2014年8月11日月曜日
松坂大輔と、春夏連覇の優勝メンバー
芝生と土の独特の匂いが、強い潮風でぷーんと匂ってくる。
マウンド上で下を向くと、ポタポタと汗が滴り落ちる。
落ちた汗は、土のところでジュワーッ、ジュワーッと蒸発していく。それが熱気となり、モワッと顔に吹きつけてくる。
「あと一球で、全部おわる」
横浜高校の松坂大輔は、最後のバッターをツーストライクにまで追い込んでいた。
「これで優勝だ」
知らず、松坂は相手高校の応援歌を口ずさんでいた。
「僕は集中すると、何でも聞こえるようになるんです。だから相手の応援歌もよく聞こえるのかもしれません。集中すればするほど、よく聞こえてくるんです」
のちに松坂はそう語っている。
——あの夏、奇跡的なドラマが横浜高校によっていくつも描かれた。準々決勝のPL学園との試合で、松坂は延長17回、250球を投げ切った。先発できなかった準決勝の明徳義塾戦では、0 - 6 からの大逆転劇を演じた。その勢いを生んだのは、右ヒジのテーピングを剥がして最終回のマウンドに上った松坂の存在だった。そして決勝の京都成章戦ではノーヒットノーラン。1998年の夏に刻まれた横浜高校の記憶は、そのまま怪物・松坂の記憶だと言い換えることができる(Number誌)。
「準決勝の明徳戦では、甲子園の神様が降りてきたなと思いました。8回表まで 0 - 6 で負けてて、その裏に4点とって追い上げてるときでした。あぁ、これは横浜高校に対して『お前らが勝て』って神様が言ってるんだなって」
6点も離されてもなお、松坂は負ける気がしなかったという。前日、PL学園と延長17回を戦い、250球を投げた松坂はその日、レフトにいた。
「自分が投げてないから、打たれた感覚がなくて。負けてるのを感じたくなかったのかもしれませんね」
最後の場面、横浜高校は 6 - 6 の同点に追いついてなお、ツーアウト満塁。そして次のバッターが打った球が、フラフラとセカンドの頭を越えた。懸命にジャンプしたセカンドは、ギリギリのところで捕りこぼした。それがサヨナラ・ヒットとなった。
「ツーアウトですよ、ツーアウトなのに明徳は前進守備を敷いたままだったんです。普通の守備位置だったら、セカンドが絶対に捕れてます。経験豊富な馬淵監督でも、前進守備を戻すのを忘れていたのかも…」
決勝の京都成章戦、「あと一球」で終わると感じていた松坂。
最後に投げたのは、外角のスライダー。投げたあと、右足が前に出た松坂は、その勢いのまま、後ろを向いていた。
「優勝した瞬間、後ろを向いていたんです(笑)。ノーヒットノーランのことは頭になかったんですけど、でも最後の空振りで、なぜか『やった。ノーヒットノーランだ!』って(笑)」
甲子園、春夏連覇という偉業を牽引した松坂は、卒業後、ドラフト1位で西部入団(1999)。プロの世界でもあっという間に超一流の階段を駆け上がっていった。
高校時代のチームメイトだった常磐良太(彼はPL学園との準決勝、延長17回、決勝ツーランを放った)は、こう話す。
「プロの世界に入れば、お金もあって、遊び方も変わる。そういう人がほとんどなのに、マツ(松坂)は変わらない。中学の頃から知ってますけど、ほんとに変わらないですよ、アイツ(笑)。僕らがずっと変わらずにいられるのは、マツが変わらないでいてくれるからです」
常磐は続ける。「もともとマツは帝京と横浜で悩んでいたんですけど、中学時代、僕らと一緒にJAPANに選ばれてブラジルで戦ったとき、僕らがマツを横浜に誘ったんです。『オレら、横浜へ行くから一緒に行こうぜ』って。浜松から後藤(武敏)ってすげぇヤツも来るし、お前が来たら絶対、甲子園じゃんって(笑)」
1998年に春夏連覇した、横浜高校16人の優勝メンバー
常磐良太は大学で野球を終わらせたが、松坂以外に3人がプロの世界に飛び込んだ。ファーストの後藤武敏(ベイスターズ)、キャッチャーの小山良男(元ドラゴンズ)、ライトの小池正晃(元ベイスターズ)。
今なおプロの世界で野球を続けているのは、松坂(米メジャー)と後藤(ベイスターズ)の2人だけである。
アメリカへ渡った松坂は、2007年、レッドソックスで世界一になった。
——だが、レッドソックスを退団した松坂はその後、インディアンス、メッツとチームを渡り歩くことになる。その間、マイナー暮らしを強いられたり、慣れない中継ぎを任されたりと、かつての輝きを取り戻すにはまだ至っていない(Number誌)。
松坂はその日、約1年ぶりにマウンドに立っていた(2012年6月9日)。
右ヒジの靭帯を断裂し、再建手術をうけてからちょうど365日。1年間のリハビリを経て、ようやく松坂はメジャーのマウンドに戻ってきた。
高校時代のチームメイト常磐良太は、わざわざ日本からボストンにまで飛んできていた。”YOKOHAMA”の胸文字が入った、あのグレーのユニフォームを着て。
「涙、出てきましたよ。手術して1年ですよね。あの1年間は、心にポッカリ穴が空いちゃったような感じでしたからね。それまではマツの投げる姿を見て、僕も励みにしたし活力にしてきたし…。良いときも悪いときも、彼の姿は全部見ておきたかったんです」
今もプロで野球を続けている唯一のチームメイト後藤武敏(現ベースターズ)は、こう話す。
「頂点を極めた人というのは、挫折に弱いと聞いたことがあるんですけど、アイツ(松坂)が凄いのは、挫折してもそれで終わらないところだと思うんです。挫折しても弱いところを見せないし、ドン底からでも這い上がってくる。昔ももちろん凄かったけど、僕は今の松坂が一番強いと思っています」
あの当時、横浜高校の監督だった渡辺元智氏の言葉を、メンバーらは今も覚えている。
後藤は言う、「僕は『横浜丸という船に乗っている』という言葉が印象に残ってます。一人でも自分勝手な行動をする人がいたら、腐ったリンゴのように周りにどんどん影響を及ぼして、船は沈没してしまう。だからこそ、みんなが同じところを見るということだと思うんです。春のセンバツで優勝しても、僕らの中には誰一人、天狗になったヤツはいなかった」。
あの夏から16年の歳月が流れた。
——同じ夢を見て、同じ場所で戦った横浜高校の仲間たちは、今、それぞれの場所で別々の夢を見ながら行きている。しかし、松坂大輔がメジャーのマウンドに立った瞬間だけ、彼らは同じ夢を見る(Number誌)。
”YOKOHAMA”のユニフォームを観客席に見つけた松坂は、こう笑う。
「お前らのユニフォーム姿、笑っちゃったよ。ちょー恥ずかしい。めっちゃ、恥ずかしいんだけど」
心底うれしそうに、松坂はそう言うのであった。
(了)
ソース:Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」
松坂大輔「絶対エースが見た風景」
横浜高校「ふたたび同じ夢を、同じ場所で」
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