2013年2月18日月曜日

感情とアートのはざまで。安藤美姫(フィギュアスケート)



今シーズンもまた、「安藤美姫(あんどう・みき)」はリンクに戻って来なかった…。

当初はソチ五輪のプレシーズンである今季から復帰の予定であったが、昨年10月、2季連続となるGPシリーズ欠場が表明されていた。



「それにしても、もったいなかったと思わずにいられない。2010-11シーズンの安藤美姫は、6戦5勝という過去最高の成績を残していたのだ(Number誌)」

選手人生の絶頂期に休養を宣言してから、はや2年もの歳月が過ぎようとしている。



「私はシーズンによって、試合によって、出来不出来の波が激しい選手です…」

彼女は自著「空に向かって」の中で、こう悲嘆している。

彼女の言う通り、「安藤の滑りは、安定感に欠ける」、そう言われ続けてきた。それは彼女の滑りが、「その日の気分に左右されやすい」からだ。



「ただ、こうも思う。安藤の不安定さは『天才性の表れ』でもあった、と(Number誌)」

テクニカルスペシャリスト(技術審判)の小山朋昭氏は、「気持ちが入ったときの美姫ちゃんには、たとえキム・ヨナでも足元に及ばない」と断言する。

「キム・ヨナは、ここでジャンプすれば何点入るみたいな作業になっている気がするんです。でも、美姫ちゃんの演技には『血が通っている』じゃないですか」と小山氏。



もしかしたら、安藤美姫にとっての「安定」とは、ある意味、退屈以外の何モノでもなかったのかもしれない。

彼女の不安定さは、「安藤が誰よりも正直に、誰よりもドラマチックに生きている証でもあったのだ(Number誌)」







天賦の才。

8歳にして、名古屋の名門クラブに入った安藤美姫は、次々と難易度の高いジャンプをマスターしていった。

「白い氷の上に舞い降りた『黒豹』みたいでしたね。ちょっと色黒で、しなやかで、鋭くて」

そう振り返るのは、安藤の中学時代を知るインストラクター西田美和さん。安藤は当時、「4回転を跳ぶ子」として有名になっていた。



安藤が初めて公式戦で「4回転ジャンプ」を成功させたのは、中学3年生の時。女子としては史上初。

いきなり注目のスポットライトを浴びることとなった安藤。その往時を西田さんは思い出す。

「食事をしているとファンに囲まれるし、お手洗いまで男の人がついてきちゃったりして…。ちょっと怖かったですね」



元来、安藤は「無防備で人懐っこい性格」。人から注目されることは、それほど嫌いなことではなかった。時に彼女は、恋愛話などのプライベートなことまで話すことも。

「安藤はそんな状況を、どこかで楽しんでいた(Number誌)」

しかし、観衆やファンの「好奇の目」は次第にエスカレートしていく…。



そして2006年のトリノ五輪。安藤美姫は18歳という若さで、この大舞台に立った。

しかし、試合では4回転ジャンプに失敗するなど精彩を欠き、初めてのオリンピックは15位と惨敗。

「試合以上にショックだったのは、その後、自分の周りから潮が引くように人が去っていったことだった(Number誌)」



「私は人を信じることをやめました」

安藤は自著「空に向かって」の中に、そう書いている。結局、記者たちは彼女の話題性だけで取材しているに過ぎないのである。

「素直すぎて、失敗しちゃった…」と、インストラクターの西田さん。



失意のドン底…。

天才肌の安藤は、気持ちが乗るまで時間がかかる。彼女はすっかり奥へと隠れこんでしまっていた。







そこにフラリと現れた外国人コーチ「モロゾフ」。彼は一癖も二癖もある個性的な人物。

「モロゾフは彼女を引っ張り出した」

結果は即座に出た。コンビ結成1年目にして、モロゾフは安藤美姫を初めて「世界女王の座」に君臨させたのだ(2007年3月の世界選手権)。



コーチ・モロゾフが引き出したのは、安藤の「アーティスティックな側面」だった。

不安定なほどに気分の起伏の激しい安藤は、逆に言えば「感受性」がそれだけ繊細かつ敏感だということだ。

かつてアメリカで、振り付けの先生が安藤に振り付けをしながら泣き出してしまったこともある。「こんな裏の音まで拾えて、それを表現できる繊細で、エモーショナルな(感情的な)スケーターは見たことがない!」。



