2014年6月10日火曜日

攻めてこそ [ザッケローニ]




無名だが情熱家の30歳

「この若造にチャンスをやってくれ」

ブルーノ・ロッシは自身の後任監督に、ザッケローニを推した。



ザッケローニ?

プロ選手にもなったことがなかった若造だった。

そもそもイタリアでは、プロの監督になるのが非常に困難。ライセンスを取得できるのは年間わずか60名ほど。そのほとんどが元プロ選手に割り当てられる。



それでもロッシは、ザッケローニに「ASチェゼナティコ」を託した。

すると期待通り、ザッケローニは最下位だったチームを再建。リーグ降格を救うことになる。






そしていよいよ、ザッケローニがその手腕を発揮する時がくる。

それは今でも「ルーゴの奇跡」として語り継がれるものである。

弱小チーム「バラッカ・ルーゴ」を任されたザッケローニ。万年5部リーグだったルーゴを、2季連続でリーグ昇格させることに成功し、チームを50年ぶりに3部リーグへと押しあげた。



以後、ザッケローニの快進撃がつづく。

1998年、ACミランの監督に就き、1年目でスクデッド(リーグ優勝)を獲得。その後、インテル、ユヴェントスと、イタリアで「ビッグ3」と呼ばれるクラブを率いる経験を積んだ。

これら3チームすべての監督になったのは、ジョバンニ・トラパットーニ以来であった。とはいえ、トラパットーニとザッケローニ、この2人の戦術はまったく対照的だった。

羊飼いのごとく、独特の音色をだす指笛で選手を呼んだというトラパットーニ。彼はイタリア伝統の堅い守備を重視する名将だった。



それに対して、ザッケローニは守備一辺倒を拒んだ。

彼はイタリア伝統の超守備陣形であるカテナチオ(錠前)よりも、攻撃重視のフォーメーションを好んだ。そんなザッケローニの敷く陣は、イタリアでは常識破りとされるものだった。






アルベルト・ザッケローニ

言わずもがな、現日本代表の監督である。












■攻めてこそ



彼は就任前、南アフリカW杯で日本代表の戦いぶりを見ていた。そして日本に好印象を抱いた。

「なによりも選手らが献身的だった」

だが、その戦い方には不満がのこった。

「守りすぎている」



経験深いザッケローニの目には、日本が若いチームにも映った。

というのは、チームのスタイルに文化が感じられない。つまり、監督次第でいかようにもそのスタイルは変わりえた。

ところで日本代表は1998年、初出場のフランスW杯以来、徹底して守りを固めてきた。強豪国の高さとスピードに対抗するために、ひたすら自陣のゴール前を塗り固めてきた。失点を少なくすることが、何よりも最優先とされてきたのである。



しかし、守りの先になにがある?

確かに、目先の勝ちは得られるかもしれない。

だが、それが求めるものなのか?



前回の南アフリカW杯、日本代表は大会前、攻めの姿勢に転じようとしていた。だが、直前の強化試合での連敗をうけ、やむなく守備的な戦い方に舞い戻った。その結果、グループリーグは突破できたものの、決勝トーナメントでは1点も奪えずに敗退した。



ザッケローニの見る、新生・日本代表の未来は明白であった。

「攻めてこそ」

成長と呼べるものは、その先にこそあるように思われた。






■10m



日本代表の監督になったザッケローニは、こう宣言した。

「われわれが目指すのは、スピーディーで攻撃的なサッカーだ」



その陣形は今までになくコンパクト。

「10mの距離を維持しよう」

ザッケローニは代表合宿で、繰り返し選手らに言い聞かせた。



10mとは?

ザッケローニの指示する基本陣形は、3本ライン。

1本目が攻めのフォワード、2本目が中盤のミッドフィルダー、3本目が守りのディフェンス。ピッチを横から眺めると、ちょうど「川」の字のように3本のラインがきれいに並ぶ。

それぞれのライン間の距離が10m。全体では20mという超コンパクトな布陣であった。



この新たな日本の陣形を、懐かしく眺める人物がいた。

ドリアーノ・タンブリーニ

かつて「ルーゴの奇跡」を起こしたザッケローニと、助監督として共に戦った人物だ。

タンブリーニは昔を思い出す。「ザッケローニは、ディフェンスの選手を『ひも』で結んで、同じ距離感で動く練習をさせたんだ。その次はミッドフィルダーもつないでしまった。全員で連動する練習だった」

当時、選手として活躍したパオロ・ポッジは言う。「ザッケローニに指示された通りに動かないと怒られるんだ。『ダメだ。もう一回やり直せ』とね。たった2mの違いでもね(笑)」



陣形をコンパクトにすることは、ザッケローニにとって強豪を相手にする定石だった。

というのも、1対1で敵わない相手でも、組織が連動して当たれば崩せることを身をもって知っていたからだった。それが「ルーゴの奇跡」を起こした秘密でもあった。






ところで今回のブラジルW杯、FIFAランキングでいえば日本は参加国中、下から数えて4番目の46位。ランキングの順位がどれほど実力を反映しているかを差し置いても、日本の劣勢にかわりはない。

ならば日本の勝つ道は?

