2012年9月6日木曜日

生死のはざまに立つ「古武道」。その生きるとは?


「生きるか死ぬか?」

武道の原点ともいえるこの問いに、何百年と留まったままなのが「古武道」だ。戦国時代の「殺伐とした無骨さ」を残す流派も数多い。



「殺すか殺されるか?」

こう書くほうが、その本質をよく表しているかもしれない。現代に伝わる「武道」が精神性の昇華を導くものであるのに対して、古武道は依然として「生死のはざま」に留まったままなのである。

「生死のはざま」においては、「ルール」が存在しない。「死んだら負け」。それだけである。その火急の場にあっては、適当な武器すら持ち合わせていないこともある。そのため、路傍の石ころが最大の武器となることもあるだろう。






こうした徹底した実践・実用主義が、古武道の躍動感を生んでいるとも言える。

その躍動感に魅せられてか、現在の日本には300以上の流派が継承されており、今なお日本各地で盛んに修練が繰り返されているのである。流派の中には、頑なに「古(いにしえ)の風(ふう)」を守るものもあれば、積極的に現代化しようとする流派もある。

「甲野善紀」氏の古武道は、現代化されたそれの一つである。彼はかつての武人たちが、現代人と決定的に違う身体の使い方をしていたのではないかと考えている。

「ねじらない・ためない・ふんばらない」。これらが古武道の特徴なのだという。もし、ねじったり、ためたり、ふんばったりすれば、それは次の動きを「敵に教える」ようなものである。


逃げようとする動きも然り。逃げる相手を追うのは、容易なことである。逆に敵の懐(ふところ)へと飛び込んでしまえば、敵の動きを読み易くなる。それは、キーパーが飛び出して、シュートコースを限定するようなものである。



一方、現代人の動きは、非効率で矛盾だらけのものなのかもしれない。我々には「生死のはざま」にいるという感覚は皆無である。無駄な動きが死につながることは、まずない。

ところが、かつての武士たちは、ただ歩いているときに突然斬りかかられることさえあった。彼らの一挙手一投足は、生死を左右したのである。

たとえば、現代の剣道では、竹刀をもつ両拳(こぶし)の間隔が拳(こぶし)一つ分くらい開いている。しかし、甲野氏は両拳をピタリとくっつけて剣を持つ。両拳がくっついていると、剣が振りにくい。それゆえ、手だけで振ることはできず、体全体を使う動きになる。




手だけで剣を振ろうとすれば簡単に振れるものの、その動きは遅く、簡単に動きを読まれる。それに対して、振りにくい剣を体全体で振ろうとすれば、その動きは極めて速く、予測不可能となるのだという(もちろん、振りにくい剣を振るには長い修練が必要となる)。

目先のやり易さが効率的であるとは限らないことが、この例でわかる。手先だけの技術は動きとして非効率であり、本当に効率的な動きとは、体全体を連動して使うことなのだと、甲野氏は考えている。



古武道の目的は明瞭である。

「相手を殺す」、そして「生き残る」ということである。

目的が明瞭であるがゆえに、その動きは極めてシンプル(効率的)なものとならざるを得ない。そして、そのシンプルさゆえに、古武道には「純粋性」が宿っているようにも思える。



「殺す」という言葉を、現代人は蛇蝎のごとく嫌悪するであろう。

しかし、現代に生きる我々でさえ、戦国時代の武士たちと同じ「生死のはざま」に常に立たされていることを思い起こさなくてはならない。ひとたび「生」を受けた以上、その隣には「死」が寄り添っているのである。

現代人は「隣にある死」を徹底して遠ざけようと尽力してきた。その結果、「死」の影は遠ざかり、生死の天秤があるとしたら、「生」の比重が大きくなった。しかし、それでも「死」は必ずやってくる。天秤が「生」に大きく傾いているだけに、「死」に直面した時の「反動」は尋常ではない。「死」を極度に恐れ、必要以上に「生」へと執着してしまうようになる。



一方、「死」を当然のものと考えていた戦国時代の人々はどうか?

おそらく、彼らの生死の天秤は水平であり、古武道の精神はその天秤の真ん中に立つものなのであろう。生と死の度合いはおおよそ均等であり、生ばかりが当然ではなく、時として、死が当然でもあったかもしれない。



現代社会では「殺す殺される」という機会は極度に減りはしたものの、「生きるか死ぬか」という選択は厳然として目の前にある。人を殺傷する武器は形をかえ、時として自動車や飛行機、タバコなども死を招き寄せる凶器となりうる時代である。

それでも、現代人は「生死のはざま」から多少は遠ざかることができているのだろう。我々は「死」を当然のものとは決して考えない。



その現代にあって、古武道はあえて「生死のはざま」に立とうとしている。そして、そこに「生の限界」を見出そうとしている(生の限界というのは、痛みであり苦しみでもある)。

「人が本当に優しくなれるのは、その生の限界を知った時だ」。

水鴎流居合剣法15代目の勝頼善光景弘氏は、こう語る。他人の痛みがわかるというのは、自分が痛い思いをしたからである。



死の近くには、そうした痛みや苦しみがたくさん転がっている。そして、それらを体験することが、他人への加減にもなり、配慮にもなる。死を遠ざけすぎた現代においては、そうした痛みを体験する機会は大きく減じた。それは、生活の快適性を生んだものの、「本当の優しさ」からは遠ざかることになったのだろう。

「生死のはざまで生き残るためにもがくことで、大切なものを見つけることができる」と、格闘家のピーター・ペタス氏は語る。



我々は死を忘れ、戦争を知らない世代である。こうした時代の人類は過去の歴史において、「歴史を繰り返す」という愚を行うのが常である。生であれ死であれ、天秤が偏り過ぎることは危険なことなのである。

古武道があえて「生死のはざま」に留まり続けることには、理由がある。そして、現代の人々が古武道に魅了されることにも、また理由がある。

古武道の主眼は「生き残る」ことに向けられているのである。時には「殺す」ことによって生き残ることもあろうが、相手を「生かす」ことによっても生き残れる場合があるだろう。そう考えれば、古武道の深淵なる目的にも気付かされる。



古武道を志す人々が戒めるのは、「バランスを崩す」ことである。バランスが崩されれば、それは即座に死を意味することにもつながる。

その点、我々現代人は「生死のバランス」を欠いてしまっているのではなかろうか? 我々には現実がシッカリと見えているのであろうか?



古武道家・甲野善紀氏は、正面からくる力にまともに対抗するようなことはしない。その大きな力の側に入り、逆にその力を良いように利用するのである。


「死」という強力な力には、まともに対抗できない。しかし、その懐(ふところ)にあえて飛び込むことによって、その力を利用することもできるのではなかろうか。死の側からの方が、生がよく見えるのかもしれない。日本を出た人々が、日本の真価に気がつくように。

この辺りに、死を恐れるよりも、その側に寄っていくという古武道の真意も見えてくるような気がしないでもない。「生があるから死がある」というよりは「死があるから生がある」と考えるのも、また新たな発想を生むように思える。







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出典:SAMURAI SPIRIT 「古武道」

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