2014年5月31日土曜日
力でかからない技の壁 [合気道]
「強く握らない」
須一和晃(すいち・かずあき)師は言う。
「皮一枚で握る」
強く骨まで握ってしまうと、相手の力と衝突してしまって技がかからなくなるのだという。
師は子供の頃、よく多摩川で遊び、泳いでいる魚やマナズを手づかみで捕っていたそうだ。
「魚をつかむ時、ギュッと強く握ると、もがいてすぐに逃げてしまう。ところが、そっと包むように軽くつかむと、ナマズもじっとしている」
力を入れてつかもうとすると、相手は必ず反発する。そうなれば、あとは力比べの世界。パワーとスピードに勝るほうが有利になってしまう。
だが、須一師の求める合気道は、そこにはない。
「合気はけっして格闘技ではない。格闘してはいけない。力と力を衝突させてはいけない。瀬戸物と瀬戸物がぶつかりあえば、両方とも割れてしまう。だが、もし片方が真綿であれば、どちらも傷つかない」
真綿のような柔らかさ。
その基本となるのが「相手を強く握らない」。
たとえ、力ずくでしか打開できないような形に極められたとしても、須一師は力をつかおうとはしない。
「力まず、相手の皮一枚を動かせばよいという気持ちの、柔らかな掴みによって、相手に”念(おも)い”を伝えていく」
「念(おも)い」、と須一師は言う。
それは、”気”とも”心”とも呼ばれる、万物万象を生かすエネルギー。
「筋力や体重を超えるパワーを相手に伝える秘訣は、この”念い”を使えるかどうかにある」
そのことに須一師が気付いたのは、力ずくではかからない技の壁に突き当たった時だった。
「ある時、ふっと技がかかってしまった。その違いは”念い”だった」
——真下に流れていく”流れの念い”を抱くと、体重をかけたり力んだりしなくとも相手は真下に崩れる。相手の丹田に向かう流れの念いを抱くと、相手は後方へと崩れていく(月刊秘伝)。
たとえば”小手返し”という技は、相手がどれほど踏ん張っていようとも、自分の手を静かに下ろすだけで、自然とかかった。
「ただ上げて、下ろす」
手を上げたり下ろしたりする単純な動作も、それが”本当にできる”ようになれば、合気の技のすべてができるようになる、と須一師は言う。
——”本当にできる”とは、どういうことか? たとえば誰かに手首を抑えられていても、自由に手を上げたり下げたりできる、ということである(月刊秘伝)。
ただ上げて下ろす。
その技を練るために、須一師は木刀の素振りを毎日何千本と行った。
「木刀と喧嘩しないこと。その手に触れる何ものとも喧嘩しないのが合気の原則」
結果としてその素振りは、他者にその手を抑えられても止められない振りとなった。
須一師に合気の道をひらいたのは、植芝盛平だったという。
それは昭和43年、合気道の開祖とされる植芝盛平の最後の演武、「合気の神髄」を見に行った時だった。
その想像を絶した凄まじさに、思わず言葉を失った。
「合気とは…」
植芝翁は言った。
「天地・大宇宙と一体になることによる、引力の錬磨である」
須一師はまた、京都醍醐寺で修業した真言密教の僧侶でもある。
「蒔いた種は、自分が刈り取らなければならない」
この仏教の教え、いわゆる因果の法則を合気に応用すると、相手の攻撃力をそのまま相手に返すだけで、相手は自分が発したエネルギーで縛られることになってしまうという。
師曰く、
「覇道を生きる者は、苦しみと闘争の世に生きることになる」
(了)
ソース:DVD付き 月刊 秘伝 2014年 05月号 [雑誌]
一心館合気道・須一和晃「合気の実態は念いにある」
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2014年5月30日金曜日
石川佳純、自分の感覚 [卓球]
ロンドン五輪
女子卓球で、こんなシーンがあった。
試合中に、サービスを迷った石川佳純(いしかわ・かすみ)。
監督の村上恭和(むらかみ・やすかず)にアドバイスを求めた。
村上は「相手のバックハンドにロングを」と助言。
——ところが石川は、相手フォアハンドに短いサービスを出し、得点をとった。村上の助言とは真逆のプレーである(Number誌)。
試合後、石川はこう言った。
「相手の眼をみたら、監督と同じことを考えてる気がしたので、逆のサービスを出したんです」
それを聞いた村上監督、「それでいい」とうなずく。
