2013年9月22日日曜日

祝! 東京オリンピック開催決定



「『TOKYO』と呼ばれてから数分間、僕は何も覚えていないんです。号泣していたよ、と回りの人たちに言われましたが、記憶に無い(笑)」

2020年のオリンピック開催地が決定した時、松岡修造は歓喜の渦の中にいた。

「”どうしてこんなに嬉しいんだろう?”。あれから数日、そんなことを考えていました」



オリンピック招致に関して、はじめは無関心だった日本国民も、最終的には92%という高い支持率を示していた。

「今、ニッポンは一つになっている」

今年(2013)3月に日本を訪れたIOC副会長のクレイグ・リーディー氏は、そう感じたという。



リーダーシップを執った猪瀬直樹・東京都知事も熱かった。

「猪瀬さん、やめて下さい。これからが大事なんですから」

松岡修造は、猪瀬知事がなかなかテニスの練習をやめようとしないことにハラハラしていた。「IOC(国際オリンピック委員会)の視察団が来た瞬間にポイントを決める」、それが知事の役割だったが、なんと知事はそれまで2時間も練習を続けていたのだという。

視察団が到着した時、「猪瀬さんの頭からフワ~ッと湯気が出ていました」と松岡は言う。

そしてすかさず、「Can you see it? This is his passion(見ましたか? これが彼の情熱なんです」と、松岡は委員に伝えたという。








最終プレゼンテーション

そのトップバッターという大役を務めたのは、3大会連続でパラリンピックに出場している「佐藤真海(さとう・まみ)」だった。

「まさかトップバッターとは思っていなくて(笑)。一週間前に言われてビックリしました」と佐藤は振り返る。



プレゼンに与えられた時間は、他のスピーカーの紹介も含めて4分間。

”I was nineteen when my life changed. I was a runner. I was a swimmer. I was even a cheerleader.(ランナーで、スイマーで、チアリーダーでさえあった私の人生が変わってしまったのは19歳の時でした)”

”Just weeks after I first felt pains in my ankle, I lost my leg to cancer.(初めて足首に痛みを感じてから、たった数週間のうちに、骨肉腫により足を失ってしまいました)”

足を失うまでの20年間、彼女は障害のある人を特別視していたと打ち明ける。そして、自分が義足になってしまった時、その特別な視線を自分の足に感じるようになった。



”I am here because I was saved by sports.(私がここにいるのは、スポーツによって救われたからです) It taught me the values that matter in life.(スポーツは私に人生で大切な価値を教えてくれました)”

大学に戻り、陸上に取り組むことによって、彼女は絶望の淵の上に光を見出す。スポーツを通したコミュニケーションは、相手のイメージが変わりやすいと気づいたのだった。

「最初、私の義足ばかりに視線をやって『かわいそう』『障害者だ』と思っているのが伝わってくるんですが、最後にはちゃんと、私の目を見てくれるようになるんです」



はじめてパラリンピックに出場したのは2004年のアテネ。種目は走り幅跳び。

「ほかのアスリートがすごく輝いていたことに圧倒されたんです。みんな、自分自身の持っている力を限界まで引き出すことに集中していたし、仕草が表情が底抜けに明るかった」

そのイキイキとした姿に触れた佐藤は、「何かを守るのではなく、より強く一步を踏み出すことが大切なんだ」と気づかされたという。



オリンピックの招致活動に携わるようになったのは、そんな「スポーツのチカラ(power of sports)」を実感していたからだった。

「すごく大変なことを乗り越えたからこそ、大切なことにも気づけることをわかっていたんです。つまり、失ってしまったものよりも、目の前にあるものを大切にする(what was important was what I had, not I had lost)−−−」






「投票結果発表の瞬間は、プレゼンをしているときより緊張していました。もうドキドキで…。安倍総理や森喜朗さんのすぐ隣に座っていたので、こんなところに私がいてもいいのか? と疑問に思いつつも(笑)」

「『TOKYO』と発表された瞬間、もちろんすっごく嬉しかったんですけど、1分後には『これからしっかり行動しないといけない』と感じて、落ち着くというか、冷静になってました」



2012年ロンドン大会で、佐藤真海は走り幅跳びで9位に入っていた(自己新)。そして、その雰囲気が最高だったと言う。

「満員の観客がその場所に純粋にスポーツを見に来ているし、それを楽しんでいるのが伝わってきました。そこにはオリンピック、パラリンピックという垣根はありませんでした。それはアスリートとして、人間として、すごく幸せな時間でした」

「あの雰囲気を東京で再現するためにも、2020年までに施設や環境面のバリアフリーはもちろん、『心の面でのバリアフリー』が日本に根づいてくれるといいな、と」



→ 佐藤真海選手のプレゼン全文(英語・日本語)







