2014年6月28日土曜日
錯覚と無意識 [日野晃]
手品は人をだます。
そうと知っていても、だまされる。
「マジシャンは、自分をも騙しているのではないか?」
武道家・日野晃氏は、そう思った。
「タネや仕掛けに対して、自分でも忘れているほど意識が働いていない状態でなければ、人の目をごまかすことなど出来るはずがない」
幸か不幸か、脳は「錯覚」するようにできている。だから騙されもする。
脳が錯覚を起こす下地となっているのは、固定観念や先入観。「これはこうだ」と決めてかかっているから、手品に引っかかってしまうのだ。
一方、身体はどうか。
脳を構成するのは主に神経細胞であるが、身体の99.9%以上はそれ以外の細胞である。
反応速度という点からいえば、脳(神経細胞)は極めて遅い。神経細胞のもつ時間は1,000分の1秒であるのに対して、一般的な細胞はそれよりずっと速く、100万分の1秒といわれている。つまり脳より1,000倍速い。
身体の細胞は、そのスピードの速さから「脳が認識できずとも、身体がとっさに反応する」ということが起こる。たとえば、熱湯に手を入れれば、考えるよりも先に一瞬で手を引き抜くだろう。たとえ頭が「熱くない」といっても、身体は決してだまされないだろう。
しかし、身体は時に敏感すぎる。脳が意識できないほど小さな刺激に対しても、無意識下で反応してしまうことがある。「攣縮(れんしゅく)」という動きがそうで、不意のアクシデントに対してピクッと筋肉が反射してしまう。これは脳が制御できる動きではない。
武術では、そこを突く。脳と身体のズレを。
たとえば、相手に背後から両腕でしっかりと抱え込まれた状態で、日野氏は自分の右小指をほんのわずかだけ動かしてみる。すると相手の腕は、その微かな動きを察知して右腕にピクッと「攣縮」が起こる。その小さなこわばりのスキをついて、日野氏はスルリと抜け出す。
しっかり抱え込んでいたはずの日野氏に抜けられて、相手は「?」。それもそのはず、自分の身体がわずかに反応したことに脳は気づいていないからだ。そもそも日野氏が小指を動かしたことも認識できていない。その小指は自分と接してもおらず、視界にも入っていないのだから。何もかもが「?」である。
もし、日野氏が相手と接触した部分を動かしたのであれば、それがどんなに小さな動きでも、相手は無意識下で反応して締め返してくる。それがわかっているから、日野氏は相手に触れていない小指だけを動かして、相手が抵抗するような反応を導かないようにしたのである。
かつて伊藤一刀斎は、剣の妙をこう語った。
「人は眠っている時でも、頭が痒くなれば頭をかく。頭が痒いのに尻をかく者はいない」
これぞ無意識下での身体の妙。
人は目に頼りがちなため、見えない技には反応しづらい。
「だからこそ、技は本質的に『見えない次元』で何らかの操作をしているものなのだ」と日野氏は言う。「身体の感覚がサビつくと、見た目からの脳判断でしか行動できなくなってしまう」
あるTV番組で、目の不自由なご両親が子供のイタズラを叱っていた。
たまらず子供は、家の外へ飛び出してしまった。するとお母さんはその子のあとを追う。目が見えないはずなのに、何のためらいもなく車の往来する通りに。しかも、子供が右に行ったか左に行ったかも正確にわかっていた。
この映像をみて、日野氏はこう言った。
「あぁ、自分は目の見える障害者だった」と。
目が見えるという枠に囚われてしまっていたため、「目の不自由なお母さんに子供を追えるわけがない」と決めてかかっていた。
「自分は本当に大事なものが見えていなかった。見えていたのは固定観念や先入観だけだった」
脳はだまされる。
身体はだまされないが、素直すぎるほどに反応してしまう。
こうした「脳と身体の齟齬」によって、武術上の錯覚は生じるとのこと。それを人は気がつけない。まるでマジシャンにかかったように。
「そういう者は、永遠に技をかけられる側なのだ」
(了)
ソース:月刊 秘伝 2014年 06月号
日野晃「武術の解答」
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2014年6月27日金曜日
丁寧で美しい文字 [大久保嘉人]
——大久保嘉人の書く文字が、こんなにも丁寧で美しいとは、失礼ながら想像していなかった。この本のエンディングには、大久保嘉人が父に宛てた手書きの書簡がそのまま掲載してあった(Number誌)。
その手紙とは、父の遺書への返信である。
生前、大久保嘉人の父は「朝からビールを飲み、仕事先では喧嘩ばかり」。家庭は貧困生活。
大久保は語る、「俺が国見に行っている間には、莫大な借金を抱えていた。俺がプロになっていなければ、家族はどうなっていたか、想像もできない」
——そして父が患ったC型肝炎と肝硬変、肝臓がん。抗がん剤の副作用で精神も安定せず、ナイフを振り回した父の車椅子をおす息子。本書ほど正直で、泣き笑いがあり、読み応えのある一冊にはなかなか出会えない(Number誌)。
白い封筒に入った、父の遺書にはこうあった。
「日本代表になれ。空の上から見とうぞ」
ソース:Number (ナンバー) コートジボワール戦速報 2014年 6/25号 [雑誌]
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2014年6月26日木曜日
帰ってきた「シンクロの母」
「あなたの脚、短いね」
シンクロナイズド・スイミング
そのコーチはずばりと欠点を指摘した。
「脚が短いのはかまへん。短く見えることがダメ。筋を目いっぱい伸ばして、人の目をひきつけるようにすれば、長く見えるのと違う?」
歯に衣着せぬ、このコーチ
井村雅代(いむら・まさよ)、63歳
かつて日本代表に、ロス五輪(1984)からアテネ五輪(2004)まで6大会連続でメダルを獲得させた名将である。
1996年のアトランタ五輪、日本のシンクロナイズド・スイミングは、チームで銅メダル。
しかし井村コーチは激怒した。
「あんたらにメダルを持って帰る資格はない! それまでの過程が悪すぎる!」
当時、チームの中心選手であった立花美哉は、その時のことをこう振り返る。
「あの時から私たちの意識が変わったんです。それがシドニーでの銀メダルにつながりました」
井村コーチのぶちまけた劇薬は、日本を一つ上のレベルへと導いた。
アテネ五輪が終わると、井村コーチは日本代表を離れた。
それ以後は中国代表コーチに就き、北京五輪(2008)とロンドン五輪(2012)で中国にメダルをもたらした。
一方、井村コーチのいなくなった日本。
先のロンドン五輪では惨敗。シンクロが1984年に正式種目として採用されて以来、日本の連続メダル獲得記録は途絶えた。