ザッケローニは言う、「日本には、メッシやロナウドのような一騎当千の選手はいない。だから、各ポジション間の距離を狭めて、全員でコンパクトに攻めることが大事なんだ」

陣形をコンパクトに保つことで、そのパス回しはより正確に、よりスピーディーに相手を翻弄できる。さらにディフェンダーまでも攻撃参加が可能になる。



チーム一丸となってゴールを目指す。

失点を恐れずに全員で攻め上がる。

ザッケローニの示す新生日本のサッカーは、どんな強豪にも怯まず果敢に攻め抜く「超攻撃的なサッカー」だった。






■アジア杯



ザッケローニの行く道は、とりあえず順調だった。

初陣となったアルゼンチン戦。1−0の大金星。

初の国際大会となったアジア杯。優勝。



しかし優勝したアジア杯、じつはそう簡単に事は運ばなかった。

「直前合宿は、天皇杯の関係で招集可能な選手は10人ほど。悪いことは重なるもので、雷鳴がとどろく嵐にみまわれ、強風でコーンも飛んでしまう有様。ろくな準備もできなかった(原博実)」

初戦、格下のヨルダンと、終了間際にどうにか引き分けるのが精一杯だった。



「そんな状況にも関わらず、ザッケローニ監督は落ち着いていました」

当時のことを、原博実は振り返る。原は、欧州4ヶ国、南米4ヶ国を駆けずり回り、「最高の監督」としてザッケローニを日本に連れて来た立役者だった。



原が強く印象に残っているのは、準決勝の韓国戦。

その当日の朝、日本人スタッフは因縁の日韓戦にピリピリとしていた。どこか余計な気合いが入ってしまって、チーム内にも普段とは違う異様な空気が流れていた。

そこに現れたザッケローニ監督。いつもと同じように朝食をとり、いつもと同じようにスタッフと歓談。そして、さらりとこう言った。

「韓国と日本がやれば、絶対に日本のほうが上だ。自分たちのやり方を貫けばいい」

泰然自若。そのザッケローニのあまりの落ち着きぶりに、選手やスタッフらも平常心を取り戻したという。



PK戦の末、日本は宿敵・韓国を破った。

決勝も延長戦の末、オーストラリアを下した。

そして4度目のアジア王者になった。



「ザッケローニ監督は、常に自然体なのです」

側近の原は、そう語る。

「さすがは修羅場をかいくぐってきただけのことはあります」






■コンフェデ杯



ザッケローニは言っていた。

「W杯出場が決まるまでは、固定メンバーで戦う」

その根幹がつくられたのが、アジアカップ優勝のメンバーだった。



メンバーが固定化されたおかげで、その後のチームの意思疎通は深まり、ザッケローニの目指すコンパクトな陣形にも磨きがかかっていった。

その成果が試されたのが、昨年6月にブラジルで行われたコンフェデレーションズ杯であった。日本はこの大会、ブラジル、イタリア、イタリアの順にあたった。



日本のコンパクトな一丸となった攻めは、強豪イタリアとの試合に最もよく現れていた。

イタリアは伝統的にカテナチオ(錠前)と呼ばれる強固な守備をほこる。その堅い殻を日本の攻めは3度も打ち破った。一時、3-0とイタリアを突き放したのである。

だが、試合には敗れた。最終スコアは3-4。敗れはしたが、日本の奮闘ぶりは際立った。パス成功率(448 - 282)、ボール支配率(54% - 46%)ともに、日本がイタリアを凌駕していた。



「スピーディーで攻撃的なサッカーに驚いた」

かつてイタリア代表を率いたアリゴ・サッキは、素直に日本を讃えた。

「ザッケローニは、これまでにないスピードで日本のサッカーを進化させている」



そうは言われても、負けた悔しさは残る。

母国に敗れた後、ザッケローニは言った。

「日本はいい戦いをした。だが、これだけの試合をしたら負けてはダメだ。われわれはボールを回して、勝ちに行くんだ!」






■解任論



コンフェデ杯を前に、日本代表はブラジルW杯へのキップを確定させていた。

そして始まった、固定メンバーの入れ替えが。

W杯出場というノルマを達成したからには、さらなる進化を求める必要があった。



しかし、それは裏目にもでた。

「古参組と新参組は、どこかで歯車が合わなかった」と、原は言う。



新たなメンバーを加えた日本代表は、セルビア、ベラルーシと連敗。

ザッケローニ監督には「解任論」までがメディアに突きつけられた。

就任以来、はじめての逆風だった。



だが問題は、新メンバーとの不調和ばかりではなかった。

常任メンバー間で、攻撃と守備のバランスも失っていた。

もともと、ザッケローニの指示した超コンパクトな陣形は、諸刃の剣であった。みんなで攻めれば当然、一発のカウンター攻撃に弱くなる。最終ラインのディフェンダーまでが攻撃に参加するのだから、その裏はガラ空きになってしまうのだった。



