2013年5月26日日曜日

無名からカリスマへ。本田圭佑 [サッカー]




「なぜ、日本人はそんなに『ホンダ』に興味があるんだ? ロシア人は大統領にすら興味がないぞ」

ロシアのサッカークラブCSKAのスルツキ監督は、「本田圭佑(ほんだ・けいすけ)」のもつ異常な人気に首をかしげる。

スルツキ監督がホンダの実力を認めていないわけではない。本田の強さとインテリジェンス(頭脳)を誰よりも認め、「攻撃の自由」を本田に与えているのは、彼本人なのだから。



それにしても、なぜ日本人は、そこまでホンダに熱を上げるのか?

それが、ロシア人であるスルツキ監督には理解しきれないようである。










◎カリスマ



「もうカリスマでしかないですよね。『これぞサッカー選手』って感じで。僕が子どもだったら絶対に憧れる。昔でいうとカズさん(三浦知良)、ヒデさん(中田英寿)、今は圭佑(本田)」

そう言うのは、同じ日本代表のユニフォームを着る「今野泰幸(こんの・やすゆき)」。彼は本田の4つ年上である。



本田が日本代表に初選出された時、今野はすでに代表に定着しつつあった。

本田の初選出は、2006年11月のサウジアラビア戦(アジアカップ予選)。まだプロ2年目のこと。

だがその頃の本田からは、今野が「カリスマ性」を感じることはなかった。カリスマどころか「それほど印象にも残っていない」と今野は言う。



その2年後の2008年。本田は北京オリンピックのメンバーに選出される。本田を起用したのは「反町康治」監督(現・松本山雅)。

だがやはり、「本田を初めて見た時は、そんなにスーパーだとは思わなかったなぁ…」と反町監督は振り返る。

「次元が違うな、とか、手のつけようがないな、という存在じゃなかった。小野伸二とかに比べると、スーパーな感じはしなかったから」



反町監督も、今野同様、過去の本田を必ずしも「ズバ抜けている」とは思っていなかった。

当時の本田は、とても「カリスマ」などではなく、どうしても小粒な印象が否めなかった。






◎我



「でも、強い我はあった」

反町監督は言う。

「ほら、日本人選手ってヨーロッパに比べると、我が弱いところがあるだろ。でも本田の場合、強い我があった。そして我を持ちつつも、人の意見に耳を傾ける柔らかさもあった」



人懐っこいし、話も聞く。なおかつ自分の意見も言ってくる。

北京オリンピックの頃の本田に、反町監督はそんなイメージを持っていた。



その北京五輪、日本代表は3戦全敗で1次リーグ敗退と、まったく振るわずに終わる。

そしてこの敗戦の責を一身に負ったのは、本田だった。大会前に彼が発した「金メダルを獲る気でいかなきゃ、勝てるわけがない」という言葉が格好の餌食となり、その結果、本田は「戦犯扱い」されることとなってしまう。



本田の柔らかさは敵を作ってしまうことに決して無頓着ではなかった。だが、「強い我」の発する「破天荒な物言い」が、心ならずも敵を作ってしまうことも少なからずあった。

生まれてしまった敵は、もうどうしようもない。ならば、それを「自分を高めるエネルギーにしてやろうじゃないか」。本田はそんな男だった。



「逆風」が吹き付けるたびに、本田は変わっていった。

そして、バッシングを乗り越えるたびに、彼は「カリスマというオーラの衣」を一枚一枚まとっていくことになる。

心の芯にあった強い我は、そのカリスマの源となっていく。






◎変化



「圭佑(本田)の存在感が増してきたのは、オランダに渡って結果を出し始めたくらいから(2009)だと思います」と日本代表の今野は言う。

日本Jリーグの名古屋グランパス時代、本田は必ずしも「点を獲る選手」ではなかった。

だが、ヨーロッパ(オランダ・VVVフェンロ)に行って変わった。「得点しなければ認められない」ということに気づき、短期間でスタイルを変えたのだった。



本田がVVVフェンロに移籍した年(2008)に、チームはまさかの2部リーグへの降格。それでも本田は翌年も残留。

1部昇格のかかった翌シーズン、本田は開幕から攻撃の軸となりチームを牽引。首位独走の原動力となり、シーズン途中からはキャプテンを任されるまでになる。



「絶対に優勝します」

本田は試合後、たびたびそう口にしていた。まるで自分自身に言い聞かせているかのように。

結果、VVVフェロンは2部リーグを制覇。1部へ昇格。本田は16ゴール13アシストを挙げ、2部リーグにおけるMVP(最優秀選手賞)を受賞した。



かつての北京オリンピックにおける惨敗。そして、海を渡ったオランダでの、まさかの2部落ち。

それらの挫折に、本田の我は屈しなかった。むしろそれらをエサとするかのように、自らの強さを強めてった。

本田はサファリ系の肉食動物がたいそう好みで、ライオンがサバンナで狩りをする様子をYouTubeなどで熱心に見て、チームメイトにも見るように勧めるほどだというが、それはまた、本田自身のイメージの一つでもあった。










