2015年8月31日月曜日
「100mはショーで、200mはアートだ」 [ウサイン・ボルト]
最初の衝撃は、2008年の北京オリンピックだった。
その時のボルトは、左スパイクの紐がほどけポイントを一つ失ったにもかかわらず、9秒69という世界記録を樹立した。
ボルトは言う。
「僕よりも他の選手たちが迷惑で大変だったかもしれないが …、まぁいい。あの出来事は、走っているときの僕は何も気にならないことの証明であるわけだ。ただ速く走ることしか頭の中にはない。そして勝つこと。完全に研ぎ澄まされているときは、身体のことなど何も気にならないし、集中力をなくすことのほうが難しい。何年もかけて僕は自分に自信がもてるようになったし、自分をよく把握するに至った」
この北京オリンピックの100m決勝、ボルトは最後を流したうえに、2位に0.20秒というオリンピック史上最大差をつけた。
子供時代のボルトは、父の影響を受けた。
「情熱は父親ゆずりなんだ。彼はクリケットが大好きで、すべての試合を見ていた。僕も6歳で父のウィルスに感染した。一緒にテレビを見て、ある試合でテレビで覚えたやり方でプレーしてみたんだ。僕が最年少だったから、みんな驚いていたよ。父は僕に一切のプレッシャーをかけなかった。陸上競技すらも、ジュニア世界陸上(2002、ボルト15歳)まではそれほど真剣ではなかった」
2004年、ボルトは17歳にしてジュニアの200m世界記録、19秒93を打ち立てる。
「周囲は練習の成果がでたと喜んだけど、僕はタイムが速すぎるし結果も早すぎると思っていた。スプリントの練習をしたことすらなかったからね。実際、その3週間後には怪我をして、シーズンが終わってしまった」
当時のコーチはフィッツ・コールマン。ボルトは自著『9.58』のなかで、筋力トレーニングのやり過ぎで自分が ”台無しにされた” と記している。
「現実の僕に何ができるかは一切考慮されず、まだ高校を出たばかりのジュニア選手に、一人前のプロ選手のトレーニングが課せられた。学校での僕は、全力を出し尽くす練習はしていなかった。生来の能力に頼って、適当に流していたんだ」
じつはボルト、陸上選手としては致命的な欠陥をかかえていた。背骨が湾曲していて左右の脚の長さが違ったのだ(脊柱側彎症)。
「2004年には真剣に引退を考えた。スピードトレーニングのたびに怪我してしまう。僕が側彎症(そくわんしょう)にどれだけ苦しんでいるか誰もわからなかったし、いくつかのメディアは僕はもう終わりだと報じた。僕自身も、彼らの言葉を信じはじめていた。グレン・ミルズにコーチを替えて、彼とある医者のところに行ったときに、はじめて希望がもてるようになった。その医者が適切な診断をして、腰と腹、背中のトレーニングメニューをつくってくれたんだ」
しかし、つづく翌年のヘルシンキ世界陸上、ボルトの評判は地に堕ちる。26秒27の最下位だった(ボルト18歳)。
「2005年のヘルシンキでは決勝まで進んだけど、股関節と脚を負傷して本来なら棄権すべきだったんだ。恐れをなしたとも、わざと負けるよう金銭を受け取ったとも言われた。スポーツは情け容赦のない世界だ。とりわけジャマイカでは、トップに立つ人間が転落する瞬間を待ち望んでいる」
そして2008年の北京オリンピック(ボルト21歳)、冒頭に記したとおり、ボルトは世界の頂点に立つ。
100m(9.69秒)
200m(19.30秒)
4×100mリレー(37.10秒)
三冠にして、すべて世界新記録という完全勝利だった。
ところが2011年(ボルト24歳)、ふたたび転落する。
韓国大邱(テグ)で開かれた世界陸上、ボルトは100mでDSQ、失格した。
「負傷で中断したシーズンの後に、大邱(テグ)の世界陸上に出場したときはちょっと不安だった。100mのフライングからは多くを学んだ。つねにリラックスすると同時に集中しなければならないこと、自分を見失ってはならないこと…。あの決勝はそうではなかった。誰もがよく知る、陽気でくつろいだ僕ではなかった。酷かったシーズンの汚名返上というプレッシャーを背負い、ふたたびピークに到達するために僕は戦いつづけねばならなかった。最高の舞台に到達したとき、すべてが同時に崩壊して僕は集中力を失った」
浮いては沈み、沈んでは浮く。
「必死で練習に取り組んだ。僕は若くして成功し、その後に困難なときを迎えた。その両方が、僕に自信を与えてくれた」
2012年のロンドン五輪では、ふたたび3冠(100m, 200m, 4×100mR)。モスクワでの世界陸上も3冠。不公平なほどに、ボルトは金メダルを首にかけた。