村上監督は言う。
「石川は私の言葉を参考に、”自分の感覚”で決めた。それが一流です。ギリギリの場面で『監督、決めてください』という選手はダメです。
ロンドン五輪、女子卓球は銀メダル(日本初)という快挙を成し遂げた。だが、決勝では中国に敗れた。
中国との距離を問われた村上、しばしの沈黙のあとに口をひらく。
「4年間で追いつけるというような、そう簡単な力の差ではありません」
そして迎えた今年2014の世界卓球。
——地元開催の日本が大会を盛り上げ、女子が2位、男子が3位に入った。とくの女子の決勝進出は、東京大会(1983)以来31年ぶりのこと。断トツの中国につづき、日本が2番手の地位を固めたことを世界に示した(Number誌)。
中国の壁は、万里の長城よりも高く固い。
石川佳純も決勝では、李暁霞(り・ぎょうか)にストレートで敗れた。
それでも村上は
「中国に通用したのは石川だけ」
と答えた。
(了)
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 6/5号 [雑誌]
村上恭和「卓球は自分の頭で考え、行動しなければ勝てないんだ」
2014年5月29日木曜日
マラカナンの悲喜劇 [ブラジルとウルグアイ]
第二次世界大戦後、初のW杯
1950年、ブラジル大会
その最後の一戦で、歴史は軋みをあげた。のちにサッカー史上、最大の悲劇といわれることになる「マラカナンの悲劇」が、この時起こる。
それまでのブラジルはじつに好調で、決勝リーグでスウェーデンに7対1、スペインに6対1と圧勝。最終戦でウルグアイに引き分けさえすれば優勝という好位置につけていた(ちなみにこの大会、最後まで総当たりのリーグ戦方式で戦われた)。
その怒濤の勢いのままに迎えた最終戦
ブラジル vs ウルグアイ
開催国ブラジルは、戦う前から戦勝気分に酔い痴れていた。
——新聞には早くも「我々は世界チャンピオンだ」という見出しが掲載され、浮かれたムードがブラジル全土に広がっていた。代表宿舎には政治家たちが絶え間なく訪れ、選手たちは休む暇もなく、宣伝用の記念撮影に応じなければならなかった(Number誌)。
そして、1950年7月16日
決戦の舞台となったマラカナン・スタジアム(リオデジャネイロ)は、およそ20万人を超えるブラジル人サポーターでひしめき合っていた(不正入場も含めると25万人とも)。
——試合前の写真撮影では、ほぼ全員のフォトグラファーがブラジルの方へ流れていく(Number誌)。
ところが結果は…
——誰もがブラジルの優勝を信じて疑わなかった大会で、(ウルグアイは)スタンドの大観衆を敵に回して逆転勝利。大番狂わせを達成した(Number誌)。
1-1で迎えた79分、ギージャ(ウルグアイ)が決勝点を決めた。20万のブラジル人は静まりかえり、2人が自殺、2人がショック死、20人以上が失神。
「小国ウルグアイが、大国ブラジルを執念で撃沈した!」
マラカナッソ
日本では「マラカナンの悲劇」と訳される、ブラジル代表の衝撃的な敗戦であった。
——優勝祝賀会のために用意された打ち上げ花火は廃棄され、2失点を許したGK(ゴールキーパー)バルボーサは、2000年に79歳で他界するまで「2億人のブラジル国民を泣かせた男」と罵られた(Number誌)。
一方、戦勝国ウルグアイでは
”マラカナッソ”と言えば「ウルグアイ代表による大金星」という、まったく逆の意味になる。
あるジャーナリストなどは「マラカナッソは奇跡でも偶然でも、幸運の賜物でもない。ウルグアイが勝って然るべき試合だった」とまで言い切る。
「何よりまず、当時のブラジルは強豪と呼べる存在ではなかった。1940年代、サッカー界のトップにいたのは間違いなくウルグアイとアルゼンチンで、欧州のクラブも積極的に両国に遠征し、われわれからサッカーを学んでいたんだ(アティリオ・ガリード)」
統計をさかのぼると、ブラジルW杯が開かれる1950年までに、ウルグアイは五輪での2大会連続金メダル(1924, 1928)を含め、11個のタイトルを獲っている。
また、サッカーW杯が産声をあげたのも、他ならぬウルグアイの地であった(1930)。そして、その栄えある初代優勝国となったのもウルグアイである。