そして今季(2014)
「シンクロの母」井村コーチは、日本に帰ってきた。10年ぶりに。
本音をストレートにぶつけ、相手の急所を突く井村コーチの言葉。
彼女自身は「すべて、本当のことを言っているだけ」とサラリ。
不振にあえぐ日本のシンクロに対しては、「選手たちに勝つ喜びを教えてあげないといけない」と語る。
「この苦しみを乗りこえたら、強い日本が戻ってくる。選手にはそう話しています」
「世の中、どうにもならないことなんてない。必ずどうにかなる。それを考えるのが人やと思うし、コーチの役割ですよ」
(了)
ソース:Number (ナンバー) ギリシャ戦速報 2014年 6/30号 [雑誌]
名将の言葉「井村雅代」
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2014年6月25日水曜日
「サッカーは道端から生まれるんだ」 [ソクラテス]
「ブラジルのサッカーは、道端から生まれるんだ」
それがソクラテスの口癖だった。
「本当のブラジルサッカーには、遊びと喜びがある。子供が道端でいたずらのようなフェイントをしてみせる、あるいは踊るように、ギターを弾くようにサッカーをするんだ」
——ソクラテスは「フッチボウ・アルチ(芸術サッカー)」の信奉者だった。フッチボウ・アルチとは、華麗にパスをつなぐ攻撃サッカーのことだ。フッチボウ・アルチに、守備専門の中盤の選手はいらない、というのがソクラテスの考えだった(Number誌)。
ソクラテスがプロ契約を結んだのは19歳のとき。
これは同年代のジーコたちと比べると、ずいぶんと遅い。というのも、ソクラテスは医者になるつもりだったからだ。
ソクラテスは「当時、ブラジルにとっては医療が最も大切であり、自分は医学を学ぶべきだと思った」と言っていた。
「サッカー選手になったのは偶然。交通事故みたいなもんさ」
1982年のワールドカップ、スペイン大会
ソクラテスは、ジーコ、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとともに「黄金のカルテット(4人)」を形成。その卓越したパスワークとコンビネーションから優勝候補の筆頭と目された。
それぞ、フッチボウ・アルチ(芸術サッカー)。ブラジル代表がその理想に近づいたのは、1970年に神様ペレのいた大会以来であったという。
ところで現在、ブラジルのクラブには「輸出工場」に徹しているチームがある。
将来有望な若手選手を「ブラジルの道端」から発掘し、試合出場の機会を与えてヨーロッパへ売却。その売却益でクラブは潤し、施設を充実させていく。
生前のソクラテスは、そうしたブラジルサッカーを嘆いていた。
「ブラジルのテレビ局は、自国の選手がプレーする欧州リーグの映像を買っている。まるでカカオを輸出してチョコレートを輸入しているようなものだ。あるいは、ミケランジェロ自体を売り払って、その絵をわざわざ買っていると言ってもいい」
ソクラテスの体現したフッチボウ・アルチ
彼は選手時代、古き良き時代のブラジルサッカーの香りをまとっていた。
そして今年(2014)、64年ぶりに王国で開催されているW杯には、そうした香りがまた漂いはじめている。
——イングランド対イタリア戦ともなれば、テンポが遅く、退屈な90分間が続くのは目に見えていた。ところが試合は、古典的な好試合(クラシック)になった。どちらも攻撃的なサッカーをしたからだ。これはちょっとした事件だと言っていい(Number誌)。
ブラジルW杯は64試合中、半分以上の38試合を消化した時点で、合計で103ものゴールが生まれている。1試合あたり2.7回、ネットが揺れている計算になる(6/25現在)。
——目につくのはコール数だけじゃない。多くのチームは、明らかに従来と方針を変えてきている。ブラジル大会で「攻撃が復権した」のだ。オランダは派手なカウンターで、スペインに圧勝した。ドイツやチリ、退屈なサッカーをしていたイタリアやベルギー、4年前、客を退屈させた挙げ句に負けてしまったスイスや日本にも、変化は確実に見てとれる(Number誌)。
幸運にも、ブラジル大会は面白い。
なぜ、これほど壮観なゴールや、手に汗握る試合が多いのか?
——今大会が面白いのは、単にゴールや波乱が多いからではない。ゴールが決まる過程そのものがスリリングだからだ。ブラジル大会では、カウンターアタックや長めのパスを起点にしたスピーディーな攻撃が増えた(Number誌)。
反面、前回優勝国スペインにとっては受難となった。
短いパスを小気味よくつなぐパスサッカー、通称「ティキタカ」を得意としたスペインは、どの国よりも早くグループリーグ敗退に追い込まれた。
——各国チームの攻撃が速く、ダイナミックになったのは、そのような攻撃を仕掛けなければ守備陣を崩せなくなったことの裏返しにほかならない。ティキタカばかりでは、さすがにスペースはこじ開けにくくなる。今大会はアフリカのチームでさえも、組織的に守っている(Number誌)。
組織的な守備の向上と、攻撃サッカーの復権。
スペインに次いで翻弄されたのはイタリアだった。
——プランデッリ監督は就任以来、スペイン流のパスワークとイタリア流の縦への速攻というテーマで、新世代のイタリア代表をつくり上げてきた自負があった。スペインが早々に敗退してもなお、パスサッカーの優位性をなおも訴えた(Number誌)。
しかしイタリアは、その知将の誤算により、まず伏兵コスタリカに敗れた。
そして背水の陣でのぞんだウルグアイ戦。
——追い詰められてようやく真価を発揮するイタリアにとって、タフな一発勝負は望むところだった。まるで半世紀以上前の古典サッカーのように、グラウンド上の選手全員が、目の前の相手と一対一で睨み合った。ハイレベルのテクニックを持つ者たちが、あえてぶつかり合うことを選択し、死力を尽くした。「死の組」にふさわしい激闘だった(Number誌)。
結果は、いつしか獣性をおびていたウルグアイの勝利。ウルグアイのエース、スアレスはイタリアのDF(ディフェンダー)を噛み付いていた。スアレスは「口が滑っただけだ」とうそぶいた。むしろイタリアの悪童バロテッリのほうが大人しかった。
スペインの確立したポゼッション(支配)とパスサッカーは、ユーロ2008から始まり、南アフリカW杯、ユーロ2012と、およそ6年間にわたって世界に君臨し続けてきた。
その戦略戦術は、まだ破綻したわけではないだろう。だが、アップデートを迫られていることが、今大会では明らかになりつつある。知性的なそれは、より野性的な何かに犯されはじめているかのようだ。
王国であるブラジルの地は、サッカーの醍醐味、その原点を問おうとしているのかもしれない。
