2015年10月19日月曜日

札幌とリーチマイケル [ラグビー]



リーチマイケル(Michael Leitch)、のちのラグビー日本代表キャプテンは、ニュージーランドの南東、クライストチャーチ郊外のパパニュイに生まれ育った。

リーチは物心つく前から、幼なじみのニコラス・イーリ(愛称:ニック)とともにラグビーに明け暮れていた。

”マイケル(リーチ)にとって、ニックの家に遊びに行くことはちょっとした体験だった。というのもニックの母は札幌生まれの日本人で、刺身をはじめ、見たこともない日本食を食べさせてくれたからだ。育ちがよく、流暢に日本語を操る親友を見て、自分もあんなふうになりたいという思いが膨らんでいく(Number誌)

その大親友ニックが、日本の山の手高校(札幌)に留学するという。

それに続くようにリーチもまた、日本行きを志願した。






◆ウォーリー?



2004年6月下旬

新千歳空港で、黒田弘則氏(山の手高校ラグビー部コーチ)はじりじりしていた。今日の便でニュージランドから来るはずの交換留学性が、いつまでたっても出て来ないのだ。

その留学生の名前はマイケル・リーチ(15歳)。NZカンタベリー州で年代別代表に選ばれ続けている有望株だ。黒田コーチは「その若者はきっと筋骨隆々の猛者に違いない」と思い込んでいた。しかし閑散としてきた到着ゲートには、「モヤシのような外国人」が不安げにキョロキョロしているばかり。

「まさか…」

なんと、そのモヤシのようなヒョロヒョロが、かの”猛者”だった。



黒田コーチは言う。

「『ウォーリーをさがせ!』のウォーリーにそっくりなんです。これでラグビーできるの? と心配になるくらいヒョロっとしていて」

メガネこそしていなかったが、高校時代のリーチは、今の逞(たくま)しさが想像できないほど、細かった。





ウォーリーならぬリーチを預かったのは、寿司屋を営む森山家。

主人、森山修一さんは言う。

「私たち夫婦は英語がぜんぜん話せないから、留学生を預かるなんて困ったなぁと思っていたんです。でもマイケル(リーチ)は日本語を学びたくて日本に来たわけだから、無理して英語を話す必要もないだろうと、言葉も含めて日常生活では一切、特別扱いしませんでしたよ」

リーチに与えられた四畳半の一間。その天井には50音のひらがな表が貼られていた。

”森山家で10ヶ月、その後もチームメイト宅や蕎麦屋さんなどホームステイ先を転々としたが、リーチは外国人にありがちな自己中心的な振る舞いを一切しなかった。彼はむしろ古風な日本人のようで、誰からも好かれた。トラブルを起こすこともなかった。親友ニックの存在もあってホームシックに悩むこともなく、新天地の札幌は不思議なくらい居心地がよかった(Number誌)



山の手高校ラグビー部、当時のキャプテン、塚原隆敬さんは言う。

「マイケルはね、空気を読める留学生だったんです」

”ホストファミリーに「マイケル、何食べたいの?」と尋ねられると、大好物の蕎麦や寿司が食べたくても、気を遣って「いえ、何でも…」と小声で返す。塚原さんの家に暮らしていたときは、仲良くなった姉と一緒に沢尻エリカ主演のドラマ『1リットルの涙』を見てはウルウルしていた。気が乗らないカラオケの誘いも断らず、お付き合いでついていく。しかも場を白けさせまいと、一生懸命ふざけようとするのだ(Number誌)










◆豹変



リーチはシャイな留学生であったが、いざラグビーとなると人が変わった。

”ラグビーに向き合うと、”空気の読める留学生”にはない熱が噴き出してくる。練習でのマイケルは、仲間たちに得意のタックルを熱心に指導し、キャプテンを立てながらも、ポジショニングやサインプレーについて積極的に発言した。悪いプレーがあったら「それは違う」と躊躇なく指摘する。周りに気を遣うあまり食べたいものも言えないようなシャイな少年が、ラグビーでは素をさらけ出すのだ(Number誌)

その感心するほどのラグビーへのひたむきさ。祖国ニュージーランドでは考えられない”土のグラウンド”に膝をさんざんに擦りむきながら、「痛い」「つらい」といった泣き言はひとつとして言わなかった。いつも最後まで練習していたリーチ。少しでも筋肉をつけようと、夕暮れの校舎をひとり黙々と重りを抱えて走り続けた。

”密集でヒョウのような動きを見せるマイケルは、動きの鋭さ、激しさゆえに反則を取られることが少なくなかった。そんなときは黙っていない。血相を変え、英語で何か言いながら審判に詰め寄っていく。そのたびにマイケルのことが大好きな父兄たちは「いいから落ち着いて!」と叫ぶのだった(Number誌)

トンガ留学生を抱える正智深谷高校の監督、佐藤幹夫さんは、リーチと対戦したことのことをよく覚えている。

「細身のマイケルが、怪物のような敵に何度も吹き飛ばされても諦めずに食らいついて、ものすごいタックルを決めました。『ニュージーランドの男としてトンガ勢には負けられない』という意地があったんでしょうね」



リーチの山の手高校は、3年連続で全国の舞台、花園に立った。

しかし、いい思い出はない。いって2回戦だった。

”2年のときは2回戦で大工大に0-55と完敗。試合後には「本場の留学生といっても大したことない」という声を耳にして、悔し涙を浮かべた。0-55のスコアボードを背にうつむくマイケルは、まだウォーリーのように細くあどけなかった(Number誌)






◆大学時代



ニュージーランドの親友ニックは、1年で帰国していた。

だがリーチは高校卒業後、さらに東海大学へと日本に留まった。大学選手権での優勝は叶わなかったが、リーチはここで急成長をとげた。身体はずっと分厚くなって、プレーには凄みが宿った。

U20日本代表、そのキャプテンも任された。と同時に、本国ニュージーランドから声もかかって、世界最強オールブラックスへの可能性も見えていた。それでもリーチは日本を選んだ。



2008年、日本代表、初キャップ。

こうなってくると、リーチの日常は多忙をきわめた。

”(東海大学)木村監督は、代表チームの活動スケジュールを見て頭を抱えた。カレンダーは遠征と合宿に埋め尽くされ、肝心の授業には半分ほどしか出られない。監督とマイケルは、授業に出られないときは課題を提出することで出席扱いにしてもらうよう、担当教官に頭を下げて回った。何事もちゃんと取り組まないと気が済まないマイケルは、ジャパンでの過酷な4部練習を消化して、出られる授業にはすべて出て、大学の部活にも全力で取り組んだ(Number 誌)

木村監督(東海大学)は言う。

「絶対に手を抜いたりしないんです。レポートもコピペなんてせず、しっかりと自分で考え、漢字も交えた手書きの文章を書いてきました」



のちの日本代表の盟友、五郎丸は言う。

「リーチで思い出すのは、東海大のときの大学選手権で、帝京大がFW(フォワード)でひたすらボールキープしているとき、ラックにドカーンと体当たりしていたこと。反則をとられると分かっていても、黙って待っていられない勝負へのこだわり。勝ちたいという気持ちの強さが印象的だった」

一方のリーチ、こう返す。

「日本に来たばかりの札幌山の手高1年のとき、ゴローさん(五郎丸)は早大の1年生で、ずっとレギュラーで試合に出てて、キックがめちゃめちゃ上手いし、オフロードパスは上手いし、スゲエなと思ってた。テレビで見ていて『怖いなぁ』と思ってました。『オレに近寄るな』というオーラが出てた(笑)」






◆日本代表キャプテン



2011年、リーチマイケルはW杯の舞台にはじめて立った。

リーチは振り返る。

「試合の前は緊張しました。最初のフランス戦のウォームアップのとき、相手を見たらすごくデカくて、プレッシャーを感じました。でも試合がはじまったらその緊張感がスッと消えて、試合に集中できた。時間がたつのがすごく早くて、充実していた。本当に最高の舞台でした」