◎南アフリカW杯



挑まれるたびに強まる、本田の闘争本能。

時にはあえて、自らの言葉で自分を追い込んでいく。



2010南アフリカW杯

初戦カメルーン戦、その前夜

「オレ、決める気がするんだよね」と本田は、今野に言った。

だが今野は、「なんでそんなこと言って、自分にプレッシャーかけるんだ」と不審に思ったという。



そして迎えたカメルーン戦

前半39分、本田の予言は現実となる。決勝点を挙げたのは本田だった。

その本田は、FIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ(その試合での最優秀選手)」に選出される。







「とにかく、あの時の圭佑(本田)はメチャクチャ頼もしかった。言葉やプレーでチームをぐいぐい引っ張っていた。まだレギュラーになったばっかりだったのに」と今野。

有言実行

自分の決めたことは絶対にやり遂げる。絶対に自分が勝利に導くんだ。そんな強烈なオーラが、本田の毛穴の隅々から発せられているかのようであったという。



第3戦のデンマーク戦

ゴールから37mもの距離のフリーキックを、本田は無回転シュートで決めた。またもや「マン・オブ・ザ・マッチ」。決勝トーナメント進出を決めた。

決勝トーナメントにおいて、日本はパラグアイに敗れることとなるのだが、それでも異才を放ち続けた本田。敗戦チームとなったにも関わらず、本田は異例の「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出されている。










◎市場価値



「ホンダが南アフリカW杯で2ゴールを決めたこと自体は、それほど驚かなかった」

CSKAモスクワのスルツキ監督は、そう言う。

本田は南アフリカW杯の前に、VVVフェロンからCSKAに移籍していた。移籍金600万ユーロ(約8億円)、4年契約である(〜2013末)。



「だが本当に驚いたのは、『W杯後の変貌ぶり』だ」とスルツキ監督。

「自信を深め、野心を燃やし、『もう一つ上の次元の選手』になっていたんだ。W杯後、ホンダは『世界の主役』になれることを確信しているかのようだった」

このW杯後に大化けした本田に、イタリア・セリエAのACミランが1,000万ユーロ(約13億円)の移籍金をロシアCSKAに示したのは有名な話だ(当然、CSKAは断った)。