「サッカーは道端から生まれるんだ」
「本当のサッカーには、遊びと喜びがある」
そう言っていたソクラテスは2011年、敗血症で亡くなった。
享年57歳
(了)
ソース:Number (ナンバー) ギリシャ戦速報 2014年 6/30号 [雑誌]
サイモン・クーパー「カーニバルの傍らで」
「今大会は面白い! W杯のトレンドを決めた3つの文脈」
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シャビとイニエスタ [スペイン]
攻めてこそ [ザッケローニ]
「踏ん張らない」 [双葉山]
「踏ん張らない」
それが、昭和の大横綱・双葉山の相撲だったという。
「いっさい頑張らないんです。表情が変わらない。仏様のような顔で相撲をとっているんです」
元力士の松田哲博氏(一の矢)は、そう言う。
「相手が押してきた時、足をツルツルっと小刻みに滑らせることで、つねに腰の位置を安定させているんです。それでいつの間にか相手のほうがコロンと転がってしまう。ちょっと踏ん張ったことがあって、そのときは相手にはたかれて、バタンと落ちて負けています」
双葉山の姿勢は「直立」だったという。
「身体を立てることでインナーマッスルを利かせられると、経験的にわかっていたのではないでしょうか。前傾姿勢になると、どうしても太ももの前側にある大腿四頭筋に力が入ってしまい、股関節周辺の内転筋や裏側のハムストリング、お尻の大臀筋、中臀筋などをまんべんなく使うのは難しいでしょう」
直立という姿勢をとることによって、さまざまな筋肉に均等に負荷をかけていたのだという。
「インナーマッスルという言葉は当時なかったから、技術を言葉にはしにくかったでしょう。でも『土俵際で力を抜く』というようなことは、よく教えていたようです」
普通、相手が土俵際に詰まると、やっぱり押し出したい。
「押し出したいけれども、逆に力を抜くと相手は何もできないんです。押されると、こちらは踏ん張ったり、残したりできますが、反対に力を抜かれると、固体が液体になってしまうような感じです。双葉山さんは、良い当たりをしてくる力士がいると喜んで胸を貸すのですが、土俵際まで来るともう押せなかったと聞いています」
あるとき、増位山は土俵際でふっと力を抜いたことがあった。
すると双葉山はドンと飛んできて
「それだよ、それ」
と褒めたという。
元横綱・朝青龍、関脇の頃までは筋肉の力に頼った相撲をとっていたという。
松田哲博氏は言う、「だから前半戦はいいのですが、中日(なかび)を過ぎてくると疲れて、動きが悪くなってしまっていました」。
それが大関に上がる頃、そういった無駄な動きは消えてきた。
「ちょうどその頃、私がちゃんこ番だったのですが、厨房から稽古場が見えるんですね。すると朝青龍が踏んでいるシコがいいんです。それまでの足の筋肉をつかったシコではなく、重力を利用してストンと降ろしていた。すごくいい感じだなと思って見ていたのですが、その頃を境目に、どんどん強くなっていきました」
朝青龍の手の平や足の裏は、柔らかかったという。
「初めて朝青龍と握手した人は皆さん、『こんなに柔らかいんですね』といって感激されていました」
武道などでは「手の内は乙女のように」といわれ、何十年も剣を握っていたとしても、手の平にはタコなどなく、くにゃくにゃでつるつる、どこにも強ばりがないのが良いとされている。
松田氏は言う、「『相撲の神様』と呼ばれた幡瀬川という力士がいるのですが、この人は赤ん坊のような足の裏でした」。
大相撲の世界では、身体が柔らかい人は同体で倒れたときでも着地が後になると信じられているという。
「身体が柔らかい人とは、とにかくやりにくいんです。投げの打ち合いになっても、身体が柔らかい人には力の伝わり方が遅くて、こちらはワッと行くのに、相手が落ちるのはゆっくり、ということがあります」と松田氏。
松田氏はウェイトトレーニングに関しては、どう考えているのか。
「若いころはかなり必死にやりましたが、今は完全に否定派です。ある段階から先へ進むためには、かえって邪魔になることが多いように思います。近年、力士のケガが増えたのはウェイトトレーニングのせいだという意見もけっこうあるんです」
(了)
ソース:内田樹「日本の身体」
元大相撲力士、松田哲博
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2014年6月24日火曜日
20年越しの悲願 [コロンビア]
今から20年前の、1994年のコロンビア代表は歴代最強だったと言われている。
アメリカ大会を前に、王様ペレはこう断言した。
「ワールドカップで優勝するのは彼らだ」
当時のコロンビア代表、カルロス・バルデマラは言う。
「あの頃、わたしは32歳だった。ミッドフィルダーとしてちょうど成熟していた時期だ。まさにキャリアのピークにあったんだ」
彼のトレードマークは、芸術品のような黄金のアフロヘアー。
「わたしにはパスの出しどころも多かった。1994年の代表には、最高の選手がそろっていたからね。彼らを活かすだけでよかった」
——バルデマラの金色の頭のなかには、彩り豊かなアイディアが、おもちゃ箱みたいにぎっしりと詰まっていた。どれだけ相手に囲まれようが、抜け道とパスコースが自然と浮かんでくる。どんなパスだって通せる。そんな自信があった(Number誌)。
バルデマラは振り返る、「アメリカW杯で何かデカイことをやってのける。わたしは本気でそう思っていたんだ」。
W杯の南米予選は、破竹の勢いで突破した。
強豪アルゼンチン相手にも、5-0で大勝。
アメリカW杯を前に、人口3,450万人のコロンビアは沸騰寸前だった。
国民の誰もが確信していた。
われらが代表チームは簡単にグループリーグを1位突破するだろう、と。
——しかしその夏、人々が夢見たワールドカップは届けられることがなかった。英雄になるはずだったコロンビア代表選手たちは、予定よりもずいぶんと早くアメリカを去ることになる(Number誌)。
初戦のルーマニア戦
コロンビア代表はいきなり躓(つまず)いた。
1-3で試合を落してしまうのだ。
「相手の研究もろくにしていなかったから、ルーマニアがどんなプレーをするのかも見当がつかなかった。その頃、相手は必死に僕らの研究をしていたというのにね」
優勝候補ともてはやされ、代表選手らは明らかに慢心していた。初戦を前にしても緊張感は皆無。チームがアメリカ入りしたのも、出場国中で最も遅かった。
——初戦に敗れたことで、コロンビア国内には激震がはしった。グループリーグなど、ほとんど助走くらいにしか捉えていなかった国民にとって、それはまったく予想外の出来事だった(Number誌)。
