2016年4月23日土曜日

「ぼくの仕事ですから」 [堀江翔太とスーパーラグビー]



サッカーでは、なかなかゴールキーパーが決まらないことがある。誰もやりたがらないからだ。小学生ならなおさら、そうだろう。

だから堀江翔太(ほりえ・しょうた)は手をあげた。

堀江は言う。

「FW(フォワード)をやりたかったのに、GK(ゴールキーパー)をやる人がいなくて。それで仕方なく手をあげたんですよ。誰もやらないのは申し訳ないと思って」



のちにラグビー日本代表、不動の背番号2となる堀江翔太。

そのはじまりはサッカーだった。Jリーグのヴェルディにあこがれ、幼稚園からはじめた。そして小学生のサッカークラブでゴールキーパーに志願したのだった。誰もやりたがらないGKに。

「そしたら、シュートをどんどん止めちゃって(笑)」



ラグビーと出会ったのは小学5年生。

地元、吹田(すいた)のラグビースクールに誘われた。

堀江は言う。

「身体が大きかったのでチヤホヤされました。次の週には、ルールも知らないまま試合。ボールをもてば抜けるので、おもしろくて」



身長175cm、77kg。

大きな小学生だった堀江翔太は、

「堀江にボールをわたせばトライ」

であった。



中学ではバスケ部にはいった(南千里中学校)。

ラグビーのスクールは日曜だけだったので、平日はバスケットボールにいそしんだ。ポジションはセンター。体力と技術のみならず「献身」においても群をぬいていた。

チームメイトだった土屋健一は言う。

「堀江は大黒柱。1年から主力でした。ちかくの強豪中学の先生が試合中、『ホリエがきたー』と叫んでいたのを覚えています」



とあるバスケの試合で、堀江はじつに献身的に、こぼれ球をひろってはシュートを決めていた。その挺身ぶりを、応援にきていたチームメイト土屋健一の父は思わずほめた。

すると堀江は一言。

「ぼくの仕事ですから」

その言葉に、寿司屋の大将、土屋健一の父(毅)はぐっときた。

大将は言う。

「あれからざっと15年。15歳かそこらだった子供(堀江翔太)の言葉を、わたしが使わせてもらっています。お客さんがたてこんで、てきぱきと寿司をにぎり、さすが、とほめられると、『ぼくの仕事ですから』。この言葉を口にするたび、(堀江の)『使用料10円』なんて頭をよぎる(笑)」

土屋健一は言う。

「(堀江は)自分をまげない。シューズもみんなが最新のアシックスなのに、古い型のナイキ。彼がギターをひくのを知ってますか? 流行のJポップやヒップホップには目もくれず、一貫して山崎まさよし。まったく流されない」







高校は、府立の島本高校をえらんだ。

堀江は言う。

「兄が私立の大学にすすんだこともあり、公立でラグビーの一番つよい島本にきめました」

ラグビーの強さでは私学が上回っていた。学力的にも、もっと上を目指せた。進路指導でも「それでいいのか」と諭された。

しかし堀江の決意は揺るがなかった。

「まったく他は考えていません」

バスケにも誘われた。だが断った。

「ゴメン、俺はラグビーやから」



高校3年、堀江翔太をようする島本高校は、花園予選で決勝に進出。

しかし、東海大学付属仰星にやぶれた。

当時の島本高校の監督、天野寛之はいう。

「負け惜しみではないんですけど、あそこで仰星に負けてから、堀江の生活はすべて良いほうへ進んだのかな、と。悔しさがあって、ここまできた。高校日本代表になれなかったこと、花園に出られなかったことが、あいつのコンプレックスになったんです。そして、それが支えになった」

堀江は言う。

「コンプレックスはありましたよ。練習がきつくなると、『いつか、あいつらより上にいくねん!』と思いながら走ってました」

それでも堀江の「コンプレックス」はささくれだたなかった。どこか飄々としていた。



帝京大学へは、入学金免除ではいった。

大学をでると、トップリーグの誘いを断って、ニュージランドに渡った。ナンバー8からフッカーに転向したのは、かの地でだった。骨格からして、そのほうがチャンスが広がると考えたのだ。

こうして「ほかに類のない2番」が誕生した。



2008年、三洋電機(現バナソニック)に加入。

2011年、日本代表としてW杯に出場。

2013年、スーパーラグビーのレベルズに入団。



順調におもわれる堀江のキャリア。

堀江は言う。

「レールを敷いてもらい、自分はチョイスをしただけ。会う人がみんなよかった」



そして2015年のW杯。

五郎丸は言う。

「もしぼくが『W杯のベスト15』を選ぶなら、堀江選手をえらびます」

リーチマイケルは言う。

「フィールドプレーもすごく良いし、それより今回の日本代表の一番の勝因である『スクラムとラインアウト』、その両方とも(堀江選手が)中心としてやってたから。ものすごくプレッシャーがかかる場面で成功率も高かったし。マイボールスクラムは100%で、ラインアウトも88%を超えると良いといわれるなかで、93%もとった。フィールド外のリーダーシップも抜群だし」


堀江翔太はスクラム最前列のフッカーを務め、なお最後尾からフィールドを俯瞰するように考え、読み、動く。かわして、蹴って、抜いてみせ、いざ必要ならば吹き飛ばす。

ジャパン不動の背番号2は、南アフリカ戦金星の最大級の功労者であり、日本ラグビー界が、すこしも迷わず、世界に提出できる才能である。

(Number誌)






