2013年9月28日土曜日

天才は2度輝く。柿谷曜一朗 [サッカー]



「天才」と呼ばれる少年だった。

柿谷曜一朗(かきたに・よういちろう)

3歳でサッカー・ボールを蹴りはじめ、4歳でセレッソ大阪の下部組織に入団。才能の突出は誰の目にも明らかだった。



12歳頃からは、もはや途轍もなかった。

16歳(高校1年生)にして早、セレッソ大阪に入団。クラブ史上最年少でプロ契約(2006)。

本人いわく「わけわからん髪型」をした柿谷は、その入団会見でふてぶてしくもこう言い放った。

「僕がボール持ったときは、ぜひ期待しといて下さい」



2007年、17歳以下のW杯(U-17)で柿谷は驚異的なロングシュートを決める。なんとハーフウェイ・ライン付近から強豪フランスのゴールを破った。まるでベッカム(イングランド)を思わせるスーパーゴール。







この大会、日本は12年ぶりに優勝。

そのMVP(最優秀選手賞)を授かったのは、他ならぬ「天才」柿谷曜一朗であった。






■8番



入団したセレッソ大阪には、柿谷にとってのヒーローがいた。

「ミスター・セレッソ」、元日本代表の森島寛晃(もりしま・ひろあき)。

彼のつけていたセレッソのエースナンバー「8番」がたまらなくカッコよかった。



「森島さんのために『8番の似合う男』になります」

これは森島に送ったスパイクに柿谷が書いたメッセージである。柿谷はいつか「憧れの8番」を必ず受け継ぐと森島に誓っていたのであった。



ところが、その願いはそう簡単には叶わなかった。2008年に引退した森島から「8番」を受け取ったのは香川真司(かがわ・しんじ)。

香川は柿谷の一つ年上で、セレッソには同期入団であった。

柿谷「学校いくときは一緒に行ってました。ほんまアホなんすよ、二人して。アホって言ったらシンジくん(香川)に悪いけど」

柿谷は大阪生まれの大阪育ち。自称「大阪のクソガキ」。香川は神戸生まれ。



当初、世間の評価は圧倒的に柿谷が優っていた。セレッソ大阪のクルピ監督もそう見ていた。

クルピ監督「香川のほうがゴールに向かう意識は高いが、柿谷は技術的にもっと洗練されていた」

それでも、プロとして先に花開いたのは香川真司。プロ入り2年間で21得点を叩き上げた。一方の天才・柿谷は同じ2年間でわずか2得点…。



ベンチすら遠ざかってしまった柿谷。

少年時代からの憧れだった森島選手の引退セレモニー(2008)。その時に行われた試合のベンチにも柿谷は入れてもらえなかった。

エースナンバー「8番」が香川の手にわたるのは必然だった。

「天才」は、まずここでつまづいた。






■遅刻



「17〜19歳ぐらいのセレッソにいた時代っていうのは、プロサッカー選手ではなかったかな」

柿谷曜一郎は当時をそう振り返る。



反抗心と捨て鉢な気持ちとが相まって、柿谷は練習への「遅刻」を繰り返すようになる。

柿谷「試合に出れてないから遅刻したんじゃなくて、遅刻してもせんでも試合には出られへんやん、って。『別に、だから何』っていう態度をとってたしね」

大阪のクソガキは「問題児」の烙印を押された。

柿谷「まぁ、調子に乗ってたんでしょうね。ずっとセレッソでやってて、セレッソでプロんなって。そりゃ皆んなオレに注目するやろって、ちょっと舐めてたとこもあったし」



そして遂に、クルピ監督の逆鱗に触れる。

柿谷、6度目の遅刻にクルピ監督は「すべてのサポーターやクラブに対しての裏切りだ。相当高額な罰金を科した」と怒りを爆発させた。

2009年6月、柿谷曜一朗は懲罰的な措置により「J2徳島ヴォルディス」に放出される(期限付きレンタル移籍)。



当時を柿谷はこう振り返る。

「どう考えてもセレッソの一員じゃなかったしね。まぁ、逃げるっていう言葉がもしかしたら正解かもしんないすけど。でも、『オレはこのチームにおったらあかん』と思ったのも事実やし」