そして、第2戦のアメリカ戦を前に事件が起こる。
チームに殺人予告が届いたのだ。”もしバッラバスがプレーすれば、彼とその家族、そして監督のアシスタントを殺害する”と。
バルデラマは言う、「チームは動揺を隠せず、アメリカ戦の前には戦術ミーティングすらなかった。頭にあったのは不安だけだった。とても集中できる環境ではなかった」
迎えたアメリカ戦
ここで痛恨のオウンゴールがあった。
エスコバルが、枠を外れたアメリカのシュートに足を出してしまった。ボールはそのままコロンビア・ゴールに吸い込まれていった。
——この失点で、選手たちが辛うじて保っていた緊張の糸はプッツリと切れた。膨らんでいた夢が、はじけるように消えていった(Number誌)。
結果は1-2でコロンビアの敗戦。
事実上、グループリーグ敗退が決定づけられた。
バルデマラは振り返る、「チームには驕りがあり、集中に欠け、相手へのリスペクト(敬意)はこれっぽっちもなかった」
代表チームを率いたマツラナ監督は言う、「プレーする前から王者になったと勘違いしたことが、大きな代償を払うことになった」
しかし、本当の悲劇はそれからだった。
失意の帰国後、アメリカ戦でオウンゴールを決めてしまったエスコバルが、外食中に射殺されたのである。
犯人グループは、「オウンゴールありがとよ」と捨てゼリフを残した。
「…そのことについては、話したくないんだ…」
20年たった今も、当時の代表選手らの心の傷はいやされない。
マツカナ監督は、ようやく言葉を絞り出した。
「なぜサッカーの1試合が、ひとりの素晴らしい人間の命を奪うことになるのか…。私にはまだ分からないんだ…」
余談ではあるが、この事件後、日本ではオウンゴールを「自殺点」と訳すことをやめた。また、「サドンデス(突然死)」という表現も「Vゴール」と改められた。サッカー用語で死を連想させる言葉は、徹底的に排除されたのだった。
以後、コロンビアはサッカー低迷期にはいる。
黄金のアフロ、バルデラマは次のフランスW杯で引退。このときのチームもグループリーグ敗退に終わっている。
それから3大会(12年間)、コロンビアはW杯出場を逃し続けた。
「あの事件以来、コロンビア国民は代表戦のサッカーから遠ざかるようになったんだ。代表の話にすら触れてはいけないようなムードだった」
そして今年(2014)、コロンビア代表はついに復活を果たす。
4大会ぶりのW杯出場。FIFAランキングは一時3位にまで上昇、現在も堂々の5位。ダークホースとしてベスト4入りを目されている。チームを蘇らせたのは、アルゼンチンの知将ペルケマンだった。
「ようやくコロンビアは、この場所に戻ってくることができた。母国をふたたびW杯の舞台で見られるなんて夢のようだよ」
バルデラマの感慨は深い。彼はコロンビア代表の絶頂期と低迷期を目の当たりにしてきた。いまはアメリカのTV局で解説をつとめている。黄金の髪の毛はボリュームが減ったとはいえ健在だ。
「このチームが私たちが成し遂げられなかった夢を達成してくれることを願っている。それは、長い間W杯に出られなかった国民全員の願いでもあるんだ」
「コロンビア! コロンビア!」
地鳴りのような掛け声、耳をつんざくほどの歓声。
一時はサッカーを忘れようとした国民は、ふたたび熱狂の渦のなかにある。
現代表は強い。
しかし1994年の代表はもっと強かった。
コロンビア国民は、そのどちらが強いかを熱く語り合う。
「カガワ」や「ホンダ」という言葉もちらちら飛び出す。
酔いにまかせ、嬉々として。
(了)
Number増刊 コロンビア戦速報 2014年 7/9号 [雑誌]
ソース:Number (ナンバー) ギリシャ戦速報 2014年 6/30号 [雑誌]
バルデラマ「コロンビア黄金時代、再び」
コロンビア「20年越しの悲願を」
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シャビとイニエスタ [スペイン]
Tiki-Taka(ティキタカ)
それはサッカースペイン代表のお家芸
まるで一つの生き物のように、チーム全体が短いパス回しで連動していく。
圧巻だったのは、世界の大陸王者が競ったコンフェデレーションズ杯で見せたティキタカ。
ナイジェリアとの一戦、スペイン代表は自陣ゴール前から短いパスをつないでいき、相手に一度もボールを奪われることなく先制ゴールを決めてみせた。つなぎにつないだパスは、じつに13本。
この一戦、最終的にスペインが交わしたパスは合計806本。その成功率は93%。
縦横無尽のパス網、ティタカ。
よく見ると、パスの3本に1本が、一人の男を経由している。
その男、シャビ・エルナンデス。
身長は1m70cmと小柄ながら、その眼差しはタカのごとく鋭い。
スペイン代表が一つの生き物だとしたら、その頭脳は間違いなくこの男、シャビ。
シャビは言う
「僕にはピッチ上のすべてが見えている」
■カンテラ
スペインのクラブチーム「バルセロナ」には、「カンテラ」と呼ばれるユースチームがある。
カンテラとはスペイン語で「石切り場」。原石を磨き育てる場所である。7〜19歳の才能が、200人ほど所属している。
シャビがカンテラに入団したのは11歳のとき。
身体は同じ年頃の子よりも一回り小さく、足もそれほど速くなかった。
だが、入団当初から「頭の回転の良さ」には定評があった。
「もっと早くパスを回せ!」
カンテラでは、とにかくパスを回す練習をさせられる。
「パスを受ける前から、次に何をすべきか考えろ!」
パスを回すには、頭を使わなければならない。複数のパスコースから瞬時に最適なパスを選び出す。少年シャビは、そうした練習をずっと叩き込まれてきたのだった。
シャビは言う、「ちょうど12歳くらいの頃から、カンテラで司令塔(プレーメーカー)として必要なことを教わってきた。『頭を上げて、つねに周りの状況を把握しておけ』というのは、ずっと言われてきたことだよ」
最高の練習は、本家バルセロナの試合を繰り返し見ることだった。
「僕にとって幸運だったのは、目の前に最高のお手本がいたってことだね。僕はいつもそのサッカーを眺めていたんだ。当時、プレーメーカーのポジションにいたのはペップ・グアルディオラだ。すべてにおいて、グアルディオラは僕の手本となった。そのイメージは今も残っている。パスの精度、ボールをキープする力、判断力、すべてが一流だった」
カンテラ時代からシャビは「頭脳プレーに長けている」と高い評価を受けた。
だが、ティキタカ(パスサッカー)は一人ではできない。シャビの頭の回転の速さ、パス回しについてこれる相方が必要だった。
そんな相棒が現れるまで、シャビはもう少し”石切り場”で待たねばならなかった。
■イニエスタ
