2013年1月5日土曜日

跳べ! 渡部暁斗(スキー・ノルディック複合)



高校2年生でのオリンピック選出。

それは本人も驚く大抜擢だった。



ノルディック・スキーの「渡部暁斗(わたなべ・あきと)」は、長野県白馬村の出身。

小学3年生の時に白馬のジャンプ台で目にした長野オリンピック以来、「自分もオリンピックへ!」と志すようになっていた。

その渡部は、2006年のトリノ五輪に高校2年生という若さで出場することになる。



当時、渡部を大抜擢した理由を聞かれた河野孝典ヘッドコーチは、こう答えている。

「ひとつ聞いたら10のことができる選手であり、着実に積み上げることのできる選手です」



このコーチの言うとおり、渡部暁斗はオリンピック初出場以来、着実にその実力を積み上げていくことになる。

初オリンピックとなったトリノ(2006)は、個人スプリントで19位という結果に終わったが、2度目のオリンピックとなったバンクーバー(2010)では、個人ラージヒルで日本人選手中最高位の9位、団体戦では6位入賞を果たしている。



世界選手権での成績は、もっと凄い。

2009年の世界選手権(リベレツ)では団体戦のメンバーとして「金メダル」を獲得(日本勢として14年ぶり)。

昨シーズンは個人での躍進が目覚しく、4度にわたって優勝。総合2位に輝く。「着実な歩みを見せていた渡部の才能が、一気に花開いた」。この快挙は「キング・オブ・スキー」の異名を取った荻原健司以来のものであった。



キング・オブ・スキー「荻原健司」は1993〜1996年にかけてW杯個人総合「3連覇」。双子の荻原兄弟が牽引したこの1990年代、日本勢の活躍や凄まじく、世界で圧倒的な強さを誇っていた。

オリンピックでは2大会連続の団体金メダル(1992アルベールビル・1996リレハンメル)。世界選手権でも、1993〜1997年の3大会で、団体で2つ、個人で2つの金メダルを荒稼ぎしている。

この時代、ノルディック複合(コンバインド)は、まさに日本のお家芸となっていた。



ところが、この日本の圧倒的強さは「裏目」に出る。

国際スキー連盟は日本勢が不利になるようなルール改正を何度も実施。具体的には、日本の得意としていたジャンプのポイント比率が下げられ、クロスカントリーを重視する方向へと動いていった(ノルディック複合競技は、前半ジャンプ、後半クロスカントリーで競われる)。



日本勢の勝利パターンは、前半のジャンプで他選手をブッチぎり、後半のクロスカントリーで逃げ切るというスタイルだったため、ジャンプのポイントを下げられてしまうと、たちまち低迷の淵へと転がり落ちていってしまう。

「その後、個人は二桁順位が当たり前、団体でも表彰台は遥か遠いものになってしまった…」



低迷のさなかにあった2000年代、日本チームが起死回生を図らんと大抜擢した選手の一人が、当時高校生だった「渡部暁斗」。彼はジャンプよりもクロスカントリーを得意とする選手であった。

ヘッドコーチの見越した通り、渡部は着実に世界での順位を上げていく。W杯での個人成績は、47位(2006)から始まり、38位(2009)、18位(2010)、11位(2011)、そして昨季は総合2位にまで到達した。

昨季の渡部によるW杯・複合個人優勝は、荻原健司(キング・オブ・スキー)、高橋大斗、河野孝典に続いて4人目であり、日本勢としては「8季ぶりの快挙」。ついに日本チームは王国復活の兆しを見たのであった。



日本代表のヘッドコーチ河野孝典は、渡部を「もっとも質問してくる選手」だと言う。

その貪欲な探求心によって、新しい技術を一つ一つ吸収していく渡部。入社した北野建設には、ジャンプの先輩である竹内択や横川朝治氏らもいる(ちなみにキング・オブ・スキー荻原健司も北野建設だった)。

クロスカントリーよりもジャンプを苦手としていた渡部は、大先輩らと練習をともにすることにより、不得意だったジャンプでも着実な成長を遂げることとなった。



さて今季のW杯、渡部暁斗は5戦中4戦で10位以内と「安定感」は見せているものの、最高位は今のところ6位。「昨シーズンの躍進を考えれば、物足りない成績にとどまっている」。