そしてスーパーラグビー参戦。


いまや世界120カ国で放映されるSR(スーパーラグビー)は、各国代表選手が選抜される場としての役割をもつ。

トップクラスの各国代表選手はもちろんのこと、代表入りを目指す若手もしのぎを削る。また、かつて代表で活躍した、いぶし銀のベテラン選手も加わってバラエティーに富んだチームがそろっている。

昨年のW杯イングランド大会では、ベスト4までを史上はじめて南半球の国が独占した。この事実とSR(スーパーラグビー)の存在は無関係ではないだろう。

そして今年(2016)、南アフリカ相手に”世紀の番狂わせ”を起こした日本の「サンウルブズ(Sunwolves)」がSR(スーパーラグビー)に参戦する。はたしてこんな日が来ると想像していたラグビーファンはいただろうか。

日本のプロチームが海外のリーグに打って出る。野球だってサッカーだって、そんな計画はなかった。

(Number誌)






じつは日本のSR(スーパーラグビー)参戦には、一悶着あった。

それは当時、日本代表のHC(ヘッドコーチ)であったエディー・ジョーンズが深く絡んでいた。


エディーは選手たちに、意気揚々とSR(スーパーラグビー)参戦を高らかに宣言した。

「SR(スーパーラグビー)で戦い、本当に強いジャパンをつくるんだ」

沈黙が部屋を支配した。

無言はさまざまな意味をもつ。ある選手は「世界への道がひらける」と思った。しかしある者は、その言葉をまるで歓迎する気になれなかった。

(Number誌)


廣瀬俊明は「選手の待遇」が不明瞭であることに不安をおぼえた。

「SR(スーパーラグビー)で選手生命を棒にふるようなケガをした場合、補償されるのか? どのような条件で参加するのか交渉しなければならない」

廣瀬はIRPA(国際ラグビー選手会)に助けをもとめた。

「他国のプロ選手たちの待遇はどうなっているのか? 補償や年金は?」


ところが、こうした廣瀬たち(堀江翔太、小野晃征)の動きが、エディーの耳にはいった。

エディーは激怒した。

「オレに隠れて、こそこそ何やってるんだ!」

SR(スーパーラグビー)参戦は、2019年日本W杯開催にむけてのマスタープランの一部だと認識するエディーは「裏切られた」と感じた。

「SR(スーパーラグビー)でプレーできるのに、どうしてお金のことなんか気にしてるんだ。プロのラグビー選手として、こんな栄誉はないのに、条件だの何だの四の五の言うなんて信じられない。しかもオレに黙って海外と交渉するとは。

断じて許せない

廣瀬には怒りのメールをおくった。


廣瀬はベッドのなかで、まだ眠い目をこすりながらメールをチェックした。差出人のひとりに「Eddie Jones」の名前があった。メールは午前4時に送信されていた。液晶画面にローマ字が浮かびあがる。

「あなたのおかげで、チームはめちゃくちゃです」

廣瀬は凍りついた。

(Number誌)






エディーの怒りはおさまるところを知らなかった。

そしてついに、SR(スーパーラグビー)のディレクター職を蹴った。それでも怒りはやまず、W杯がおわれば、日本代表のヘッドコーチの任をも退くことに決めた。


エディーの口から日本を離れることを聞いたとき、廣瀬には想像もしていなかった感情が押し寄せてきた。感謝の念が芽生えたのだ。

主将をまかされ、主将をはずされた。そして、チームを空中分解させている下手人とまで名指しされた。しかし、ここまでやって来れたのもまた、エディーのおかげなのだ。

日本代表がW杯にむけて最終準備をしていたこの時期、SR(スーパーラグビー)の選手登録期限が8月31日にせまっていた。廣瀬たちは少しずつ条件をととのえ、契約までの道筋をつけた。あとは個々の選手がどう判断するかである。

しかし期限の数日前には、関係者から

「メンバーをそろえるのはもう無理。撤退しましょう」

という声がきこえてきた。しかし最終的にはトップリーグの各チームの理解と協力をえて、どうにか陣容をととのえることができた。

チームの名は「サンウルブズ(Sunwolves)」に決まった。

(Number誌)


ラグビー愛好者は、サンウルブズの選手リストに

「堀江翔太=パナソニック」

の字のならびを見つけて安堵した。

「よくぞ身を投じてくれました」

と。


歴史的参戦のチームを束ねるのは

やはりこの男だ。


「サンウルブズ」初代キャプテンは

世界が認めた”トータル・フッカー”

ショウタ・ホリエ(堀江翔太)

(Number誌)


堀江は言う。

「代表の合宿中に、『選手があつまらなかったら日本のチームはなくなるよ』という話があって。そうなると、次に入れるのはいつか? もう一生ないんではないか、と。僕らはいいとしても、ユース年代の選手の目標がなくなってしまう。それにフミ(田中史朗)さん、リーチ(マイケル)などスーパーラグビー経験者がどんどん海外にでていく。ここで僕までいなくなると…」



小学校のサッカーチームで、誰もやりたがらなかったゴールキーパーをやったこの男は、SR(スーパーラグビー)でもまた「無償の使命」を果たそうとしている。人間には、野心や功名とはまったく無縁の「なにか」が必ずある。

きっと堀江はこう言うはずだ。

「ぼくの仕事ですから」






(了)








ソース:Number(ナンバー)896号 SUPER RUGBY 2016 スーパーラグビー開幕 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
堀江翔太「僕の仕事ですから」



関連記事:

酒とラグビーと、大野均

エディーの課した「人生最大の負荷」 [湯原祐希]

「奇跡じゃなくて必然です」日本vs南アフリカ [2015ラグビーW杯]




1 件のコメント: