2013年4月30日火曜日

ベルギー代表は、なぜ強い? [サッカー]


「なぜ、ベルギーは強くなったのか?」

現在、サッカー・ベルギー代表には、錚々たるメンバーがその名を連ねる。

「チェルシーのアザール、マンチェスター・Cのコンパニ、アトレティコ・マドリーのクルトワら、欧州ビッグクラブの主力も多く、現在のベルギー代表は黄金時代と言われている(Number誌)」

その他、イングランドでプレーするベルギー代表は数多い。







ベルギー成長の理由を、イタリアのガセッタ・デッロ・スポルト誌はこう記す。

「スポーツ人口の多さ」

「ベルギーは総人口の50%が何らかのスポーツをしている、という統計とともに、イタリアがわずか29%であることを付け加えている(Number誌)」



また、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、「かつて歴史的に対立していた地域同士(たとえばフラマン語地域とフランス語地域)が時を経て、移民2世の時代になって団結したから」と、その理由を述べる。

現在のベルギー代表の主力は、その多くが「移民の子ら」。言ってみれば「寄せ集め」でもある(コンゴ系、モロッコ系…)。

しかし逆に、その人種ミックスが過去のイザコザを消した、と「人種のるつぼ」たるアメリカ人は考えたようだ。



有能な移民が増え続けているのは、なにもベルギーに限ったことではない。ヨーロッパ全体がそうだ。

「イタリア代表のバロテッリやエルシャーラウィはその象徴であり、スペインのバルセロナ下部組織には、家族ごと移住してきた移民の少年たちが多い(Number誌)」



なるほど、今後ともに「各国代表の多国籍化」は進んでいく傾向にあるようだ。

ならばすなわち、現在のベルギー代表は「各国代表の未来の姿」を一足先に示しているのだろう。








(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 5/9号 [雑誌]
「躍進するベルギー代表は、各国の『未来を移す鏡』」

2013年4月29日月曜日

辞めるのを辞めた「木村沙織(バレー)」。トルコにて



「すいませーん」

と、日本語でウェイトレスを呼ぶ「木村沙織(きむら・さおり)」。ここは彼女の移籍先、トルコだ。

「チャイ、イキ。ホット・チョコレート、イキ。プリーズ」

木村は半年がたった今でも、トルコ語がチンプンカンプンだと笑う。



数分後に戻ってきたウェイトレスのお盆の上には、紅茶とホット・チョコレートが2つずつ。

「あ、間違えちゃった。『イキ(2つ)』じゃなくて、『ビル(1つ)』だった」と木村。

笑いながら、木村は紅茶とホット・チョコレートを交互に口に運ぶ。



ロンドン・オリンピック、女子バレー28年ぶりの銅メダルから、およそ半年。

日本の絶対的エース木村沙織は、億という単位で、トルコ・リーグの「ワクフバンク」に籍を移していた。

ワクフバンクは2011年、トルコ勢として初めてヨーロッパ王者となった強豪チーム。トルコは2002年から急激な経済成長を続けている新興国であり、同国のバレーボール・リーグ(トルコ・リーグ)も潤沢な資金にあふれていた。



「試合中もメンバーを見ながら『世界選抜みたいだなぁ』と、思わず見とれちゃうんです」

そう木村が言うように、ワクフバンクには各国の代表選手たちがズラリと顔を並べる(監督はドイツ代表監督のジョバンニ・クィディッチ。ポーランドのエース、グリンカ。ドイツの主将、フュルスト。セルビアのエース、ブラコチェビッチなどなど)。

ワクフバンクは潤沢な資金を武器に、世界各国から惜しげもなくトップ選手たちを集めまくっている。その綺羅星たちの中にあっては、日本の木村沙織といえども少々色褪せざるをえない。



10月の開幕当初は、木村もスタメンで出場する機会があった。だが、その回数は徐々に減っていく。

「リーグ中盤からは、グリンカが後衛に回った際にピンチサーバーで入り、そのまま3ローテ、守りを固めるのが木村の役割になった(Number誌)」

木村が先発から外れた理由を「コミュニケーションを含めた、攻撃面が課題だった」と、川北元コーチ(ワクフバンク)は説く。



日本よりも、遥かに高さを上回るブロック。

目の前にそびえ立つような壁を攻略するには、よぼどに精密で精度の高いスパイクを打たなければならない。しかし不幸にも、木村はセッター(ナズ・アイデミル)とのコンビがなかなか合わなかった。

「どんなトスでも全部OKみたいな感じで、最初のうちは『もっとこうしたい』とか全く言わなかったんです」と木村は言う。「だからナズも、どんなトスを上げていいか分からない」



まさか、日本の絶対エースがワンポイントのみの出場にとどまるとは…。

それでも、「木村は、チーム内のサーバーで最もブレイクポイント率が高い」と川北コーチは言う。

ワクフバンクのクィディッチ監督も「彼女は並外れている。必要とする仕事をしてくれた」と称賛する。



どうやら、木村は一年目としては「十分合格点」。監督らの期待は来季以降ということだった。

ところが、そんな監督らの意を知ってか知らずか、木村は突然「辞める」と口にした。それは今年1月のことだった。



「トルコ・リーグを終え、2013年度の全日本での活動を終えたら、バレーボールを辞める」

木村は、母と親しい友人だけに、そう告げていた。

親しい人々ほど、木村の性分を知っている。彼女は本当に決意した時にしか人に話さない。だから、「辞める」と決めた木村は「辞めるのを辞める」とは言わないだろうと直感していた。つまり、木村に二言はないだろう、と。



「辞める」と木村から打ち明けられた全日本の眞鍋監督。

「はぁ?」

絶句した。木村はまだ27歳。次のリオデジャネイロ五輪を目指す上で、木村は日本代表に欠かせない戦力。木村はまだまだ絶対的なエースであり、木村がダメならチームも負けるほどの存在だ。

ただただ驚く眞鍋監督。それでも、木村の決意は恐ろしく固いように思われた。



ところが、眞鍋監督と会って数日後

「考えて、考えて、辞めるのを辞めました」と木村は急反転。

「今まで作り上げてきたものを、またゼロにしたくないから。銅メダルを獲って、その位置から日本のバレーがちゃんと上に行けるように」、木村はそう言った。



なにゆえの急反転か。海外での経験は、それほどに木村の芯を揺さぶっていたのであろうか。

「試合に出られなかったり、もがいたり」、それは木村にとって初めての体験だった。

そんな揺さぶりにあって初めて、彼女は「もっと欲を出さなきゃ」、「自分の殻を破りたい」という思いがムクムクと湧いてきたのだという。



今年3月、木村の所属するワクフバンクは、2年ぶりのヨーロッパ王者に輝いた。

木村は決勝でも、全セットの終盤に投入され、連続得点の契機をつくった。

チャンピオンズ・リーグの表彰式、木村は金色の紙吹雪が舞う中で、一番高い場所に立っていた。



「お母さんとカフェを開く夢もあるけど、それはまだ先かな」

変わらぬ笑顔のまま、木村の心は一段と強さを増していたようだった。



アテネ、北京、ロンドンと今まで3回オリンピックの舞台に立ってきた木村沙織。

彼女は「海外での結果を日本に持って帰らなきゃいけない」と意を決している。

そしてその結果は、きっとリオデジャネイロにも繋がるものとなるのだろう…!