2014年、廣瀬俊朗から日本代表のキャプテンの座を引き継いだ。

リーチは言う。

「最初はイヤでした。最初にキャプテンをやれと言われたときは、ゴローさん(五郎丸)やハタケさん(畠山健介)、トシさん(廣瀬俊朗)に相談して『お前しかいない』と言われても『そんなことない』と思っていました」

キャプテンを譲った廣瀬は、そのときから裏方に徹した。練習では常に一番早くグラウンドに出て準備を整え、試合のメンバーを外れれば全力でメンバーのサポートに徹した。

「トシさん(廣瀬)にはいろいろなことを相談したけれど、いつも僕を安心させてくれた。僕にとってはメンター。トシさんがグラウンドの外のことを全部やってくれたから、僕はグラウンドの中のことに集中できた」



キャプテンになってから、日本代表のHC(ヘッドコーチ)エディ・ジョーンズと話す機会はずっと増えた。

リーチは言う。

「オレはもう日本に10年住んでいるし、日本の学校にずっと通っていたから、頭の中はかなり日本人になっています。日本人の考え方とニュージーランド人の考え方の両方があるんだけど、エディーは、オレの中の日本人的なメンタリティーにはすぐダメ出しをするんです。たとえば日本には、みんなが平等であること、みんながハッピーであることを良しとする考えがあるけど、オレがちょっとでもそういう考え方をだすと、エディーは『ダメだ。それじゃ勝てない』と言う。『スタンダードを落としたら絶対に勝てないんだ』と。オレもそれは分かるけれど、相手によっては、ここは優しく指摘したほうがいいかなという言い方を考えるときもある。だけどエディーに言わせると『その考え方は日本人的すぎる』となるんです。そういうことがよくありました」



2015年

リーチは期限付き移籍で、スーパーラグビーのチーフスへ。日本代表の練習を離れ、世界最高峰のリーグにもまれていた。

リーチは言う。

「スーパーラグビーに行っている間、LINEなんかで(日本代表の)チームメートの何人かとやりとりしていたけど、『これヤバイぞ』とホントに思ってた」

鬼軍曹エディーの課す日本代表への練習メニューは、スーパーラグビーさえも真っ青のハードさだった。

「クラウドにあげられた練習の映像を見たりして、そのたびに『ホントにハードな練習をしているんだなぁ…』と、胸が痛くなった。スーパーラグビーから戻ってジャパンに合流して、最初に感じたのが『みんな走れるなぁ』ということ。みんな強度の高いプレーができてるし、息が上がらない。『スゲエなぁ』と思った」



2015年、イングランドでのW杯前、日本代表は五郎丸率いる国内組と、リーチをはじめとする6人(リーチ、田中史郎、ツイヘンドリック、山田章仁、稲垣啓太、松島幸太朗)のスーパーラグビー組にわかれていたが、ついに合流。いよいよ世界との戦いがはじまろうとしていた。

その初戦は、W杯優勝2回の巨人、南アフリカ。

対戦前、リーチは言っていた。

「勝つイメージはあります。というか、勝つイメージしかない」










◆ブレイブ



エディーHC(ヘッドコーチ)は監督室から

「ショット!」

と叫んだ。



2015年W杯、南アフリカ戦
「29 - 32」の3点ビハインドで迎えていた後半残り0分

日本は南アのゴール前で、絶好のPK(ペナルティキック)を獲得していた。ショットが決まれば同点という場面だった。



当然、リーチの耳にはエディーからの「ショット!」の声は聞こえていた。

だが、ピッチを預かっているのはキャプテンたる自分である。

「戦っているのはオレたちだ」



リーチはあえて、エディーの指示を無視した。

レフェリーに、ショットではなく「スクラム」と伝えた。

リーチは言う。

「オレたちは南アに勝つつもりで今日まで準備してきたんだ。引き分けじゃつまらない。勝ちに行くと決めていた。相手の表情を見ても『やべぇ』という感じだったし足も止まっていた。木津(武士)もヤンブー(山下裕史)も『スクラムで』と言っていた。ナキ(マフィ)も『サイドでトライを取れる』と言っていた。チームが自信をもっていた」



PG(ペナルティーゴール)を狙わないと分かったとき、監督室のエディーは椅子を蹴り上げて、怒声を張り上げた。

「南アの怖さを知らないのか? 引き分けでも大事件なんだぞ!」

リーチの「スクラム」という選択は両刃の剣だった。決まれば歴史的勝利だが、しくじればみすみす同点、および勝ち点獲得のチャンスを逃すことになる。この場面、ショットこそが世界の常識だった。



それでもあえて、リーチは勝ちにいった。

仲間のFW(フォワード)の肩を叩くと、

「行くぞ!」

と叫んだ。



この勇気ある日本の決断に、3万人の大観衆は沸騰していた。

ジャッパン!

ジャッパン!

”フィールドの中の1ヵ所、スクラムを組む南アフリカのゴール前が、異様な熱量を発散する(Number誌)

運命のスクラムからボールが出た。リーチは自ら3度もボールをもち、南ア鉄壁の防御網へ「これでもか!」と突き進んだ。

”5次攻撃でリーチがゴール前右隅に持ち込む。南アのディフェンスが集まる。そこから日本は一転、左へ展開。日和佐から立川、マフィ、そして途中出場のヘスケスにボールが渡り左隅へ(Number誌)

トライ!

”W杯で過去1勝の最弱国が、優勝2回の最強国を破る。ジャイアント・キリングは完成した(Number誌)







「信じられなかった…」

エディーHCは言う。

「アシスタントコーチに何度も聞き直しました。スコアボードを見て、本当に信じていいのだろうか、と。自分は興奮するタイプではなく、終わるとホッとする方なのに、あの時ばかりは目の前で起きていることが信じられなかった」

エディーは続ける。

「リーチの選択はサプライズでした。でもあの朝、私はリーチと一緒に海岸に行き、コーヒーを飲みながら『今日は失うものは何もない』と話しました。そして『重要な場面でペナルティをもらい、もしも行きたいと思えば、ためらわずに行っていい』と話したんです。そうしたら、現実にそんな場面がやってきて、リーチはスクラムを選択した。本当に彼の勇敢な姿勢、心に私は感謝しています」



リーチは言う。

「キャプテンはあらゆることを考えて決断しないといけない。試合では、ピッチで身体をぶつけている人間だから分かる部分もある。エディーにも、自分で考えたとおり決断しろと言われています」

エディーもうなずく。

「リーチは試合が進んでいくなかで、『本当に南アフリカに勝てる』という手応えを得たのでしょう。彼はスーパーラグビーで南アフリカのチームとも試合をしていましたから。彼が『勝てる』という信念をもって選択し、その気持ちがチームにも伝わったのです」






歴史的勝利はあった。だが、W杯の予選プールは3勝1敗で敗退がきまった。3勝してなお決勝トーナメントには駒を進められなかった。

”ワールドカップが5チーム4組に分かれてプール戦を行なうようになった2003年以降、3勝してベスト8に進めなかったのは初めてのこと。「史上最強の敗者」、日本代表は大きな財産を手に、2015年大会を終えた(Number Web)



「次の目標こそ8強か?」

その問いかけにリーチは首をふる。

「それが目標になると、その目標に縛られてしまう。今回も、正直言うと、8強に入れないとわかった時点で、自分の中に少し動揺があった。もうそんなことに絶対左右されたくない。最初から最後までベストを出す。一つの試合を大事に。それでいい」






W杯開催地のイングランドから、遠く隔たった札幌。

「あの子はね…」

札幌育ちのリーチマイケルは、すっかり自慢の息子だ。

「マイケルは今でもフラッと、好物の寿司を食いに、”実家”に戻ってくるんだよ」






(了)






ソース:
Number(ナンバー)特別増刊 桜の凱歌。 エディージャパンW杯戦記[雑誌] Number



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2015年10月9日金曜日

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「勝つイメージはあります」

W杯の南アフリカ戦を前に、ラグビー日本代表の主将リーチは言っていた。





しかし、日本が南アフリカに勝てるなどとは誰も思っていなかった。

”南アフリカ代表スプリングボグス。恐るべき腕力と闘争心、おそろしく無慈悲、アパルトヘイト、人種隔離政策の黒い過去のもたらす影、その妙な深み。強い。… 敵の攻撃をぶっ潰す。ぶちかましに生きがいを覚える。そんな怪力国…(Number誌)” 

