2014年8月10日日曜日
160kmの夏 [大谷翔平]
時速160km
それはプロ野球の投手にとっても容易な数字ではない。それまでの日本人では、ヤクルトの由規 (佐藤由規)以外、記録したことがなかった。
当時、高校に入ったばかりだった大谷翔平(おおたに・しょうへい)。
「ぼくの中では、花巻東以外にあり得なかったです」
進学した花巻東には、憧れの菊池雄星がいた。菊池たちは2009年の夏、ベスト4という輝かしい成績を残しており、大谷は「この高校で日本一になろう」と心に決めていた。
監督の佐々木洋氏は、大谷の最初の投球を覚えている。
「これなら160kmまでいける…」
そう直感したという。
「大谷は、最初から135km出ていたので、3年間で20km伸びたら155kmに達する。そして彼の筋力、関節の柔らかさなら、さらに5kmプラスして『160km』に届くことも可能だと思ったんです」
花巻東には「目標設定用紙」というのがあった。野球部員は皆、このA4用紙に自分の目標を書き、監督に提出することになっていた。
大谷の紙には「160km」と書かれていた。
ところが後日、佐々木監督はトレーニングルームで「それ以上の数字」が書かれた紙を発見して驚く。
「目標 163km 大谷翔平」
天井に貼られていたその紙を、大谷はじっと見つめていた。仰向けにベンチプレスをしながら。
大谷は、こう振り返る。
「ぼくは無理だとは思わなかったです。真剣に実現できると思ってました。ずっと、速い球を投げることには長けていましたから。こういう恵まれた身体をしているので、160kmを出せる自信はありました」
2年の春には、大谷の球速は140km台後半にまで上がっていた。佐々木監督が前例を無視して、大谷にエースナンバーの「1」を背負わせたのは、ちょうどこの頃からだった。
監督は言う、「翔平はとにかく野球に対してすごい真面目でした。寮で雑談しているときも、野球の動作に関する話をずっとしゃべってる。そういう奴でした。先輩から可愛がられ、後輩にも慕われていた。だから、1番をつけさせることができたんです」。
ところが、その夏、大谷は練習中に痛みを訴えた。
左股関節の骨髄線損傷。成長期に特有の、成長軟骨の損傷だった。肩や肘に起こりやすい傷害だったが、大谷は珍しくも股関節にそれが見られた。これを治すには、静養に努めるしかなかった。
「大谷の身体を大きくするなら今だ」。そう思った佐々木監督は、この静養期間を利用して、大谷に毎日、詰め込むような食事を強いた。寮の食堂の余り物などを大谷に届けては、「完食しろ」とハッパをかけた。
「あれは大変でしたね」、大谷はそう振り返る。「ぼく、食が細くて、食べることは得意じゃありませんでしたし」
しかし、食べまくったお陰で、療養期間中、大谷の体重はみるみる増えていった。身体も見るからに厚みを増し、入学寺に65kgだった体重は80kgを超えるまでになった。
約半年ぶりに大谷が投球練習を再開したとき、捕手の佐々木隆貴は驚いた。大谷の球が以前よりもずっと重くなっていたのだ。入学当初から「あんなに速い球は見たこことも捕ったこともない」と感じていた大谷の球は、さらに捕るが難しくなっていた。
大谷が3年の春、花巻東は甲子園に行った。
初戦の相手は、あの藤浪晋太郎の率いる大阪桐蔭。
この大事な一戦、大谷は「最悪の投球」をしてしまう。
——1本塁打を含む被安打7と打ち込まれ、11四死球と制球を乱し、自責点は5。大谷の乱調ぶりが打線にも伝染したかのように藤浪に12三振を奪われ、守備での失策もからんで失点を重ねた。大谷は藤浪から本塁打を放って一矢報いたが、最後は 2 - 9 の惨敗だった(Number誌)。
「あれからしばらくの間、チームはバラバラになってました」
当時の主将、大沢永貴はそう振り返る。
「練習をやろうとして集まっても、気持ちが入らない。すぐにやめてしまったり…」
そんな沈鬱とした空気のなか、大谷ばかりが声を張り上げていたという。
「しっかりやれ!」
練習でミスが出るたび、大谷の怒声が飛んだ。
最後の夏まで、もうほとんど時間が残されていなかった。
大谷、最後の夏、3年の県予選。
捕手の佐々木隆貴が変化球のサインを出しても、大谷は頑なに首を振り続けた。そして直球を投げ込んだ。