(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 5/9号 [雑誌]
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2013年4月28日日曜日

なぜ、バイエルンを選んだのか? 稀代の名将グアルディオラ



「こんな強いバイエルンは見たことがない…」

辛口で知られる元GK(ゴールキーパー)のカーンは、そう絶賛する。

「現在のバイエルンは、クラブ史上最強かもしれない(Number誌)」



今季のバイエルンは、ブンデスリーガ(ドイツのサッカー・リーグ)の優勝を史上最速で決めた(4月6日)。リーガ2連覇中だった王者ドルトムントには1度も負けなかった。

そしてさらに、欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)では準決勝に進出。その第1戦でバルセロナ(スペイン)に圧勝して見せた(4対0)。



「この伝説的なチームが生まれたのには、明確な理由がある。きっかけは昨季、CL(チャンピオンズ・リーグ)決勝において、PKの末にチェルシーに敗れたことだった(Number誌)」

1点をリードしていたバイエルンであったが、試合終了間際の88分にドログバのヘディングで追いつかれ、延長線ではPKをもらいながら止められ、最終的にもつれ込んだPK戦で敗れた。

「ホームでの屈辱的な敗北を味わった(Number誌)」



この屈辱によって、バイエルンのプライドと傲慢さは打ち砕かれた。

「自分たちは謙虚になった」とトーマス・ミュラーは語る。



かつてのバイエルンならば、他のチームを手本にするようなことはなかったかもしれない。

だが、「全員が成長に飢えていた」。

ドルトムントとバルセロナが、ボールを奪われた瞬間にプレスをかける守備(Gプレス)、その映像をハインケス監督は選手たちに見せた。

「その結果、ボールを失った直後のハイプレスは、バイエルン再生の最大の鍵になる(Number誌)」



「ときどき相手陣内で、わざと相手にボールを渡すんだ」

敵将、バルセロナのグアルディオラ監督は、かつてそんなことを言っていた。

「常に自分たちがボールを持って攻撃しようとすると、相手は秩序だって守るようになる。けれど、ボールを渡せば、必ず相手は前に出ようとする。その瞬間にボールを奪えば、ゴール前に侵入できる」



最強指揮官の呼び名の高い、元バルセロナのグアルディオラ監督。リーガ3連覇、CL(チャンピオンズ・リーグ)を2度制した名将中の名将。メッシを中心としたバルセロナの黄金時代を築き上げた名監督だ。

その彼が、来季よりバイエルンの指揮を執ることとなる。







「なぜバイエルンを選んだのか? 2013年のサッカー界の最大の謎の一つだ(Number誌)」

バルセロナを去った後のグアルディオラ監督には、ビッグネームからの勧誘が引きも切らなかった。マンチェスター・シティ、チェルシー、ACミラン…。年俸の提示額も、他クラブの方が高かったと言われている。

ドイツのブンデスリーガは、イングランドのプレミアリーグやイタリアのセリエAより下のランクとも見られていた。



「僕はサインするべきかな?」

3時間に及ぶ交渉の末、グアルディオラ監督は、バイエルンのヘーネス会長にそう聞いた。

「悪くないアイディアだ」

ヘーネス会長は、そう答えた。それが、「バイエルン史上初のスペイン人監督」が誕生した瞬間だった。



ヘーネス会長は、グアルディオラ監督がバイエルンを選んだ理由を、キッカー誌のインタビューでこう明かしている。

「決め手になったのは、バイエルンとバルセロナの『フィロソフィー(哲学)』がとても似ていたことだった」と。



何より共通していたのは、「クラブのレジェンドたちに最大の敬意を払っていること」だった。

現在のバイエルンでは、元選手たちが多く指導者として働いており、元選手たちの子弟もまた多くチームに在籍していた。

「バルサのカタランという民族性とは異なるが、『血の結束』がある点で極めて似ている(Number誌)」



「伝統と結束」

それが、バイエルンとバルセロナの共通項だった。

「オイルマネーに簡単にクラブを売り飛ばすチームとは一線を画するのだ(Number誌)」



近い将来、ヨーロッパのクラブシーンで、大きな「ルール変更」が行われようとしている。

「ファイナンシャル・フェアプレーの適用がさらに厳格になり、オイルマネーによる赤字補填が許されなくなる可能性が高い(Number誌)」

そうなると、バイエルンには大きなチャンスとなる。バイエルンの総資産は約1,600億円、自己資本比率は78%、超優良企業なのだ。



「今のバイエルンは強いが、まだまだ伸びるポテンシャルがある」

元GK(ゴールキーパー)のカーンは言う。

「来季、グアルディオラ監督がこのチームをどう進化させるのか。バルセロナのようにヨーロッパを支配できるかどうかが楽しみだ」



バルセロナは、当のグアルディオラ監督が生み出した世界最強のチーム。

その生みの親がまた、新しいチームを率いて子供たちを打倒するというのも、因果なシナリオである。

しかし、それは夢ではない。稀代の名将は今、その準備が整っている。







(了)






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ドルトムント、クロップ監督の「Gプレス」。時には柔軟に…



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 5/9号 [雑誌]
「グアルディオラ&バイエルン 最強指揮官がバルセロナを倒す日」

2013年4月27日土曜日

ドルトムント、クロップ監督の「Gプレス」。時には柔軟に…



「強いのか、弱いのかよく分からない(Number誌)」

そう評されるのは、ドイツ王者「ドルトムント」。昨季まで香川真司のプレーしていたチームである。

ドイツのサッカー・リーグであるブンデスリーガを2連覇中ながら、今季は不調に悩まされ、ライバルのシャルケには2連敗。現在2位に甘んじている(首位はバイエルン)。



ところが、欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)では絶好調。

グループリーグでは、レアル・マドリー(昨季のスペイン王者)、マンチェスター・シティ(昨季のイングランド王者)に勝利して首位突破。

ベスト4の第1レグでも、再び顔を合わせたレアル・マドリー(スペイン)に、またもや圧勝(4−1)。決勝進出へ向けて、大きく前進している。



予測不能のドルトムントを率いるのは「クロップ監督」。この45歳の戦術家は、ケルン体育大学の講演で、こう言っていた。

「サッカー界において最も優れた司令塔は『グーゲン・プレッシング(Gegen-Pressing)』である」



「グーゲン・プレッシング(Gegen-Pressing)」とは?