「どう見積もっても、最低で50点差をつけるのがスプリングボグス(南アフリカ)の仕事」と、マイク・グリーナウェイ(南アフリカ『ケープ・タイムズ』記者)は試合前に書いた。

”スプリングボグス(南アフリカ)には勝てない。白状するまでもなく思った。… 南アフリカのチームもやってきた。… 青い空。連中にとってはよい午後だ。本日ばかりは我らのボグス、スプリングボグスの負ける心配はまったくないのだから。断言できる。この時、この空間にあって、約4時間後の地球規模での大嵐を予測できた者は皆無だった(Number誌)” 



対戦前、ラグビー日本代表のエディ・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)は言っていた。

「南アフリカは相手にボールを持っていて欲しい。ディフェンスを好む国民なんです」

ジョーンズHCはかつて、8年前のW杯において優勝した南アフリカのコンサルタント(参謀)を務めていたことがあった。相手の手の内は知り尽くしている。一方で日本側の戦術は、本番までラインアウトもBKのムーブも封印、すべてをひた隠していた。



事件勃発の機運は満ちていた。

”ラグビー史に、いや、世界のスポーツの歴史に刻まれる大事件が、目の前で起きようとしていた(Number誌)










時計は70分59秒をさした。

ラグビーW杯、日本 vs 南アフリカ

残り時間、0分。

29 - 32

日本、いまだ3点のビハインド。



徹底して攻めた日本代表は、残り0分、南アフリカのゴール正面でPK(ペナルティーキック)を獲得した。

ここで日本代表は重大な選択を迫られた。

キックかトライか?



キック(PG, ペナルティーゴール)が決まれば3点。試合を同点に終わらせることができる。日本のキッカー五郎丸の成功率は80%以上だ。一方、一か八かでトライを選択すれば5点以上、つまり逆転を狙うことができる。が、失敗すれば0点、敗北が確定する。

”世界最強のディフェンス国を相手に、トライはそうそう取れるものではない。PG(ペナルティーゴール)を選択すれば、五郎丸歩が難なく3点を入れるだろう。引き分けでも大事件だ。南アフリカ代表スプリングボグスといえば、ニュージランド代表オールブラックスと並ぶ世界ラグビー最強国の双璧。世界最大の雄大な体躯で、愚直に頑強に、ひたすら激しいプレーを反復する。1995年から参加しているW杯で敗れたのは、5大会でわずか4度。ニュージーランドとオーストラリア、イングランドという優勝経験国以外には敗れていないのだ。そんな南アフリカと引き分けたなら、それは充分に事件だ。胸を張って引き分けを狙っていい。それは当たり前の選択だ(Number誌)

だが、桜のエンブレムを胸にした勇敢なる15人は、そうはしなかった。

主将リーチマイケルが両手で示したのは「スクラムの形」。



スタンドの3万人がどよめいた。

総立ちになった。そして絶叫した。

ジャパン!

ジャパン!

ニッポン!

ニッポン!

”日本のサポーター、中立のはずの英国のファン、さらには緑の南アフリカ・ジャージーを着たファンまでもが叫んでいた。日本代表の背中を押す声がスタジアムを覆い尽くす(Number誌)

リーチ主将は「同点じゃなくて、勝ちに行くことしか考えなかった。全員が勝ちにくという気持ちだった。その気持ちをガッカリさせるわけにはいかなかったし、トライを取り切る自信もあった」と試合後に語っている。



「南アフリカくらいなら押せますよ」

HO(フッカー)堀江翔太がそう豪語していた日本のスクラム。

日本がボールを動かす。

南アフリカの大男たちが、タックルに来る。

”普段なら鈍い音を立てて対戦相手を粉砕する緑のジャージー(南アフリカ)を、赤白のジャージー(日本)が鋭く突き飛ばす。右をブロードハーストが突く。左にもう一度リーチが出る。日和佐が素早くさばく。次から次へと繰り出される連続攻撃に、疲れ切った南アフリカFW(フォワード)の足はついていけない。目の前で起きている事態が理解できない。

「ありえないぞ…、こいつら何者だ?」

そんな悲鳴が聞こえてくる(Number誌)



ゴールラインまで、あと1m。

ここが勝負!

南アフリカのFW(フォワード)が必死に駆け寄ろうとするのを見すまし、日本は一気に攻撃の向きを変えた。立川がオープンへと大きくパスを飛ばす。

それを最高の男が受け取った。

日本の最終兵器、マフィだ!



マフィは左に流れながら突進、タックラーをハンドオフで外しながら、左へとボールを飛ばす。

その先にいたのは、ヘスケス!

本場ニュージーランド生まれの弾丸ライナー!


”最後のスクラムの直前、備忘のため手元の録音機に自分の声を吹き込んだ。「ヘスケス、ヘスケス」。組む前からそれしか言っていない。カーン・ヘスケスのあの強靭な足腰を南アフリカ人は知らない。そこで勝負!(Number誌)”


ヘスケスは言っている。

「スペースが見えた。そこに一直線にドライブすることだけ考えた」


トライっ!

トライだー!


ヘスケス「信じられなかった。起き上がろうとしたら、みんなが押し寄せてきた。あんな気持ちは初めてだ!」

”スタジアムの3万人は、もはや誰もが立ち上がっていた。悲鳴と絶叫がとどろく中、赤白のジャージーが左コーナーに滑り込んだ。ここに、世界のラグビー史上最大の…、否、そんな表現ではおさまらない、世界のスポーツ史で最大といっていいセットアップ(番狂わせ)が完結した(Number誌)



トライ成功!

スコアが、ついにひっくり返った。

日本 34 vs 南アフリカ 32



見たか!

ジャパンがやったんだぞ!

そう言わんばかりに、ラストパスを放ったマフィはジャージーの胸を両手で引っ張り、桜のエンブレムを観客たちに見せつけた。



ジョニー・ウィルキンソン(W杯2003優勝、イングランド代表)はすぐさま、こうツイートした。

「日本の素晴らしいパフォーマンス。私の心臓は最後の数分からドキドキして、今もまだそれが収まらない」

クライブ・ウッドロワード(イングランド優勝監督)は、こう言った。

「Wow, 日本がキックを狙わずトライを狙いにいったのは、W杯史上最大の決断、W杯史上最高の試合。ブリリアント!」


”ジャパンは、短気と実行力と毒舌と努力の指導者(エディ・ジョーンズHC)のもと、理の外の理を生きた。理にとどまってスプリングボグスをやっつけられるはずもない。だってスプリングボグスだぜ。 … 泥酔にふらつく中年の南アフリカ人に「ジャパン、見事なり」と声をかけられた(Number誌)

”鍵となったのは「Relentless Motion(容赦ない絶え間ない動き)」という言葉だ。Relentlessはアメフトでよく用いられる。相手に対して容赦なく襲いかかり、圧倒する。エディーHC(ヘッドコーチ)の場合は「 Motion」という言葉にオリジナリティがある。相手を疲弊させるほどの動き。この発想を実行するのは極めて難しいから、エディー以外は誰も掲げない。そして、南アフリカ戦で80分間それを実現させた。合宿の3部練習や、肉体を酷使したあとに午後6時からスクラム練習をするなど、常識はずれのメニューを課した結果が勝利へと結びついた(Number誌)

”誇張を嫌う英国BBC放送のサイトの報告記事に「奇蹟」とあった。 … 進行中のW杯の最終到達点がどこであろうとも、「ジャパン、スプリングボグスを倒す」の偉業は不滅だ。芝の上の勇士たちは、半世紀先まで英雄である。 … 向こう数十年、日本vs南アフリカ戦はいたるところで話題になる(Number誌)



「日本勝利」の歴史的価値は、ラグビーに疎い日本人よりも、むしろイングランド人のほうに衝撃をあたえた。

Out of a clear blue English sky came a thunderbolt
青く澄んだイングランドの空に稲妻(オブザーバー)