あふれる涙を止めることができずにいた松岡修造。だが、その心はむしろ引き締まっていた。

「喜んでばかりもいられませんでした。『やる』と言った以上、このオリンピックを絶対に成功させなくてはいけません」



イギリスは、ロンドン五輪で29個のメダルを取った。シドニー(2000年)の時には11個しか取れていなかったのに。

「ここまで変わったのは、オリンピック開催が決まる前から、国が主体としてサポートしていたからに他なりません」と松岡は言う。

「残念ながら今の日本は、国のサポートが十分とは言えません。2011年に『スポーツ基本法』ができましたが、その理念が具体化しているかといったらそうではないし、スポーツ庁もまだありません」

2012年度、日本のオリンピック強化予算は約27億円。それに対して、イギリス、アメリカ、中国などの強化予算は100億円以上。ドイツに至っては200億円以上だという。

Number誌「9月8日午前5時20分、開催地の名が読み上げられ、歓喜の輪が一斉に広がり、首都はお祭りムードに包まれた。ただ、喜んでばかりもいられない。あの瞬間、日本は開催国としての責務を負ったのだ。残された期間はあと7年。われわれは何をすべきなのか?」






「オリンピックの開催が決まった今、アスリートのモチベーションは信じられないぐらいに高まっています」

未来のトップテニスプレーヤーを自ら指導する松岡は、それを肌で感じている。

「『日本代表としてオリンピックで絶対にメダルを獲るんだ』という思いにあふれています。7年という時間はアスリートにとっては決して長くはありません。でも、彼らの高いモチベーションと周囲のサポートが合わされば、競技としての成功は不可能ではないと思っています」



水泳の「入江陵介(いりえ・りょうすけ)」も、東京開催が決まったことで競技継続のモチベーションが高まったという。

「自分では次のリオまでと考えていましたが、東京五輪がきまったことで、競技を続けられるなら続けたいという気持ちにもなりました」

18歳で北京オリンピックに出場した入江は、昨年のロンドンでは個人で銀と銅、メドレーリレーで銀メダルを獲得している。現在23歳、東京五輪では30歳になっている。

「30歳になって身体がどう変わっているかわからないけど、北島康介さんは去年タイムを伸ばしているし。科学的なサポートも充実して、30歳でも現役を続けるのが普通になっているかもしれないです」と入江は言う。

年上の先輩である山本貴司や松田丈志は、入江にこう助言した。

「ボロボロになるまで頑張っている姿を若手に見せるのも大事だ」






「一般的に、日本人はリスクを冒すということに関して、臆病になっていると言われています。1964年、東京五輪が開催された高度成長時代の日本は、もっとチャレンジ精神をもっていたんじゃないでしょうか」と松岡修造は言う。

「現在の日本では『自分は日本人です』と誇りをもって言える人が少ないのではないでしょうか。東京オリンピックは、消極的な日本を変える絶好の機会です。自分の国に対して自信をもつのに、これ以上の祭典はありません」

「僕は、若者も含めてすべての世代の人たちに自信を掴んでもらいたい。オリンピックには『計り知れないチカラ』があると思うのです」



スポーツの持っている力

佐藤真海は「その力って何なのか、はっきりとは分かりません」と言う。それでも彼女は、最終プレゼンの中でそれを明確に語っている。

「言葉以上の大きな力(more than just words)」



それは東日本大震災の被災地で垣間見た「スポーツの真の力(the true power of sport)」だったと彼女は言う。

被災した彼女は6日間も家族が行方知れず。ようやく家族の無事が確認された後は、スポーツを通じて「自信を取り戻すお手伝い(to help restore confidence)」を多くのアスリートたちと共に行ったという。

「新たな夢と笑顔を育む力(to create new dreams and smiles)、希望をもたらす力(to give hope)、人々を結びつける力(to bring people together)」

そうした力に、彼女は「言葉以上の大きな力(more than just words)」を感じたのだった。






東京開催が決定した時、松岡修造は「どうしてこんなに嬉しいんだろう?」とわからなかった。

だが数日後、ようやくその想いを言葉にすることができた。

「『日本は変わることが出来る』。そう感じたからこそ僕は、あふれる涙を止めることができなかったんです(松岡修造)」














(了)






関連記事:

選手たちの「心の声」、そして「支える力」。

伝統から「近代化」へ。レスリングの復権を賭けて

祝・五輪出場。「あと一歩」に届いた女子アイスホッケー。



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/3号 [雑誌]
「オリンピックがやってくる!」


0 件のコメント:

コメントを投稿