あえてドイツ語表記となっているのは、日本サッカー界にはまだ、この語に相当する専門用語がないからだ。

グーゲン・プレッシング(Gプレス)とは、「自分たちがボールを失った瞬間、すぐにボールを奪い返そうとするプレスのこと(Number誌)」

つまり、「ボールを奪われた瞬間、奪い返す」ということだ。



クロップ監督は講演を続ける。

「ボールを奪うのに最も好都合な瞬間は、自分たちがボールを失った瞬間だ。Gプレスを実行することで、理論上、どんな相手でも倒すことができる」

攻守が変わる瞬間、相手の陣形は乱れている。そのスキを突けば、相手ゴールに一気に迫ることができるというのだ。



クロップ曰く、「ロングボールは、Gプレスへの招待状」。

ロングボールがもし相手に渡ってしまっても、すぐにGプレスをかけて奪えば良い。それが成功すれば、逆に大きなチャンスが開けるのだから。

「普通のチームだと、ボールを失った選手はガックリと肩を落とすだろう。しかし、ドルトムントでは、そんな振る舞いは許されない。すぐさまGプレスをかけなければいけない」と、クロップ監督は力説する。



Gプレス成功のカギは、即時の反応。必要とされるのは、瞬間的な方向転換。

通常のプレスよりも遥かにハード。並大抵の運動量ではない。



Gプレスを成功させるために、クロップ監督の練習は熾烈を極める。

「地獄のチャッキー・ラン」と呼ばれるトレーニングでは、数メートル間隔で置かれたコーンの間を前後左右にダッシュ。心肺機能の限界まで追い込まれる。

「新人選手がチャッキー・ランで潰れるのが、ドルトムントの通過儀礼だ(Number誌)」



しかし、Gプレスは「諸刃の剣」でもあった。

「ボールを奪えなかった時は、自分たちの陣形も崩れているため、ピンチになりやすい(Number誌)」



ドルトムントのGプレスと実際に対決した酒井高徳(シュツットガルト)は、こう話す。

「Gプレスを一つ外すと、結構もろい印象があります。後ろがズレていて、こちらのビッグチャンスにもなるんです」。

岡崎慎司(同シュツットガルト)もまた、「ドルトムントは選手たちが若いからか、オレがオレがという印象が強くて、みんなが点を取りたがっている。だから簡単に失点するシーンがあるんですよ」と話す。

若いから走れる。だからGプレスが機能する。しかし、少しズレてしまうと、脆くも崩れ去る。



そんなGプレスの強さと脆さの両面は、CL(チャンピオンズ・リーグ)の準々決勝、対マラガ戦で両方見られた。

ドルトムントの1点目は、まさにGプレスの戦略通りだった。

「右サイドで一度はボールを失いながらも、すぐに奪い返し、鮮やかなパスがつながり、レバンドフスキがGK(ゴールキーパー)をかわしてシュートを決めた(Number誌)」



だが試合は、脆さを露呈したドルトムントが1点ビハインド(1対2)のまま、後半ロスタイムに突入。もはやドイツ王者の敗退は決まったようなものだった。

「だがロスタイムの91分、ロングボールのこぼれからロイスが1点を返して同点。さらにその2分後、クロスの混戦状態からサンターナが決勝弾を押し込んだ(Number誌)」

あまりにも泥臭い、土壇場の大逆転勝利であった。



試合後、クロップ監督は興奮を抑えきれないように、こう語っていた。

「CL(チャンピオンズ・リーグ)における最もひどい試合だった。しかし、選手たちは最後に試合をひっくり返してくれた」

ドルトムントの主力をみると、20歳のゲッツェ、22歳のギュンドガン、24歳のフンメルスと若手が多い。その勢いが、CLに奇跡を起こしたのであった。いい意味でも、悪い意味でも「勢い次第」であった。



そして迎えたCL(チャンピオンズ・リーグ)準決勝、レアル・マドリーとの第1レグ。

なんと、クロップ監督はGプレスを封印していた。

「相手チームが自陣に入って来ても、勢いよくボールを奪いにいくことはほとんどない。ボールを持つ選手を相手にしても飛び込まず、腰を落としてコースを限定する(Number誌)」

ドルトムントはまるで自陣でゾーン・ディフェンスを敷いているかのようであった。



Gプレスのように、敵のボールホルダーへのアタックがなくなっていた分、選手の運動量は減り、攻撃への移行にも以前ほどの勢いはなかった。

それでも勝った。スコアは4対1。前評判の「格上と目されるスペインのチームに、ドイツのチームが挑む」という図式はどこへやら。まったくの圧勝であった。



「クロップの監督としてすの優れた資質は、成功体験に固執せずに、コンセプトを柔軟に変えていけることだろう(Number誌)」

昨季の主力選手であった香川真司が抜けたことも、クロップ監督に柔軟性を強いていた。「香川はトップ下でも守備面でも大きな貢献をしていたんだ。香川がいなくなったことで、Gプレスの強度がやや落ちたと思う」。



ドルトムントがグループリーグを首位で突破した時、敵将であるレアル・マドリーのモウリーニョ監督は、こう言っていた。

「(ドルトムントには)CLで優勝する力がある」

準決勝で再びドルトムントと相対することとなったモウリーニョ監督は、そのドルトムントにまたしても臍を噛まされた。そして、決勝への道をドルトムントに明け渡そうとしている…。



※ホームとアウェーで2回行われるCL準決勝の第2レグは、4月30日。今度の対戦は、レアル・マドリーのホーム。ドルトムントにとってはアウェーの対戦となる。



(了)






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 ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 5/9号 [雑誌]
「クロップ&ドルトムント Gプレスを仕掛けろ」

2013年4月25日木曜日

制御不能なモヒカン男「バロッテリ(サッカー)」



どうしようもない「モヒカン男」

FW(フォワード)として群を抜く実力を秘めながら、傍若無人な問題行動の絶えない悪童「バロテッリ」。



マンチェスター・シティでの生活は、よほどに退屈だったらしい。

「ヒマだから」と、ド派手なパーティーで夜を明かし、悪友たちと花火で遊んではボヤ騒ぎ。

「退屈だから」と、ユースの選手にダーツの矢を投げつけたり、練習中にチームメートのタックルに激怒して大乱闘。試合中に、敵方に飛び蹴りを浴びせてはレッドカードをもらい、倒れた選手の顔を踏みつけて、4試合の出場停止処分。

また、移籍から9ヶ月間で、約130万円の罰金と27回のレッカー移動。マンチェスター市内で交通違反を繰り返していた。






誰にも制御不能なバロテッリ。

イタリアで用いられるという「バロテッラータ」という造語は、彼の問題行動が語源といわれ、その意味は「マナーやルールに反する行動をとった者」だそうだ。

奔放なこのイタリア人は、紳士的なイングランドで完全に浮いていた。



それでも、マンチェスター・シティは耐えていた。

「厳重注意や罰金処分を繰り返しながら、何度も諭し、更生を促そうとした。たとえ当の本人に反省の色が見えなくても、辛抱強く我慢した(Number誌)」

というのも、この問題のバロテッリは、ピッチ上では超人的なプレーを見せるのである。昨季、44年ぶりのリーグ制覇を成し遂げた最終節、その決勝弾をアシストしたのは、このどうしようもないモヒカン男だったのである。



しかし、我慢の限界は突然訪れた。

「’13年、年明け早々の練習で、バロテッリはチームメイトに悪質なタックルを仕掛ける。それに怒った指揮官ロベルト・マンチーニが練習から外れるように指示するも、バロテッリはそれを無視。そこから取っ組み合いの喧嘩に発展した(Number誌)」

さすがに、現場トップへの暴力行為には、マンCの堪忍袋の緒が切れた。

そしてバロテッリは、今冬の移籍市場で「ミランへ売り飛ばされた」。



ところが、「売り飛ばされた」はずだったバロテッリ。じつはミランへの移籍は、夢にまで見た念願だったともいう。

「バロテッリは、幼少時からロッソネロ(赤と黒)を愛した生粋のミラニスタである。なにせ、インテルの下部組織にいた頃に、インテルが何より忌み嫌うミランのゴール裏に通い続けていたのだ(Number誌)」