Great shock in sport
スポーツ史上最大のショック(サンデー・テレグラフ)

The biggest shock I will ever live to see
こんな衝撃は生きているうちにない(サンデー・タイムズ)



どこも感嘆詞のオンパレード。

「桜が満開」

「ロマンチック・アップセット(番狂わせ)」



そんな中、勝利の立役者、五郎丸はいつものポーカーフェイスでこう言った。

「これは奇跡じゃなくて必然です。ラグビーには奇跡なんてありません」










(了)






ソース:
Number(ナンバー) 887号 BASEBALL CLIMAX 2015 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))



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2015年9月25日金曜日

トンガからのNo8、マフィ [ラグビー]



「天からの贈り物」

ラグビー日本代表のHC(ヘッドコーチ)、エディー・ジョーンズがそう評価するのは、マフィ(Amanaki LELEI MAFI)。エディー・ジャパンの最終兵器ともいわれ、その身体能力たるや異次元。

”マフィは、エディー・ジャパンのアタックを完成させるラストピースだ。昨年11月に彗星のごとく代表デビューを果たした。世界でもトップレベルの突進力は、日本代表の攻撃オプションを大幅に増やすだろう(Number誌)



◆アマナキ・レレイ・マフィ


「私の家は貧しい。とても貧しい。これが最後のチャンス、そう思いました。ここで自分の力を出し切るほかなかった。そうでないとトンガに帰ることになる。私にとってはビッグゲームだったのです」

16人兄弟の15番目に生まれたマフィ。母国トンガでは家族が疲弊していた。このときマフィが ”ビッグゲーム” と言っているのは、大阪で開かれた3年前の「関西ラグビーまつり」。当時マフィは花園大学の3年生。関西大学南北対抗の北軍、ナンバー8として出場していた。

”チョコレイトの肌の北軍ナンバー8は、ひとり奮闘を続けた。タックル。トライ。またタックル。角界にたとえれば本場所でない「花相撲」に張り手をかまし、額をこれでもかとぶつけ、ちぎって投げれば鬼の目で睨みつけた(Number誌)

しかし結果は26-74。48点という大差の黒星。

大敗の芝生の上、マフィは何を思ったか。トンガの家族の姿であろうか。






◆日本代表



それから一週間後だった。

トップリーグ中堅クラブのNTTコムから電話がかかってきた。

「練習に参加してみないか」

見る人は見ていた。ひとり気を吐いていた勇士の力闘を。そしてNTTコムに内定。土俵際で日本に踏みとどまった。



トップリーグ開幕から、マフィは2戦連続出場。

日本代表のHC(ヘッドコーチ)、エディー・ジョーンズはこの大魚を見逃さなかった。即座に、このトンガ出身のルーキーの代表スコッド入りを、チーム関係者を通して伝えた。

”エディーの直感はよく当たる。日本代表を率いた4年間で、もっとも素晴らしい直感となったのが、マフィの起用だ。まだ一部のラグビー関係者にしか知られていなかったマフィをひと目見て、正確にはたった一回のプレーを目撃して、日本代表に加えることに決めたのだ(Number誌)

エディーは言う。

「そういう選手は突然、目の前に現れる。ひとりだけ『自分を選べ、自分を選べ』と訴えている。あの時のナキ(マフィ)がそうでした」



と同時に、母国トンガ代表のマナ・オタイ監督からも「招集したい」とのメッセージが入る。

「なんで、いきなり…」

マフィはトンガでU18、U19、U20と各年代別の代表選手に選考されていた。しかしオタイ監督からは「君のプレーを見たことがないので選べない」とすげなく断られていた。

「なのに、なぜいま…」

マフィの心はもう、日本代表に報いる決心をしていたのだった。トンガ代表への道が閉ざされ、失意のドン底にあった自分を拾ってくれたエディー・ジャパンに。






◆ナンバー8



2014年11月、アマナキ・レレイ・マフィは日本代表として、マオリ・オールブラックスとの初戦に途中出場した。

”後半12分、SO(スタンドオフ)の小野晃征が縦を抜くと、外に走り込んだマフィはインゴールへ。宙を舞って楕円球をおいた。あの瞬間、神戸のスタジアムにおける印象は「怪鳥」。バサッと羽根の音が聞こえた(Number誌)

結果は21-61の完敗だったが、HC(ヘッドコーチ)エディー・ジョーンズはマフィの力量を確信、翌週の第2戦には先発の8番を与えた。第2戦も18-20と惜敗したが、エディーHC(ヘッドコーチ)はマフィの奮闘を喜んだ。

「ナキ(マフィ)は信じられないほど良かった」



”マフィは続いて欧州遠征にも参加。ルーマニア、グルジア戦でキャップを獲得する。「100m走は2秒4。NTTコムで一番速いんです」。静止からの初速に優れる。どちらかといえば日本選手の得意な領域だ。ナンバー8のサイド攻撃では強さよりも一瞬の加速が効く。もちろんトンガ生まれらしく、骨きしむコンタクトなら骨まで愛している。スター誕生!(Number誌)

「シンデレラ・ストーリー」 

エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)は、この言葉でマフィを讃えた。






◆黒雲



2014年12月7日、悲劇がおこった。

”名古屋でのトップリーグ、トヨタ自動車戦。外国人枠の関係で後半24分に登場のマフィは、覇気をむき出しに当たり倒し、約10分後、ラックの場に倒れた。左股関節、脱臼骨折。指の先にあったW杯は瞬く間に視界をはなれた(Number誌)

マフィは言う。

「脚の下のボールを拾おうとしたら、誰かが背中に。音はしました。でも、どこを痛めたかはわからなかった。衝撃でした。でも、これが人生です」

手術からリハビリ。翌年9月開幕のW杯まで復帰が間に合うのか。ほぼ絶望的な重傷だった。



トンガの家族が脳裏にうかぶ。

トンガ王国のトンガタプ島。兄弟姉妹は総勢16人(男11人、女5人)。マフィは15番目。

”一家は、タロイモ栽培など農業で細々と生計を立て、海外在住の家族や親族の送金だけが頼みの綱。仕送りが途絶えると、乏しい食料を大家族で分け合わなければならなかった(Number誌)

マフィは言う。

「ハードライフ。ベリー・ハードライフ。でも、いま80歳の父は、なにひとつ、あきらめませんでした。感謝しています。尊敬もしている。そんな父にとって最も辛かったのは、私がトンガと日本の代表のどちらかを選ぶときです。それでも、”自分で決めなさい。必ずサポートする”と」



学業に秀でていたマフィは最初、「会計士をめざしていた」。京都の花園大学への留学は、日本で開催されたU20の世界大会「ジュニア・ワールド・チャンピオンシップ」での活躍がきっかけだった。

「ハナゾノは強いですか?」

勧誘担当にそう聞いたマフィは、「はい」の返事をもらって文学部に入学することになった。

「サンマン円、毎月もらいました。イチマンゴセン、ニマン、トンガに送ります。残りで生活。土日は(寮の)食事がないので、自炊のライスだけ食べることもよくありました」

卒業論文は『トンガ王国の葬儀』。マフィは敬虔なカトリック教徒だったが、臨済宗系の大学で日本文化をよく学んだ。



「私が怪我にもあきらめなかったのは、父のおかげです」

不屈の男マフィは、W杯をあきらめるわけにはいかなかった。

(W杯は)ベストの集まるベストの大会」



病室に、エディーHC(ヘッドコーチ)からジャージーが届いた。

そのジャージーに記されていた文字。

「9月19日 南アフリカ戦」

それはW杯初戦の日時であった。






◆痛手



奇跡の復活。

大怪我から8ヶ月後、マフィは決戦の地イングランドで、桜のエンブレムを身につけていた。



世紀のジャイアント・キリングを成した南アフリカ戦。終了間際の、劇的な逆転トライへのパスは、マフィの猛進によってつながれた。

”2点ビハインドで後半を迎えた時点では、南アフリカに試合をコントロールされそうな気配が漂いはじめていた。この嫌な流れを断ち切って、ふたたび日本の流れを作ったのが、後半5分にピッチ上に姿を現した背番号20番、マフィだった。マフィは最初のボールタッチから、関節に特別仕様のバネでも入っているかのような躍動的な突破を繰り返した(Number誌)