その男は、バルセロナから650km離れた町で、酔っ払いたちの間をドリブルですり抜けていた。実家が営むバル(飲み屋)が彼の遊び場だった。
アンドレス・イニエスタ
サッカーセンスの塊のような少年だった。
11歳のとき、カンテラにスカウトされたイニエスタは、4つ上のシャビと出会う。
この2人の出会いが、のちにサッカーの歴史を変えることになる。
サッカー界の伝説、ヨハン・クライフ(元バルセロナ監督)は語る。
「シャビはパスによって攻撃のリズムをつくる。そこにイニエスタという違う才能が加わった。彼は敵のゴール前で滅法強く、即興性があり自由自在だ。前線にイニエスタという才能がきたことで、シャビは自分のパスを受け取ってくれる偉大なパートナーを手にしたのだ」
シャビとイニエスタは、まさに阿吽の呼吸であった。
シャビは言う、「イニエスタは僕のプレーの意味を理解してくれる。スペースをつくるために僕が下がれば、彼が上がる。彼が下がれば僕が上がる。アコーディオンのようにね」
イニエスタは言う、「僕たちは常に、さまざまな場面場面で、お互いが今なにをすべきかということを瞬時に考えているんだ。シャビと僕の2人は、ピッチ上でサッカーを創造していると言ってもいい」
■アラゴネス監督
だが、2人がスペイン代表にデビューした当初、批判の風は冷たかった。
「小さいヤツはいらない。去るべきだ」
シャビとイニエスタ、2人はともに身長1m70cm。当時はまだ身体能力ばかりが重視されていた時代だった。スペイン人は日本人と同様、体格で他国に劣るために、世界のビッグタイトルには手が届かずにいたのである。
シャビは振り返る、「あの頃は誰もが、サッカー選手に力強さや耐久力を望んでいた時代だった」
そんな風潮に流されなかったのが、当時のスペイン代表監督、ルイス・アラゴネス。
「スペインは小柄な選手で戦う」
アラゴネス監督はそう言い切った。そして、シャビとイニエスタの2人の可能性もはやくから見抜いていた。
「君たちの才能は世界一だ。それこそが我々にとって最大の武器だ」
シャビとイニエスタを代表に抜擢したのは、このアラゴネス監督だった。
シャビは、アラゴネス監督の部屋によく呼ばれたという。
監督はこう言っていた、「なぁシャビ、お前なら分かるだろう。スペインはやれるんだ。そしてワシのチームの中心で指揮をとるのは、お前なんだ」
シャビはこう振り返る、「スペインは、フィジカルではドイツやイタリアには敵わない。だから自分たちの長所をいかしたサッカーを貫くべきなんだ、と。アラゴネスと一緒に、僕らは変革を起こしたんだ」
その後、”小柄”なスペイン代表は世界を席巻してゆく。
ヨーロッパ選手権2008優勝
南アフリカW杯2010優勝
ヨーロッパ選手権2012優勝(2連覇)
ティキタカを完成させたスペイン代表は、世界のビッグタイトルを総ナメにしてしまった。
——何よりも世界を驚かせたのは、そのスペクタクルなサッカーだった。スペインは過去に、この種の攻撃的で美しいサッカーを見せたことはなかったからだ(Number誌)。
■シャビの一手
ピッチ上のシャビは、しきりに辺りをチラチラ見る。敵を見て、味方を見て、そして瞬時に全体の状況を把握する。
彼の空間認識力はズバ抜けている。まるで上空を飛ぶタカのごとく、真上からピッチ全体を俯瞰しているかのように、敵も味方もすべての選手の位置を正確に把握してしまうのだ。
その脳の中をのぞいてみると、「大脳基底核」と呼ばれる脳の深いところが活発に活動している。この大脳基底核というのは、人間が繰り返し行った経験や知識が長期的に記録されている場所だ。
それに対して一般的なプロ選手の場合、大脳基底核の代わりに脳表面の前頭前野が活発に活動している。この部位が働いているということは「考えている」ということだ。
ところがシャビの場合は「考えていない」。シャビの頭脳の奥深く(大脳基底核)には、カンテラ時代から培った膨大な試合パターンが蓄積されており、最適なパスの一手が瞬時に、そして無意識に選び出されているのである。
「これは将棋のプロ棋士が、次の一手を直観的に決めるときによく似ています」
脳科学の研究者、万小紅はそう説明する。
シャビは言う、「サッカー選手は頭が悪いなんて言う人もいるけど、トップクラスのサッカー選手は、たとえ勉強が苦手でも、頭が悪いなんてことはあり得ないよ。間抜けな奴にサッカーはできない。プレーメーカーは肉体よりも脳のスピードのほうが重要なんだ」
■イニエスタの即興
一方、イニエスタがズバ抜けているのは、瞬間的な即興能力である。
ディフェンダーに囲まれたとき、ドリブルで抜くのか、それとも味方にパスを出すのか? 敵の意表を突く新たな一手を、イニエスタは瞬時に実行する。
イニエスタは即興的、独創的なアイディアで試合の流れを変える天才肌なのである。
イニエスタが敵をかわす方法は、じつにシンプル。
おもにダブルタッチという足技。右、左と軽くタッチして敵を抜いてしまう。ブラジルのネイマールのような派手なフェイントや足技とは対照的である。
イニエスタの特徴は、その動きの小ささ。相手ギリギリに迫るまで重心をほとんど移動しないために、相手はイニエスタがどちらへ抜こうとしているのか直前までわからない。
「気がついたら抜かれていた」
それがイニエスタの魔術。
そうしたイニエスタの能力の高さを表す数字が「チャンス構築数」。シュートの機会をどれだけ生み出したかを示す数字である。
たとえば、2013コンフェデ杯、イニエスタは出場選手中、断トツのトップだった(5.53回/90分)。ちなみにブラジルのエース、ネイマールは3.57回にとどまっている。
イニエスタは言う。
「プレー中に何を考えているかって? ほとんど意識していないよ。僕のプレーは状況に応じたアドリブだからね。ゴール前で考えて行動するなんて悠長な時間はない。僕のサッカーは即興なんだ」
■情熱の赤
La Roja(ラ・ロハ)
前回の南アフリカW杯(2010)、この「情熱の赤」がピッチを焼き尽くした。
スペインの平均身長は、強豪国中、最も低かった。
小柄な司令塔シャビは、つねにピッチをコントロールし、完成されたティキタカが試合を支配した。そしてゴール前ではイニエスタの即興が奏でられた。
決勝は、スペイン対オランダ。
90分間フルに戦っても決着がつかず、試合は延長戦へ。
最後の最後、延長の死闘にピリオドを打ったのはイニエスタだった。
「ゴーーーーーーーール!!!!!」
ついにスペインは悲願のW杯優勝国となった。
シャビは言う。
「カンテラが長い時間をかけて築いたパスサッカーが世界を魅了した。僕らは自分たちが信じるパスサッカーで、それまでの身体能力が中心のサッカーを変える革命を起こすことができたんだ」
■黙祷