マンCに行く前は、インテルでプレーしていたバロテッリ。

インテルに所属しながらも、ミランが勝てば、バロテッリは誰にも憚ることなく飛び跳ねて喜んでいた(当然、インテルの首脳陣は激怒)。

インテルのクラブハウスに、ミランの応援歌を大音量で轟かせて現れたこともあった(ジェントルマンである主将ハビエルは激昂。ロッカールームでバロッテリを45分間にわたり絞り上げる)。

バラエティ番組でレポーターに直撃されたバロテッリは、あろうことか自分の名前と45番がプリントされた「ミランのユニフォーム」を着ていた(これを知ったインテル会長は、怒りのあまり卒倒)。







そこまでミラン大好きだったバロテッリ。念願のミラン加入によって、人が変わったように大人しくなった。

「インテル、マンC時代には見向きもしなかったチームプレイに励むようになったのだ。また、18歳のフランス人FWエムバイェ・ニアンを弟分として面倒を見るなど、精神面でも見違えるほどの成長を見せている(Number誌)」



ミランの選手たちも、規格外の才能を秘めたバロテッリに期待せずにはいられない。

「アイツは次元が違う」

MFケビン・プリンス・ボアテンクは、バロッテリの加入を機に、退団希望を撤回した。DFイニャツィオ・アバーテも半ば確定していた移籍を蹴って、残留を表明。

「バロテッリ一人の加入で、停滞していたクラブのムードが完全に変わった」



ついに、バロテッリは収まるところに収まったのであろうか。

ミランのチームメイトは、こうも言う。

「近い将来、俺たちは途轍もないFW(フォワード)を目の当たりにするはずだ」







(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 5/9号 [雑誌]
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2013年4月24日水曜日

軋ませてでも勝ちを手にする。剛腕モウリーニョ監督(レアル・マドリー)



確かに、レアル・マドリーの「モウリーニョ監督」は名将だ。

昨季、バルサのリーガ4連覇を阻止し、4年ぶりの優勝をマドリーにもたらしたのは、モウリーニョ監督その人に他ならない。



この点、800万ユーロ(約10億円)とも、その倍の1,600万ユーロ(約20億円)ともいわれる違約金を支払ってでも、モウリーニョ監督をインテルから引き抜いた甲斐はあったというものだ。

当時のマドリーは、何としてでも「バルサの天下を終わらせる」という使命に燃えていたのだから。







「打倒バルサ」

その使命を、モウリーニョ監督は病的なまでに追求した。それは、モウリーニョがマドリーの監督に就任して初めてのバルサ戦、その時に喫した0−5という「歴史的大敗」が彼のコンプレックスにもなっていたからだ。

「モウリーニョはなりふり構わずバルサに口撃を仕掛け、レフェリーにプレッシャーをかけるようになった。メディアの前で口を開けば、ジャッジミスの指摘。さらに選手たちにも同調を強いたため、ミックスゾーンからもレフェリーの過ちを示唆する声が聞かれるようになった(Number誌)」



もし平時であれば、モウリーニョ監督のとった行動の幾つかは、クビに繋がってもおかしくないほど苛烈なものだった。だが当時は、バルサの3連覇中であり、それを止めるためには多少の反則行為は許された。

「状況が状況なだけに、勝つためなら何でもアリだった。マドリディスタ(マドリー支持者)の間には、マキャベリズムが蔓延していたんだ。『目的のためには手段を選ばない』ってね(Number誌)」

「打倒バルサ」という大義の旗下、モウリーニョ監督はメディアや審判団などを「敵」と呼ぶことも一向に厭わなかった。







結果オーライ。

モウリーニョ監督が作り出した「戦争状態」は、自らを革命勢力と位置づけることによって、その効果を存分に発揮した。それが昨季のレアル・マドリーの快進撃の起爆剤とも推進剤ともなったのだった。

昨季(2011-2012)におけるレアル・マドリーのリーガ優勝は、モウリーニョ監督の名声に大きな華を添えることとなった。



だが今季、風向きは逆風に転じた。

「モウリーニョの手法は、短期的には奏功しても、長期的には綻んでいくことになる。時間の経過とともに、誰もが革命のプロパガンダに倦み、熱意を失っていくのである(Number誌)」

皮肉にも、バルサという最強の敵を倒してしまったことが仇(あだ)となった。

「バルサが依然として王座に君臨し続けていたならば、ここまでマドリーの内部から『不協和音』が生じることはなかったはずだ(Number誌)」



そう、今季はじめのマドリーを狂わせたのは、内部からの軋みだった。

もし、監督がメディアの前で「擁護する選手」と「叩く選手」とを恣意的に分けているとしたら?

もし、監督が自軍の選手を「好んで使う組」と「そうでない組」に分けていたとしたら?



レアル・マドリーのキャプテン「カシージャス」は、不幸にもモウリーニョ監督から「メディアの前で叩かれる選手」であり、「好んで使われない組」の選手だった。

今季第2戦のヘタフェ戦後の記者会見で、モウリーニョ監督がその敗北を平然と選手に帰すると、カシージャスは公然と反旗を翻した。

「まず反省すべきは、あなただろ。今後、公の場で選手を叩くのはやめてもらいたい」とカシージャスはメディアの前で言い放った。



もともと、モウリーニョ監督は「カシージャスのキャプテン像」を疎んじていた。モウリーニョ監督は「もっと自分に従順なキャプテン」を望んでいたのだ。

「ところがカシージャスは反抗的になっている。キャプテンのくせに、敵であるバルサの選手と仲良くすること自体、理解できない(Number誌)」

ゆえに、モウリーニョ監督はカシージャスを「突然先発から外した」。10年以上、レアル・マドリーのゴールを守り続けていたカシージャスを。そして、カシージャスが左手を骨折するや、正ゴールキーパーからも外してしまった…。



カシージャスはクラブの誇りであると同時に、スペイン代表のキャプテンでもある。

さすがに、モウリーニョ監督の横暴はマドリディスタ(マドリー支持者)の怒りを買った。そして当然、選手たちとの軋轢も深まった。

そして、モウリーニョ監督には進退問題が突きつけられることとなった。「前半戦が終わった時点で18ポイントもの大差をバルサに付けられていた。普通はあの時点でクビになっている(Number誌)」



ところが、レアル・マドリーは後半戦、勢いを取り戻した。

それはモウリーニョ監督が行動を改めたからではなく、「監督への不満が、逆に選手間の距離を縮めたこと」が好転の原因とされている。

監督に反発し、そしてうんざりした選手たち。ほぼ全員の選手たちが、何らかの形で監督と揉め事を起しており、そのことが皮肉にも選手間の団結の契機となったのだった。



シーズン終盤を迎えて、レアル・マドリーの調子は悪くない。

「3年連続CL(チャンピオンズ・リーグ)ベスト4入りは、クラブにとって24年ぶりの快挙であり、この先には10年ぶりとなる決勝進出、ひいては優勝のチャンスが待っている(Number誌)」

