2015年4月29日水曜日
家に卓球場、卓球家族と石川佳純
石川佳純(いしかわ・かすみ)
テニスの錦織圭が世界ランク5位で、日本に大ブームを巻き起こしているが、テーブルテニス(卓球)の石川佳純は「世界ランク4位」である。
彼女は卓球家族に育った。
父・公久さん、母・久美さん。2人は同じ大学の卓球部。それが縁で結婚した。だが2人とも、結婚してからラケットを握る機会はなくなっていた。父・公久さんが広告代理店の営業マン、いわゆる企業戦士になったからだった。
転機は山口市に引っ越してから。卓球の盛んな地域で、周りから勧められてラケットを握った。じつに7年ぶりの卓球だった。当時、未来の石川佳純(かすみ)はまだ2歳の幼子だった。
母・久美さん「娘が将来どんな人間になるかは、私次第だと思ったんです。だから、自分の時間はすべて子供に捧げよう、と」
久美さんは「子育てが何より大事」と、赤ちゃんの頃から佳純を1分以上泣かせることはなかったという。1歳からフラッシュゲームを使った知育教育を、2歳から公文、3歳から水泳とピアノ、バレエを習わせた。
家事と育児に忙殺される中、母・久美さんは自分の卓球にも手を抜かなかった。現役復帰を決めた以上は「1位になりたい」という闘争心が燃え上っていたからだった。国体出場を目標に、日々の練習に励んでいた。
夢中で白球を追う母。それを横目で見ていた娘・佳純(かすみ)。お絵かきしていた手を休めて、こう言った。
石川佳純「私にも卓球を教えて」
小学校1年生のときだった(1999)。
母・久美さんの返答は意外なものだった。
母「遊び半分だったり、すぐ飽きてしまうなら、やめておきなさい」
実際、久美さんに「遊びで卓球をする時間」などなかった。久美さんはすでに国体選手になっていた。
母「”教える” ってことは、ママの大事な練習時間を佳純にあげることなの」
それでも佳純はひるまない。まっすぐな目で母を見つめて、強くこう言い切った。
石川佳純「必ず、やり続ける」
正直、「困ったな…」と母・久美さんは思った。
母「その頃は、次女の梨良も生まれてテンテコ舞いでしたからね。でも、子どものリクエストには応えてあげたいから、自分の練習時間を佳純のために使うことにしたんです」
父・公久さんは言う。
父「国体選手として周りから讃えられる妻を見て、子供心に『かっこいい』と思ったんじゃないですか。だって、『卓球をやりたい』と言い出したのは、妻が国体に出場したすぐ後ぐらいでしたから」
当初、佳純の練習時間は10分だけだった。
それが段々、20分になって30分になった。佳純はおもしろいほどに吸収が早かった。だから母・久美さんも、教えることが面白くなっていったのだった。
練習をはじめて3ヶ月、佳純が7歳になった時、両親は「赤いユニフォーム」を誕生日のプレゼントとした。その晴れの衣装を身にまとった佳純は、はじめて卓球大会に出場した。いよいよ天才少女が世に羽ばたく時が来たのであった。
なんと、山口県でいきなり2位。全国大会への出場を決めた。
母「親が言うのもなんですが、佳純は間違いなく "天才肌"。教えたことををすぐに覚えるのはもちろん、教えていない技もできた。たぶん、私の練習を見ていて頭に入っていたのかもしれません。とにかく飲み込みが早かったんです」
佳純が小学校3年生になった時、父・公久さんがとんでないことを言い出した。
父「卓球場のある家を建てたい」
当時、卓球に夢中になりはじめた佳純を、母・久美さんは防府市のスポーツセンターにまで送り迎えをしていた。往復で2時間はかかった。下の娘・梨良はまだ手のかかる5歳。そして久美さん自身は山口県代表の国体選手として活躍している最中であった。
そんな久美さんを見かねた公久さん。「練習場付きの一軒家を建てれば、すべてが解決できる」と踏んだのだった。
だが母・久美さんは気が気ではなかった。家に卓球場を備えるとなると、柱を減らして広い空間を確保しなければならない。となると、躯体を重量鉄骨にしなければならない。当然、建築コストが大幅にかさんでしまう。住宅ローンが心配だった。
不安がる久美さんに、公久さんはこう言った。
父「僕が卓球教室を開いて、少しはローンの足しにするから」
しぶしぶ承諾した久美さん。だが、そうはいかなかった。
母「夫の『早く帰るから』は口だけでした。生徒は集めたものの、夫の帰りが遅いので、結局わたしが子供たちの指導をすることになったんです(苦笑)」
”表向きは普通の一軒家。40畳もの卓球場があるとは、とても思えない。だが、玄関を開けるとすぐに、広い空間が目に飛び込んできた。そこには卓球台が2台。もし、家を建てるとき、両親が「卓球場をつくろう」と考えなければ、日本卓球界の躍進は今ほど望めなかったかもしれない(Number誌)”
家が新築されたとき、石川佳純は小学3年生だった。
その当時の憧れは、女子卓球界の絶対的王者「王楠(ワンナン)」。自宅での練習が終わると、2階の自分の部屋で彼女の試合のビデオを繰り返し見ていた。
小学4年生の頃の思い出を、父・公久さんは語る。