天才の舵は、すっかり狂ってしまっていた。






■徳島



柿谷曜一朗、21歳。

生まれ親しんだ大阪を離れ、独り四国・徳島へ。



新たなチームメイトとなった7歳年上の濱田武は言う。

「寂しがり屋じゃないですか。たぶん誰かおって欲しいんじゃないですか」

兄貴分となった濱田は、朝になると「曜一郎、行くで」と起こしてやる。

濱田「外で待ってる時もあるんすけど、ぜんぜん来ぉへんなぁと思ったら、また寝てたりとか(笑)」



鳴かず飛ばずだった天才・柿谷は、この徳島でついに才能を解き放つ。

固定されたレギュラーのなかった徳島ヴォルティスでは、日々の競争がより激しく、それが柿谷の性には合っていた。

柿谷は「Jリーグ屈指」といわれるテクニックでレギュラーに定着。抜きん出たシュート能力で得点を重ね、キャプテンを任せられるまでに至った。

柿谷は言う。「『サッカーやったらオレは負けへんで』っていうのもあったからこそ、徳島行っても『オレここでやったる』ってやれたし」



生活には「目覚まし時計」が欠かせないと言う柿谷。

「とりあえず目覚まし時計ね。オレの相棒。かわいいっしょ。徳島行ってから使ってるから、もう4年ぐらい。こいつが鳴ったら、もう終わりっす。オレの睡眠時間」

その音は、眠れる天才の眼をも覚ました。






■エース



去年(2012年)、柿谷曜一朗はセレッソ大阪に復帰を果たした(当時22歳)。

「今年はやりますよ、曜一郎は。天才。ほんとに」

そう言って柿谷の肩を叩くのは清武弘嗣(きよたけ・ひろし)。香川真司が海外に渡った後、「憧れの8番」はこの清武が継承していた。



徳島でプロの在り方を学んだという柿谷だったが、天才の回り道はもう少し続くことになる。

復帰はしたが、レギュラーとは認められずベンチ要員が続いた。開幕戦から数ヶ月、その出番はほとんどなかった。



それでももう、柿谷は腐らなかった。控え組の練習試合でも決して手を抜こうとはしなかった。

柿谷「昔やったらね、練習試合やしって思いやったんですけど、今はこういう試合から一個一個大事にしたいっていう思いがあるんで」



いよいよ時は満ちる。

シーズン途中でポジションを奪った柿谷は、2012年40試合に出場して17得点。トレードマークであった長髪は切り落とされていた。



そしてついに、憧れ続けた8番が柿谷のものとなる(2013年1月)。

「背番号8番、柿谷曜一朗!!」

ついに背負ったエースの証。



「カッコええやん」と言われて、まんざらでもない。

柿谷「そら、カッコええよ。もう、これは。カッコいいよ」

彼がチームの選手紹介に載せた一言はこうである。「背番号8番。誰もがこの時を待っていた。真のエースとして、セレッソに新しい歴史を刻むべく全力を尽くす覚悟でシーズンに臨む」



8番をつけた柿谷は今シーズン(2013)、その重みに恥じない活躍を続けている。

昨シーズンは14位と低迷したセレッソ大阪であったが、今季は優勝争いを続けている。その原動力となっているのは言わずもがな、柿谷曜一朗である。チームトップの15得点(9月22日現在)。










■天才弾



天才は2度輝く。

かつて「日本サッカーの将来を背負う」とまで期待された逸材は、いよいよ日本代表での活躍もはじまった。



2013年 東アジアカップ

「柿谷2発! 天才弾!」

宿命の対決、韓国戦はこの男の独壇場となった。

”シュート数は韓国の9に対して、日本はわずか5。終始、押し込まれる展開が続くなか、1トップに入った柿谷が2本のシュートをいずれもゴールに結びつけた(Number誌)”