たとえ、お互いに気に入らぬことはあっても、監督と選手の目標は「勝つこと」にある。呉越同舟とは、そういうことだろう。



「打倒バルサ」という病に取り憑かれてしまったモウリーニョ監督。もしCL(チャンピオンズ・リーグ)に優勝すれば、その名はクラブの歴史に刻まれる。

「だが負ければ、バルサに踊らされた『一年天下』のピエロで終わってしまう(Number誌)」

その彼の評価は、今後一ヶ月で決まる(準決勝4月23日〜。決勝5月25日)。ベスト4には、あのバルサも名を連ねている。マドリーとの直接対決があるとすれば、それは決勝という大舞台、ということになる。







(了)






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無理せず、やり直した方がいいのか…?(サッカー)

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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 5/9号 [雑誌]
「モウリーニョ 名将が取り憑かれた”打倒バルサ”という病」

2013年4月20日土曜日

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最強チームの行き詰まりか。

「バルサではなかった(Irreconocibles)」

格下と目されていたミランに惨敗を喫した翌日の新聞には、「痛烈だが的を射た一言が大きく載っていた」。



欧州チャンピオンズ・リーグ(CL)、ベスト16第一戦。

0−2とミランに敗れた、この日のバルサ(2月20日)。

「たった2度しか枠内にシュートを放つことができなかった(Number誌)」



ベスト16でミランとの組み合わせが決まった時、地元バルセロナには「安堵の空気」さえ流れていた。メディアもファンも、楽観視していた。

「ベスト8入りは、まず間違いない」と。



ところが、バルサの絶対的エース「メッシ」は精彩を欠いていた。

「この時期のメッシには体のキレがなく、コンディションは下降気味だった。いつもなら出るはずのスピードがでない(Number誌)」



バルサの前監督グアルディオラは、メッシを中心に据えて、バルサを最強チームへと仕立て上げたはずだった。

「メッシをよりゴールに近い位置でプレーさせるようにした。そのためにはエトーをサイドに追いやり、イブラヒモビッチをベンチに置いた(Number誌)」

すべてが「メッシから逆算されたチーム作り」であり、その「メッシ・システム」がひとつの時代を築くことにもなったのだ。



だがここ数ヶ月、その歯車は明らかに狂っていた。

「簡単にボールを失う場面が目立つ。特に印象的だったのは、メッシのボールロストの多さだ。ドリブルを仕掛けるも簡単に奪われてしまう。動きは重く、圧倒的なスピードは影を潜めた(2月23日セビージャ戦)」

続くレアル・マドリーとのクラシコ(伝統の一戦)でもバルサは敗れ去る。

「近年のクラシコは、バルサ優位で進んできたが、今季はじめて形勢が逆転することとなった(Number誌)」



そして囁かれるようになった「バルサ終焉説」。

「ミランに敗れ、クラシコで2連敗を喫した頃には、そんな言葉も聞かれるようになった(Number誌)」



それでもバルサは、CL(チャンピオンズ・リーグ)ベスト16のミランとの第2戦を制する(4-0)。第1戦のまさかの惨敗に奮起したバルサは、その第2戦において「今季最高のパフォーマンス」を魅せたのだった。

「野性的な前線からのプレッシングと、軽やかなパスの連続。この試合こそが近年の最強バルサを象徴するものであり、それができるのは世界でもバルサだけだ(Number誌)」







ところが暗雲ふたたび。欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)ベスト8、バルサは「敗退の淵」に立たされていた。

やはり2連戦で勝敗が競われるベスト8準々決勝、バルサはPSG相手に第1戦で引き分け(2-2)。そして、運命の決する第2戦…、

「PSGに先制され、スコアは0-1。このまま終われば、バルサは敗退が決まる…」

前半からバルサは劣勢だった。攻撃は空回りし、PSGの方が効率的にパスを回してチャンスをつくっていた。



「頼むから、出てくれ、メッシ…!」

満員の観客たちは、そう願っていた。

この大事な日、バルサはエース「メッシ」を欠いていた。第1戦の負傷(太もも)により、彼はベンチに座ったままだった。

「メッシを欠いたバルサに、バルサらしさはなかった(Number誌)」



沈みつつあった満員のスタジアム。

そこに突如、大きな歓声が沸く。観客は何か大切なものでも見つけたかのようだった。

「メッシだ!」

ベンチから出てきたのは、他ならぬ「メッシ」。見慣れるビブ姿の彼は、ゆっくりと走り出し、アップを始めたのだった…!







後半17分、ついにメッシがピッチに立つ。

「観客はこの日一番の声援を、背番号10に送っていた(Number誌)」

ピッチにメッシが立つと、バルサの選手たちも「勇気づけられたかのように一変した」。



だが、メッシはほとんど動かない。

というよりも、負傷の影響でほとんど動けなかった。監督からの指示も「前線で待っていろ」、それだけだった。

ボールタッチも数えるほど。しかしそれでも、メッシは期待に応えた。「たった一度のプレーで、彼は貴重な1点を呼び込んだのだ…!」。



「メッシは、ペナルティエリア手前で相手ディフェンダー2人をいなし、エリア内のダビド・ビジャへパス。DFにコースを塞がれたビジャは後方へ落とし、それをペドロが決めた(Number誌)」

救世主メッシの登場からわずか9分。ベスト8進出を決める同点ゴールはバルサに生まれたのだった(同点でもアウェーゴール差で、バルサの勝ちになる)。



しかしその後、メッシは負傷していた箇所をドリブルでまた痛めてしまう。

「それからはピッチ上でほとんど棒立ちになっていたメッシ。しかしそれでも監督はメッシを交代させなかった。『ほとんど動けないメッシ』でさえも、バルサは必要としていたのだ(Number誌)」



同点のまま試合は終了し、バルサは辛くもCL(チャンピオンズ・リーグ)準決勝への進出を決めた。6シーズン連続のベスト4入りは前人未到の快挙であった。

だが、その裏ではバルサの「メッシ依存症」が明らかにもなっていた。

「メッシがいなければ、どうなっていたか分からない…。メッシに感謝しないと」

同点ゴールを決めたペドロは、試合後そう口にしていた。偉大すぎる「10番」の存在は、バルサにとって両刃の剣ともいえるものだった。



メッシ包囲網は、確実に進行している。ある一枚の写真はそれを如実に表現している。

中央にはドリブルを仕掛けるメッシ。しかし、それをマドリーの選手5人(!)が取り囲んでいる。「まるで練習中のロンドのようで、囲まれたメッシは、その中で余計に小さく見える」。この直後、メッシはボールを失うことになる。



過去5年間、バルサはCL(チャンピオンズ・リーグ)に2回優勝。ベスト4進出を3回成し遂げ、黄金時代を築き上げてきた。

だが、時代は「バルサを追え」から、「バルサを超えろ」に変わろうとしているのかもしれない。明らかにバルサは射程距離内に捕らえられているかのようである。



「CLの歴史では、檜舞台を境に運命が暗転することも何度か起きてきた(Number誌)」

「たとえば、'02-'03シーズンの決勝では、ユベントスとミランが鎬を削っている。だが結果的には、最強リーグの名をほしいままにしたイタリア勢が、最後に存在感を示した大会になった。マンチェスター・ユナイテッドとチェルシーが覇を競った'07-'08シーズンも然り。プレミア関係者は大英帝国の復活を謳ったものの、今や見る影もない(今大会では16強で全滅)」



今年のCL4強は、スペイン勢(バルサとレアル・マドリー)、ドイツ勢(バイエルンとドルトムント)の2大勢力。

「囁かれるスペインの黄昏と、高まるドイツ復活の機運」

CL準決勝は4月23〜24日。そして決勝は5月25日。



バルサは王者の誇りを胸に、意地を見せるのか?

