2012年11月30日金曜日

サッカーとおフロ。川崎"フロ"ンターレ(Jリーグ)


川崎フロンターレというサッカーチーム(Jリーグ)は「風呂(フロ)」と無縁ではない。

なにせ、チーム名が「川崎”フロ”ンターレ」だ。

このしょうもないオヤジギャクが、実はこのチームの広報「いっしょに”おフロんた〜れ”」となっている。



その仕掛け人のオヤジは「天野春果」氏。川崎フロンターレでプロモーション部の部長を務める人物。その彼が一躍世間の注目を集めたのは去年(2011)12月、大ヒット風呂マンガ「テルマエ・ロマエ」とのタイアップ企画だった。

 

その企画のため、マンガの出版元であるコミックビームに「フロへの熱い思い」を必死に伝えた天野氏。

「Jリーグで『フロ』という文字が入っているのは、40クラブ中、うちだけです! だから、御社に来ないと逆に失礼かと思いまして!」

ドカーンと大受けした出版社の担当。すぐに作者のヤマザキマリさんに連絡し、「いっしょに銭湯業界を救いましょう!」ということになった。



こうしてトントン拍子で話が進んだ結果、サッカー日本代表の「中村憲剛(なかむら・けんご)」選手は、風呂マンガの主人公よろしく、古代ローマの衣装に扮することになる…。

この企画の大ヒットにより、サッカーチームのみならず銭湯業界も恩恵に浸ることとなり、天野氏は「銭湯業界の救世主」とまでもてはやされるようになった。





「今年もアレを頼むよ!」

すでに3年目を迎える「いっしょに”おフロんた〜れ”」は、銭湯業界も大いに期待するところとなっている。

天野氏がアイディアをひり出そうとする時、彼は自宅の湯船に浸かりながら、次々と頭の中に「オヤジギャグ」を巡らせるのだという。

「アフロ…? フロリダ…?」

いいアイディアが出なければ、アイウエオ順にシラミ潰し。「イフロ、ウフロ、エフロ、オフロ……」



「ひらめき」は突然訪れた。

自分の小さな子供が大好きなNHKの教育番組「みいつけた!」に、「オフロスキー」というシュールなキャラクターを見つけたのだ。

「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!」

即座にYouTubeでオフロスキーを検索。Twitterでも数十秒ごとに話題になっていた。もはや直感は「確信」となった。





さっそくNHKに出向いた天野氏。彼にはNHKはムリだろうという先入観があったというが、オフロスキーという圧倒的な存在はそんなものをフッ飛ばしてくれていた。

「銭湯をいっしょに救いませんか?」

「え!?」。キョトンとするNHKの担当者。そこに畳み掛ける天野氏。「『イクフロ』です。イクメン(育児を行う男性)同様、男性の育児参加も促せます」。



幸運だったのは、オフロスキーを演じる俳優の「小林顕作(こばやし・けんさく)」氏が「大のサッカー好き」だったということだ。彼は中学高校でサッカーをプレーしていた。

さらに幸運だったのは、サッカー日本代表の中村憲剛選手が「オフロスキーの大ファン」だったことだった。憲剛選手は「やりましょう!」と快諾。

こうして中村憲剛は牛のような水色の衣装に身をつつみ、「オフロ”ン”スキー」となった。ちなみに、本家のオフロスキー(小林顕作)の衣装はピンク色である。





「日本は景気が悪いといいますが、それを言い訳にしたら何も進まなくなってしまいます。不景気でもディズニーランドには人が集まるんですよ」

天野氏は語る。「小石を一個ずつ投げ込んでいれば、川の流れを堰き止めることもできるのです。結局は積み重ねです」

「テルマエ・ロマエ」、「オフロスキー」といった企画は天野氏にとっては大事な小石のひとつ一つ。そして、それらの小石は、資金難にあえぐJリーグのチームに酸素を与えるかもしれないし、煙の途絶えた銭湯に新たな薪を提供することになるのかもしれない。



そんな天野氏のオヤジギャグは止まらない。

「もし、観客全員が『アフロ』のカツラをかぶってYMCAを踊ったら?」

「ニューヨークで入浴(にゅうよく)。ウルトラクイズみたいにイベントをやったら?」

第3弾が発表されたばかりであるが、もう来年の第4弾も楽しみだ。

きっと天野氏の心の中は「こども心」と「オヤジギャグ」が一緒に遊び回っているのだろう…。そんな小石が日本にはもっともっと必要なのかもしれない…。





ソース:Number web
「川崎フロンターレ名物部長が企てた漫画『テルマエ・ロマエ』とのコラボ」

2012年11月29日木曜日

世界のゴールキーパー「川島永嗣」が守るもの。


EU圏外の外国人をゴールキーパーに据えるのは「欧州のサッカー・クラブでは異例のこと」。

「欧州には良いゴールキーパーなんてゴロゴロいる」

そう言われる中、骨太の日本人ゴールキーパー「川島永嗣(かわしま・えいじ)」は、ベルギーの強豪「スタンダール・リエージュ」でレギュラーとしてゴールマウスに立っている。



