2012年9月12日水曜日

脚を失ってなお…、走り続けるアスリート。中西麻耶


「先生、脚、切って下さい」

両親の猛反対にも関わらず、彼女に迷いはなかった。

勤務中の現場での事故。重さ5トンの鉄骨に押し潰された右脚。膝から下を切断するのか? あるいは、時間をかけて神経の一つ一つをつないでリハビリするのか?

この極めて難しい選択に、中西麻耶は苛烈な断を下した。そしてその陰では、両親が涙を流していた…。





◎悲願の国体出場


「切って義足にしたほうが、早く復帰できる」

彼女の想いは、その一念にあった。高校時代から「ソフトテニス」でインターハイにも出場していた彼女の目標は、国体出場であった。事故が起きたのは、その代表を決める大会のわずか2日前のことだった。



当然、その年に大分で開かれた国体は見送るより他にない。それでも、彼女の必死のリハビリにより、およそ半年ほどでプレー再開にまでこぎ着けることができた。

ところが…、義足でのテニスは、そうそう容易なものではなかった。



「最初は、義足をつければすぐにでもテニスができると思っていたんです」と語る彼女。ところが実際には、「まともに立つこともできない」。

「ガク然とした」彼女は結局、テニスの道を諦めるしかなかった…。



◎希望


「障害者なんだから、頑張らなくていいんだよ」

そんな一見優しそうな言葉は、痛く彼女を傷つけた。脚を失い、テニスという生き甲斐も失われた今、自分自身さえもどこにあるのかが分からなくなっていた。



そんな暗闇の中、彼女が光を見たのは、義足をつくってくれた臼井氏の「そのままでいいんだよ」という言葉であったという。

「そうだ。義足になっても、『中西麻耶という人間』は変わっていないんだ」。そう思うことで、彼女の心は辛うじて持ち直した。



希望をくれた臼井氏の言葉は、閉ざされていた彼女の心に素直に染み込む。そして、その勧めのままに、彼女は「陸上」に転向することを決めた。

テニスはダメでも、陸上ならば競技専用の義足があると臼井氏は教えてくれたのだ。何を隠そう、臼井氏は競技用義足制作の第一人者でもあったのである。



◎転身


「あぁ、気持ちいい…」

風を切って走る彼女には、本来の明るさと前向きさが戻ってきていた。

もともとアスリートであった彼女は、またたくまに記録を伸ばし、わずか半年で100mと200mの日本記録を更新。





続く北京のパラリンピックでは、100mで6位入賞、200mで4位入賞という、いきなりの好成績。競技歴わずか1年の快挙。脚を切断することになった悲劇からは2年しか経っていなかった。

周囲は中西選手の大活躍を大いに賞賛したが、当の彼女は浮かぬ表情。

「悔しい…。恥ずかしくて、日本に帰れない…」



北京で彼女が目にしたのは、「世界の強豪たちの自信とオーラ」。その圧倒的な存在感に、中西選手は太刀打ちできなかったのであった。

「このまま日本で練習してちゃダメだ。世界を見ないと!」

北京のパラリンピックを終えるや、彼女は即渡米。アメリカに飛んだのである。



◎新天地・アメリカ



サンディエゴにあるオリンピック・トレーニングセンターでは、アメリカ人だけではなく、世界各国の優れたオリンピック選手やパラリンピック選手が練習していた。

そして、その世界最高の施設で、中西選手は「アル・ジョイナー」氏と運命的に出会う。ジョイナー氏はロス五輪の三段跳び金メダリストである。以後、中西選手はジョイナー氏の指導のもとに、走り幅跳びにもチャレンジしていくことになる。



ジョイナー氏が中西選手の指導を引き受けたのは、中西選手がアスリートとして「もっとも重要な資質」を持っていたからだという。

「それは『諦めない気持ち』。これはアスリートとして欠かせない条件です。テクニックは指導できても、『諦めないで努力すること』は教えることができないのです」と、ジョイナー氏は語る。



当時の中西選手には、アメリカの滞在資金が底を尽きかけており、ジョイナー氏を正式に迎えるために必要なコーチの推薦もなかった。そんな「ないない尽くし」の中西選手をジョイナー氏は快く受け入れたのである。