”圧巻はヘスケスの逆転トライにつながる、最終フェイズでのハンドオフからの正確な飛ばしパス。マフィは相手を腕で制してボールをつなぎ、劇的な逆転トライを演出した。マフィは後半だけのプレーにもかかわらず、日本チームで最高のゲインを獲得”


まさに「フィジカル・モンスター」、マフィ。

勝利後、得意の関西弁で、こう破顔した。

「夢が叶った! 勝つことができて、メッチャ嬉しかった!」



つづくスコットランド戦。

試合前、スコットランドは要警戒人物として先発のナンバー8、マフィの名前を上げていた。実際、0-6と突き放しにかかったスコットランドに、前半14分、魂のトライですがりついてきたのは警戒人物マフィだった。

”五郎丸のロングキックで相手陣5メートルまで迫って得たマイボールのラインアウト。モールを形成して左斜め方向へじわりじわりと押し、最後はマフィがインゴールで押さえた(毎日新聞)”

一気に1点差に詰めた日本。そのコンバージョン・キックを五郎丸が決めて、一時日本は7-6と逆転に成功。初戦の大金星につづく快進撃を予感させた。

”だが、マフィの右足は限界だった。前半33分には密集からダイブでトライを狙う果敢なプレーで沸かせ、後半3分には力強いランで攻め上がった。日本に反撃ムードが高まったが、同5分にアクシデントが襲った。密集で右太腿を痛めその場に仰向けになった。立ち上がれずに担架に乗ってピッチを退く。存在感を際立たせたトンガ出身の25歳には万雷の拍手が送られた。だが、日本はこれで流れを明け渡す結果となった(スポニチ)

試合中に病院に運びこまれたマフィ。松葉杖をついて会場に戻ってくるも、日本は10-45とスコットランドに敗れてしまっていた。

「大きな痛手」

エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)は、抜群の突破力を誇っていたマフィの戦線離脱に肩を落とした。






◆世界のマフィー


エディーは常づね、日本代表を「体格的に劣り、パワーが足りない」と評する。しかし、こう付け加える。

「マフィは例外」



そして2015W杯、最終戦となったアメリカ戦。

マフィは不死鳥のごとく、ピッチに舞い降りた。

”日本にとって最後の試合となったアメリカ戦、マフィは”アタック要員”として後半から投入された。そして相手ゴール前でのPK(ペナルティキック)のチャンスで「タッチキックをお願い」すると、責任はとるとばかりに、モールからの突破でトライを奪い、手がつけられない状態のまま大会を終えた(Number誌)



W杯を終えたマフィは言う。

「なかなか良い気分。ワールドチャンピオンを破った。ラグビーの歴史を変えた。夢みたい」

”マフィにはすでにフランスのトップクラブとの契約間近との報道があり、本人も「オファーはたくさんある」ことを認めている”

”ワンプレーをきっかけに日本代表入りを果たしたマフィは、W杯の舞台でもやはり、ワンプレーで世界の注目を集める存在となった”


「日本のヤマト魂! 

 ボクは日本人です!

 これからもヤルでぇ!!」










(了)






ソース:
Number PLUS(ナンバー プラス) ラグビーW杯完全読本 2015 桜の決闘 (Sports Graphic Number PLUS(スポーツ・グラフィック ナンバー プラス))



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2015年9月24日木曜日

歴史的敗北から歴史的勝利まで [ラグビー]



歴史的な敗北だった。

1995年6月4日
第3回ラグビーW杯、南アフリカ大会
「日本 vs ニュージーランド」

”漆黒のジャージーが、機械のように次々と、インゴールに走り込んでいた。長いパスが一本通ると、目の前にいたはずの赤白ジャージーは姿を消した。黒い軍団は、無人の野を往くがごとく、分刻みでトライの山を築いた。オールブラックス(NZ)145 - 17日本。ワールドカップの歴史に刻まれる、史上最多得点。敗れた日本から見れば、史上最多失点の試合…(Number誌)

この日、エディー・ジョーンズ(Eddie Jones)はオーストラリア、シドニーの自宅でこの試合のテレビ中継を見ていた。彼にとって日本は他人の国ではない。母方の祖父母の国であり、妻の母国である。

エディーは言う。

「よく覚えています。あの日はシドニーの自宅で、妻と一緒に居間のテレビで観ていました。オールブラックスのプレーがすばらしかったですね。しかし対戦相手のチーム(日本)が、しかるべき準備をして試合に臨んでいないことは明らかでした。努力、勇気、思考。すべてが欠如していた。ワールドカップの戦いだというのに、彼らはやるべきことを何もしようとしなかった。そのうえ、彼らは絶対にしてはいけないことをしていました。何かって? 『ギブアップ』ですよ。だから1分に1点以上も取られたんです」







歴史的敗戦から16年後、2011年9月16日。

日本はW杯の大舞台でふたたび、漆黒の軍団・オールブラックス(NZ)と対戦することになった。

”だが日本は、ベストメンバーを組まなかった。5日後のトンガ戦に必勝を期すために主力を温存。日本のメンバーを見たニュージーランドは、この試合でリッチー・マコウ主将、ミルズ・ムリアイナをメンバーから外した。オールブラックスとの試合を消化試合にする相手に、ベストメンバーなど出せないという意思表示だった。日本は無抵抗で敗れた。7 - 83というスコア以上の惨敗だった(Number誌)



「このチームを勝たせるのは、本当に大変な仕事だな…」

エディーは日本代表のHC(ヘッドコーチ)を引き受けるに際し、まずそう思ったという。










◆ハーフ、エディー



エディーの父はオーストラリア人。母は日本人。

エディーは言う。

「差別の厳しい時代、私は完全にオーストラリア人として育てられました。母から、”日本では友人の家を訪ねる時におみやげを持っていくのよ”、と教わった程度です」



ラグビー選手としての体格に、エディーは恵まれなかった(現役時代173cm, 82kg)。日本人とのハーフであったことから、「chink(侮辱語で中国人)」とバカにされた。

「生まれ育ったオーストラリアで、私が生き残るためには、何かを証明する必要がありました」

小柄さを補うため、エディーはスキルを追求した。

「あなたがHO(フッカー)で、ラインアウトのスローウィンがうまくできないなら、自分自身で毎日100本は投げなくてはならないのです」



しかし、努力は報われなかった。当時のワラビーズ(オーストラリア代表)は巨漢フッカーの発掘起用に傾いていた。エディーよりも優れたフッカーなどいなかったにもかかわらず、彼が代表に選ばれることはなかった。

”その次のレベル(ワラビーズ)に達するには、あまりにもスモールだった(『Inside the Wallabies』)





”身長と体重の不足が、彼(エディー)の虚勢じみた強気と献身をもたらした。ののしりの達人。激しさと荒っぽさはよく知られていた(『Inside the Wallabies』)






◆コーチ、エディー



コーチに転身したエディーは1996年、日本の東海大学と契約。

エディーは言う。

「東海大では、まず、レベルの低さに驚きました。今でこそ大学チームの中ではフィジカルの強化に力を入れている東海大ですが、当時は体は小さく、規律も低く、自分から練習に取り組む姿勢がありませんでした」

エディーは続ける。

「日本人の特徴として、従順を美徳とすることがあります。”自分では判断しない” ように育てられている。しかしラグビーでは、それは良い選手になるには大きな障害になります。ラグビーはいろいろはスポーツの中でも、最も状況判断を求められるスポーツだからです。その意味で、日本のチームを指導するのは、外から見ていた以上に難しいと実感しました」



2001年、エディーはオーストラリア代表のHC(ヘッドコーチ)に抜擢される。その歴史をつづった書には『Fast Eddie(容赦せぬエディー)』と題されている。

”エディー・ジョーンズは極めつけの喧嘩屋である。彼は衝突を愛している。彼はワーカホリック(仕事中毒)であり、目標に突き進み、おのれを律し、独裁的で、しばしば扱いづらい(『Inside the Wallabies』)