それまでの川島は、2年前にベルギーへは渡ったものの、残留を争う小クラブ・リールセに甘んじていた。

それが今年7月、優勝を争う強豪「スタンダール・リエージュ」に移籍。今シーズンは開幕から「15試合連続のフル出場」を果たした。



欧州における川島の名を一躍高めたのが、日本代表のフランス戦。日本が1−0で強豪フランスを破った歴史的勝利である。この試合、フランスの果敢な攻撃が日本ゴールを割ることをできなかったのは、ひとえに川島永嗣のスーパーセーブの連発によるものだった。

「母国の快勝を予想したスタンドのフランス人たちは、試合が進むにつれ日本の背番号1(GK川島永嗣)に目を奪われ、タメ息をつき、やがて肩を落とした」

翌日のフランス・メディアも川島のスーパー・パフォーマンスを賞賛するよりほかになかった。そして、その賞賛の声は欧州中にも鳴り響いていた。



それでも、川島に浮かれた様子はない。

「(日本の勝利という)結果が出たから評価されている部分があります。チームが勝てば評価され、負ければ良いプレーをしても評価されません」

川島はこう言う。もしフランス戦で1点でも決められていたら、試合は1−1引き分け、ゴールキーパーの評価は「まったく違ったもの」になっていただろう、と。たとえ、どんなにスーパーセーブを見せていたとしても…。



その逆に、続くブラジル戦で4失点を喫したことに関して、川島は悲観していない。

「4点取られたからといって、自分が何もできないなと感じた試合でもありませんでした。手も足も出ないという感じではなったんです。むしろ、こんな試合をやりたかった」



なるほど、彼の心は試合結果に一喜一憂するような軽薄なものでは決してない。もっとより深いところに根っこを張った不動心がそこにはある。

「フランス戦の好プレーに浮かれず、ブラジルの4失点に落ち込むこともない」

古人曰く、「勝って兜の緒を締めよ」と。なんと頼もしい守護神であることか。



ベルギーのチームメイトとすっかり打ち解けた彼は、「とても今季の新規加入選手には見えない」。フランス語で会話するその姿は、すっかりチームに溶け込んでいる。古巣のリールセにおいては川島が主将を務め、大声で指示を出し、複数の言語を積極的に操っていた。

それでも、川島は「日本人であること」を強く意識している。

「いくら海外で生活して外国人のように振舞ったとしても、僕のアイデンティティは日本にある。その事実は変えられないし、変える必要もない」



たくさんの外国人がいる中、ひとりぽつんとゴールの前に立つ日本人。異文化の中、時には不当な中傷を浴びることもある。フランスのTV局は「4本の手がある画像を用い、放射能の影響だと嘲笑した」。そんな時、川島は「真っ向から立ち向かう」。

「日本人は自分たちの良さに自信を持っていい。日本の良さってたくさんあるんです」

その良さを「世界に出て生かす方法」を知らなければならない、と川島は訴える。「いま外国でやっている選手は、これからの日本人のモデルになるべきだと僕は思っています」。



そうした信念は「欧州組」と呼ばれる日本人サッカー選手の多くが持っているものだとも言う。

「その点でみんなどこか繋がっている。それが今の日本サッカーの強みだと思う」

すでに欧州では数多くの日本人選手がプレーするようになっている。「南米諸国のように、代表選手のすべてが欧州クラブでプレーする日」も近いのかもしれない。その時にはもう「欧州組」という言葉はなくなっているだろう。



ドイツのクラブ(ヴォルフスブルク)で活躍する日本代表の主将・長谷部誠は、こうも言っている。

「今は日本人っていうくくりで話すこと自体が、ナンセンスになってきかなっていう気がするんですよね。これだけ日本人選手がヨーロッパに来て、それぞれに個性がある」



欧州で多様化する日本人像。そのイメージはおおむね良い方向へと向かっている。

川島以前、日本人ゴールキーパーに欧州の目が向けられることなどついぞなく、当然欧州での評価は低かった。そんな低評価を川島永嗣は変えつつある。

確かに欧州での「日本人というくくり」は大きく広がった。それでも、その芯の部分にある「日本人という心」は「みんなどこかで繋がっている」。



練習時間が近づいた川島は、ゆっくりと立ち上がる。そして一言。

「最近、嬉しいんですよね。他の選手の活躍を見るのが。サッカーだけじゃなくて、野球もオリンピックもそう」

世界で活躍する日本人選手の姿を見ていると、「日本人が忘れかけた何か」が川島の心に蘇ってくるのだという。

「日本人が忘れかけた何かを、自分も含めもう一度見つめ直すことが大事なんだと思ってます」



日本にいる日本人は何を忘れてしまっているのか?