「シュートが正確かつ強力で、フィジカル(肉体的)に優れ、ピッチを正確に見渡す目をもっている。そして頭も良い」

いまや本田の市場価値は、1,500万ユーロ(約20億円)とまで言われている。










◎ロシアのチームメイト



本田の選んだ「CSKAモスクワ」というチームは

「力のある若手を見つけてきて、プレーの場を与えて成長させる」

それが流儀だという。



この点、まったくの無名、そしてカリスマもないような状態から頭角を現してきた本田にとっては、またとない場所の一つでもあった。

本田が移籍を決めた時には、まだ欧州2部リーグの優勝実績しかなく、W杯での大活躍もその後の話だ。

いわば、当時の本田はヨーロッパでは「ほぼ無名」だった。



CSKAのスルツキ監督に言わせれば、本田は「ロシア語も話せない」。チームメイトとの会話も、「英語のグループ」に偏りがちになってしまう。

それでもチームメイトの本田に対する信頼は、極めて厚かった。



「言葉が通じないと黙っている時間がなるけど、ホンダはサインを頼んだら絶対してくれるし、すごく優しい」とロシア代表のMFザゴエフは言う。

南アフリカ出身でチリ代表のMFゴンサレスは、ラテンの気質が大阪の感性と呼応するのか、「ホンダはチームメイト以上の存在、親友だよ」と話す。



ただ、本田のまとう「鬼気迫るオーラ」、それが身体中から発散されている時は、さすがのロシア人たちにも近寄りがたい。

「試合前はホンダに話しかけられないよ! ホンダは黙って集中力を高めるタイプ。邪魔したら怒られるだろ?」と、コートジボワール代表のFWドゥンビアは言う。

だが、このドゥンビアはJリーグにいたこともあるため、日本語ができる。ときおり、本田とは漫才のような掛け合いを見せるのだとか。






◎CSKAモスクワ



今季、CSKAモスクワは6シーズンぶりのリーグ優勝を果たした。

だが、優勝を決めた大一番クバン戦のピッチ上、本田の姿はなかった。右太モモの負傷のため、本田はベンチ外になっていた。



リーグ優勝が決まった瞬間、最上階のVIP席にいた本田は、「スッと席を立ち上がると、口元を少しだけ緩め、小さく拍手した」。

一方では、大はしゃぎするチームメイトたち。そんな彼らに対して、本田はあまりにもクールで、その喜びはささかやもののように見えた。



だが、熱狂するファンたちは、裏口から出ようとするホンダを見かけると容赦なかった。

「チャンピオン! ホンダ! チャンピオン!」

そう大合唱しながら、ホンダの肩でも背中でもバンバンバンバンと叩くのだった。興奮状態が極まり、ことによっては暴動にもなりかねない勢いだ。

それでもホンダは冷静に笑ったままで、手を振りながら、用意されたバンに乗り込んだ。



右ヒザの半月板手術などから、最近の本田はケガに休養を余儀なくされる期間も少なくなかった。その点、今季は南アフリカW杯以降、本田にとっては静かなシーズンの一つであった。

それでも、リーグ優勝というタイトル獲得は、本田の3年半にわたるロシア挑戦の結晶であり、自身にとっても初の欧州一部リーグでの優勝であった。






◎個とチーム



サッカーにおいては、「効率性」と「献身性」という両立の難しい2つの概念がある。

もし「効率性」を求めるのであれば、自分の体力を温存すべく、ムダな体力は使わずに、頭を使いながら洗練されたプレーをする必要がある。どちらかと言うと、本田はそうした知的かつ芸術家肌のプレーヤーである。

一方、「献身的なプレー」というのは、パスが来ないと分かっていてもディフェンダーの裏へとがむしゃらに走り込み、相手を一人で引きつけようとチームに尽くす。まるで日本代表の岡崎慎司のように。



だが、ロシアカップ準決勝ロストフ戦における本田は、「別人であるかのように献身的に動き続けた」。

たとえば見方ディフェンダーの選手がボールをもった瞬間、本田はほぼ必ず、相手の裏のスペースへ走り込みを開始していた。守備の意識も高く、味方がボールを失うや、本田はすぐさま反転。自陣にダッシュで戻る。



「効率的」か「献身的」かというのは、「個」と「チーム」の優先度合いにも起因する。然るべき時の活躍のため、自分の体力の消耗を抑えておくのか、それとも消耗を厭わずに、力尽きるまで走り続けるのか。

2011年のアジアカップ、本田はその狭間にいた。それは、優勝後のコメントに顕著であった。

「とにかく優勝したかったから、チームのためにエゴを捨ててプレーした」と本田は言っていた。



だが一方で、「自分を貫けなかった」と悔しさを滲ませる。

「オレはどこにもいない『オリジナル』になりたい。そうじゃなきゃ、歴史に名前が残らへんでしょ」



チームか、個か?

効率的か、献身的か?

矛盾とも思える2つの概念を両立させること。そうして初めて、歴史に名が残る、と本田は考えている。










◎剛と柔



本田には「剛」の面と、「柔」の面がある。

その切り替えはハタ目にも明らかであり、「剛のホンダ」の時には、漫才の相方ドゥンビアでさえ近づけない。

強い我を宿すその芯は、何事にもブレぬ軸となり、「決めたことは絶対にやり遂げる」。



スルツキ監督でさえ、本田の強さに押し倒されることがある。

スルツキ監督が本田にボランチを命じた時、本田は「トップ下でないのであれば、試合に出さなくていい」と突っぱねた。

結局いまは「トップ下」が本田の定位置だ。



「柔のホンダ」は、大阪人気質そのままの「エンターテイメントの塊」。なにか面白いことを言おうとする。そして彼は、その言葉の表現センスも備えている。

サッカーにおいても、献身的なプレーを厭わなかったり、エゴを封じ込めたりと、芯まではブラさぬまでも、できるかぎりチームや監督の指示に従い、最高の結果に至ろうと尽力する。