眠らない男エディーは "1日に10時間から14時間をコーチングに捧げた"。自身に対してのみならず、スタッフへの要求もとことん高い。「エディーと働くよりは、義理の母親と仕事をするほうがまだ楽だ」と代表のアシスタントコーチを務めたアンドリュー・ブレイドは語っている。エディーの厳しすぎる対人スキルに関してはオーストラリア協会も「疑問」を抱いたという。

”さりとてエディー・ジョーンズの博物学的なゲームの知識をとがめるのは、誰であれ不可能である。しばしば混迷、刻々と変化をとげるゲームの本質を、これほどまでに理解できる者など世に稀れなのだ(『Inside the Wallabies』)



2003年、自国(オーストラリア)開催でのW杯を前に、エディーへの批判は高まっていた。大会の約4ヶ月前にはオールブラックス(ニュージランド代表)に21-50の大敗を喫しており、本大会開幕後も、ワラビーズ(オーストラリア代表)は攻守に精彩を欠いていた。

迎えた準決勝、対オールブラックス戦。これがエディーにとって、キャリア最大の勝利となる。優勝こそイングランドに譲ったものの、開催国の面目は十分に保った。

次の2007年W杯においてエディーは、南アフリカ代表「スプリングボクス」のコンサルタント(助言役)としてW杯優勝に貢献した。



”エディーはつまり、普通の人間じゃない。だから国際ラグビーの領域にあって、毀誉褒貶にまみれながらも、絶対に軽視はされない(Number誌)










◆エディー・ジャパン



「勝ち方なら知っています」

2012年、ラグビー日本代表のHC(ヘッドコーチ)に就任してから、たびたびエディーはそう言っている。

エディーは言う。

「なぜニュージランドは強いのか? 監督がグラハム・ヘンリーからスティーブ・ハンセンに代わっても、同じように勝ち続けるのはなぜか? それは選手の育成システムが正しく機能しているからです。日本にはそれがない。これまでW杯で敗れたチームはすべて同じ問題を抱えていた。なのに日本ではW杯で敗れるたびにコーチに責任を負わせて、首をすげ替えるだけで、育成システムには手をつけずにきました」

過去7回のW杯において、ラグビー日本代表は一勝しかあげたことがなかった(1勝21敗2分け)。



就任直後、エディーは言った。

「いまはキックというアイディアはありません」

日本人の選手は自国のリーグ(トップリーグ)において、キック主体のプレーに慣れていた。ところがエディーは、そのキックを封印してしまったのだった。テーマは「プレー・ザ・ゲーム」、とにかく手にボールをもって攻め続けることだった。



成功への予感が実現しはじめたのは2013年。秩父宮で、初めてウェールズを破る大金星をあげた。

この試合、エディーは小兵の田中史 朗(たなか・ふみあき)を高く評価した。

「ウェールズは基本的に "弱い者イジメ" が得意なチームです。フミ(田中)は汚いプレーが許せなかった。イジメっ子が最も嫌がるのは、フミのような小さな人間に抵抗されること(田中史朗はウェールズの選手に食ってかかった)。フミが本気になって怒った姿が、ウェールズの選手たちのメンタリティに影響を与えたと思います」

田中史朗は小柄ながらも、世界最高峰のスーパーラグビー(SR)でプレーする、日本を代表する世界的な選手である。エディーは日本人によるスーパーラグビー(SR)挑戦を積極的にすすめてきた。

エディーは言う。

「より多くの選手をスーパーラグビー(SR)でプレーさせたいのです。選手は、レベルの高い選手とともに、レベルの高い大会でプレーすることで伸びる。(日本の)トップリーグでも世界のトップレベルの選手はプレーしているけれど、環境が甘すぎるのです。選手の大多数は世界的な大企業の社員として終身雇用されていて、トップリーグでのパフォーマンスがどうであれ、生活は保証されている。海外のリーグでそんなことはありえない。パフォーマンスが悪ければ契約を失ってしまう。選手たちは誰もが危機感をもってプレーしている。そのプレッシャーのなかで戦う経験は、日本では決して得られない」

エディーは続ける。

「外国から見ると、日本はそこまで真剣にラグビーに取り組んでいるわけではないと思われているでしょう。勝つことに執着していない。全力を尽くすことに価値をおいていない。残念ながら、2011年W杯のオールブラックス戦(主力選手を次戦にそなえて欠場させた一戦)で、そのイメージはさらに強調されてしまいました。最近も、あるウェブサイトで、日本のSRチームのニックネームがなかなか決まらない、いい名前を考えようという記事があって、こんな投稿がありました。『オリガミにしよう。キレイだけど、すぐ折れてくしゃくしゃになる。弱々しい』。こういう発言を見ると、本当に悔しい」






エディーは就任直後、こうも言っていた。

「遠からぬ時期、私は不人気(アンポピュラー)な存在となるでしょう」






◆キャプテンと副キャプテン



2014年、ニュージランド生まれのリーチマイケル(Michael Leitch)は日本代表のキャプテンを引き継いだ。15歳で日本に来たリーチは、日本人の妻をむかえて日本国籍を取得している。世界最高峰のスーパーラグビーでフルパフォーマンスを重ねる26歳。

リーチは言う。

「俺はもう日本に10年住んでいるし、日本の学校にずっと通っていたから(札幌山の手高校 → 東海大学)、頭の中はかなり日本人になっている。日本人の考え方とニュージランド人の考え方の両方があるんだけど、エディーは、俺のなかの日本人的なメンタリティーにはすぐダメ出しをするんだ。たとえば日本には、みんなが平等であること、みんながハッピーであることを良しとする考えがあるけど、俺がちょっとでもそういう考え方を出すと、エディーは『ダメだ。それじゃ勝てない』と言う。『スタンダードを落としたら絶対に勝てないんだ』と。俺もそれは分かるけど、相手によっては、ここは優しく指摘したほうがいいかなと言い方を考えるときもある。だけどエディーに言わせると『その考え方は日本人的すぎる』となるんです。そういうことがよくある」

副キャプテンの五郎丸歩(ごろうまる・あゆむ)が続ける。

「日本人としては、そう言われて嬉しくはないよね。でも、エディーは ”W杯の勝ち” を知っている唯一の人なんだから、ここは信じてついていくしかない」






W杯イヤーの今季、エディーは4月の始動から9月の本大会まで、ほぼオフなしの合宿を組んだ。トレーニングルームには最新鋭のマシンを大量に持ち込み、早朝から鍵を開けた。朝4時から夜9時まで、1日3回から4回のスーパーハードワーク。

エディーは言う。

「日本人の修正能力は高い。正しいトレーニングをすれば短期に改善します。他方、練習の強度が落ちると、あっけなく元へ戻ってしまう。ここがオーストラリア人と非常に異なるところです。だから日本の選手には常にハードなトレーニングを課す必要があるんです」

キャプテンのリーチは言う。

「そもそも6月だけで91回の練習セッションがあった。これ、普通のチームの3カ月分だよ(笑)。4年前のジャパンも『世界で勝つには走り勝つこと』と掲げていたけど、実際に走り勝てるだけの自信をつけてW杯に臨めたわけではなかった。でも今は、間違いなく世界一走れるチームになっている










◆田中と堀江



"On the same page"

ラグビーにおいて、選手全員が「同じページ」にいることが重要とされる。海外組の田中史朗と堀江翔太は、そうした意識が日本に欠けていると感じていた。



堀江「海外と日本で最も違うのはコミュニケーションの部分でしょう。海外ではコンセプトというか、どんな考えでやっているか、メンバー全員の意思統一が自然とできる環境があるんです」

田中「試合に出ている15人全員が『同じページ』にいること(On the same page)が重要だからね」

堀江「ラグビーは育った環境が違う選手たちが一緒になって戦うわけで、言葉に出さないと理解できない部分がある」

田中「みんながテキストの同じページを開いて、イメージを共有する状態をつくる。そのために練習があるわけで。ジャパンに合流してみると、コミュニケーションが絶対的に不足しているという印象が拭えなかった」