父「小学4年のときに、ベスト8を狙っていたけど負けたんです。そのときの佳純の悔しがり方は半端じゃなかった。普段は緊張もしないし、ひょうひょうと試合をこなすタイプなんですが、そのときは違いましたね。『1位以外は負け』と断言するところは、女房そっくりでした」
小学5年生になると、佳純はもう国体選手の母を打ち負かすほどになっていた。
「オリンピックに出たい」
そう佳純が口にするようになったのは、その頃からだった。
オリンピックがどれほど遠い場所にあるか、選手であった母・久美さんは身をもって知っていた。それでも娘がそこを目指すと言うならば、何が何でもサポートしてあげたかった。どんなに日々の生活が忙しくとも。
母「娘が夢をもった以上、その夢を後押ししてやるのが親の役目」
家事、育児、練習、レッスン…。主宰していた山口ジュニアクラブ、久美さんの指導が評判を呼んで、子供のみならず大人の入門者もあふれていた。昼食はいつも立ったまま食べた。
母「主人が早く帰ってきてくれれば『5分でも横になれるのに』と思っていたけど、主人は会社人間。悩むヒマも、怒る余裕もありませんでした」
父・公久さんも、早めに帰宅したときは、どんなに疲れていようと佳純の練習相手になった。
父「佳純の強みは攻撃と言われるんですけど、僕は密かに "ブロックがいいからだ" と思っています。小学校低学年のときから "ショートせいっ" って、僕の強い球を打ち返す練習をさせていましたから」
”地獄の特訓”
それが佳純の才能を開花させた、と母・久美さんは言う。
福岡と山口を代表する強豪中学生らが集まる合同練習が、毎月一回おこなわれていた。土日の2日間で50試合をこなす。普通なら根をあげてしまうような猛特訓に、佳純は小学校4年生のときから参加し続けていた。
母「土曜日は朝8時から夜8時まで。日曜は朝8時から午後5時。そのあいだ休憩はなく、15分で昼食をとらなければならない。私語も許されず、ピリピリした雰囲気のなかで試合をやり続ける。あの練習で根性が鍛えられたのかもしれません」
天才肌の佳純はもともと "繰り返しの基礎的な練習" が嫌いだった。そういう練習をいかにして佳純にさせるか、母・久美さんは困っていた。そこに、この合同練習があることを聞きつけたのだった。試合なら佳純は大好き。自然と基礎も磨かれた。
母「たぶん、あれだけ苦しい練習はもう経験することがないと思います。でも、子供の頃にそんな経験をしておくと、大人になってどれだけ苦しいことがあってもスッと乗り越えられる。実際、佳純は今でも『あの練習が一番きつかった』と言いますから」
メキメキと腕をあげた天才少女・石川佳純。
大人を打ち負かすことが面白くて、ますます卓球にのめり込んでいった。ときに、その強さを鼻にかけ、天狗になることもあった。
母「卓球のスキルのことで娘を怒ったことは一度もないですけど、鼻が高くなったり、練習態度が悪かったりした時は、ガツンとやりましたね」
現在、日本トップの座に就きながら、つねに謙虚な石川佳純。天狗の鼻をポキンと折られた少女時代もあった。
卓球家族から、巣立つときが来た。
12歳のとき、ミキハウスから勧誘を受けた。
母「ミキハウスの大嶋(雅盛)先生に、何か佳純に感じたものがあったらしく、すぐに声をかけていただきました。『一度、ミキハウスの練習環境を見に来て欲しい』と」
その練習環境は驚くほど良かった。オリンピック経験者もそこにいた。俄然、佳純の目は輝いた。
母「佳純がもっと上のクラスに行くには、やっぱり環境が大事。もちろん親として娘に教えたいことはまだありましたけど…。なにより、佳純が行きたがっていたので、反対する理由は何もありませんでした」
両親には寂しくも、佳純は大阪へと旅立ち、中学校の寮生活に入った。
全日本クラスの選手らに揉まれた佳純は、みるみる腕を上げていった。
2007年、史上最年少(13歳)で全日本選手権ベスト4に入ると、そのまま世界選手権の代表に選ばれた(史上最年少)。2009年の世界選手権ではベスト8.2010年の全日本選手権では、ジュニアの部で史上初の4連覇を成し遂げた。
そして記憶の新しい、ロンドン五輪での大活躍。
シングルスでは日本勢史上最高の4位入賞。
団体では日本卓球界史上初のオリンピックメダル(銀)を獲得した。
”これまでの日本人選手は、鉄壁の中国勢をなかなか崩せないでいたが、ロンドン五輪シングルスで4位につけた石川佳純が、昨年(2014)はワールドツアー・グランドファイナルに優勝するなど、確実に世界トップの一角に食い込んでいる(Number誌)”
父「佳純が、現在のコーチに、”パパは風邪をひこうが熱があろうが、絶対に仕事を休まず本当にすごかった" と話していたらしいんです。僕も娘たちに "背中" を見せられていたのかな」
母「子供は親の所有物じゃない。子供を授かってから、"ひとりの人間" として接しようと準備していました。子供の能力を "親のモノサシ" で決めては駄目だと思うんです」
(了)
ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
石川佳純「トップアスリートの育て方」
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