相手とタイムを競うスポーツだけど、その前にまず、自分と戦わなければならない。自分を厳しく律しなければならない」
サービスマン、伊東裕樹氏も悔やむ。
「明と二人三脚でやってきた中で、一番悔しいこと、それがトリノ五輪だ。俺にははっきりとメダルが見えていたから。直前のシュラドミングで2位になってオリンピックに乗り込んだ。自分の中では、メダル獲得の可能性は99%だった。残りの1%がレースが行われる時間と視界の問題。スタートする時に明が『見えにくい』と言ってきた。それでも1本目を終わって1秒差の8位。その時点でも、半分はメダルに手が届いたと思っていたんだ。だけど、明はゴールで荒れていた。そのときに明にああいう気持ちの切れ方をさせないようにコントロールできていれば…。そんな後悔は今でもある。とにかく一番悔しいレースは、あのトリノ五輪のスラロームなんだ」
佐々木が”いつもの自分”に戻ったのは、オリンピックが終わってすぐだった。
オリンピック直後に行われた志賀高原でのW杯スラローム、佐々木は堂々の2位に入った。その時のトップは、オリンピックで金メダルをとったベンジャミン・ライヒ(オーストリア)。その金メダリストとのタイム差は、わずか0秒17でしかなかった。
■最後のワールドカップ
以後、佐々木の成績は下り坂となる。
——2006/2007シーズンからは、スキーをブリザード、ブーツをテクニカに変えて戦ったが、滑りをアジャストする作業に時間をとられ、成績は伸び悩んだ。そのシーズン終盤には第一シードから陥落。結局、ブリザード&テクニカで戦ったのは、翌2007/2008シーズンまでの2シーズン限りだった(月刊スキージャーナル)。
——マテリアル(スキー用具)をサロモンに戻して臨んだ2008/2009シーズン。あばら骨を骨折したり股関節を痛めたりと、細かい怪我がつづき本調子を取り戻すことはできなかった。2009/2010シーズン、バンクーバー五輪にむけて我慢のレースが続いたが、メダル獲得はならなかった(同誌)。
——2010/2011シーズンは、原因不明の手の痺れに悩まされた。右手とストックをガムテープでぐるぐる巻きにしなければ、ストックを握っていられなかった。2011/2012シーズン、とうとう一度もW杯で2本目に進出することができずに終わった。次の年にはナショナルチームからも外されてしまった(同誌)。
2012/2013シーズン、彼はついに個人で戦うしかなくなった。資金を集めるのも自分、トレーニングを組むのも自分、練習に入れてくれるチームを探すのも、すべて自分だった。
2014年3月9日
佐々木にとって結果的に最後となったワールドカップが、クラニスカ・ゴラ(スロヴェニア)で行われた。
クラニスカ・ゴラ
ここは、かつて佐々木が開眼した場所だった。インスペクションを放棄し、無想無念でヨーロッパカップ3位を勝ち取った因縁の地である。
もしここで、もう一度表彰台に上がれれば、最終戦に出場する権利が与えられる。佐々木は最後まで諦めず、その可能性に賭けていた。
一方、後輩の湯浅直樹は、これが先輩のラストレースになることを予感し、ゴールエリアで花束を渡そうと秘かに用意を進めていた。
それを察した佐々木。「バカ言ってんじゃねぇ!」と湯浅を一喝。
「オレはまだ、最終戦を諦めてないからな」
そう言い放った。
すっかり春めいていたクラニスカ・ゴラ
だが幸いにもレース前夜、思いもかけず冷え込んだ。そしてコースはアイスバーンと化した。これは出走の遅くなっていた佐々木にとっては、またとない好条件だった。
——だが残念ながら、奇跡は起こらなかった。1本目を2秒61遅れの27位で通過した佐々木は、2本目で5人を抜いて22位に浮上するのが精一杯だった(月刊スキージャーナル)。
だが、引退レースで2本目に残れた日本人選手は、この佐々木が初めてだった。
さらに2本目の区間タイムで、佐々木は全選手中のベストタイムをマークしていた。最後の最後、佐々木は意地を見せたのだ。
——2本目を滑り終えると、彼はゴールエリアで満面の笑顔で観衆に応えた。スタンドには両親や兄弟、そして友人たちがいて、皆、声を枯らして応援していたのだ。やがて、他国チームからも多くの選手が佐々木のもとにやって来た。みんな笑顔だったが、その一方で、誰もが名残り惜しそうな表情を浮かべていた。それは、佐々木明というレーサーがいかに人々に愛され、W杯のなかでどれほど確かな足跡を刻んできたかがよくわかる、素敵な光景だった(月刊スキージャーナル)。
サービスマン、伊東裕樹氏はこう振り返る。