堀江「むこう(海外)では、試合中みんなずっと何かしゃべってますからね」

田中「うるさい(笑)。でも、それがいい」

堀江「ラグビーやるなら英語。ぼくは最初、『イエス』しか喋れなかったけど(笑)」



8月のトンガ戦のあと、田中史朗はチームメイトに苦言を呈した。

田中「自分のことを煙たがる選手も中にはいるけど、もっと勝ちにこだわらないといけない。外国出身の選手は勝敗の受け止め方が真剣というか、深刻なんです。練習メニューひとつとってみても、どんな目的があるのか、それを全員が理解するってことが重要だと思う。練習でメンバーが同じことを考えてないと、試合で同じ発想になれるわけがない。長い合宿で疲れていても、それは言い訳にならない」

田中は続ける。

「ラグビーは、最後の最後は選手の判断にかかってくる。たしかにジャパンは、エディーの敷いたレールの上を走ってここまでやってきた。アタックでも右、左、細かい約束事まで決めています。でも、最終的には選手の判断にかかってくるし、そうじゃなきゃプレーしてて面白くない」









◆4年間



監督就任から4年、エディーは言う。

「4年間という時間ですべては改善できない。私の誤算は、日本にはスピードがある選手がいないということでした。日本には持久力のある選手は多いけれど、スプリンターがいない。これは予想外でした。選手へのヒアリングを含めて調べていくと、日本のラグビー界は足の速い選手を育てようとしていないことがわかった」

エディーは続ける。

「たとえば藤田慶和は日本の高校、大学ラグビー界でずっとスーパースターでした。4年前はトレーニングを重ねれば、もっともっと速くなると思ったけれど、難しかった。18歳からスプリントトレーニングをはじめたのでは遅いということです。もし藤田が16歳からスプリントのトレーニングをしていれば、より速いスピードを身につけていたでしょう。しかし残念ながら、彼はその2年間も持久力優先のトレーニングをしていたのです」



一方、この4年間で出来ることは、やった。

エディーは言う。

「小さいチームがディフェンスで守り勝つのは不可能です。つまり、アタックの時間を増やさないと日本が勝つチャンスは出てこない。運動量で勝つこと、賢く勝つこと、スピードで勝つこと。」

そのためにはセットプレー(スクラム、ラインアウト)でボールを獲得することが重要になる。

「スクラムにはマルク・ダルマゾ(元フランス代表HO)を、ラインアウトにはスティーブ・ボーズウィック(元イングランド代表キャプテン)をつけて強化した。2人は世界でもトップクラスのスペシャリストです。その結果、スクラムとラインアウトに関しては、日本は世界で最も成功しているチームになりました



2015年ラグビーW杯イングランド大会を前に、エディーは言う。

「『日本は弱い』というイメージを覆せるのは、世界のすべてのチームが真剣勝負で臨んでくるW杯で勝つことしかない」

エディー・ジャパンの目標はW杯の8強。それは過去7大会で1勝しかしたことのない日本にとって、とてつもなく高いハードルである。










◆決戦前夜



少年ダビデと巨人兵ゴリアテの戦い。

2015W杯、日本の初戦となる南アフリカ戦を、エディーはそう喩えた。

「彼ら(南アフリカ)はW杯史上最高の勝率を誇っている(優勝2回、世界ランク3位)。経験豊富ですさまじいフィジカルを備えている。われわれはW杯最低の勝率で、W杯では最小のチームだ。普通は槍を持って戦うが、われわれは他のものを手に戦う。見つけたもので戦うことができる」

”格上の立場では、格下がオーソドックスなスタイルを掲げても、ちっとも怖くない。極端な戦法のもと猛練習を経てきたなら、たとえ体格と経験でこちらが優位でも少しは嫌だ。あいつらリングに上がってきたぞ。そうとらえるだろう(Number誌)



また、エディーはこうも言っていた。

「日本のチームは、リーグ昇格や降格がかかると、それまでになかった闘争心や結束力をいきなり見せる。日本人は、このチームのためにと心の底から思うと素晴らしい力を発揮するのです」

”鋭い分析だ。日本の選手は放っておくとオーストラリア人やイタリア人ほどには闘争的にはならない。そのかわり帰属集団への忠誠意識が浸透すれば、どこまでも捨て身になれる(Number誌)



南アフリカのメンバー表が発表された時、エディーは言った。

「南アは我々をリスペクトしてきた。2007年のオーストラリアも、2011年のニュージーランドも、日本戦には主力を温存して、Bチームを出してきた。今回、南アはそうしなかった。我々がやってきたことが、世界で評価され始めているのだ」

W杯で過去1回しか勝利をあげたことのない日本に対して、南アフリカはベストメンバーで臨んできた。ちなみに南アは過去W杯で4回しか負けたことがない。



”ラグビー日本代表が、W杯で南アフリカを倒す。果たして、そんなことが起こりうるのか? 南アフリカといえば世界に冠たる巨人国だ。間違いないのは、それが本当に起こったという事実だけだった(Number誌)





◆歴史的勝利



試合開始直後、日本は巨漢・南アフリカの波状攻撃にさらされた。その猛攻をなんとか踏み耐えた日本は、むしろボールをもぎとってターンオーバー(カウンター)を展開。得意のスクラムからペナルティーを得て、先制に成功した(五郎丸の3点キック)。

その後は、南アフリカに何度か得点をゆるすも、そのたびに執拗にくらいついて、前半40分は10-12という、わずかなビハインドで折り返した。そして後半最後の20分、いつもの日本ならば体力切れで一気に突き放されてしまう時間帯、日本はむしろ攻撃を活性化させた。逆に、南アフリカは消極的になった。

29-29の同点で迎えた72分、南アフリカは安全策であるPG(ペナルティー・ゴール)を選び、3点を確実にとったものの観衆からは大ブーイング。逆に日本は、最後の最後に獲得したPKで同点のキックを狙わずに、あくまでも逆転のトライ(5点)に邁進。見事、南アフリカの大きな壁をすり抜けてみせた。





2015年ラグビーW杯イングランド大会
日本 vs 南アフリカ
34 対 32

ラグビー史上にしっかりと刻んだ歴史的勝利、世界が沸いたジャイアント・キリング。ダビデ少年は巨人兵ゴリアテをねじ伏せた。

"Fortune Favors the Brave"
幸運の女神は、勇者にほほえむ。

史上最多失点で敗れた歴史的敗北、ニュージーランド戦から20年。エディーという起爆剤を得た日本は、至弱から至強への道を歩みはじめた。



スーパーラグビー制覇5回の知将、ロビー・ディーンズは言う。

「日本のラグビーは離陸しました。私はジャパンが8強へ進むだけの能力をもっていることについては疑いません」

そして、こう釘をさす。

「高度を上昇させられるかは、これから」













(了)






ソース:Number PLUS(ナンバー プラス) ラグビーW杯完全読本 2015 桜の決闘 (Sports Graphic Number PLUS(スポーツ・グラフィック ナンバー プラス))



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2015年8月31日月曜日

「100mはショーで、200mはアートだ」 [ウサイン・ボルト]



最初の衝撃は、2008年の北京オリンピックだった。

その時のボルトは、左スパイクの紐がほどけポイントを一つ失ったにもかかわらず、9秒69という世界記録を樹立した。

ボルトは言う。

「僕よりも他の選手たちが迷惑で大変だったかもしれないが …、まぁいい。あの出来事は、走っているときの僕は何も気にならないことの証明であるわけだ。ただ速く走ることしか頭の中にはない。そして勝つこと。完全に研ぎ澄まされているときは、身体のことなど何も気にならないし、集中力をなくすことのほうが難しい。何年もかけて僕は自分に自信がもてるようになったし、自分をよく把握するに至った」