そしてそれは「それだけのガッツが彼女にあったから」とジョイナー氏は言うのである。



◎資金難


「アルの指導を受けて、100mも200mも走りが変わりました。そして、幅跳びの記録も徐々に上がっていったんです」と中西選手。

幅跳びのスタートにクラウチング・スタートを取り入れ、踏み切りは、より跳躍力の得られる義足で行うスタイルを確立した中西選手。それはすべてジョイナー氏が教えてくれたことなのだという。

中西選手の幅跳びの公式自己ベストは4m96。世界ランキングは第4位。アメリカでの練習では、5m10を跳ぶこともあったという。



着実に力をつけた中西選手であったが、彼女を最も悩ませたのは「資金繰り」であった。2011年の世界選手権に出場できなかったのは、資金が足りなかったからだという。

活動資金を得るために、中西選手は北米各地で開催される大会に積極的に参加した。賞金の出るレースで勝てば、それだけ活動を続けられるようになるからだ。ホテルに滞在する費用がない時には、野宿してでも大会に臨んだという。



2012年の2月には、日本でセミヌードのカレンダーを制作するが、それも資金難解消が最大の目的であった。発売3ヶ月で9000部が販売されたことにより、ロンドン・パラリンピック出場の費用は何とか確保されたようである。




※北京オリンピックでメダリストとなった水泳の松田選手でさえ、資金難により、今回のロンドン五輪までの活動が一時危ぶまれていたという。それほど、スポーツ選手がそれ一本でやっていくということは困難なことなのである。ちなみに、松田選手はロンドンでもメダリストとなっている。



◎ロンドン


自身2度目の出場となった今回のロンドン・パラリンピック。競技生活は、はや5年を数えていた。脚を失ってからは、ちょうど6年目の夏である。

北京での経験から、海外で十分なトレーニングを積んだ中西選手。ロンドンは、満を持してのチャレンジとなった。



しかし、どこか歯車が噛み合わない。

100m、200mともに予選敗退に終わり、走り幅跳びは決勝にまでは進んだものの、8人中8位で終わった。その記録も自己ベストに届かない4m79。



競技中の苦悩を、彼女は自身のブログにこう記している。

「自分のパフォーマンスを最高点に持っていくこと。長い4年の中では、ほんの一瞬でその頂点に合わせることは、調子が良いのと悪いのとでは、本当に紙一重。私にとっては最高の日ではなかった」

「期待に応えられず、本当に申し訳ないと思います」



◎引退


ロンドン・パラリンピックを終えた中西選手は、その直後に「引退」を表明。

そこにはメダルを取れなかった落胆と、障害者スポーツという独特の世界に対する困惑がない交ぜになっていた。

「障害を持っているからとか、いい義足をはいているからといったことばかりが注目されている…」「健常者のスポーツはお互いを尊重し合っているのに…」



パラリンピックという舞台は、彼女にとってどこか煮え切らないものがあったようである。

「自分の中では、パラリンピックの価値を見いだすことができなかった」という彼女は、それと同時にこう宣言した。

「アスリートの中で、アスリートになりたい」

今の彼女が想うのは、健常者の中で競い合うことである。障害者だけの大会は、彼女にとって決して「住みやすい環境」ではなかったのである。



障害者でも普通のオリンピックに出場できる道はすでについている。

今回のロンドン・オリンピックでは、両足義足の「ブレード・ランナー」、ピストリウス選手がオリンピック代表(南アフリカ)となって、障害者で初めてオリンピックの舞台に立っている。





◎新たな道


今の彼女の目標は、走り幅跳びで6mを超えること。その記録を出せれば、日本選手権に出られる道も見えてくる。

ただ、今のところ、それは「趣味として」との発言にとどめている。それでも、彼女の気持ちが前を向いているのは確かなことである。



コーチのアル・ジョイナー氏は、中西選手の心に「諦めない気持ち」を見ていた。

ある記者は、「これから先、また彼女は何かしらかの形で、私たちの前に姿を見せてくれる気がする」と期待を込めて記している。



テニスから一転、陸上短距離、そして走り幅跳び。

脚を失ってなお、中西選手はひたすら前を向いて走り続けた。

「逆境を越えゆくスプリンター、中西麻耶」

彼女はふたたび新たな風を求めて、走り出しているのかもしれない…。







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出典・参考:
Number 811号 「中西麻耶 逆境を越えゆくスプリンター」

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