それを「これからの川島永嗣」は日本人に思い出させてくれるのかもしれない。世界の猛攻を受けるゴールマウスの前に立ち続けて…。

きっと川島の守ろうとしているものは、サッカー・ゴールばかりではないのだろう…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/6号
「欧州で日本の良さを発信したい 川島永嗣」

2012年11月28日水曜日

伝説的スケーターとなるか? 羽生結弦(フィギュアスケート)


もし、数十年に一人の「伝説的スケーター」が現れるとしたら…。

それは17歳の「羽生結弦(はにゅう・ゆずる)」なのかもしれない。



今年3月、フランス(ニース)で行われたフィギュアスケートの世界選手権。SP(ショート・プログラム)7位につけた羽生は、続くフリーで3位に浮上。「17歳にして世界選手権の『銅メダリスト』となった」。

銅メダルを手にした羽生は思った。

「もうスケートは自分だけのものではないんだ…」



世界選手権後、羽生はカナダ(トロント)に飛んだ。

そこにはフィギュア界の名伯楽「ブライアン・オーサー」がいる。以前から羽生は海外に行くならこのトロント(カナダ)と決めていた。それほどオーサーというコーチの存在が大きかったのだ。

ブライアン・オーサーといえば、韓国の「キム・ヨナ(バンクーバー五輪・金メダリスト)」を育てた人物としても有名だ。しかし、羽生が欲したのはオーサーを中心に生み出されている「環境」の方だった。



オーサーがメインコーチを務めるカナダ随一の名門「クリケット・クラブ」は複数のコーチによるチーム制をとっている。

スケーティングの達人(トレイシー・ウィルソン)もいれば、世界中からオファーの絶えない振付師(デイビッド・ウィルソン)もいる。「さまざまなコーチがオーサーを頂点とする1つのチームを結成している」。そして何より、4回転ジャンプを2種類跳べる「フェルナンデス・ハビエル」もいた。

「僕はライバルがいて競い合わないとダメなタイプなんです。だから、僕をカナダまで突き動かしたものは、ライバルと一緒に練習できるこの環境だったんです。キム・ヨナは全然関係ない」と羽生。



今年5月、オーサーの門をくぐった羽生は「早く4回転サルコウを教えてくれ!」とばかりに意気込んでいた。

ところが、羽生に与えられるのは基礎的な「スケーティング」の毎日。それは「古き良き優雅なフィギュアスケートの空気感」が漂うこのクラブの名物でもあった。

ジュニアからシニアまで、同じステップを10〜20人が踏む。世界選手権銅メダリストとて例外ではなく、その輪に加わらなければならない。すると、その銅メダリスト羽生が「誰よりも拙(つたな)い動き」ではないか。

「自分ってこんなに出来ないんだ!」。それは嬉しい発見でもあった。自分の「弱さ」が見えれば、それを改善すれば良い。それが新たなステージに上がるチャンスともなる。




SPとフリーの2つのプログラムに関して、オーサーは17歳の羽生に「大人の演技」を求めた。

気鋭の振付師ジェフ(元世界王者)がSP(ショート・プログラム)に選んできた曲は、ブルースの定番「パリの散歩道」。ブルースのような「間」のある曲は、基礎スケーティング力の良し悪しがハッキリと見えてしまう。一歩に長く乗って「まどろみ」を表現したり、力を使わずに加速することで「脱力感」を見せたり…。これは今までの羽生が避けてきたタイプのプログラムだった。



一方のフリーは、羽生得意のドラマティックな曲「ノートルダム・ド・パリ」。しかしその内容は「羽生が苦手とする技術」のオンパレード。今までの羽生はガツガツとパワーで漕いでいたが、このプログラムにそんな「素人臭さ」は一切ない。じつに洗練されている。

「漕ぐ場面なんかなくて、最初から最後まで技で全部つながってる。とにかく苦しいです」と羽生。しかし、「すべてがつながって見える」ことこそが、フィギュアスケートで求められる演技そのものであった。

「辛いけど、これはずっと目指していたもの」





ところで、羽生の最大の売りである「4回転ジャンプ」は?