2014年、W杯ブラジル大会
情熱の赤、スペイン代表は2連覇をかけて臨んだ。
その直前
シャビとイニエスタを代表に抜擢した元代表監督、アラゴネスが75歳の生涯を閉じた。
「小よく大を制す」
アラゴネスが世界に示したスペインのサッカーだ。
Eterno Luis Aragones(アラゴネスよ、永遠に)
シャビやイニエスタら代表選手は、アラゴネスに黙祷を捧げた。
アラゴネスがスペイン代表の監督に就任した当初、それまでの代表監督と同様、「無能だ」との評価しかなかった。
アラゴネスはこう言っていた、「ワシが代表監督に座についたのは、ユーロ2004で負けた直後のことだった。あの頃はまだスペインのサッカー(のちのティキタカ)も確立されていなかった」
2006年のW杯、フランスに敗れたときは、国内で大きな批判を浴びた。
「またいつものスペインじゃないか!」
だが、いかに世論に反発されようと、この老将が信念を曲げることはなかった。
代表選手のトーレスは、当時をこう語る。「アラゴネスは僕らの心の奥にあった恐怖を取り払ってくれたんだ。いつまでたっても、結局スペインは勝てないんじゃないか。そんな不安を。あの頃、スペインがパスサッカーで世界の頂点に立てると考えたのは彼しかいなかった」
シャビは言う、「アラゴネス監督の言葉は、いまも忘れられない。彼はたった一人で、負け犬根性が身についた僕たちの意識を変えたんだ。小さくても勝てるんだって」
アラゴネスは言っていた、「さんざん叩かれた分、やり返そうじゃないか。失意にあったこれまでの日々を思い出せ。我々はサッカーの真価を世界に見せつけるんだ!」
——アラゴネスは2014年2月、この世を去った。シャビは誰よりも恩師の死を悲しみ、落ち込んだ。ブラジルの地で、アラゴネスが完成させたパスサッカー(ティキタカ)を貫くことが、一番のオマージュになると思った(Number誌)。
■波乱
しかしブラジルW杯、スペインには起きて欲しくない波乱が起きた。
まさかの、グループリーグ敗退。
2戦して2連敗(対オランダ、対チリ)。
前回優勝国スペインは、どの国よりも先にブラジルを去ることになってしまった。
グループリーグ敗退を決定づけたチリ戦
ピッチ上には孤軍奮闘するイニエスタの姿があった。
シャビはおらず、いつもの絶妙なパスが前線に送られてこない。
——シャビがスタメンから外され、チームは明らかに戸惑った。バルセロナとスペイン代表の強固なリンクが切り離されてしまっていた(Number誌)。
シャビが先発を外されたのは、いつ以来だったか?
——2000年に初めてA代表のユニフォームを着てから14年間、130試合にわたり、ピッチ上にはこの「小さなミッドフィルダー」の姿があった。その存在自体がスペイン代表そのものであった。背番号8のいないスペインは、ジダンが去った後のフランスのように空虚であった。
「ティキタカ」と呼ばれてきたスペインの美しいパスサッカーは鳴りを潜め、その攻撃には迫力と生彩を欠いてしまった。ベンチに座ったままのシャビは、例の鋭い眼差しでピッチを睨み続けていた。
34歳となっていたシャビにとって、このW杯がおそらく最後の花を咲かせるチャンスであったはず。
しかし結局、シャビがチリ戦のピッチに立つことはなかった。
シャビは、試合終了の笛をベンチで聞いた。
——スペインの一時代が終わった。マラカナン・スタジアムの空の上、うなだれる教え子たちをアラゴネスはどんな思いで眺めていただろうか(Number誌)。
(了)
ソース:
Number (ナンバー) ギリシャ戦速報 2014年 6/30号 [雑誌]
NHKミラクルボディー スペイン代表「世界最強の天才脳」
2014年6月23日月曜日
引き分けの武道 [上原清吉と廣木道心]
その老翁は、もう100歳になろうかというほど高齢だった。
襲いかかるは、高段者4人。
彼らは手に手に、両刃の剣、湾刀、長棒、槍などの武器を握っている。
対する老翁は、そのシワシワの手に「ハエ叩きの棒」のようなものを持つばかり。それはとても人を倒すような道具ではない。
次々にかかってくる高段者。しかし老翁はあわてることもなく、敵の刃物をスッスッとかわしながら
「ポン! ポン!」
と彼らの頭を例の棒でたたいて回る。
その老翁の名は、上原清吉(うえはら・せいきち)。
沖縄に伝わる王家秘伝の琉球武術「本部御殿手」の継承者であった。
「上原先生は、戦争中フィリピンで軍属として徴用されて参戦し、戦争とはいえ人を殺してしまったことに苦しみ、戦後は武術から離れていたそうです。戦争について上原先生は『絶対に人を殺してはいけない。一生後悔がつきまとう』そう言いながら涙を流されていました」
そう語るのは、廣木道心氏。当時、武術を志す若者だった。
「私は『ケンカに勝つために強くなりたい』と思って武術や武道に取り組んできた若造だったので、人の命を奪い合う戦争を体験してきた上原先生の話を聞き、これまでの自身の格闘経験は単なるママゴトみたいなものだということに気付かされました」
そして廣木氏は、上原先生の指導をあおぐ。
「たとえば、ただ立っているように見える上原先生の身体を持ち上げようとすると、その身体は電信柱を抱えて引っこ抜こうとしているような感じで、身体の軸が地球の中心まで突き刺さっているような感覚を受けました」
それは、廣木氏が「自然と調和した力」に気づかされた瞬間であったという。
「まず真っ直ぐに立つこと、そしてそこから歩き出す一歩が重要であると教えられました」
上原先生は、部外者である廣木氏に対して、道場生たちと差をつけることはなかったという。
廣木氏は言う、「人との間の差を取るから『悟り(差取り)』とは、まさに先生のような達人を言うのだろうなぁ、と一人納得していました。そして、それは自然との間の差を取ることも意味していることに後になって気づきました」
その後、上原先生は101歳で他界する。
「上原先生から受けた指導はたった2回でしたが、先生から受けた技の感覚は身体の中に残っており、それが後にとても役に立つことになりした」と廣木氏。
余談ではあるが、合気道の開祖、植芝盛平の弟子、多田宏師範も同じようなことを言っている。
「多田先生は、60年前に道場で植芝先生に技をかけられた時の体感記憶を完全保存しているそうです。手を取られた瞬間、完全に同調して植芝先生が何を感じているのか全部わかった。その感覚は、60年後の現在でもありありと再生できるそうです。『身体に刷り込まれている。だから、いつもそこへ帰っていくことができる』とおっしゃていました(内田樹)」
廣木氏はその後、「護道」を創始する。
普通、武道や格闘技は相手を傷つけてしまう。たとえ自分の身を守るためといえども。
だが、その相手が自分の子供だったら?