それとも…







(了)






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2013年4月19日金曜日

世界トップ級の一人「安楽智大」。春のセンバツ



「春のセンバツのヒーローは間違いなく、済美の2年生エース『安楽智大(あんらく・ともひろ)』だった(Number誌)」

済美高校は決勝で敗れはしたものの、安楽への賛辞は海を超えてやって来た。



「16歳投手では世界トップ級の一人。94マイル(約152km)の速球にカーブも平均以上。身体に柔軟性があり、類まれなる才能の持ち主」

アメリカの野球専門誌「ベースボール」は、安楽を手放しで褒め称え、メジャー予備軍にリストアップした。

日本球界の居並ぶスカウト陣も「素晴らしい」「破格だ…!」と感嘆。一人の例外もなく安楽を認めた。さらには、2014年のドラフト1位候補とも、すでに囁かれている。



186cm、84kg。恵まれた体格の本格派右腕「安楽智大(あんらく・ともひろ)」。

今大会は67回1/3(772球)を投げ、87奪三振。広陵高校戦では、152kmの豪速球ストレートでスタンドを騒然とさせた(高校2年生では史上最速)。





その怪物も、3連投のあとの決勝戦では、さすがに力尽きた…。

4回までは緻密なコントロールで、浦和学院の迫力満点、規格外の強打クリーンナップをほぼ完璧に封じ込めるも、5回には5連続長短打を浴びて7失点。

「2年生エース安楽が初めて経験する屈辱だった(MSN産経)」



安楽の肩には、決勝までの自身初の3連投がたたり、目に見えない疲労が確実に蓄積されていた。

「自分が自分じゃなかった…」と振り返る安楽。

この日の決勝戦では、自慢のストレートが130kmに満たない苦しい場面も見られた…。



済美の上甲監督は、安楽の将来を懸念していた。3連投を含む準決勝までで、安楽の投球数はすでに663球に達していたのだ。複数のアメリカ・メディアもその多すぎる投球数を「懸念材料」として記事を掲載していた。

それでも、安楽はマウンドに立つことを監督に希望。その気持ちは、5回に大量失点したあとでさえ、微塵も揺るがなかった。



「あと1イニングだけだ」

上甲監督は苦悩の末に、満身創痍の安楽をマウンドに送り込んだ。あと1イニングだけ…。

しかし、その6回、安楽はさらに2失点。浦和学院に8点差とされた時点でマウンドを降りた…。



うつむく16歳、安楽…。悔し涙が甲子園の大地にあふれる。

その疲労困憊の姿が、国際的な議論を呼んだ。

「高校2年生にあれだけ投げさせるのはクレージーだ!」

国際野球連盟(IBAF)は、日本高野連にそんなメールを送りつけた。



9日間で772球の力投となった安楽智大。

「米メジャーの投手なら、5〜6週間分に相当する。決勝戦ではスピードが10kmも落ち、力尽きていた」

そう書いたアメリカ野球専門誌「ベースボール」は、安楽の「酷使」に眉をひそめた。



なんと言われようと、上甲監督は安楽の思いを汲んでやらずにはいられなかった。

「彼一人の力で決勝まで来たので、最後の思いを尊重してやりたかった」

続投を熱烈に希望した安楽。それは高校生らしい若さの力であったのか。安楽自身は投球数の監督への非難に対して、こう反論している(決勝戦前)。

「日本の高校野球は、そういうものです。潰れるというけど、僕は冬練習でしっかり投げ込みもしてきた。これくらいは投げ過ぎだというような球数ではない」



なんと剛腕らしい回答か。大人たちの心配をよそに、きっと彼はそうやって世界を広げていくのだろう。

安楽はまだ2年生。卒業するまで甲子園を沸かせてくれる逸材のままであってほしい。

安楽は150kmではとどまらない。彼の目標は「160km」なのだ!







(了)






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2013年4月17日水曜日

選手たちの「心の声」、そして「支える力」。



スポーツ選手たちの「心の声」。

松岡修造は、その声を聞くことを、何よりの楽しみにしているという。

熱狂の会場で選手たちを目にし、本気で戦う選手たちの思いを間近で感じる。現場で起きていることすべてを見続ける。そして、戦いを終えた選手と1対1で話を聞く。



「こんな思いで頑張り、こんな挫折をしていたのか…」

彼らの心の声を聴くと、ますますその選手を応援したくなる。さらには、自分ももっと頑張ろうという明日への力に変わる、と松岡は言う。

「選手が何を感じたのか、その心を知りたい。取材を通して、僕が視聴者に届けたいのは、選手の人間味であり、心の声だ」



そんな熱い男の取材は、ときに容赦がない。

「とにかく頑張ります」などという曖昧な答えは許されない。すかさず、「どんな風に頑張るのですか?」と、松岡は選手の心の奥底への侵入を試みる。



選手たちも「心の声」を言葉にできないことがある。

そんな時、松岡は待つ。心の声がなんとか言葉として表現されるまで、待ち続ける。選手も自分の心の声に耳を澄ます。すると、それがポツリと言葉になったりする。

「インタビューを終えた選手が『思っていたことを言葉にして、自分が考えていることに気づけました』と話してもらえることこそが、僕の何よりの喜びなのだ」と松岡は語る。



選手たちの心に真摯に向き合うほど、本気で応援したくなる。だから、松岡は本気で取材をし、そして本気で応援するのだ。

「今では応援することが生き甲斐と言っていいほどになった」と松岡は言う。



「日本のスポーツには『する』『観る』という2つは定着していると思う。だがもう一つ、世界にあって日本に足りないものがある」

松岡は続ける。

「それはスポーツを『支える』力だ」



現役時代、松岡修造というテニス・プレーヤーは、ウィンブルドンでベスト8進出(1995)。日本人男子として62年ぶりの快挙を成し遂げた男だ(自己最高ランキング世界46位)。

その男は今、スポーツを「する」立場から「支える」それへと生き甲斐の場所を移している。

「僕自身、オリンピックで心に残るのは、競技だけではなく、オリンピックを『支える』人々の魅力だ。訪れた国々のボランティアのみなさんのホスピタリティは忘れられない」と松岡は言う。



だから、東京にもオリンピックが来てほしい。

「東京にオリンピックが来れば、多くの人がボランティア活動に参加するだろう。そして、より良い大会にしようと本気でサポートする過程で、スポーツを『支える』喜びを知るはずだ」

松岡はそう確信している。



選手たちが「心の声」を言葉にするまでは、それに気づけていないように、応援する側も本気でスポーツを支えてみなければ、その本当の価値には気づけないのかもしれない。

「2020年のオリンピックが東京に来れば、日本の心が世界中の皆さんの心に残っていくはずだ」と松岡は言う。

日本の心。それを我々は知っているのだろうか。その心を本気で他国に伝えようとする時、ようやくそれは現れるものなのかもしれない。



スポーツだからこそ出来ること。

スポーツを通すからこそ見えてくるもの。

今の日本には、そんな風景が希薄になってしまっているのかもしれない…。








(了)