そのうちの一球が「156km」を記録。
チームの皆んなが、大谷の強い気持ちを感じていた。
そして迎えた準決勝、一関学院戦(2012年7月19日)。
炎天下、大谷が放った、高校生離れのストレート。
電光掲示板は「160km/h」を表示。
——6回、ツーアウト二、三塁から大谷が投じた一球を、打者は立ちすくんだまま、呆然と見送った。その見逃し三振に仕留めた真っ直ぐが、高校野球史上、最速の数字を叩き出したのである(Number誌)。
「しゃあっ!」
マウンドの大谷は、雄叫びをあげた。
1万人を超えるスタンドからは、大歓声が湧き上がった。ほとんど総立ちの大拍手。
その一球を受け止めた捕手、佐々木隆貴はこう振り返る。
「いつもならワンバンするくらい低めにきた、その球が、地面スレスレのところから急に伸びてストライク・ゾーンに入ってきたんです。かなりの伸びでした」
ショートから見守っていた主将の大沢永貴は、「思わず鳥肌がたった」と言っている。
この試合、花巻東は 9 - 1 で一関学院にコールド勝ち。
この勢いのまま、決勝の盛岡大付属を撃破せんと意気盛んであった。
大谷自身、「甲子園に行きたい、というより、当然ぼくたちが行くものだと思っていました」と言っていた。
ところが、決勝戦まで10日間も開いてしまった。
——試合が雨で順延した影響に加え、岩手県営や球場でプロのオールスターゲームが組まれていたためだ。被災地の復興を目的とした球宴が、あまりに皮肉な形で花巻東の前に立ち塞がった(Number誌)。
佐々木監督はこう振り返る、「大谷が160kmを出して、よし、さあいくぞ、と思った矢先の1週間のブランクです。おかげで気持ちが続かなかった。当時はマスコミの取材もひっきりなしでしたから」。
高校生が160kmを投げたということで、毎日の練習が終わるたびに、大谷や部員たちは報道陣に取り囲まれていた。コンビニへ行くのにも、カメラが後ろをついてきた。
そして、待ちくたびれた決勝戦がようやく始まった。
先制したのは盛岡大付属。内野のミスから1点を献上してしまった。
さらに3回、ワンアウト一、二塁の状況で、大谷の高めに浮いた球がスタンドに運ばれた。
「ファウルではないか!」
左翼ポール際へ運ばれたその打球は、ポールの外側を通過したように見えた。佐々木監督は必死に抗議したものの、審判の判定は覆らなかった。
3ランで広がった4点のビハインドを、花巻東は最後まで取り返すことができなかった。
大谷は15奪三振と気を吐いたものの、花巻東は 3 - 5 で敗れると、甲子園への道を閉ざされた。
試合後、大谷は「あの3ランは、あそこまで飛ばされた僕がいけない。甘くなった球を見逃さなかった相手が上だったということです」と潔く語った。
チームのみんなが泣いた。
佐々木監督もショックのあまり、決勝戦後に寝込んでしまい、1週間も学校を休んだ。
敗戦の翌日、練習場にいたのは大谷だけだった。
ただ一人、黙々と練習をしていた。
主将の大沢は言う。
「翔平にとっては、まだ野球が終わったわけじゃなかったんです。あいつは常に上を目指していたから、決勝の翌日も自然と身体が動いたんじゃないですか」
捕手の佐々木は、大谷がメジャーリーグの使用球を投げていたことに気がついた。アメリカで使用されるその球は、日本製よりも大きく、表面がツルツルと滑りやすい。それでも、大谷はいつも通り平然と、真っ直ぐや変化球を投げていた。
「あぁ、翔平はアメリカへ行くんだな」
佐々木はそう思った。
卒業後、ドラフト1位で日本ハムに入団した大谷翔平。
今年(2014)のオールスターゲームでは、「162km」という日本人最速の記録に達した。
今季、投手として9勝、打者として5本塁打と、投打とも二刀流の活躍をみせている。
「最後の夏、甲子園に行けなくて悔しかったという気持ちはずっと持っています」
大谷は語る。
「いまでも、勝ちたかったと思う。それが、こうしてプロでやっていることにつながってるんです」
(了)
ソース:Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」
大谷翔平「160km右腕と、夏の続きを」
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