圧巻だったのは、1 - 1の同点で迎えた後半ロスタイム。

「一回、踏ん張ったん分かりました?」と柿谷が言う通り、ゴール前、韓国のゴールキーパーが弾いたボールが柿谷の眼前に来た時、彼は一瞬、タメをつくっている。

柿谷「ここでボールに走って行く(前に行く)んじゃなくて、一回後ろに引いてるでしょ、左足」

”GKが弾いたこぼれ球を、柿谷曜一朗がニアのコースを消そうとする相手の逆をとってファーサイドに左足で蹴り込んだ(Number誌)”








コンマ数秒の間(ま)、その間によって敵の背後にシュートコースが生まれた。

柿谷「急いで前行って蹴ってたら、たぶん止められてたんすよ。で、ちょっと待ったんすよね。もうちょっとゆっくり打てたら、もっとカッコよく入ってたかな」

”ゴールの瞬間、ザッケローニ監督も興奮を抑えられないように、何度も小刻みにガッツポーズを続けた(Number誌)”



この逆転弾が、日本の優勝を文句なく確定した。

2試合連続ゴール、計3得点を決めた柿谷曜一朗は、この大会のMVP(最優秀選手賞)を獲得。

U-17(17歳以下)ワールドカップから6年、久しく途絶えていた柿谷曜一朗の名が、ふたたび世界に響くこととなった。

早く熟するかと思われた天才の、少々遅れはしたがしかし、華々しい代表デビューであった。










■プレッシャー



天才、天才と囃し立てられる柿谷曜一朗。

だがいつしか、彼はその呼び名を好まないようになっていた。

「もう僕は弱いですから。はっきし言って、めちゃくちゃ弱いですから。僕はもう、ほんまにプレッシャーとかにも弱いし。自分が一番よくわかってるから」と柿谷は言う。



あの韓国ゴールに叩き込んだ豪快な決勝弾も、その心境をこう語る。

「もうド緊張でしたよ、オレ。心臓バクバクでしたから。『ボール来てもうた』って感じで、ヤバイ、ヤバイって思って。こんなチャンス外したら、後で何言われるか分からないって思って」

そのくせ、冷静にタメまでつくって狭いシュートコースを見極めたその力量は、周囲が「天才、天才」と言葉を重ねる所以であろうか。



代表デビューを果たした後、柿谷は憧れの選手、セレッソかつての8番・森島寛晃と言葉を交えた。

森島「若い頃につけた日の丸と、今の日の丸の重みはやっぱ違う?」

柿谷「ぜんぜん違いますね。やっぱ、全員見てるし。まぁ、それがプレッシャーになって出来へんようになるのが一番ダメなんで。その経験はもう、僕はしたので(笑)」

そんな素直な柿谷の言葉に、森島も笑う。






■日本代表



”10代の頃、天才の呼び名をほしいままにした男は、今年に入って突如蘇ったのでも台頭したのでもない。傷つき、学び、気づき、獲得し、そして少しばかり爪を隠し、『2013年の自分』に至ったのである。変わったはむしろ周囲だった(Number誌)”

代表チームのステイタスが異常に肥大化した日本。

”代表チームに招集されない限り、国民的な注目を集めることはまずない。どれだけ美しいゴールを決めたところで、注目を集めるのは代表選手の平凡なゴールということになる(Number誌)”



今回、東アジアカップを戦った「東アジア組」は、”悪い言い方をすれば、国内からの寄せ集め(Number誌)”。

”ザック・ジャパン本来にメンバーに食い込めるかどうかの選抜テスト。ザッケローニもハッキリとそう語っている(同誌)”

このテストに文句なしでパスした柿谷曜一朗。以後、代表戦でのプレーが続き、「国民的な注目」を集めることになる。

8月14日 ウルグアイ戦
9月6日 グアテマラ戦
9月10日 ガーナ戦



「本田(圭佑)選手としゃべったことなかったんすか?」

その質問に柿谷は「ないです、ないです。みんなそうやって言いますけど、ほんま、しゃべったことない人ばっかりですよ」と手を振り、はじめての「海外組」との印象を語る。

「内田(篤人)選手、メッチャ男前ですね、あの人。初めて見ましたけど、女の子がそりゃキャーキャーなるのが分かりました。思ってた通りすぎた人は岡崎(慎司)選手です。ええ人なんやろなぁ、話しやすい人なんやろなぁって思ってたら。その通りでした。全員にいじられてました(笑)」






