2012年9月8日土曜日

「勝つべくして勝つ」。存在そのものが横綱の格


ここは、とある相撲部屋。

若い力士たちが汗まみれで「ぶつかり稽古」に励んでいる。そんな中、ある一人の男が現れるや、部屋の空気は一変する。横綱「白鵬」の登場である。

横綱が身にまとうオーラは尋常ではない。一挙手一投足に風格があり、無言のうちに他を圧するものがある。白鵬は横綱の中でも「大横綱」と称されるほどに別格である。「平成の大横綱」とされるのは、白鵬の他には貴乃花、朝青龍だけである。




そんな大横綱・白鵬も、入門当初は痩せ気味でスラっとしていたのだという。体格が冴えなかったために、どこの部屋でも受け入れを拒んだほどであった(15歳当時は体重62kg、現在・152kg)。しかも、初土俵となった2001年3月場所(序の口)では、「負け越し」という後の横綱としては異例とされる最悪の成績であった。






しかし、さすがに後の大横綱、その後、メキメキと頭角を現し始める。「白鵬という子は、一晩寝るたびに強くなる」と周囲を驚かせるほどの急成長を始めたのだ。

2004年1月場所で「十両」に昇進するや、わずか2場所で十両を通過。入門からたったの3年で幕入りを果たす(前頭)という快進撃(19歳)。2006年3月場所では「大関」への昇進を決め(生国モンゴルでの視聴率は93%!)、翌場所では「初優勝」という快挙(21歳)。

後の白鵬関は、「基本ばかりをひたすら稽古していた」と語っている。基本というのは「四股踏み」「摺り足」「鉄砲」「股割り」などなど、相撲特有の稽古のことである。



大関まで一気に登り詰めた白鵬関も、さすがに「横綱」の前では足踏みをする。

横綱はただ単に一番上の位というのではなく、まさに「別格」。ひとたび横綱となるや、現役引退までその地位は保証される。しかし、横綱に相応(ふさわ)しくない相撲は決してとれない。成績を出せなくなった時点で、引退あるのみである。

横綱は「神の依り代」ともされ、神が宿る存在でもあるのである。



何度か「綱獲り(横綱になること)」を見送られたものの、当時の大横綱・朝青龍に完勝した2007年3月場所を全勝優勝で終え、満場一致で文句なしの横綱昇進が決定する(22歳)。

現在までの優勝回数21回(歴代6位)、全勝優勝8回(歴代1位)、63連勝の大記録をも樹立する(歴代2位、横綱在位中では歴代1位)。まさに平成の大横綱である。




横綱の強さとは?

肉体的な強さは言うまでもない。横綱・白鵬が相手にぶつかっていく衝撃力は600kgw以上(平均的な力士の2倍以上)。その破壊力は、3階建てのビルから落下して、コンクリートの地面に打ちつけられた時のものに匹敵するのだという。

スピードも尋常ではない。立ち会いのスピードは秒速4m。短距離選手なみのスタート・ダッシュである。力士の身体は太っているようで、その体脂肪率は20%以下なのだという(肥満とされる体脂肪率は30%以上)。




しかし、本当の強さは表面的なものではない。

稽古で白鵬関と立ち合った格闘家のピーター・ペタス氏は、「本能的な恐怖」を感じたと語る。拳を土俵につけた瞬間に、「この人に立ち向かってはいけない」と直感し、横綱が動き出した瞬間に、思わず引いてしまったのだという。

横綱の圧倒的な威圧感を、豊ノ島関は「相撲力」と表現していた。相撲力とは相手に力を出させないほどに相手を圧してしまう力である。土俵に立つ横綱は、とてつもなく巨大に見え、自分自身が果てしなく小さく感じられ、横綱を前にするだけで押し潰されそうになってしまうのだという。



そうした大横綱の様は、「木鶏(もっけい)」と例えられることがある(木鶏とは木彫りのニワトリ)。

この言葉を一躍有名にしたのは、かつての大横綱・双葉山である。彼は69連勝という無比の大記録を樹立するが、70連勝がかかった一番で敗北を喫し、その後、立て続けに連敗してしまう。

「イマダモクケイニオヨバズ(未だ木鶏に及ばず)」とは、連勝が途絶えた時に双葉山関が安岡正篤氏に送った電報であった。




木鶏とは?

この言葉の真意を知るには、中国のある故事を知らなければならない。



昔々、闘鶏のための軍鶏を調教する紀渻子(きせいし)という人物がいた。

彼は王にこう尋ねられる。「軍鶏はもう戦えるか?」。答える紀渻子、「まだでございます。空威張りして闘争心ばかりです(虚憍にして気を恃む)。」

10日後、王は再び尋ねられた紀渻子は、こう答える。「まだまだです。他の軍鶏を見ると、いきり立ってしまいます(嚮景に応ず)。」

さらに10日後、「まだです。相手を睨みつけ、圧倒しようとしています(疾視して気を盛んにす)。」



その軍鶏の調教がようやくできてくるのは、その10日後であった。

「そろそろ良いでしょう。他の軍鶏に一向に動ぜず(己に変ずることなし)、その様は木彫りのニワトリ(木鶏)のように泰然自若としています。もはや他の軍鶏がかかってくることはなく、皆逃げ出すばかりでしょう(異鶏あえて応ずるものなく、返り去らん)」



真人(道を体得した人物)の喩えとして語られるのが、この「木鶏(もっけい)」である。その境地において、もはや他者に惑わされることはなく、鎮座する存在そのものが他者の範ともなるのである。

木鶏における強さとは、闘争心でもなければ、他を圧する力でもない。あえて挑むものがいなくなることである。己を変ずることなく、そのままの己がそこにいる。その木鶏のごとき様は「その徳全(まった)し」と表現されている。木鶏の強さは、その「徳」にあるとされているのである。



相撲界における横綱とは、圧倒的な強さのみならず、そうした人間としての大きさをも求められる存在なのである。

日本の武道においては、「ただ勝つこと」がそれほど評価されないことも少なくない。「勝つべくして勝つ」という存在であることの方がより重視されているようにも思う。







出典:SAMURAI SPIRIT 「相撲」

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