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2013年4月15日月曜日

野球選手の名産地「プエルトリコ」。WBC



「Que Puerto Rico!(なんて美しい港なんだ!)」

コロンブスは、その島の港に入った時、そう叫んだという。

それが現在の「プエルトリコ(Puerto Rico)」、スペイン語で「美しい港」という意味である(英語にすれば、Port Rich)。



プエルトリコは国のようでいて「国ではない」。

正確にはアメリカ合衆国の一部(自治連邦区・コモンウェルス)。かつてはフィリピンも、1946年にアメリカから独立するまでは、このコモンウェルス(自治連邦区)だった(現在はプエルトリコおよび北マリアナ諸島の2地域のみ)。

コモンウェルス(Commonwealth)においては、内政は認められるものの主権はなく、国防や外交はアメリカが行うことになる(法律もアメリカの法に準ずる)。アメリカの下院に代表者は送っているが、プエルトリコ市民にアメリカ大統領への投票権はない(税金も納めていない)。



美しいカリブ海に浮かぶ、このプエルトリコという小さな島は、人口わずか375万人。

日本でいえば静岡県と同程度の人口。面積では静岡より一回り大きく、およそ鹿児島県くらい(平均気温は沖縄・石垣島ほど)。







そのプエルトリコに、WBC準決勝、日本代表・侍ジャパンは敗れた。

「ほとんどアメリカ」というプエルトリコ代表には、大物大リーガーがその名を連ねていた(優勝したドミニカ共和国とならんで、プエルトリコも野球選手の名産地だ)。



C.ベルトラン(カージナルス・年俸12億3,500万円)、Y.モリーナ(カージナルス・年俸6億6,500万円)、A.リオス(ホワイトソックス・年俸11億8,750万円)…。

皆、大物バッターであるが、チーム打率は「.216」と、出場16カ国中12番目に過ぎなかった。ホームランも大会を通して2本だけで、4強まで残ったチームの中で最も少ない。

投手陣はというと、そこに大物大リーガーの名前はなかったものの、チーム防御率は「2.88」と、全体で4番目の好成績だった。



結果的に準優勝を果たしたプエルトリコは、大会中9試合を戦って5勝4敗(勝率55%)。2次ラウンドでは敗者復活戦からの泥臭い勝ち上がりだった。

「そんな中で準優勝できたのは、『肝心の試合で接戦をものにしたから』だった(Number誌)」



1回あたりに許した平均走者数(ランナー)は「1.26人」。日本よりも多い。それでも得点に結びつく「適時打(タイムリーヒット)」は滅多に許さなかった。

「日本戦でも見せた内野の守備力と、投手陣の的確な継投(リリーフ)。これがプエルトリコの特長だったといえる(Number誌)」



アメリカ合衆国のパスポートを持ち、米ドルを使うプエルトリコ市民(しかし英語はほとんど使わない)。

アメリカに住んでいる選手も多く、アメリカ市民としての意識も高いという。

かつては「アメリカ51番目の州」になることを拒んでいたというプエルトリコ市民も、痛烈な財政破綻を体験してからは、住民投票でも州昇格の票が多数を占めるようになっている(2012年11月)。



今回のWBCは、ドミニカ共和国、プエルトリコといったカリブ海の小さな国々が大いに名を馳せることとなった。

その一方、親方アメリカは「WBC代表を辞退する選手も多く、3大会でまだ決勝にも進出していない」。

国内の大リーグの方がずっと大事なアメリカの選手は、さほどWBCには食指を動かさない。



もし、プエルトリコがアメリカになれば…。

「元プエルトリコ」の選手たちも、そうなってしまうのだろうか…?







(了)



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鳥谷敬の思い切りが生んだ「勢い」。WBC



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/18号 [雑誌]
「人口375万人の強豪 プエルトリコ」

2013年4月13日土曜日

時には「負け」も指示されるF1。悩めるベッテル



F1第2戦、マレーシアGPの表彰台は「重たい空気」に覆われていた。

「勝ったベッテルと、敗れた2位のウェーバーは、視線を合わせようとしなかった(Number誌)」

言っておくが、ベッテルとウェーバーは同じチーム(レッドブル)。本来なら、ワンツー・フィニッシュを決めた両者は、喜びを分かち合ってよいはずだった。



レース後に両者が臨んだ記者会見もまた、「張り詰めた空気」の中で行われた。

今季初勝利となったベッテルは、「愚かなことをした…」と、自らを厳しく責めていた。

「間違いを犯したとしか言えない。もう一度やり直せるなら、絶対にあんなことはしない…」



そうコメントしたベッテルは、ひどく後悔しているようだった。

いったい、ベッテルはどんな「間違い」を犯したというのか?



それは、レース終盤の46週目、第4コーナーでの出来事だった。

2位につけていたベッテルは、前を走るチームメイトのウェーバーを「ロックオン」。そして、すかさずアウト側から抜き去って、自らがトップに立った。



じつはこの時、レッドブル・チームからは「順位キープ」の暗号指令が下されていた(43週目)。チームとしては、どちらがトップでも構わない。ただ、2人が無理に争って間違いが起こるのだけは避けたかった。

つまり、ベッテルは抜けるからといって「首位のウェーバーを抜いてはいけなかった」。だが、ベッテルは無線の指示を無視して、無理なオーバーテイクを仕掛けてしまったのだった。



それはレーサーとしての「本能」だったのか?

頭では理解していても、スキを見た瞬間に、身体が勝手に動いてしまったのだろうか。

たとえチームに飼われているとはいえ、ベッテルは「一個の虎」だった。



一方、通算10勝目のチャンスを奪われた形となったウェーバー。さすがに怒りを禁じ得ない。

「チームから指示が入り、2人で争うなと言われたんだ! だから、僕はエンジンの回転数を落としたんだ!」



F1のレースにおいて、チームの2人がともに好位置につけている場合、不測の事故を防ぐために、争うのをやめて、そのまま順位を維持するように指示が出ることは珍しくない。

現に3位に入ったハミルトンも、チームメイトの4位ニコとの「順位キープ」の指示を受けて、両者ともにその順位をキープしたままゴールしたのであった。



「チームはタイトル争いのことを考えて、順位を保つのが適切だと判断したのだろう」とハミルトンは言っていた。

しかし、オーバーテイクを制止されて4位に甘んじたニコは、たとえチームのためとはいえ、苛立ちを隠せずにいた。



個の争いであると同時に、チームの争いでもあるF1。

勝ってはいけなかったのに勝ってしまったベッテルは、レース直後、チームのみんなに謝罪した。「チームよりも自分を優先してしまったから謝ったんだ」とベッテルは言っていた。


ベッテルは今のレッドブル・チームに移籍後、じつに3年連続のF1ワールドチャンピオンに輝いている(2010・2011・2012)。それは、このチームが彼に最速のマシンを授けてくれたからでもあろう。





しかし、チームには謝罪しても、「勝ったことについては謝罪しない」とベッテルは言い切った。

「そもそも、僕が何のために雇われているのかといえば、それは『勝つため』だと思う。僕は勝つためにこのチームにいるんだ。だから、その通りにしたんだ」と、ベッテルは強く主張した。