モロゾフが安藤に演じさせたSP(ショートプログラム)「サムソンとデリラ」は、安藤のアートな側面を存分に引き出した。それは、旧約聖書に出てくる超人サムスンと、その妻で魔性の女と呼ばれたデリラの物語。

「魔性の女デリラが、安藤に乗り移っている気がした」と、テクニカルスペシャリスト(技術審判)の小山氏は、彼女渾身の演技を高く評価した。

もう安藤は「4回転という看板」を降ろしても、世界で十分に戦っていける選手になっていた。



しかし、モロゾフは「劇薬」だった。

その「副作用」も極端であり、表現力に磨きがかかる一方で、安藤の感情の波はどんどん大きくなっていっていた。

「モロゾフは、押すときはガーンと押す」。それを跳ね返そうとする安藤の力がいい方向に出たこともあれば、いつもうまくいっていたわけではない。



拒食症に陥ってしまった安藤は、体重が激減(50kg→43kg)。

2008年の世界選手権では、演技の途中で棄権して、涙に暮れていた…。

「感じやすさは、安藤の強さであり、もろさでもあった(Number誌)」



苦悩する安藤の姿を見るのが辛くなった周囲の人々は、モロゾフから離れるよう安藤に散々説得した。だが、最終的に安藤はモロゾフの元へと戻っていった。

「試合のときも、(モロゾフが)ただリングサイドにいてくれればいいのです。いてくれるだけで。なぜだかわからないけれど、おかしいくらいに強い気持ちに、自分は大丈夫だった思えてしまいます(安藤美姫『空に向かって』)」

「おそらく2人は、周りの人間が理解できないところで、深く結びついていたのだ(Number誌)」



あえてモロゾフを選んだ安藤の選択は、成績的には奏功した。

2009年の世界選手権で、安藤美姫は銅メダルを獲得することとなる。



その時、安藤がまとっていたコスチュームは「黒」。安藤が一番好きだという色だった。

「黒はどんな色を混ぜても黒。どんな色も潰せるという強いイメージ」。それが安藤の黒を好む理由だった。



実際、その後の全日本選手権(2010)での安藤美姫は、「会場を自分色に染め上げることで、まさに他の演技者の色をすべて潰した(Number誌)」。

その黒は、浅田真央をも塗り潰し、安藤は6年ぶりに全日本選手権のタイトルを奪取。善玉的な浅田真央に対して、何かと「悪玉扱い」される安藤美姫。なんとも象徴的な大会となった。

そしてその直後の世界選手権(2011)、安藤美姫は2度目の「世界女王」に輝くのだった。







あれから2年、まさに絶頂期にリンクを去った安藤美姫。

心ある人々が、「美姫がいれば…」と想像し、復帰を待ち望むのも無理はない。

しかし、2年間の空白は選手として長すぎるのではなかろうか…?



「2年間のブランクなんて、感じさせないですよ」

休養中も深夜にリンクを借りるなどして、安藤は一人で練習を重ねていたという。その様子をずっと見てきた西田美和さん(前出)は、安藤の実力に太鼓判を押す。

「彼女の演技力は、もう突き抜けています。あちこちにぶつかって、そのたびに傷つき、今ようやく、スケーターとして完成の域に達しつつあります」



西田さんは、トリノ五輪で荒川静香が金メダルを獲った時のことを、こう思い起こす。

「最終日、会場全体が荒川選手の空気になっていましたよね。『あぁ、獲るんだろうな』って。美姫ちゃんも、いろんな経験をして、そういう雰囲気をつくれる選手になったと思います」



最後に西田さんは、力強くこう言い切った。

「最後の最後、きっと大輪の花を咲かせてくれますよ!」







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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/21号 [雑誌]
「失われた“ミキ”を求めて 安藤美姫」

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