2015年2月3日火曜日

甲子園でスキージャンプ?


〜話:藤木高嶺〜


戦前の甲子園

 さて、甲子園球場では、あらゆるスポーツ以外にもさまざまな行事が開催され、いつも大変な人出でにぎわったようだが、案外知らない人も多いようなので、ここで書いてみたいと思う。

 甲子園球場が完成したのは大正13年(1924)で、当時は甲子園大運動場と呼ばれ、第十回の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)が開催された。野球場としては広く、観客を多数収容できるのと大阪と神戸の中間にあって交通が至便であったため、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールに使われたのは当然のことだが、昭和7年(1932)には、一塁側アルプススタンドの下に体育館が完成して、柔道、フェンシング、バスケットボール、バレーボール、雨天時の野球の練習などに使われた。また、三塁側アルプススタンドの下には、25mの温水プールが完成し、日本水泳連盟公認のプールとして、水泳競技も行われた。もちろん一般の人にも開放され、年中泳げるので人気があったようだ。

 私は球場のすぐ近くに住んでいたために、甲子園球場の催事には、小中学校時代から父や母に連れられて、ほとんどすべてを見物し楽しんだ。なかでも最も驚いたのは、スキーのジャンプ大会であった。グラウンドに組み立てられた木製のジャンプ台に、北陸方面から運んできた雪を積み上げ、鮮やかなジャンプを間近で見られたのだから、驚きと感激で胸いっぱいだった。昭和13年(1937)の冬だったと思うが、テレビもなかった時代だったから、数万人の大観衆は興奮して大歓声を上げたはずだ。

 西宮市の小中学生たちの大運動会が催されたり、体操大会も行われた。歌謡ショーや歌舞伎劇まで行われて、目を見張ったのを覚えている。特に楽しかったのは花火大会、ホタル狩り、大映画大会であった。花火大会では外野スタンドに設けられた見事な仕掛け花火を、内野席から見て歓声を挙げたものだ。映画会は、レールに乗ってグラウンドの中央に運ばれた大スクリーンに、スコアボードの中央に用意された映写機から映すもので、観客は外野席から観ていた。ニュース映画と漫画が多かったと思うが、私が忘れられない印象を持ったのは、中学時代に見た「失われた地平線」という英国映画だった。というのは、ヒマラヤ山中に不時着した英国の外交官らが、山中の不思議な不老不死の国に連れられていくストーリーだったが、そのヒマラヤの雄大で美しい山容と大氷河が、あまりにも強烈だったからだと思う。


 


 度肝を抜かれて驚いたのは、戦時中に催された戦車大博覧会であった。戦時中とはいえ、日本の陸軍のご自慢の戦車がずらりと並び、圧倒されたものだ。

 甲子園球場は、いまでは野球に使用されることがほとんどだが、時にはコンサートや大観衆を集める催事に使われることもある。しかし、何といっても本来は野球場で、昭和11年(1935)に誕生した阪神タイガース(当時は大阪タイガース)のホームグラウンドでもあり、夏は朝日新聞主催の全国高等学校野球選手権大会が催され、春には毎日新聞主催の選抜高等学校野球大会が開催される野球の聖地といえるだろう。最近は野球ファンに圧倒的に女性が増えたことも、甲子園球場は喜んでいるにちがいない。


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ソース:岳人 2015年 01月号 [雑誌]
藤木高嶺「山に生きる父と子の170年」



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2015年2月2日月曜日

「どうするか」ではなく「どうしないか」 [権藤博]


元・横浜ベイスターズの監督、権藤博(ごんどう・ひろし)は当時四番だったローズに、こう言われたことを今も覚えているという。

「このチームは誰が監督をやっても優勝できる。ただし、監督が何もやらなかったから優勝できたんだ」

1998年、権藤博は横浜監督として日本一になった。



権藤は語る。

「当時のチームは、私が何かいう必要がなかった。キャンプでの練習時間は短かったのですが、練習開始前には主力選手たちがランニングを終えている。全体練習後も、それぞれが自主トレに向う。私はその姿をホテルの窓から見ていました。もし、誰も自主的に練習をしないようなら、『同じ練習をやっとったんじゃ、ジャイアンツには勝てやせんぞ!』と言うつもりだったんですけどね(笑)」

権藤は続ける。

「野球をやるのは選手です。そこを履き違えてはいけない。監督というのはどうしても、自分が思った通りの野球をしようとして、結果的に選手の邪魔をしてしまう。監督が仕向けなくても、プロの選手たちはやるんです。だからこそ監督は、『どうするか』ではなく『どうしないか』を考えないといけない。とくに戦力が整っているチームの監督ならば、なおさらです」





その権藤が「何もしない監督」として挙げるのは、ソフトバンクの前監督、秋山幸二。

「彼は現役時代センターでしたが、監督になっても”センター目線”を変えなかった。最後方からジーッと全体を見渡しながら、どんなに拮抗した試合展開でも、落ち着いた表情を保っている。その姿勢を貫くことで日本一のチームをつくり上げましたし、あれだけ監督がどっしりしているから、選手も働けるんです」






ソース:Number(ナンバー)867号 Face of 2014 写真で振り返る2014年総集編 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
Number Opinion「ずば抜けた戦力を抱える中で、”何もしない監督”になれるか」権藤博



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負け犬から謙虚な人へ [ブライアン・オーサー]



「負け犬」

現役時代のブライアン・オーサーは、そう呼ばれ続けた。



地元カナダ開催のカルガリー・オリンピックの男子フィギュアスケート。

頑なにトリプルアクセルにこだわったブライアン・オーサーは、ボイタノとの「ブライアン対決」で熱戦を繰り広げたが、僅差で敗れた。

―― オーサーは当時の映像を20年間見ることができなかったという(Number誌)。







そして時代は流れた。

選手生活を終えたブライアン・オーサーは、コーチへと転身した。新しいスケートファンは、ブライアン・オーサーを羽生結弦の、キム・ヨナのコーチとして知っているはずだ。コーチとして「オリンピック2連覇」を果たした人物として。

―― ソチ五輪で羽生結弦が優勝したことで、やっとブライアン・オーサーは解放された。そして、彼がたどり着いた境地こそが「謙虚の姿勢」。彼は誰よりも強い、教える人になったのだ(Number誌)。



”ちょっと謙虚すぎやしないかい? ブライアン・オーサーよ。(現役時代)氷上のあなたは、いつも陽気。そして、自己顕示のオーラを全身から放ちながら、観客との一体感を誰よりも愉しんで滑る男だったよな(幅允孝)”

本書は、羽生結弦との子弟対談で幕を開ける。










ソース:Number(ナンバー)869号 錦織圭のすべて。全豪OP直前総力特集 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
Book Sommelier 「教えるという行為に悩む人へ」



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