2014年8月17日日曜日
批判を恐れぬ監督 [原辰徳と原貢]
レフトの亀井善行が一、二塁間に立ったとき、東京ドームがどよめきに包まれた。
内野手5人シフト
巨人、原辰徳の大胆な采配に、みな息を飲んだ。
——結果的には、この大胆なシフトは裏目に出る。巨人-阪神戦の6回1死二、三塁という場面(2014.7.11)、誰もいなくなったセンターの定位置付近に、西岡が打ち上げた飛球が落ち、タイムリー二塁打となって2人の走者が生還したのだ(Number誌)。
当然のごとく、翌日の新聞には原監督を厳しく批判する記事が並んだ。
しかし当の本人、「まったく気にしないね」と、どこ吹く風。「批判を恐れていたら何もできない。結果や批判を恐れて怯んでいたら、チームを動かせない。勝負の厳しさ、結果に対する責任を背負っているのは監督しかいない」。
そう語る原辰徳の心には、”ある風景”が浮かんでいた。
それは亡き父、原貢がかつて甲子園で見せた采配。
40年前の1974年の夏、東海大相模を率いていた原貢氏。初戦の土浦日大戦、1点をリードされて9回2死という土壇場。一塁には同点のランナー、鈴木富雄がいた。
「すると盗塁のサインが出た。僕はその瞬間にゾクゾクっとしましたね。アウトになったら、そこですべてがオシマイですから」
当時高校生だった原辰則は、父の指揮下のもと、選手として初めての甲子園に挑んでいた。
「もし盗塁がアウトになったら、監督・原貢はそれこそ袋叩きにあったはずです。でも、あのときのオヤジさんは平然とサインを出していた。批判などはまったく気にしていなかったのです。『批判するなら批判せい! オレは間違ったことは何一つしてやしない!!』、そういう強い信念をもっていたからでしょう」
結局、一塁にいた鈴木に二盗を敢行させ、みごと成功。同点に追いついた東海大相模は、延長16回の死闘を制することになる。
「あのときのオヤジさんの姿こそ、私の監督としての原点なんです」
息子・原辰徳はそう語る。そして続ける。「指導者としてそういう強さをもてたのは、そこに必ず”理”があったからでしょうね」
——原貢の野球に対するアプローチは、それまでの常識にとらわれない、理にかなった自由奔放さがあった。有名なのは、当時は御法度だった練習中や試合中の水分補給を奨励していたことだ。ベンチには必ずヤカンの氷水と盛り塩が用意され、選手は「水を飲んだら、必ずひとつまみ塩をなめろ」と指示されていた。また肩を冷やすと禁止されていた水泳も解禁し、当時はまったく見向きもされなかったウェイトトレーニングもいち早く取り入れていた。そうした先見性は誰に教わったのでもない、貢自身が考え、そこに理を見出したゆえの行動だったのだろう(Number誌)。
「もの凄い緊張感なんです。われわれ選手はただ監督である父を見ている。父は100人の選手の一人一人に鋭い視線を注いでいる感じでした」
——原貢は、普段の練習ではとにかく基本を重んじた。ノック一つとってみても、少しでも雑な捕球をすると、「そんな取り方は練習のための練習だ。”試合のための練習”をしろ!」と怒声を飛ばした(Number誌)。
「オヤジは試合で打てなくて起こることは絶対になかった。いちばん怒られるのは、油断して気を抜いた練習をすることでした。だから練習は常に凄まじい気迫で、オヤジがノックバットを持つだけで選手に緊張感が走るほどでした」
——長男の辰徳が東海大相模に進学したのは1974年。”父子鷹”と騒がれた時には、辰徳への鉄拳制裁は凄まじく、チームメイトもたじろいだほどだった。「野球は打ってなんぼ。球を遠くまで飛ばすんだぞ」とフリースイングを推奨した父・貢。その最高傑作が息子の辰徳で、細身の身体から意外なほどのパワーが生まれたのは、父の薫陶があったからに他ならない(Number誌)。
「とにかく選手の身体的な特長や、能力を見抜く力はすごかったです」
そう語るのは、菅野智之の父、菅野隆志氏。
貢氏は、実孫の菅野智之にこう言った、「器用な指だなぁ。コントロールを意識していけば、いいピッチャーになれる」と。最初、内野手をやりたがっていた智之にピッチャーとなるよう勧めたのが貢氏だった。「お前の性格はとことんマイペースだ。お前はピッチャーしかできないから、ピッチャーに専念しなさい」と。
菅野隆志氏は言う、「智之は子供のころ、股関節やヒザ関節が固く、オヤジさんはそれを見抜いてピッチャーに専念させろと言いました。あと小学生のときに扁平足だったんです。それを見抜いたのもオヤジさんでした。扁平足は疲れやすいし、怪我もしやすい。それですぐに私が命じられて、発泡スチロールで中敷をつくって履かせた。すると中学に上がる頃にはすっかり治っていました」。
——原貢氏は今年5月4日、心筋梗塞と大動脈解離で倒れ、20日あまりの闘病のすえに5月29日、帰らぬ人となった。
原辰徳はその思い出を語る。「父が私の師だったのは、高校・大学合わせて7年間でした。その後、私がプロに入ってからは、父は私の一番の理解者でありファンでした。オヤジさんの凄いところは、私に対してああしろ、こうしろと強制したことは一度たりともなかったことです」
ただ一つだけ、2人の意見が分かれることがあった。
それは「心技体」の考え方。
——辰徳は、プロの世界で心が強いのは当たり前。まず強い肉体があり、技術が備わった選手にこそ、いざという時に頼りになる心が宿ると考えた(Number誌)。
「私がそう話すと、父は『そうかなぁ…、でもやっぱり、オレは”心が一番”だと思うぞ!』と、つくづく言っていました」
——野球を通じた人間教育を貫いた貢は、あくまで健全で強い心があって、初めて技と身体ができあがると考えた(Number誌)。
「オヤジにとって勝つことは目標だったけど、目的ではなかった。では目的は何だったかといえば、人間を育てること。野球だけではなく、人生でもここ一番で力を発揮できる、そういう人間を育てることだった」
息子・辰徳が巨人軍の監督に就任するとき、父・貢氏はこんな言葉を贈ったという。
「夜、枕の上で考えごとをするな。朝、背筋を伸ばして考えろ」
(了)
ソース:Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」
原辰徳「原貢の教えを継ぐ者たち」
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