一方のブラジルは、それまでにW杯を掲げたことがなかった(ブラジルが初めてその栄冠を手にするのは、マラカナンの悲劇から8年後のスウェーデン大会。サッカーの神様となるペレの登場を待たなければならない)。
じつは、マラカナンで両国が激突するその2ヶ月前、ウルグアイとブラジルの間では3連戦が行われていた。
——結果、ブラジルが2勝1敗と勝ち越すが、逆に自信を深めたのはウルグアイの選手たちだったという(Number誌)。
先述のジャーナリスト、アティリオ・ガリードは言う、「ブラジルの2勝はイギリス人の主審に助けられたものだったし、じつはウルグアイは協会の政治問題から監督が不在だった。だから選手たちは確信したんだ。『監督もいない状態で3戦ともゲームを支配できたのだから、ワールドカップでは絶対に勝てる』とね。
——当時のウルグアイには、鍵となるポジションに優れた選手がそろっていた。経験豊富なベテラン勢による堅固な守備に、スピードを最大の武器とする若手FW陣。それに対してブラジルは、長年の課題だった守備の脆さを改善できないどころか、フラビオ・コスタ監督がベストの布陣を見出せず、試合ごとに選手を入れ替えている状況だった(Number誌)。
マラカナンでの決戦は、冒頭に記したとおりにウルグアイの勝利におわるわけだが、ブラジル唯一の得点となったフリアサのゴールにも疑問符がつきまとう。
「フリアサにパスが出た瞬間、線審がフラッグを挙げたのが見えた。完全にオフサイドだったからね」と、当時のウルグアイのキャプテン、オブドゥリオ・バレーラは語る。
「でもプレーがそのまま続くと、フラッグはすぐに降ろされた。ゴールが決まった後、俺はボールを抱えてすぐ線審に文句を言いに駆け寄ったよ。20万人のブラジル人から恐ろしいほど残酷なブーイングを浴びながらね」
結局、フリアサ(ブラジル)のゴールは大観衆に押し切られた形となった。
「チーム全員に、落ち着くように言い聞かせた。焦ったら、虎ども(ブラジルの選手たち)に一口で喰われてしまうからな」とキャプテン、バレーラは肩をすくめてみせる。
それでもウルグアイは、フアン・アルベルト・スキアフィーノのゴールで同点に追いつくと、その後も冷静な試合運びで攻撃を続け、後半79分、ギージャの”あの決勝点”が決まるのであった(最終的にギージャは、グループリーグのボリビア戦から全試合でゴールをマークしたことになる)。
「ウルグアイは勝つべくして勝ったんだよ」
先のジャーナリスト、アティリオ・ガリードは確信にみちた声でそう断言した。
そして今年2014年、ブラジルが”マラカナンの悲劇”以来、64年ぶりに2回目の開催国となる。
必然、開催国優勝という悲願は、時を超えてふたたびブラジルに渦巻く。
(了)
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 6/5号 [雑誌]
「”マラカナッソ”は悲劇なんかじゃない」
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2014年5月28日水曜日
書籍『ベーブルースと大戦前夜』 [野球]
「バンザイ! 万歳! 万歳!」
銀座にあつまった数10万人の大歓声
アメリカのホームラン王『ベーブルース』の来日(1934)
大歓迎パレードにむかえられた大リーグ選抜チームは、北は函館から南は九州小倉まで、計16試合を転戦。
迎え撃ったのは、日本の職業野球チーム「大日本東京野球倶楽部」。
——ベーブルースは、少年たちに煙草の煙を吹きかけ、雨中の試合では傘を手にとり、と天性のショーマンぶりを発揮する。大リーガーたちは、ホテルのない地方都市での畳の部屋に戸惑う(Number誌)。
しかし時は、満州事変から日中戦争、ひいては日米開戦にいたる険悪な情勢。
——不穏な日本軍の動き。スパイのような活動をするモー・ハーグ捕手。行き詰まる日米交渉の打開のために、野球による友好促進に望みをかける駐日大使ジョセフ・グルー(Number誌)。
そんな機運のなか、正力松太郎は野球と新聞を結びつけ、世論の高揚をはかる。
すると激昂した右翼は、天皇の名を冠した明治神宮球場をアメリカ人の試合で汚したと、正力を国賊として襲撃。
ベーブルースは「万歳!」と熱狂的に出迎えられる一方で、「地獄に落ちろ!」と痛烈な罵声も浴びる。
ところで日米野球の結果は?