◎変われる強さ



「人は変われるんだ、ってことを証明してくれました」

本田の一年下にあたる日本代表「高橋秀人(たかはし・ひでと)」は、そう言う。



「他人からどう思われようが関係ない。自分がどうなりたいかが重要だ」、それを言葉にする本田に、高橋は「強烈な強さ」を感じるという。

「圭佑さんの言葉は、他の選手とはカケ離れている。2ランクぐらいレベルが高い」



「あれはオマーンだったかな。圭佑(本田)さんと佑都(長友)さんの会話が偶然、聞こえてきた…」

昨年(2012)11月のオマーン遠征。練習前の競技場の一室で筋トレをしていた時のことだったという。



「オレ、次の扉、開いたわ」と長友佑都が言う。

すると本田は「オレ、目の前の扉で格闘してるわ」と返す。



本田と長友は同期1986年生まれ。本田はロシア(CSKA)、長友はイタリア(インテル)でそれぞれプレーしている。それにしても、2人の会話は、高橋の住む世界とはずいぶんと異なっているようだった。

「何、この会話、ヤバくない? ドラゴンボールの世界?」

高橋は、一緒にいた権田修一と思わず目を見合わせ、鳥肌が立っていた。







「6月の最終予選のときは、『神』だなって思いましたよね」

今野泰幸の目には、左ヒザの怪我から復帰した本田が一回り大きく見えていた(オーストラリア戦)。

「オレに寄こせ、何とかするから、という感じで、本当に心強かった。なんでもできちゃう」

高橋も「青の代表ユニフォームをまとった時、圭佑さんはメチャクチャ大きく見えるんです」と言う。










◎サラダとラーメン



「ここまでサッカーにすべてを捧げている選手を、私は見たことがない」

ロシアCSKAのスルツキ監督は、本田をそう称える。

「自分のキャリアを高めるために、あらゆることをしているんだ」



今野もまた、本田のこだわりを肌で感じている。それはピッチの外でもだ。

「試合のあとって、疲れてるから、好きなものを食べたいじゃないですか。だけど圭佑は『疲れた身体には、まずサラダからだ』って言うんです」

「この前も、ラーメンが出てきて、おかわりしたら、『今ちゃん、全然アカンわっ』て(笑)」



柔から剛へ、剛から柔へ。

ブラさぬ軸の外側の表情は、自分をそしてサッカーを高めるためならば、他人にどう思われようと構わない。

ときには口をまったく閉ざし、恐ろしく固い殻に閉じ籠る。



今の本田は、まさにそんな時。

「この約2ヶ月間、あらゆるメディアから本田の『声』が消えている(Number誌)」

怪我のために日本代表を離脱。ロシアCSKAからも一時離れた。

CSKAモスクワというチームは、ロシアのお国柄か、機密の管理が極めて厳重。本田はその秘密のなかにある。日本サッカー協会もCSKAに同調する形で、怪我に関する情報は一切漏らしていない。



「柔のホンダは封じ込められ、剛のホンダでバリアを張っている。ここまで本田が口を閉ざすのは、2010年南アフリカW杯以来だ(同誌)」

思えば、本田が世界へとブレークスルーしたのは、その沈黙の南アフリカW杯以降。

また、何かが起きようとしているのだろうか…?






◎無言



春の訪れたモスクワ。

空からはようやく、ぬくもりのある陽も差し込んでくる。



「ひとつだけ…」

Number誌で本田を追う番記者・木崎氏は、練習場から去ろうとする本田に追いすがった。

「自分も想像しなかったような進化が起ころうとしているんじゃないか?」



本田は無言。

だが、小さくうなずいた。

そして一言

「今、しゃべる時期ではないんでね」






◎帰ってくる



「圭佑は、すごく怒っていると思います」

日本代表・今野がそう言うのは、W杯アジア予選におけるヨルダン戦(3月26日)、日本が1-2で敗れたことだ。W杯出場を決めることもできたこの一戦、本田は怪我のために欠場している

「『勝ちグセをつけなければダメだ』って圭佑は常々言ってるし、『代表が負けたら、オレが出てなくても絶対に説教する』って言ってたから(苦笑)」



本田はかねがね「W杯優勝」を言ってきた。

有言実行、「絶対にやり遂げる男」が。

そのW杯は、いよいよ来年(2014)。



現在、沈黙の中にある本田は、繭の中で飛翔の時を待つサナギのような状態なのだろうか。

W杯アジア予選は、残すところあと2試合。6月4日にオーストラリア戦、そして同月11日にイラク戦。早ければ、オーストラリア戦に引き分け以上でW杯本戦出場が叶う。



そしてそのオーストラリア戦、本田圭佑は日本代表に帰ってくる。

あの金狼が…













(了)






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「オレが突き抜けなアカン」。本田圭佑(サッカー)



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 6/13号 [雑誌]
「本田圭佑は3度、蘇る」
「本田圭佑 雄弁なる沈黙」
「私はホンダに攻撃の自由を与えている スルツキ監督」
「日本代表の本田像 今野泰幸・高橋秀人」
「本田圭佑と中田英寿」


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