■今の曜一郎



柿谷は真面目に言う。「8番つけちゃいましたから。やっぱりこのクラブ(セレッソ大阪)でこの背番号をつける以上、自覚をもってやらないと」

かつて、柿谷曜一朗の魅力といえば、”もっと生意気で、相手をおちょくって、みたいなところがあった(Number誌)”。

それは捨ててしまったのか?

柿谷「忘れてないですよ。いまも持ってます。ただ昔の僕は、それをやっていい時といけない時の区別がつかなかった。そのあたりの区別はちゃんとつけなあかんと思えるぐらいにはオトナになりました(笑)」



かつての生意気な曜一郎は、時おり顔を出す。たとえば、初の海外組とのプレーとなったウルグアイ戦後、こう豪語している。

「初めてやったんですよ、ああいう名前のある人らとやるの。だから、どんなもんかなっていう感じもあったし。あれ(ウルグアイ代表)が世界いうんやったら、日本はワールドカップで優勝できると思うし」

ちなみにこの一戦、日本はウルグアイに「0 - 4」で完敗を喫しているのだが…(柿谷は先発、後半19分交代)。



柿谷を小学生の頃から見てきている小菊昭雄氏(セレッソ大阪コーチ)は、こう言う。

「雰囲気が変わってきました。一番印象的だったのは、まだ曜一郎が控えに回ることが多かった昨シーズン序盤、味方が点を取った時、一番喜んでいるのがアイツやったんです。昔の曜一郎は、勝っても負けても自分が満足ならええわっていうところのあった子やったんですが」

昔の曜一郎は、怖いもの知らずで無鉄砲で、良くも悪くもエゴイスト…。

小菊コーチは続ける。「曜一郎が確固たる自信と立場を手にした時、僕は16〜17歳の、もっと言えば12〜13歳の頃の『とてつもなかった曜一郎』が、今の曜一郎にプラスαされてくるんじゃないかと思ってるんです。正直、楽しみで仕方がありません」

「たぶん、真司(香川)も意識しているでしょうね。意識する対象は本田選手をはじめたくさんあるでしょうけど、間違いなくそこに曜一郎の名前は入っているはずです。で、彼らが共演したとき、『世界をしびれさせるサッカー』をやれる可能性はあると思います」



次の代表戦は10月12日。

ヨーロッパ遠征の幕開けだ。






”完成した天才よりも、可能性を秘めた未熟者でありたい”

柿谷曜一朗













(了)






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ソース:
情熱大陸「プロサッカー選手・柿谷曜一朗」
Number誌「日本代表はブラジルに勝てるはずなんです 柿谷曜一朗」


2013年9月26日木曜日

モウリーニョは「悪役」か? [サッカー]



サッカー、欧州スーパー杯2013

バイエルン(ドイツ) vs チェルシー(イングランド)





それは「グアルディオラ」と「モウリーニョ」、両監督による因縁の対決となった。

かつて両雄は、スペインの2強、バルセロナとレアル・マドリーで散々やりあった仲である。それが今季、期せずして2人そろって、それぞれが新チームを率いることになっていた。グアルディオラが「バイエルン」を、モウリーニョが「チェルシー」を。



2人の指揮官のイメージは対極をなす。

グアルディオラは篤実純良、知性的で温厚。

モウリーニョは唯我独尊、好戦的で敏感。

”メディアの対応一つとっても、グアルディオラは会見を論理的な説明の場と考え、モウリーニョは劇場、舞台ととらえれ騒々しい。また選手との関係では、グアルディオラは絆を重んじるが、モウリーニョは時として冷酷かつ専横的な態度を示している(Number誌)”