16試合を戦い、日本は全敗。
大敗後、「大日本東京野球倶楽部」は「巨人軍」となって日本のプロ野球の扉が開く。
今年(2014)は、それから80年。
すなわち、日本にプロ野球が誕生して80周年である。
(了)
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 6/5号 [雑誌]
「大スター来日がはらむ光と影」
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2014年5月27日火曜日
映画『ネクスト・ゴール』 [サッカー]
「0 - 31」
そんな大敗が、サッカーの歴史にあった。
2001年4月 日韓W杯の予選
サモアとオーストラリアとの一戦だ。
——米領サモアは、この試合で大敗を喫した。それも並みの数字ではない。0対31。サッカーの国際Aマッチ史上最悪の大敗だ。資料を調べると、22対0(オーストラリア対トンガ)とか、20対0(クウェート対ブータン)とかいった記録がでてくるが、31対0は他を圧する。(Number誌)。
サモア代表のGK(ゴールキーパー)、ニッキーはひどく傷ついた。
「ひとつ勝ちたい…。そしたら、幸せな人間として死ねる」
米領サモアの弱さは、つとに知られていた。1994年のFIFA加盟から、2011年までの18年間、30戦全敗。総得点12に対して、総失点は229にものぼっていた。
まさに「世界最弱」。いわゆるドアマット・チーム、踏みつけられる一方。
ところでアメリカ領であるサモアは、南太平洋に浮かぶ人口5万5,000人の、小さくも美しい島。地場産業はなく、若者の多くは軍に入ってアメリカ本土に渡るという。
先の大敗、パスポートの不備でレギュラー選手がほとんど出場できなかったとはいえ、この惨敗は凄まじかった。選手全員が”仕事をもった寄せ集め集団(無給)”なのだから無理もない。
映画『ネクスト・ゴール』は、そんなサモア代表のドキュメンタリー(実話)である。
——そうか、負け犬がはい上がる話か。と考えるのはまともな反応だ。しかし、どんな負け犬がどんな道筋をへてはい上がるのか?
その起爆剤となるのが、オランダから派遣された新監督、トーマス・ロンゲン。かつてMLSのDCユナイテッドをカップ戦王者に導いた経歴をもつ、熱血漢。
——優秀だが、昔気質で口の悪い監督は、またたく間に島の反感を買うことに。しかしその厳しい指導と熱意は、次第に選手たちの意識を変え、チームは少しずつ強くなる(公式HP)。
サモア出身の元横綱、武蔵丸はこう評する。
「この映画を通して、アメリカ領サモアの素晴らしい文化、島民皆が家族のような温かい関係性、そしてありのままの自然や景色を体感してほしい」
勝村政信(俳優)
「サモアと日本のサッカーの成り立ちがとても似ていて驚いた」
澤穂希(なでしこ)
「数年前には大津波が国土を襲い、多くの犠牲があったこの国で、愛する人のため、仲間のため、そして母国のために立ち上がる代表選手たちから、多くの感動と勇気をもらいました」
宮間あや(同)
「心が震えるほどの、この感動」
玉木正之
「スポーツ映画で泣いたのは、『フィールド・オブ・ドリームス』以来です」
赤ペン瀧川先生
「サッカーとか全然わからないけど、この映画の凄さはわかったよ! マジ最高でした!」
(了)
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 6/5号 [雑誌]
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2014年5月26日月曜日
力よりも、理を求む [浅山一伝流]
「坂井宇一郎師範の技は、スーッと抜けるような感覚で、無造作だが非常に鮮やか。派手さはないが非常に実践的だった(松田隆智『秘伝日本柔術』)」
坂井宇一郎とは、淺山一傳流(あさやまいちでんりゅう)の真髄を得たとされる人物。
——坂井師範の技は、相手と接触するや否や、一瞬で潰してしまうという電光のような早技であったため、素人目には、どの技も同じに見えたという(月刊秘伝)。
坂井師範は常々、こう語っていたという。
「取られた瞬間に返せるようでなければ技ではない」
坂井師範が技に”速さ”を強調した裏には、力技への警鐘が響いている。