「原因は明確だ。開幕前に2度、ジャンプスーツのルールが変わり、その対応に追われるなどしたため、ジャンプの調子が上がっていないのだ」



それでも渡部は「時間をかけて、コツコツ積み上げる選手」。きっと新ルールにもいずれ対応していくだろう。

そして、その先に待つのは…、ソチ五輪。

日本がノルディック複合王国として再興する日は近づいている…。





ソース:Number web
「ノルディック複合で金メダルを狙う! 渡部暁斗は荻原健司を越えるか?」

2013年1月3日木曜日

メダルの次は「お嫁さん」。杉本美香(柔道)の潔さ



「『お嫁さん』です」

「人生の次の目標は?」と聞かれて、そう答えたのは女子柔道(78kg超級)の「杉本美香(すぎもと・みか)」。ロンドン五輪で銀メダルをとった杉本は、これを機に引退を表明したのであった。

「柔道に関するコメントを予想していた記者たちは、この意外な答えに『一瞬固まった』らしい」



「オリンピックでは、結果以上のものを得ることができましたので、満足感をもって引退とさせて頂きます」と杉本。

杉本にとってのオリンピックは「最初で最後」。惜しい銀だったものの、彼女にとっては「やり尽くしたという気持ち」が強かったのかもしれない。



「かつて、選手にとってオリンピックは『一生に一度のもの』だった」

練習施設やトレーニング理論が未熟だったため、選手生命は今よりも短く、アマチュアであるためにスポーツ以外の本業も強いられる。

「一度出たら、メダルを獲ろうが惨敗しようが『それで終わり』。そういう選手が珍しくなかった」



とりわけ「女子」はそうであり、東京オリンピック(1964)で金メダルを獲った「東洋の魔女(女子バレーボール)」もそうだった。

魔女たちの大会後の進路について聞かれた大松博文監督は、こう言った。「次は彼女たちの『嫁入り先』を探してあげるのが自分の仕事」と。

「確か、ほとんどの魔女たちは東京オリンピックの金メダルを最後に、結婚したのではなかったか」



こうした風潮が変わってくるのが、1990年代から2000年代にかけて。

マラソンの有森裕子は2大会連続の金メダル('92, '96)。田村亮子(現姓・谷)は5大会に連続出場してメダルを獲った('92〜'08)。レスリングの吉田沙保里もオリンピック3連覇だ。

そのほか、複数のオリンピックに出場してメダルを獲得した選手は少なくない。



「ダンナがいようが、子どもが生まれようが、本人にその気さえあれば競技生活を続ければよい」

今はそんな風潮に変わってきている。それだけ、女子選手たちが競技を続ける環境が整いつつある。

「子どものいる選手をいまだに『ママさん選手』などと表現するメディアの愚かさは、選手や世の中の感覚と遠く隔たっている」



「負けても次にがんばればいい」

これが現代のオーソドックスな考え方であり、「再チャレンジ」や「折れない心」というのは、ポジティブな意味で使われるようになっている。



一転、冒頭の引退会見での杉本美香選手の言葉は、じつにクラシカルであり潔(いさぎよ)い。

「オリンピックではやり切った。次はお嫁さんになる」というのである。



かつてのボクシング世界王者たちは、防衛に失敗すると引退したものであった。「負けたら終わりって、いつも思っていましたよ」とある元王者は語る。

そこには一戦一戦にかける「燃焼度の高さ」と「異様な集中力」が内在されている。

たとえば、大相撲の横綱も「負けたら終わり」という世界に生きている。



「勝敗は兵家の常」とは言うものの、やはり「負けたら終わり」でもある。

「負けても続ける」という「タフさ」は選手の力量を一層高めるのかもしれないが、それが許されない環境も確かにある。



女子柔道の杉本は、78kg超級という重いクラスであったため、その競技生活は「膝のケガとの戦い」でもあった。たとえ本人にその気があっても、次のオリンピックはなかったかもしれない。

きっと彼女は心に決めていたのだろう。勝っても負けても、これが最後だと。だからこそ、彼女の引退会見に涙はなく、「満面の笑顔」だけがそこにあったのだろう。

「杉本の引退は、久しぶりに『清々(すがすが)しさ』を感じさせた」



願わくは、彼女が「良いご縁」に恵まれんことを…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/10号
「一生に一度のメダルを手に、杉本美香は『お嫁さん』を目指す」

2012年12月29日土曜日

「世界一」までのカウントダウン。長友佑都(サッカー)