「マイケル・ジョーダンを見ればいい。超一流のアスリートであり、その世界で10年以上トップであり続けた。僕もそのうちの一人で、そこに不公平さは何もない。才能は誰にもある。とはいえ、他人よりも秀でた者がいるのも事実だ」
背中の障害(脊柱側彎症)に対して、ボルトはこう語る。
「神がうまく配慮したのだろう。背中の障害がなかったら、たぶん僕はこれほど速く走れなかった。脊柱に不安があったから努力したし身体を鍛えた。ものごとにはポジティブとネガティブの両面がある」
本来の彼は、”なまけ者”だという。
「家でゴロゴロしながらテレビを見ているよ。誰かが僕の代わりに仕事をしてくれるならば、喜んで代わってもらうね(笑)。ハードな練習の後はウダウダしたいし、ゆっくり休みたい。今は以前ほど怠けてはいない。相変わらずものぐさなのは認めるけど。(20年後は)自分のボロ家でくつろいでいるよ。3人の子供と妻といっしょに、沈んでいく夕陽を眺めている。そうありたいね」
コーチのミルズは、そんなボルトに厳しい。
「(禁欲生活は)シーズンの間じゅう求められるさ(爆笑)。できるものなら彼は、シーズンを通して僕にセックスを禁止するだろう(笑)」
ボルトは、”800m走れば死ぬ” と言っている。
「間違いなく死ぬな。2回ほど走ったけど、どうなったかといえば…。いや、僕には絶対に無理だ。あれを走れる人間を心から尊敬するよ。それからさらに距離が伸びていくわけだけど、まるで大気圏外に出るようなものさ。ときどき5,000mを見るけど、ほとんど病気としか思えない」
ボルトは語る。
「100mはショーでありドルだ。200mはアートでありテクニックであって、僕はこっちの方が好きだね。ミスする可能性も高いけど、スターティング・グリッドで滑ってもその後の走りで挽回できる。コーナーをうまく回れなくとも最後の直線で追いつける。とても複雑なんだ」
「とりわけ200mのコーナーワークに関しては、何年間ものトレーニングの集積だ。コーナーは僕の弱点で、克服のためモノ凄く努力した。ドン・クォーリーやマイケル・ジョーダンのビデオをよく見たし、クォーリーには直接質問をした。彼の説明はとても役に立った」
そして6度目となった世界陸上2015、北京大会。
レース前、ボルトはこう語っていた。
「(望むのは)伝説になること。すでに伝説だという人もいるけど、僕はそうは思っていない。今の僕は、先駆者たちが成し遂げたことを繰り返したにすぎない。金メダルを獲ること。世界記録を破ること。それを繰り返してこそ伝説になれるというのが僕の信条だ。僕は記録それ自体にこだわったことは一度もない。リオ五輪まで世界ナンバー1であり続けること。それこそが重要で、ほかは後からついていくる」
結果は、2大会連続の3冠(100m, 200m, 4×100mR)。
"ショー” である100mでは宿敵ガトリン(米国)を、0.01秒差で退けた(9秒79)。
「ここ何年かで、ガトリンが世界陸上に出場すれば必ず強敵になると思っていた。だから勝つためには、最高の走りをする以外ないとわかっていた。間違いなく、今までで一番難しいレースだった。今季は浮き沈みがあったし、良いタイミングでいろいろなことがうまくはまったという意味で、自分にとっては間違いなく、これまでで最高の勝利だ。僕は自分を疑っていないし、自分の力をわかっている。僕がやるべきことは良いレースをすることだ。完璧ではなかったが、良いレースはできた」
"アート” である200mでもガトリンに競り勝ち、大会4連覇(ベルリン、大邱、モスクワ、北京)。
余談ながら200m決勝後、ちょっとした事件が起こった。
セグウェイ(電動立ち乗り2輪車)の操作を誤った中国人カメラマンが転倒。乗り主を失ったセグウェイがボルトの脚を直撃。ボルトは後ろ向きにひっくり返った。
幸い怪我はなく、ボルトはこうおどけて見せてた。
「倒されちゃったよ。ガトリンによる復讐説を、これから広めようと思っている(笑)。でも大丈夫だ、心配ない」
このアクシデントに、ネット市民はこう反応した。
「ボルトを倒せるのは、あの男(カメラマン)だけだった」
(了)
ソース:Number(ナンバー)884号 特集 本田圭佑 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
ウサイン・ボルト「絶対王者の告白」
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