——一般の古流柔術では「若い頃は自分の体重と同じ重さを担ぎあげるだけの力はつけておくべきだ」などと言われることがあるが、淺山一傳流では、そういった類いの力は一切つかわない。必要ないというのではなく、決して使わない(月刊秘伝)。
ただし、力を使わないからとって、いわゆる脱力ではなかったという。力ではなく技で相手を制するという真意は、力の強弱ではなく、力の正しい使い方、その流れのつくりかたにあったという。
師範いわく、「相手が受け身を取るようでは、本物の技ではない」。
——一瞬で決まるという坂井宇一郎師範の技は、技が極まっていく過程では一切痛みを感じず、気がつくと極まった状態になっていたということだ。技が完全に極まる前から相手に痛みを感じさせるようでは、相手に抵抗する機会を与え、最悪の場合、技を返されてしまう(月刊秘伝)。
淺山一傳流では、形稽古が中心になっているというが、技にはいる”流れ”が特に大切にされている。
それは、技の根幹となる「理と法」を体得せしめんとするがためである。「法」とは、相手を制するための方法、つまり技の手順(流れ)。「理」とは、”なぜそのような形になるのか”という技の理屈である。
「法」は目に見えてわかるものであるが、「理」は見えざるその正体。「理」を体で覚えることなくして、「法」は導き出せない。
——この「理と法」を体得するために、力を否定し技を求めた坂井宇一郎師範は、形稽古が中心とした(月刊秘伝)。
同流の最初に学ぶ形は「引落(ひきおとし)」
稽古は「仕手(技をかける側)」と「受手(技を受ける側)」とが一組になって行われるが、修行者は主に仕手を、指導者は受手をつとめることになる。上位の者が受手をつとめることによって、学ぶ側である仕手の技をうまく誘導してやるのである。
——初伝の段階では、仕手が手順さえ正しく行っていれば、受手は技にかかってやるようにする。ただし、単純に技にかかったフリをするのではない。自分から”ここにはまれば技がかかる”というところに入って技を成立させ、仕手に技が極まるときの感触を体感させるのである(月刊秘伝)。
頭ではなく身体で、法のなかから理の一端を垣間見せる、あたかも「受手が仕手を掌の上で転がす」ように。
中伝の稽古になると、修行者は自ら理を求めるように仕向けられていく。
——この段階になると、受手は仕手が正しく動けているかを精査し、技が甘ければかかってやらない。ときには返し技で仕手を制してしまうこともある(月刊秘伝)。
そして奥伝では、さらなる理と法の精度が高められていく。だが、奥伝の形は初伝のそれと同じものである。
——ふたたび最初の手である「引落(ひきおとし)」に戻ったとき、そこにある技は初学の頃とは次元の異なるものとなっている。だからこそ、淺山一傳流は多くの形を必要としない(月刊秘伝)。
歴史的に不明な点が多いという淺山一傳流ではあるが、その体術は、丹波の国の淺山一傳斎重晨によって創始されたとされている。
謎のなかにあって幾分ハッキリしてくるのは、第13代の大倉直行。身長150cm、体重40kgと小兵でありながら武術の腕前は一流であったという。その大倉に学んだのが坂井宇一郎であった。
驚くほどの荒稽古。その中から頭角をあらわした坂井宇一郎。9歳にして入門した彼は、23歳のときには宗家の名代として武術大会に出場するほどの技量に達していたという。
——坂井師範の技は非常に速く、触れるや否や、相手を一瞬で足元に潰してしまうというものだった。80歳を過ぎてからも、投げられたその場で空中回転して着地し、瞬時に当身技を返すという技のキレを保ち、ガンを患って体重が落ちてからも、若い者の技をいとも簡単に返していたという(月刊秘伝)。
師範の没するのは平成8年。93歳。
その体術は現在、次男の坂井英二師範へと、手から手へ、受け渡されている。
(了)
ソース:DVD付き 月刊 秘伝 2014年 05月号 [雑誌]
淺山一傳流「形稽古のみで染み込ませる、古流体術の理と法」
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2014年5月25日日曜日
苦中にあって [本田圭佑]
——日本代表を背負う男が、あこがれの場所でもがいている。
長友佑都との対決が注目されていたミラノ・ダービー(2004.5.4)。本田圭佑に出る幕はなかった。
——32節のジェノア戦でようやく初ゴールを決めたが、その後、左足首を傷めて2試合欠場。波にのれなかった。そして36節のミラノダービーでは出番なし。ACミランへの移籍から4ヶ月、スタメンの座もままらない(Number誌)。