プレースタイルも、まさに水と油。

”グアルディオラは「ボールありき」のポゼッションが基本で、モウリーニョは「ボールは奪うもの」という前提(Number誌)”

どうあっても、モウリーニョは「悪役」がはまる。



その両者の激突、冒頭の欧州スーパー杯の結果は

延長まで戦って「2−2」の引き分け、PK戦をグアルディオラのバイエルンが制した。なるほど、正義は勝った。

”しかし2人は本当に善と悪ほどに違うのか? 実は似ていて、裏表であっても一つのコインのようなもの。そう思えてならない(Number誌)”








かつての2人は、コーチと選手の関係だった。

選手として華々しい経歴を誇っていたグアルディオラ。一方のモウリーニョはコーチでありながら、そういった輝かしいものを何一つ持ちあわせていなかった。

”当時のモウリーニョは、コーチであることさえ報道陣に否定され、「通訳だろ?」と蔑視されていた(Number誌)”



それからほどなく、モウリーニョは豹変した。

グアルディオラの代名詞となった「バルサ的なもの」を激しく憎み、「スペシャル・ワン」を豪語するなど、「バルサとは違う唯一無二の何ものか」になろうとしたのであった。

選手としては、本人いわく「三流だった」モウリーニョ。だが、監督としてはポルトを率い、2003-2004シーズンの欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)を制覇。翌来、チェルシーに招かれ、イングランド・プレミアリーグの2連覇を達成した。

押しも押されぬ名指揮官となったモウリーニョは、スペインのレアル・マドリーを任された(2010)。それはキャリアの頂点となるはずだった。実際、とくに2年目は1シーズンで121ゴールと勝ち点100を稼ぎ、破格のリーガ優勝を成し遂げている(スペイン・サッカー史上、最高の記録)。








それが今季、6年ぶりに古巣「チェルシー」に戻ることとなった。

その理由を、モウリーニョ本人はこう語る。「レアルが特別な存在であるのは事実だとしても、あそこは単なるクラブの域を超えている。政治が大きく物を言うし、サッカーのことだけ考えていればいいというわけにはいかなくなってしまった。3年目にはクラブの会長選が再びはじまり、レアルは異様な雰囲気に包まれてしまった。ああいう状況の大変さは、現場にいた人間でなければ理解できないと思う」

前回チェルシーを率いていた時、やはりモウリーニョはオーナーのアブラモビッチと対立して、結局はクラブを辞める形になっている。

モウリーニョは言う。「ボルトガルには『友情と仕事は別物』という表現がある。同じことは、私とミスター・アブラモビッチの関係にも当てはまると思う(※モウリーニョはポルトガル生まれ)」



どうしても悪役の影が付きまとうモウリーニョ。

しかし彼自身、「私は、前よりも良い指導者になったと思う」と話す。

「イタリアやスペインで、素晴らしい経験を積んだのは間違いない。昔に比べれば髪もずいぶん白くなったが、これは自分が年齢や経験を重ねたことを示す良いサインなんだ」



「自分は『戻るべき場所』に戻って来たんだ。私はさまざまな国のリーグを経験してきたが、プレミア(イングランド)が一番楽しめる場所だった。私はプレミアが好きなんだ、4大リーグのどこよりもね」

「イングランドは、ありとあらゆるものが違っている。まずはスタジアムの空気。この国では、どんな試合にも必ず両チームのサポーターが大勢やって来て、最高の雰囲気が生まれる。だが、スペインにはそういうカルチャーは皆無だ。これはイタリアも似ている。セリエの場合はセキュリティーの問題が大きいが、やはりスタジアムが満員になったりしない」



モウリーニョがチェルシーで目指すサッカーとは?

「89分間ひたすら守り続け、最後の1分でゴールを決めて喜ぶようなチームにはならない。私は攻撃的なサッカーを追求する。ボールを奪い、激しい攻めでゴールを奪う。すべての試合で勝ちを収めていく」

6年前とは、すっかり選手の顔ぶれが変わってしまっているが?