廣木氏の提唱するのは「引き分けの武道」である。相手も傷つけず、自分も傷つかない。自他護身。
まずはイメージすることで「不覚筋動(無意識に動く筋肉の作用)」を働かせ、相手が力を出す前に反応して、その動きを封じ込める。
また呼吸をつかって自身の身体を緩めながら、相手が力をかける方向へと動きを合わせることにより、相手を「無力化」。そして力ませることで相手を「一体化」。この無力化と一体化を繰り返すことにより、相手の心身から敵愾心を抜いて争いをおさめるのだという。
廣木氏は言う。
「護道は、すべての日本武道における理想の境地『神武不殺』に通じる道であると考えています。それは『和をもって貴しとなす』という日本の精神であり、そんなお互いさまの心を通じ伝えることで、老若男女、誰もが共存できる社会へと向かうのが私の夢でもあります」
(了)
ソース:DVD付き 月刊 秘伝 2014年 05月号 [雑誌]
廣木道心「自他護身に生きる」
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沖縄空手の「消える動き」とは?
剣道の「礼」。「敵はもはや敵ではない」
2014年6月22日日曜日
理想的な脳波、それは「今」
「パブロフの犬」という現象は、音を鳴らしてエサを与えるということを繰り返していると、音を鳴らしただけで犬がヨダレを垂らすというものだ。
これは専門的に「レスポンデント条件づけ」と呼ばれる。
一方、似たような現象に「オペラント条件づけ」というものがある。
これは、何か行動をした時に、その結果が良ければ、その行動をドンドン繰り返すようになるというもの。たとえば人間は、褒められるとドンドンその行動を繰り返すようになる。
そのオペラント条件づけを利用するのが「ニューロ・フィードバック」という訓練。
たとえば緊張すると手に汗をかく。テトリスのゲームなどでもそうだ。そこでゲーム中、手の汗量を測りながら、ある一定以上の発汗になると音が鳴るシステムを使い、音が鳴らないようにゲームを続けて行く。
すると、だんだん音が鳴らなくなってくる。自分の緊張具合がフィードバックとして自覚されることで、平常心を保ちやすくなるのである。
たとえばパックマンのゲーム。脳波を測定しながら、理想的な脳波のときにだけパックマンが動く。逆に、望ましくない脳波のときは止まってしまう。
これも続けるうちに、パックマンはだんだんと止まらなくなる。ちなみに被験者はとくに何も意識しなくともそうなっていく。自然に気持ちの落ち着くほうへと向かっていく。
これがニューロ・フィードバック。
ニューロは「神経」を意味し、その状態を自分自身にフィードバックさせることで、パフォーマンスの向上を図るのである。
たとえば、イタリアのサッカークラブ、ACミラン(本田圭佑所属)などは、こうしたトレーニングを行っているという。また、オーストラリアやカナダ、アメリカなどもオリンピック選手の育成に役立てているという。
ところで、理想的な脳とは?
「簡単に言ってしまえば、『現在に一番集中しているとき』ですね」
小沢隆(空手禅道会)氏は言う。
「負のファクターがあると、何らかのきっかけで意識が未来へ、結果のほうへ飛んだときに不安定な状態になります」
たとえば、勝ちを意識するあまり、未来のことを考えて不安になることがある。これを「予期不安」という。
「未来や過去に意識がいくと、扁桃体が興奮するんですね。負けたらどうしようとか、勝ちを急ぐとか。単純に『今に集中する』メンタリティができていればいいんですが」
集中しているとき、脳の前頭葉にベータ波という脳波がでる。
逆にリラックスしているときには、後頭葉にアルファ波がでる。
「基本的に、集中している時はベータ波がでるんですが、でも、それがあまり強すぎると周りが見えなくなってしまう。だから、ある程度リラックスしている必要もあって、そのバランスが大事なんです」
その理想のバランスに関しては、個性(人種・性別・年齢)によって違ってくるという。だが、いわゆる「平常心で恐怖心がなく、かつ集中している」という状態は、だいたい決まっているという。
たとえばヨガでは、苦しいポーズをとっている時に「しんどいなぁ」と思ったら、それを「放っておく」のだそうだ。それがストレス下におけるヨガの「今に集中する方法」だという。
その科学的な手法が「ニューロ・フィードバック」ということだ。
(了)
ソース:DVD付き 月刊 秘伝 2014年 05月号 [雑誌]
精神と身体への新たな試み「ニューロ・フィードバック」
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2014年6月21日土曜日
PK戦とイングランド病 [サッカー]
PK(ペナルティーキック)は孤独だ。
チームメイトの輪から離れ、独りボールへと向かう。
その短くも長い歩みの間、キッカーは一人苦しんで考える。
——一見簡単に見えるが、その利害は狂おしいほど大きい。言い換えれば、PK戦は競技性やスキルよりも、むしろ「度胸」を試す戦いなのだ(『The Economist』誌)。
ドイツはPK戦で「無敵」だといわれる。
それは、過去のW杯でドイツは4度のPK戦、「全勝」しているからだ。チェコ人も強い。PK戦でゴールを外した選手は過去いない。
一方、イングランドは滅法弱い。
過去、W杯およびユーロのトーナメントで7度のPK戦、6敗を喫している。オランダも悲惨だ。5度のPK戦で4敗している。
PK戦の強弱を、どう説明すればよいのか?