ダービー後、本田は「お疲れさん」と一言だけ残して去っていった。
——本田圭佑はミランにとってまだ「駒の一つ」にすぎず、CSKAモスクワのときのようにキングになれていない。今はまだ、カカという王様を守る兵隊にすぎないのだ。まわりが本田に合わせるのではない。本田がまわりに合わせなければならない(Number誌)。
Number記者は問う
「本田くんは思うようにいかず苦しいとき、何を意識して行動しているんだ?」
本田は答える
「いま自分が意識していることはたくさんあるんだけど、そのうちの一つをあえて紹介するなら『基本的なことを続ける』ということだね。自分にできる基本を繰り返す。それが状況を打開するポイントになる」
本田は続ける
「苦しんでいる時、状況がなかなかうまくいかない時に、特別なことをしようとするんではなくて、出来ることをする。原点に帰るということのほうが、作業としてはやりやすい」
「いまのチームには、普通のタイプがあんまりピッチにいない。だからこそ、基本をできる奴が際立つ」
——不思議と本田は、評価されない時ほど目が輝いているようにみえる。下克上が大好物なのだろう。理不尽な出来事があればあるほど、燃えてくる性格らしい(Number誌)。
「今はまだ、時が来るのを待っている」
ふたたび本田は口を開く。
「いや、待つのではなく、引き寄せようとしている」
キエーボ戦では、バロッテリからパスがきて、GK(ゴールキーパー)と1対1になった。だが決められなかった。
「あのへんが成果として出始めると、状況は大きく一変すると思う。一変するというのは、まわりがね」
イタリア現地紙では、先のキエーボ戦、本田は高く評価された。劇的にプレーが良くなってきている、と。
本田は言う、「この2、3試合で認められたというのは、自分にとって予想外だけど、ひとつの上昇気流に乗り始めているのは間違いない。だからこそ、しっかりと地に足をつけて、自分の強みである忍耐力っていうもピッチで発揮していきたい。それも一日ではなくて、エブリデイね」
出番のなかったミラノダービーの試合後、本田はひとり、ふたたびピッチにあらわれた。
そして、ほぼ無観客となったスタジアムで約30分間、ハードなインターバル走に本田は汗を流した。
——その駆け抜ける姿に悲壮感はなかった。本田はなりふり構わず、泥まみれになりながら、名門クラブの王の座を狙いつづけている(Number誌)。
(了)
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 6/5号 [雑誌]
本田圭佑「異才のなかで、際立つ普通を」
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2014年5月24日土曜日
まれに起こる不運 [シャビ]
まずいな…
ピッチ中央のシャビは、そう考えはじめていた。
——スペインはボールをキープし、ナバスは後半だけで19本ものクロスをあげている。しかし、それらが得点につながることは一度もなかった(Number誌)。
2010年、サッカー南アフリカW杯
開幕前には優勝候補の筆頭にあげられていたスペイン代表。
そのグループリーグ初戦、スイスに思わぬ苦戦を強いられていた。先制されたままに、スコアは0-1から動こうとしなかった。
試合は終盤に入り、いつもは冷静なシャビの頭にも焦りはつのる。
——ベンチ前では、3枚の交代カードを使いきり、もはや打つべき手を失ったデルボスケ監督が、困ったような顔で口元に手を置いている(Number誌)。
「どんな形でも1点をとらなければ…! そう思っていた」とシャビ。
しかし無情にも、試合終了のホイッスルは鳴り響いた。
「誰もこんなスタートは予想していなかった…」
まさかの初戦黒星。
絶対の優勝候補が…。
——肩をたたくフェルナンド・ジョレンテの言葉もほとんど耳に入らない。隣りをみると、普段は明るいジェラール・ピケのうつむいた暗い顔があった(Number誌)。
「試合後のロッカールームの雰囲気は、それは寂しいものでね、動揺は隠せなかった」
「初戦で敗れた僕らは、もう(グループリーグ)残り2試合に勝つしか、決勝トーナメントへいく可能性はなかった」
これからチームはどうやって大会に挑んでいくべきなのか?