日本代表の守備の要、吉田麻也は悩んだ。

「いけいけドンドンで攻撃ばかりしても、絶対うまくいかない…」

実際、吉田の空いた背後は敵に狙われやすかった。ウルグアイ戦では4失点。大量失点による完敗だった。そして、それがセルビア、ベラルーシの連敗にまで尾を引いていった。



それでも、エース本田圭佑は強気だった。

「やれれたからといって、じゃあ次は引こうかっていうのはナンセンス。僕らはこれで正しいと思ってるんだから、このやり方を貫く。信念を曲げずに、このやり方を貫く。全然ビビらずに前に出ていった麻也(吉田)を、俺は誇らしい」






■亀裂



負けたセルビア戦

日本の攻撃陣と守備陣の間は、ときに40m以上も離れていた。それはザッケローニの指示する20mの2倍以上の広がりだった。失点を恐れるあまり、守備陣はいつもよりグッと引いてしまっていた。その結果、3本ラインの間には明らかなスペースが生まれ、そこを敵に自由に動かれてしまったのだ。

ディフェンダーの吉田は言う。「ずるずるとラインが下がって、気づいたらペナルティーエリアの中に入っていることが多かった。ゴール近くに下がるほど失点の危険は増すので、どれだけラインを押し上げられるかが重要なのに…」



ザッケローニは不満を隠さなかった

「腹が立ったというより、ガッカリした。選手たちはこれまで目指してきたプレーをやらなかったのだ」



攻撃ラインと守備ラインの間に生まれた亀裂。

それは広がるばかりのように思えた。そして心の距離までが…。

吉田は振り返る。「この3年半やってきたなかで、一番最悪でしたね。一人一人の距離感がよくなくて…」



かつて日本代表は、似たような危機に見舞われたことがあった。

それが4年前、南アフリカW杯の直前だった。大会前の強化試合、日本は連戦連敗。その末に、それまでの攻撃的なサッカーを封印して、急遽、守備を固める戦いに戻さざるを得なかった。

その苦い経験を長谷部誠は、よく覚えている。「直前になって守りに変更せざるを得なかったというのが、やっぱり悔しくて…」



W杯をどう戦うのか?

現代表には、4年前と同じ課題が突き付けられた。

攻め続けるのか? それとも守りに戻るのか?






■背骨



緊急の選手ミーティング



最年長の遠藤保仁が口をひらいた。

「日本は守り勝つチームではない」

長友佑都もそれに続いた。

「目先の結果に左右されるべきではない。自分たちのサッカーを貫くべきだ」



エース本田圭佑も言った。

「守りに入ったら今までと何も変わらない。大事なのは、自分たちは『どうありたいのか?』だ」

吉田は腹を決めた。

「ドン引きしても、行けるとこまでは行けるだろうけど、その先はない」



日本代表の背骨は、もはや明らかだった。

「攻めてこそ」

ぶれかけたその信念は、困難に遭ってかえって正された。











■快進撃



その一ヶ月後

日本代表は、最後の海外遠征にのぞんだ。相手はオランダ。

攻める意識で前掛かりになった日本。その上がりすぎたディフェンスラインの裏をオランダは見逃さない。日本はあっという間に2点を奪われた。



それでもなお、吉田はディフェンスラインを上げ続けた。

「裏をとられてもいいから、ビビらずに行く。出てきた問題はそれから修正すればいい」

果敢に前線にまで攻め上がる吉田。それが攻めのスイッチとなり、パスがつながりはじめた。チーム一丸となった攻め。ゴールキーパー以外の10人すべてが攻撃に絡んでいった。そこには、強豪国を恐れる姿勢は微塵もなかった。



何人のパスをへたのか、最後には大迫が決めた。新参と古参のイメージは見事に調和していた。

そして本田が同点弾をオランダゴールに叩き込んだ。

攻めに攻めた日本。スコアは2-2と、前回W杯準優勝のオランダと引き分けた。



つづくベルギー戦でも、チームの一体感はゴールを生み続けた。

3-2でベルギーを退けた。

試合後、本田は言った、「自分たちのサッカーをやれた」と。






■攻め抜く



今年5月12日

いよいよブラジルW杯へむけた代表メンバー23人が発表されることとなった。



400人以上の報道陣、数10台以上のテレビカメラを前に

ザッケローニ監督は、いつもと変わらず落ち着いていた。

そして、淡々と選手の名前を読み上げていった。



発表されたのは、いずれも攻撃力のある選手たちだった。

23人中、攻撃陣であるフォワードが過去最多の8人。



ザッケローニは言った。

「W杯では強豪相手でも怯むことなく、自分たちのサッカーを貫く」

攻め抜いて勝つ。それが自分たちのサッカー。この4年間、ザッケローニはサッカー文化のなかった日本に、独自のスタイルを築き上げようと尽力してきたのだ。



その意図を共有する長友は言う。

「今回のW杯では、これからの日本サッカーが目指していく道を示せるよう、そういう戦いをしていきたいと思う」



いざブラジル

日本代表は、その結果とともに、その姿勢を問われる。













(了)






出典:
Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 7/17号 [雑誌] 「ザッケローニの1351日」
NHK特集「攻め抜いて勝つ 日本代表 新戦法への挑戦」



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