「そう。若いメンバーがとても多い。23歳以下が半数近くを占めるんだ。私がチェルシーで最初に作り上げたチームは、今やその役割を終えつつある。だから私は、育成にも力を注いでいくことになる。自分の経験と知識を惜しみなく注ぎ、彼らを大きく育てていきたい。ベテランたちには選手生命をあと2〜3年延ばして、もう一度キャリアに花咲かせてやりたい」








かつてレアル時代のモウリーニョは、自分に造反した選手(カシージャス、セルヒオ・ラモスなど)への容赦ない仕打ちで批判を買っていた。その選手マネジメントは非情であった。

しかし今、彼は選手の育成を口にし、かつてチームに貢献してくれた「古い友人たち」に報いたいと口にする。

レアル・マドリーではクラブの内外に”敵”をつくり、そして去ったモウリーニョ。だが、”愛される場所”に戻ったことで、彼の心はいくぶん柔らかくなっているようである。



モウリーニョは続ける。「もう後ろは振り返らない。チェルシーには探し求めてきたすべてのものがある。未来を見据えて、自分が愛するクラブのために尽くすだけさ。私は心の安らぎを必要としていたんだ」

「ただし私は『昔の名監督』としては見られたくない。あくまでも新たにチームに赴任した指導者として評価を勝ち取り、人々から愛されるようになっていきたいんだ」








心機一転のモウリーニョ。

かつて欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)で2度の優勝を成し遂げた男は、すでに「昔の自分」だと言う。そして、新生チェルシーで狙うのは自身3度目、チーム2度目となるCL優勝。

彼は豪語する。「遅かれ早かれ、チェルシーはもう一度ヨーロッパのチャンピオンになる。そのタイミングはできるだけ早いに越したことはない」



昨季、その欧州チャンピオンに輝いているのはバイエルン(ドイツ)。

そして、その王者をいま率いているのは、好敵手・グアルディオラ。コインの表裏のごとき両者は、やはり同じ目標に向かわざるを得ない。

欧州フットボール界における”定番”ともなっている「グアルディオラ対モウリーニョ」。ファンならば誰もが待ち望む対戦である。



”似たもの同士がプライドを懸けて火花を散らす瞬間、そこに見える業の深さに私たちは否応なく惹きつけられるのかもしれない(Number誌)”













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/3号 [雑誌]
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2013年9月25日水曜日

名将グアルディオラと、師リージョ [サッカー]



"Quien solo sabe de fútbol, ni de fútbol sabe”

(サッカーしか知らぬ者は、サッカーすら知り得ない)

「哲学者」ともいわれる元サッカー監督リージョの言葉。



このリージョの愛弟子ともいえる人物が、FCバルセロナ(スペイン)で14ものタイトルを獲得した名監督グアルディオラ。彼はリージョのことを「キャリアで最も影響を受けた監督」と敬意を払う。

リージョもまた、愛弟子グアルディオラを「私の息子のようなものだ」と語る。リージョは自身が率いていたドラードス(メキシコ)に、現役選手だったグアルディオラを呼び寄せたことがあった。

”それほど両者のサッカー観は近かった(Number誌)”



「現役時代からペップ(グアルディオラ)は監督のようなものだった。普通の選手は現役引退後から監督になろうとするわけだが、彼にその必要はなかった。選手時代も監督になっても、周囲で起こる現象のすべてを把握していた」

そう語るリージョは、選手時代のグアルディオラを「史上最高のメディオ・セントロ(センターハーフ)」と賞する。

「そもそもサッカーには”攻撃”も”守備”も存在しない。それは一体化したものであるべきなんだ。ペップ(グアルディオラ)が率いていたバルサを見ていてもそうだ」








冒頭の言葉「サッカーしか知らぬ者は、サッカーすら知り得ない(Quien solo sabe de fútbol, ni de fútbol sabe)」

これはリージョがよく口にしたものだが、この点、グアルディオラは”本を読み、映画を見ては、演劇に足を運ぶ。現役時代からそうだった。思想や哲学など、人間としての深みまで突き詰めるところも、リージョと共通していた(Number誌)”

「語学を見てみるといい。ペップ(グアルディオラ)はバイエルンに行く前にドイツ語まで学んでいる。ニューヨークにいる1年の間に、だ。そこまでする監督がどれだけいるか? われわれ監督は選手に伝えなければならない。他国で指揮を執るとき、言語を学ぶということは重要なことなんだ」



少々説明すると、監督としてFCバルセロナ(スペイン)で大成功を収めたグアルディオラは、ニューヨークでの1年間の休養をへて、今季、ドイツのバイエルンの指揮を任されている。スペイン生まれのグアルディオラにとって、ドイツは水も言葉も異なるまったくの”他国”だ。

監督時代のリージョもまた、”他国”メキシコで指揮を執ったことがあったが、彼はメキシコ人選手らにこう言っていたという。「君たちがスペイン風に合わせる必要はない。私がメキシコに合わせる」。

「ペップ(グアルディオラ)は、まさにそんな仕事をしている」と、リージョは言う。








バイエルン(ドイツ)の選手・キルヒホフは、新監督グアルディオラのコミュニケーションを「短い話だったらドイツ語か英語、あるいはその両方を混ぜて話すんだ。チームに通訳は一切いないよ。わからない言葉あったら、スペイン語がわかる選手に聞いたりするんだ」と言う。

チームで一番スペイン語がわかるのは、ペルー代表FW(フォワード)のピサロ。スペイン語が母国語なうえ、ドイツで計13年もプレーしている。

そうした周囲の助けはあれど、スペイン語話者であるグアルディオラは、わずか1年で通訳なしで記者会見をこなせるレベルにまで、他国ドイツ語を習得していしまっていたのである。

オランダ代表選手であるロッベンは舌を巻く。「最初に会ったときに、彼(グアルディオラ)がドイツ語をペラペラ話していたことに驚かされた。これは簡単じゃないよ。オランダ語とドイツ語は似ているけど、スペイン語はまったく違うから」。ロッベン自身、まだオランダ訛りが消えていない。

「ペップ(グアルディオラ)のロッカールームのスピーチは、人を動かすパワーがある」と、スポーツ・ディレクターのザマーは賞賛している。



師リージョは言う。「新しいチームにいって、すぐに自分の色を出したがる監督は多い。しかしそれは間違っている。。クラブにはその国の、独自のサッカー文化や伝統があるんだ」。

ドイツ語に敬意を払うグアルディオラは、”スペインで大成功を収めた「バルサ・モデル」にまったく固執しておらず、すでに「バイエルンだからこそできるサッカー」に舵を取りはじめている(Number誌)”。



”バルセロナの監督時代、グアルディオラは欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)で2度優勝し、カタルーニャ地方の「生きるレジェンド(伝説)」となった。しかし、ひとりの監督として、ひとりの人間として、まだまだ発展途上にあるのだ。決してバルサ時代が完成形ではない(Number誌)”

昨季、CL優勝を含め史上初の3冠を達成したバイエルンとて同様。昨季と同じことをやっていたら、対戦相手の対応が進んで苦戦することになる。

スポーツ・ディレクターのザマーは言う。「CLの決勝を思い出してほしい。前半は不安定だったし、ドイツ杯決勝も相手に冷や汗をかかされた。この2つの決勝において、バイエルンに安定性はなかった。もし昨季のやり方に囚われていたら、未来はなかった。私たちは今、変わるチャンスなんだ」。








スペインからやって来た新しい風、グアルディオラ。

そして彼もまた、まだまだ新しいサッカーを追い求めている。



「グアルディオラはバイエルンで成功するのか?」

この夏、サッカー界はこの話題で盛り上がった。



「ペップはドイツでも成功するよ」

リージョは遠くスペインから、それを見守る。






(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/3号 [雑誌]
「カリスマ指揮官の真髄 ジョゼップ・グアルディオラ」
「ペップがバイエルンで成功できる理由 ファン・マヌエル・リージョ」