「世界一」宣言

サッカーの「長友佑都(ながとも・ゆうと)」は2年半前、「世界一のサイドバックになる」と宣言して、イタリアへと渡って行った。

しかし当時の彼は、「イタリアの地方クラブ(チェゼーナ)に移籍を決めたばかりのルーキー」に過ぎず、「天才でもなければ、エリートでもなかった」。



その長友佑都、今や、イタリア屈指のビッグクラブ「インテル」で「不動のレギュラー」を張るまでに急成長している。わずか2年半で…。

「持久力とスプリント力は世界屈指。前にも後ろにも、あれだけの運動量とスピードで走れる選手はそう簡単に見つからない。これに関しては、長友が世界トップレベルだと思いますね」

そう長友を高く評価するのは、「狂気のサイドバック」の異名をとった男、都並敏史氏(元日本代表)。長友の攻守にわたる「無限の上下運動」は、チーム戦術に大きな幅をもたらしている。

「左サイドに限定すれば、今の長友は間違いなく世界のトップ10に入ると思います(都並敏史)」



いったい何が長友をして、その実力を急成長させたのか?

イタリアに渡ったばかりの頃の長友を知っているエルメス・フルゴーニ(チェゼーナ時代のコーチ)は、こう語る。

「当時の長友は、戦術理解に難があった。イタリア流のポジショニングをつかみかねていたんだ。ピッチ上でいるべき場所、いるべきタイミング、そして何をすべきか」



2年半前、フルゴーニの目には、長友の「拙(つたな)さ」ばかりが映っていた。それでも、長友の「貪欲さ」には舌を巻いた。

「一度やると言ったら、絶対あとには引かない。ユート(長友)の練習に取り組む姿勢、あれは『覚悟』といった方がいいだろう」



いつも体当たりだったという長友。世界屈指のビッグクラブである「インテル」への移籍が決まった時には皆、「アイツなら必ずやれる」と確信していたという。

「成功を疑う人間は、誰一人いなかった(フルゴーニ)」



クラブW杯で世界一になったばかりインテルへ移籍した長友。その「貪欲さ」にはさらに磨きがかかる。

当時のインテルには、長友が憧れる「世界最高のサイドバック」がいた。マイコンだ(現・マンチェスターC)。その彼と同じチームになったからには「もう憧れとは言っていられない」。長友はマイコンを「超えるべきライバル」として、「吸収できるテクニックはすべて奪った」。



日々の練習への「覚悟」、そして「貪欲さ」。長友は昨季までに4人の監督に仕えているが、この覚悟と貪欲さは誰しもが認めるものであった。

インテルの現監督であるストラマッチョーニは、そんな長友への期待を大きく膨らませる。

「あいつはもっと危険な選手になれるし、彼は絶対に手放したくない選手だ」

ストラマッチョーニ監督に言わせれば、長友は「自分がインテルに来てから『最もうまくなった選手』」。加速度的な成長を続ける長友は、立ち止まることを知らぬようである。



世界のトッププレーヤーたちは「成り上がるのに時間をかけない」。ロナウドもイブラヒモビッチも「ステップアップを待たなかった」。

「最短距離で頭角を現して、ライバルを置き去りにすると、待ったなしで一気に上り詰める」



話飛んで、今季14節のパルマ戦。ミスを連発したインテルは「よもやの敗戦」を喫する。

この試合、インテルには天才司令塔のスナイデルもいなければ、長友とコンビを組むカッサーノもいなかった。悔恨の残る敗戦。険しい表情の長友は「ヘラヘラしている人間は一人もいない…」と試合後に語った。



「もし、スナイデルとカッサーノがいたら?」と聞かれた長友は、ピシリとこう言い放つ。

「そんなこと言っていたら、スクデット(セリエAのリーグ優勝)なんて獲れない。彼らがいなければ、僕らはサッカーができないのか? いやできない、と言うようだったら、本当の意味で優勝争いなんかできない」



長友の顔はもはや「独り立ちする男のそれ」。

世界一宣言から2年半、長友の心には「世界を4度制した国、イタリアのメンタリティ」がすでに宿っている。

「長友は、3ヶ月と同じところにはいない」



2年半前の世界一宣言は確かに、「怖いもの知らずの夢物語」に過ぎなかったかもしれない。

しかし今、長友は「凄まじい勢いで、その目標に近づいている」。

「世界一を目指す上で超えるべきハードルはもはや、『今より1m内側にシュートを打てるか』、『ドリブルを仕掛けるために25cmの幅を作れるか』、という微妙な差に過ぎない…」





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/10号
「セリエAを駆け抜けろ 長友佑都の成長サイクル」