「敗北は習慣化する」という人がいる。
過去のPK戦での失敗は、次のゴールを外す可能性が高い。まさにイングランドがかかっている病のように。
また、「個人主義的な国ほど弱い」という説もある。
自分の世間体を気にしすぎて、失敗したときに受けるであろうメディアからの無慈悲な批判を、ボールを蹴る前から恐れてしまうというのだ。
——イングランドの選手は、たいてい気負ってしまう。そして選手はつまずいたり、すねでボールを蹴るなど、「ゴールを外すまったく新しい方法を編み出す」とビルスベリー氏(オーストラリア・ディーキン大学)は指摘する(『The Economist』誌)。
この「エゴ説」に、ガイル・ヨルデット氏(ノルウェー・スポーツ科学大学)はうなずく。
「スター選手は、注目度の低い選手よりも失敗する可能性が高い」
まだヨルデット氏は、PK戦のキッカー同士の「感情の伝染」も指摘する。チームメイトがゴールを決めると、他の選手もやはり得点の可能性は高まり、逆に敵チームのそれは低くなるという。
ちなみに得点率の高い選手は、ゴールキーパーの動きを気にすることなく、蹴る前から決めていたところに蹴っているという。
また、両チームが交互に蹴るPK戦では、最初に蹴るチームが有利に展開する。というのも、後から蹴って巻き返すという任務は、よりストレスに満ちたものになるからだ。チームの敗退を防ぐキックを外す確率のほうがずっと高い。
諸説あれど、PKに絶対はない。
ただ、「ドイツ勢はさけろ」とは言えるかもしれない。
そして、できるなら「イングランドと対戦を」。
(了)
ソース:The Economist
イングランド病「サッカーPK戦と心理学」
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ドイツ・サッカーと、日本
日本の「悲劇」、韓国の「奇跡」。ドーハ1993 [サッカー]
マラカナンの悲喜劇 [ブラジルとウルグアイ]
2014年6月20日金曜日
1日、何食?
ピンク・レディーで一世を風靡した未唯mieさん
10代の頃から「1日1食」だという。
「私の場合、無理して一日一食を守っているわけではないんです。学生時代から、朝ご飯を食べるよりはお布団の中でグズグズしていたいタイプでしたし、高校時代は歌手になると決めていたので、昼休みも歌の練習に費やしたいから片手にパンぐらい。そのぶん夜はしっかり食べました」
一方、同じピンク・レディーで活躍したケイさんは違った。
「ケイは中学時代バスケットボールをやっていたこともあって、1日5食は当たり前だったんですね」
小食のミーさんと、大食のケイさん。不思議なことに、並ぶと小食のミーさんのほうが太っていたという。
ピンク・レディーが国民的大スターとなって以来、睡眠さえも2〜3時間という超過密スケジュール。
「衣装もタイトでしたから、だんだん食べなくなりましたね。不思議とお腹も空かなかったですし」とミーさん。1日1食のほうが集中力も保てたという。
だが、さすがに事務所はミーさんの1日1食が心配になり、栄養学の先生に意見を求めた。
すると先生は「1日1食でも何の問題もない」との回答。
ミーさんは振り返る、「その先生は1日3食というのは習慣でしかなく、本当はお腹が空いている時が一番ベストの食事時という考え方だったんです。身体というのはうまくできていて、必要なときにはちゃんとお腹が空いて、食べたくなるものだと」
ところで現在、日本の厚生労働省は
「1日3食、規則正しく食べましょう」と奨励している。
言わずもがな、それが現代のわれわれの常識でもある。
ところが、江戸時代までは日本人は「1日2食」だったと文献にある。その習慣は、平安時代の貴族たちのもので、昼飯なしの朝晩2食だったという。
「二食は優雅、三食は野卑」
勃興してきた武家には、1日3食、つまり朝昼晩たべる者もいたというが、それは「野卑」とみなされた。江戸幕府が誕生するまでは、朝廷の「優雅さ(つまり1日2食)」を重んじる傾向が強かったという。
庶民が1日3食をとるきっかけとなったのは、江戸時代の明暦の大火(1657)からとの説がある。
焼失した江戸を復興させるため、幕府は全国から大工や職人を集めて朝から夕方まで一日中働かせた。そんな重労働は、朝晩2食だけでは到底もたない。そこで昼にも食事を出すようになり、そこから1日3食の習慣が広まっていったというのだ。
正式に日本が1日3食を基準とするようになるのは、1935年、佐伯矩という医学博士がそう提唱してからだという。
佐伯博士は「栄養三輪説」、すなわち栄養は「健康の源泉」「経済の根本」「道徳の基礎」という3つの輪を支えているという哲学を打ち出した人物だ。
まず調べたのは、日本人が一日に消費していたエネルギー量。あらゆる職業からなる被験者に集まってもらい、ダグラスバッグという装置でエネルギー代謝を調べたところ、その平均値(成人男子)は「2,500〜2,700キロカロリー」ということが判った。
ところが、それだけのカロリーを1日2食で補おうとすると、1回1回の食事がとても食べきれないほどのボリュームになってしまう。そこで1日3回食べた方がよいということになった。
1食1食を栄養のバランスよく、1日に3等分して食べる。それを「毎回完全則」として佐伯博士は世に広めたということだ。
さて現在、日本人の運動量は佐伯博士が調べた頃よりも、ずっと少なくなった。たとえば車や電車などの普及により、あまり歩かなくなった。
およそ80年前は一日に2,500〜2,700キロカロリーが必要(成人男子)とされていたが、今では20%減の2,000〜2,200キロカロリーで充分とされている。また、栄養価の高い加工食品が普及したことにより、ひと口当たりのカロリーはずっと高くなっている。
つまり、80年前に定められた1日3食という習慣は、現代ではややもすると食べ過ぎるということである。
(了)
ソース:Sports Graphic Number Do Early Summer 太らない生活 2014 (Number PLUS)
「1日3食は正しいのか?」
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「やらかい身体」とは? 柔芯(稲吉優流)。