勝つことこそが虎の本能だ、そう言わんばかりに。



相矛盾した勝利。

勝つために勝つのは当然だが、時には勝つために負けることも、チームからは求められる。時にチームは、目の前にブラ下がった生肉を食うなと、虎に命じるのだ。

だが、虎の本能をむき出しにしてしまったベッテルには、「勝つために負けること」ができなかった…。



F1において数々の最年少記録をもつベッテルは、まだ25歳。

負けられるほどに熟するには、どうにも熱すぎるようである。

かといって、熟してしまうには、まだもったいない…。








(了)






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「アタックしてこそ、扉は開く」。佐藤琢磨(レーシング・ドライバー)

「自分以上の自分」になる時。マルク・マルケス(MotoGP)

鮮烈! 「ノリック、転ぶな…!」



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/18号 [雑誌]
「チームオーダーを巡るF1不協和音」

2013年4月12日金曜日

「自分以上の自分」になる時。マルク・マルケス(MotoGP)



まるでマンガだよ。

最後尾からスタートしておいて、30台近くもいる先行車をゴボウ抜きにした挙句に優勝を果たすなんて…。

そのマンガの主人公は、オートバイに跨った「マルク・マルケス(スペイン)」。弱冠20歳のベビーフェイス。



戦いの場はMoto2、2輪ロードレースの最高カテゴリーMotoGPへ向けた最後の登竜門だ。

去年(2012)の最終戦バレンシアGP。マルケスはフリー走行で他のライダーを転倒させたペナルティを科せられて、決勝では最後尾からのスタートになった。



「そりゃあ悔しかったよ!」

決勝前、マルケスはすごく腹を立てていた。

「でも僕は、悔しさからくる『怒り』を、自分を限界まで追い込んで前進するための力に変えることができるんだ。そうやって、『僕以上の僕』を引き出すんだよ」



その言葉どおり、「自分以上の自分」を引き出すかのように、マルケスは「いつ転んでもおかしくない」ほどマシンを攻め立てていた。

彼は怒りの感情に任せて、我を忘れて突き進んでいたのか?

いや、20歳とはいえ、マルケスはそれほどウブではなかった。彼は怒りの感情を確実に勝利へと結びつける術を心得ているかのようであった。



最後尾スタートからの優勝。

「マルケスは、マンガにしてもドラマチックすぎる戦いぶりを見せつけた。あまりにも圧倒的な力量の差だった(Number誌)」

その映像を見返すマルケスは、「これって、本当に僕?」とおどけてみせる。何かのスイッチが入った彼は、もう別人のようだった。まさか、ヘルメットの下にベビーフェイスが隠されているとは思えない。



5歳の時からオートバイに乗り始めたというマルケス。

2008年にロードレース世界選手権(125ccクラス)に参戦した当時、マルケスの身長は148cmとライダーの中で最も低く、体重も40kgしかなかった。そのため、125ccクラスの最低制限重量(136kg)を満たすのに、21kgのバラスト(重し)をマシンやつなぎの中に仕込んで戦った。

15歳126日で表彰台(3位)を獲得したマルケス。史上2番目という若さだった(イギリスGP)。



タイトル獲得は3年目(2010)。第4戦イタリアGPの初優勝から5連勝を果たす快進撃。一時3位に後退するも、第14戦日本GPからあれよあれよと4連勝。17歳263日での戴冠は史上2番目の早さだった。

類を見ないハイペースでステップアップしたMoto2。冒頭に述べたマンガのような現実離れしたレースを、マルケスは2度もやってのけている! 初年(2011)は怪我のため総合2位に終わるも、2年目(2012)には圧巻の総合優勝を果たした。



2年目の夏(7月)には早くもホンダからお声がかかった。世界最高峰の2輪レース「MotoGP」のライダーとして。

「この時、マルケスは19歳。最強チームであるホンダが、ティーンエージャーと契約したのだ!(Number誌)」

衝撃的な契約発表ではあったものの、レース界はそれを当然の事実のように受け止めた。ティーンエージャーとはいえマルケスは、それまで計69レースに出場して32回表彰台に立ち、そのうち21回も優勝していたのだから…!。



この苦労知らずのシンデレラ・ボーイ。あえて苦しんだシーズンといえば、デビューしたての125cc時代くらいか。

「苦戦の連続だったよ。僕のマシンは周りよりも酷く劣っていたんだ」

マルケスはそうボヤく。

「自分の限界はもっと高いところにあると分かっているのに、マシンのせいでそこまで辿り着けなかったんだ。そんな状況に何度も向き合わされたよ」



マシンのせいで負けるたびに、すごく腹を立てていたマルケス。悔し涙を流し、言葉にならないほどの怒りをどうすることもできなかった。

「15、6歳だったからね。感情に流されて、勢いあまって転倒というミスを犯すこともたびたびあったよ」と、マルケスは若き日を振り返る。

彼は、そうした悔しさと怒りの渦の中から、感情の矛先の向けかたを模索していった。

「歳月と経験を重ねながら、セルフ・コントロールを身に付けていったんだ。どんな状況でも諦めたくなかったからね」とマルケスは語る。







そして舞台は最高峰のMotoGPへ。

「期待以上の速さだった(Number誌)」

それでも最強チーム・ホンダは満足しない。

「まだまだだ。MotoGPはそんなに甘くない(代表・中野修平)」



速いは速いが、マルケスはあちこちでミスを連発していた。それでも彼の非凡さは認めざるを得ない。

「ミスを連発しながらもいいタイムを出せるのは、彼が諦めないからだ。普通のライダーは、ミスをした時点でそのコーナーを捨ててしまう。でもマルケスは、マシンの挙動が乱れても、スッと落ち着いた瞬間にすかさず加速体制に入るんだ」と中野氏。



マルケスは転倒のリスクも辞さない。まるで転倒することで限界を見極めようとするかのように。

「ものすごい経験を積んだバレンティーノだって、若い頃にはそれなりにミスも犯しているからね」とマルケスは微笑む。

「人は、そういうたくさんの失敗の上に成り立っているんだよ、きっと!」

失敗を恥じることなく、それを底抜けに明るい光景に変えてしまう。それがマルケスの若さだった。







新たな時代を切り拓くであろうライダー「マルク・マルケス」。弱冠20歳のベビーフェイスは今や、空港にファンが押し寄せ、ピットにはカメラマンが居並ぶアイドルっぷりである。

「う〜ん、アイドルだなんて、勘弁してよ〜」

そう言うマルケスだが、周囲からの注目と期待は痛いほどに感じている。

「僕はシャボン玉の中に身を置くんだ。そうやって雑念を追い払い、自分自身に集中するしかない」



そのシャボン玉の中で、何を想うのか?

抑えきれない感情に膨らむシャボン玉。

「レースでは何かが変わる時がある。なぜだか分からない。でも、スイッチが入る感じなんだ」

マルケスのスイッチが入った時、猛烈に加速するマシンは異次元へと誘われる。

その時だ。「自分以上の自分」が引き出されるのは…!








(了)



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100の選択の先にある勝利。「武豊(競馬)」



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/18号 [雑誌]
「したたかなベビーフェイス マルク・マルケス」