敗戦の翌朝、代表宿舎の一室では緊急ミーティングがひらかれた。
部屋のテレビ画面には、前日おこなわれたスイス戦のビデオが流されていた。
「まったく信じられないよ。どうやったら、この内容で負けることができるというんだ」
試合は完全にスペインが支配していた。
「この失点の場面、いったい何度、味方と相手にボールが当たったことか」
GK(ゴールキーパー)にして主将のカシージャスは、偶然が重なった、たった一度の失点を悔やんだ。
世界最強とされたスペイン代表に対して、対戦する各国はその対策を十分に練り上げていた。引いて自陣を固め、カウンターとセットプレーで少ないチャンスを生かす——。スイス代表はまさにその戦い方によって大金星を得たのであった。
はたしてスペイン代表は戦い方を変えるべきかどうか?
「結論が出るまでに、ほとんど時間はかからなかった。あのミーティングで全員が気付かされたんだ。”スペインは何も変える必要はないんだ”ということにね」
シャビは続ける。「これはサッカーにおいて”まれに起こる不運”と捉えるしかなかった。確かにそうだ。この内容なら、100試合やって99試合で僕らが勝つはず。スイスはそのたった一度をものにしたわけだ」
シャビの意見には、誰もが賛成した。
「僕らのスタイルを続けるのが、優勝への一番の近道。敗戦をへて、自分たちのサッカーへの信念がより強くなったんだ」
以後、自分たちのスタイルを貫いて戦い続けたスペインは、グループリーグでホンジュラスとチリに2連勝。
そして決勝トーナメント。
「ポルトガルにも、ドイツにも、オランダにも、僕らは何を言われようと、ボールをキープしてパスを回すことをやめなかった」
シャビが南アフリカのピッチ上で最も記憶にのこっているというのが、オランダとの決勝戦、後半17分。
「正直、あれは”やられた”と思った」
それは、スナイデルからロッベンへ、裏へと抜けるスルーパスがでた瞬間だった。
「普通ならロッベンは決めるところだ。ただ、カシージャスはそうはさせなかった。彼は他のGK(ゴールキーパー)にはない何かを持っているんだ」
シャビいわく、最後に勝敗を分けるのは戦術やシステムではない。
「いかに幸運を引き寄せるか、なんだ。そして世の中には、そういう力をもった選手がいるものだ」
イニエスタの決勝点もそれだ、と言う。
「あれは延長戦後半で、残り時間はほとんどなかった。ぼくはPK戦になったらどこに蹴ろうかと考えていたものだよ」
そんな時だった、イニエスタがゴール前に現れたのは。
「イニエスタはW杯の歴史にのこるゴールを、さらりと決めてしまった。勝負を左右するのは、何かをもった、そんな選手たちなんだ」
そしてついには、彼らは下馬評どおりにワールドカップを掲げることになった。
スペインにとってはW杯史上初の王座であった。
あれから4年
シャビは34歳になってなお、スペイン代表の中心選手である。
「スペイン人の個の能力は上がっている。いまの代表にいるのは、欧州のビッグクラブでプレーする選手ばかりだ。むかし、ぼくが代表に入りはじめた頃(2000年頃)、世界的な選手はせいぜい2〜3人だった」
今回のブラジルW杯、スペインは”最も難しい組”に入ったといわれている。大会初戦で対峙するのは、前回決勝であたったオランダだ。
シャビは言う、「南アフリカでの経験があるから、この試合が一番大事だということはみんなが分かっている。あのスイス戦の経験が活きてくれることを願うよ」
シャビの脳裏には今も、南アフリカW杯で初戦敗退後の、あのミーティングの光景がまざまざと蘇る。
「あれから、すべてがはじまったんだ」
スペインを愛するチームメイトがいて、みんなが信じるサッカーについて熱く語り合った。誰もが同じ思いを抱いていた。それがシャビには心から嬉しかった。
シャビは体験からの確信で断言する。
「ブラジル大会でも、追求すべきは自分たちのサッカーだ」
目指すは、南アフリカにつづく2度目の優勝。
「もう34歳だ。普通だったら、ここで代表から引退するのが自然な形だとおもう」
——しかし、シャビのいないバルセロナが想像できないように、シャビのいないスペイン代表は、誰にも想像できない(Number誌)。
A代表130試合、14年間にわたり、この”小さなミッドフィルダー”はスペイン代表の中盤にあったのだ。
「まだ、はっきりとは決めてないけどね」
バルセロナの練習場には、初夏の日差しが差し込んできた。
(了)
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 6/5号 [雑誌]
シャビ・エルナンデス「スペイン代表が覚醒した日」
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