「最も嬉しかったレースを挙げるとすれば、明の最後のW杯となったクラニスカ・ゴラのレースだ。今までは、どの選手も最後は思うような結果を残せずにやめていった。だけど、明はそうじゃなかった。最終戦に出場するためには、このレースで表彰台に上らないといけない。可能性はゼロではないけど、ゼロに近い。それでも明はどうやって滑れば最終戦に行けるか、本気で考えてやっていた。ただ現実は厳しい。スタートリストを見て、このメンバーで30位に残るのはかなりハードルが高いと思ったし、攻めなければいけないけれど、そのぶん途中棄権のリスクも高くなる。明はそんな状況でもすごく良い滑りをした。トレーニングやアップ以上の滑りを。今日で終わるような滑りじゃない、ここであの滑りをできるのは明しかいない、やっぱり明はすごいな、そう思わせてくれる滑りをあのレースでしてくれたことが、何よりも嬉しかった」
19歳のデビューから、足かけ14シーズン
全部で146のW杯レースに出場。トップ10入り21回。表彰台にも3度立った(いずれも2位)。
佐々木明は32歳になっていた。
——ほとんどの数字で、過去の日本人選手の誰よりも優れた成績を残している。文字通り、日本のアルペン史上、最強のレーサーと言ってもよいだろう(月刊スキージャーナル)。
■次
W杯から身を退くことを、佐々木は引退とは言わなかった。
「次のレベルに進むためのスタート」と表現した。
佐々木はアルペン人生を振り返る。
「19歳のときに世界選手権にでて、そのあとヨーロッパに行こうと決めた。語学もゼロ、知識もゼロ、お金もない、友達もいない。すべてゼロからだった。ただ、ゼロからの構築ほど心を強くしてくれるものはなかった」
「毎日が、家と練習場との往復だった。レゲエが好きで、音楽フェスやクラブにも行きたかったし、みんなとメシを食いに行きたいときもあったけど、そういう時間をずっと我慢して陸上トレーニングをやっていた。そうしなければ雪上で自分の出したい動きが出せないから。苦しくはなかった。たまに大変だなと思うことや、食いたいもん食いてー! と思うことはあったけど、どれも我慢できた。『自分がいきたいとこのイメージ』が明確すぎて。アルペンスキーというものは、それだけ人生をかけられるものなんだ。アルペンスキーヤーとしての最高到達地点は、世界一というのは、それだけ魅力的なんだ」
「世界は、思った以上にチョロくて、思った以上にむずかしかった。それが『2番』という結果。一度も2本目に残ったことのない奴がひょっこり表彰台に立ち、それから何度も何度も一ケタに入ったけれど、最後まで勝てなかった」
「最後に出場したワールドカップで、22位という成績で終われたのは嬉しかった。中間までラップを取ったことも嬉しかった。そのときに満足できるかは、それまでどれだけ努力したか、どれだけそこに時間を注ぎ込んできたか、全力でやり切ったかで決まると思う。それで終わったときに『よし、次に行こう!』って思えたら、ある意味で成功だと思う」
「スキーをやっている子供たちや親御さんにもよく話すんだけど、成功の意味をはき違えない、と。1番という目標を決めたときに、そこにたどり着かなかったとしても、2番でも3番でも、終わったときにその子が『よし、次に行こう』と思えたら、それはある意味、成功なんだ、と。オレはそうやって育てられたから」
佐々木がW杯を去ることを、サービスマンの伊東裕樹氏は、昨季の終わりの3月に聞かされたという。それは佐々木が全日本選手権で優勝した夜、その車内だった。
伊東氏は語る。「もったいないとは思ったけど、引き留めることはしなかった。寂しさはなくはない。だから未練はあるのかもしれない。世界のどこへ行っても、日本人レーサー、アキラ・ササキの名前は覚えているだろうし、忘れない。それを簡単に成し遂げたように見せているけど、俺たちが考えている以上の苦労や犠牲を、明は払ってきた。それを絶対に人には見せなかったが。もちろん俺にも。そこが偉大であり、常識では収まらない型破りなレーサーだったよね」
いまの佐々木の心は、山に向いている。
「人の登っていない山を、斜面を滑る」
「オレはこのままアルペンスキーヤーだけで終わっていいのか? 決断するなら今しかなかった。アルペンスキーヤーとして世界で戦える”今”じゃなければ。今回の決断は、自分の中では勇気のいることだった。決めたのは去年。それまでの31年間のなかで、一番勇気のいることだったかもしれない。でも、今だったら保証がある。自分の心が”できる”と言っている。だから今なんだ」
「100年たっても、200年たっても
オレにしかできないことをやる。
アルペンスキーという最高峰の舞台で戦ってきたオレにしかできない、まったく違う頂を目指して」
(了)
ソース:SKI journal (スキー ジャーナル) 2014年 08月号 [雑誌]
総力特集「佐々木明の過去、現在、そして未来」
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