この北京オリンピックの100m決勝、ボルトは最後を流したうえに、2位に0.20秒というオリンピック史上最大差をつけた。






子供時代のボルトは、父の影響を受けた。

「情熱は父親ゆずりなんだ。彼はクリケットが大好きで、すべての試合を見ていた。僕も6歳で父のウィルスに感染した。一緒にテレビを見て、ある試合でテレビで覚えたやり方でプレーしてみたんだ。僕が最年少だったから、みんな驚いていたよ。父は僕に一切のプレッシャーをかけなかった。陸上競技すらも、ジュニア世界陸上(2002、ボルト15歳)まではそれほど真剣ではなかった」



2004年、ボルトは17歳にしてジュニアの200m世界記録、19秒93を打ち立てる。

「周囲は練習の成果がでたと喜んだけど、僕はタイムが速すぎるし結果も早すぎると思っていた。スプリントの練習をしたことすらなかったからね。実際、その3週間後には怪我をして、シーズンが終わってしまった」

当時のコーチはフィッツ・コールマン。ボルトは自著『9.58』のなかで、筋力トレーニングのやり過ぎで自分が ”台無しにされた” と記している。

「現実の僕に何ができるかは一切考慮されず、まだ高校を出たばかりのジュニア選手に、一人前のプロ選手のトレーニングが課せられた。学校での僕は、全力を出し尽くす練習はしていなかった。生来の能力に頼って、適当に流していたんだ」


 


じつはボルト、陸上選手としては致命的な欠陥をかかえていた。背骨が湾曲していて左右の脚の長さが違ったのだ(脊柱側彎症)。

「2004年には真剣に引退を考えた。スピードトレーニングのたびに怪我してしまう。僕が側彎症(そくわんしょう)にどれだけ苦しんでいるか誰もわからなかったし、いくつかのメディアは僕はもう終わりだと報じた。僕自身も、彼らの言葉を信じはじめていた。グレン・ミルズにコーチを替えて、彼とある医者のところに行ったときに、はじめて希望がもてるようになった。その医者が適切な診断をして、腰と腹、背中のトレーニングメニューをつくってくれたんだ」

しかし、つづく翌年のヘルシンキ世界陸上、ボルトの評判は地に堕ちる。26秒27の最下位だった(ボルト18歳)。

「2005年のヘルシンキでは決勝まで進んだけど、股関節と脚を負傷して本来なら棄権すべきだったんだ。恐れをなしたとも、わざと負けるよう金銭を受け取ったとも言われた。スポーツは情け容赦のない世界だ。とりわけジャマイカでは、トップに立つ人間が転落する瞬間を待ち望んでいる」



そして2008年の北京オリンピック(ボルト21歳)、冒頭に記したとおり、ボルトは世界の頂点に立つ。

100m(9.69秒)
200m(19.30秒)
4×100mリレー(37.10秒)

三冠にして、すべて世界新記録という完全勝利だった。






ところが2011年(ボルト24歳)、ふたたび転落する。

韓国大邱(テグ)で開かれた世界陸上、ボルトは100mでDSQ、失格した。

「負傷で中断したシーズンの後に、大邱(テグ)の世界陸上に出場したときはちょっと不安だった。100mのフライングからは多くを学んだ。つねにリラックスすると同時に集中しなければならないこと、自分を見失ってはならないこと…。あの決勝はそうではなかった。誰もがよく知る、陽気でくつろいだ僕ではなかった。酷かったシーズンの汚名返上というプレッシャーを背負い、ふたたびピークに到達するために僕は戦いつづけねばならなかった。最高の舞台に到達したとき、すべてが同時に崩壊して僕は集中力を失った」



浮いては沈み、沈んでは浮く。

「必死で練習に取り組んだ。僕は若くして成功し、その後に困難なときを迎えた。その両方が、僕に自信を与えてくれた」

2012年のロンドン五輪では、ふたたび3冠(100m, 200m, 4×100mR)。モスクワでの世界陸上も3冠。不公平なほどに、ボルトは金メダルを首にかけた。

「マイケル・ジョーダンを見ればいい。超一流のアスリートであり、その世界で10年以上トップであり続けた。僕もそのうちの一人で、そこに不公平さは何もない。才能は誰にもある。とはいえ、他人よりも秀でた者がいるのも事実だ」

背中の障害(脊柱側彎症)に対して、ボルトはこう語る。

「神がうまく配慮したのだろう。背中の障害がなかったら、たぶん僕はこれほど速く走れなかった。脊柱に不安があったから努力したし身体を鍛えた。ものごとにはポジティブとネガティブの両面がある」





本来の彼は、”なまけ者”だという。

「家でゴロゴロしながらテレビを見ているよ。誰かが僕の代わりに仕事をしてくれるならば、喜んで代わってもらうね(笑)。ハードな練習の後はウダウダしたいし、ゆっくり休みたい。今は以前ほど怠けてはいない。相変わらずものぐさなのは認めるけど。(20年後は)自分のボロ家でくつろいでいるよ。3人の子供と妻といっしょに、沈んでいく夕陽を眺めている。そうありたいね」

コーチのミルズは、そんなボルトに厳しい。

「(禁欲生活は)シーズンの間じゅう求められるさ(爆笑)。できるものなら彼は、シーズンを通して僕にセックスを禁止するだろう(笑)」

ボルトは、”800m走れば死ぬ” と言っている。

「間違いなく死ぬな。2回ほど走ったけど、どうなったかといえば…。いや、僕には絶対に無理だ。あれを走れる人間を心から尊敬するよ。それからさらに距離が伸びていくわけだけど、まるで大気圏外に出るようなものさ。ときどき5,000mを見るけど、ほとんど病気としか思えない」





ボルトは語る。

「100mはショーでありドルだ。200mはアートでありテクニックであって、僕はこっちの方が好きだね。ミスする可能性も高いけど、スターティング・グリッドで滑ってもその後の走りで挽回できる。コーナーをうまく回れなくとも最後の直線で追いつける。とても複雑なんだ」

「とりわけ200mのコーナーワークに関しては、何年間ものトレーニングの集積だ。コーナーは僕の弱点で、克服のためモノ凄く努力した。ドン・クォーリーやマイケル・ジョーダンのビデオをよく見たし、クォーリーには直接質問をした。彼の説明はとても役に立った」






そして6度目となった世界陸上2015、北京大会。

レース前、ボルトはこう語っていた。

「(望むのは)伝説になること。すでに伝説だという人もいるけど、僕はそうは思っていない。今の僕は、先駆者たちが成し遂げたことを繰り返したにすぎない。金メダルを獲ること。世界記録を破ること。それを繰り返してこそ伝説になれるというのが僕の信条だ。僕は記録それ自体にこだわったことは一度もない。リオ五輪まで世界ナンバー1であり続けること。それこそが重要で、ほかは後からついていくる」



結果は、2大会連続の3冠(100m, 200m, 4×100mR)。

"ショー” である100mでは宿敵ガトリン(米国)を、0.01秒差で退けた(9秒79)。

「ここ何年かで、ガトリンが世界陸上に出場すれば必ず強敵になると思っていた。だから勝つためには、最高の走りをする以外ないとわかっていた。間違いなく、今までで一番難しいレースだった。今季は浮き沈みがあったし、良いタイミングでいろいろなことがうまくはまったという意味で、自分にとっては間違いなく、これまでで最高の勝利だ。僕は自分を疑っていないし、自分の力をわかっている。僕がやるべきことは良いレースをすることだ。完璧ではなかったが、良いレースはできた」

"アート” である200mでもガトリンに競り勝ち、大会4連覇(ベルリン、大邱、モスクワ、北京)。



余談ながら200m決勝後、ちょっとした事件が起こった。

セグウェイ(電動立ち乗り2輪車)の操作を誤った中国人カメラマンが転倒。乗り主を失ったセグウェイがボルトの脚を直撃。ボルトは後ろ向きにひっくり返った。

幸い怪我はなく、ボルトはこうおどけて見せてた。

「倒されちゃったよ。ガトリンによる復讐説を、これから広めようと思っている(笑)。でも大丈夫だ、心配ない」



このアクシデントに、ネット市民はこう反応した。

「ボルトを倒せるのは、あの男(カメラマン)だけだった」







 (了)






ソース:Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
ウサイン・ボルト「絶対王者の告白」



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