もちろん入っている。しかも2種類とも(トウループ・サルコウ)。トウループは身に付けているものの、サルコウはまだ羽生にとっては難しい。「4回転サルコウはショーの合間に遊んでて成功したことくらいしかない」。

その4回転サルコウの名手は、同じクラブにいるフェルナンデス・ハビエル。その素晴らしい演技を目近でお手本にできた。



「数十年に一人の伝説のスケーター」

その片鱗を羽生が魅せたのは、GP初戦のスケートアメリカにおいてであった。

SP(ショート・プログラム)総合得点「95.7点」。世界記録となった高得点が飛び出した。4回転を含むノーミスのジャンプもさることながら、羽生本人が驚くほどに、「演技力」と「音楽表現」のポイントが高かった。それは基礎的なスケーティング練習の成果でもあった。



しかし残念ながら、この大会で優勝したのは羽生ではい。SP2位の小塚崇彦が逆転勝利を決めた。

SPで空前の得点を出した羽生だったが、フリーでは「4回転どころか簡単なジャンプも転倒」。「心ここにあらず」の散々な演技。精神的な弱さを露呈してしまっていた。

「そもそも『ショート(SP)を忘れなきゃ』っていう思考自体、ショートに囚われていたんです。切り替えの失敗、精神的なミスです…」と羽生は振り返る。



しかし、この失敗によって羽生のメンタルは変化した。

「口に出さないで、『内に秘めていること』の大事さに気づき始めたんです」

今までの羽生は「絶対王者になる」と宣言し、自分にプレッシャーと自己暗示をかけることを「勝利の法則」としてきた。「昔は、あえて言った言葉に追いつけ追い越せでやってきました」。

ところが一転、羽生はその志を「心に秘める」ことにもしたのである。「最近の僕は『半々』になったんです」。



こうした変化は、カナダへのチャレンジそのものが生んだ賜物でもあった。

羽生の拙い英語では、自分の思いをすべて伝えきれない。それは最初、もどかしさでもあったが、精神的な飛躍のキッカケともなった。全部言わなくとも、意志は通じることが分かったのだ。

「ブライアン(オーサー)も『心に秘めるタイプ』なんです。それが『一流』という感じです」と羽生。

オーサーは決して「勝て」とは口にしない。ただ黙々と選手の特徴を見極め、成長へと導く。そのリンクの環境自体も「勝敗より成長を手放しに喜んでくれる」。



「僕はね、一流になりたいんです。『格』を身につけたいっていうのかな。『絶対王者になる』なんて言ってた頃は若かったんですよ」

若かった? これが17歳の言葉である。

「ムリに背伸びして表彰台っていうのは嫌なんです。ちゃんとスケートの格を身につけて、心の芯からトップになりたい」



今年10月のフィンランディア杯、羽生はフリーで自身初の4回転トウループと4回転サルコウを決めて、「サラッと優勝した」。しかし、その頃の羽生は「若かった」。まだアメリカスケートの敗北を知る前である。

そして今月、日本で行われたNHK杯で羽生は自身のもつ世界歴代最高記録を更新した(SP95.32点)。しかしまたもや、続くフリーではミスを繰り返す。それでも総合得点は自己ベストを10点近くも更新した(260.03点)。



NHK杯において羽生は優勝したものの、アメリカスケートの失敗を繰り返したとも見える。しかし、その心の内は格段に成長していた。確実に「大人」に近づいていたのである。

オーサーは小さな失敗よりも、羽生のその成長のほうを見ていた。「SP、フリーともに大きな飛躍」。それがNHK杯の羽生に対するオーサーの評価だった。



「羽生の成長のスピードは想像を超えている…」

世界選手権で銅メダルを獲得してからまだ1年も経っていない。そして、まだ17歳(12月7日にようやく18歳)。

彼の視線の先にあるのは、2年後のソチ・オリンピック。

本当のお楽しみはまだまだこれからだ…。







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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/6号
「17歳の目覚め 羽生結弦」

2012年11月27日火曜日

[PR] 運動中に着てはいけないスポーツウェア





「我々にとっては『寝る』のも大事な稽古」

そう言う横綱・白鳳は「VENEX(ベネクス)生地」で仕立てられた特性の浴衣に身を包んでいる。

「これで寝れば一番いい」



それは「運動中に着てはいけないスポーツウェア」VENEX(ベネクス)。

繊維に練り込まれている「PHT(プラチナ・ハーモナイズド・テクノロジー)」が、人間本来もっているリカバリー能力を最大限に引き出してくれる。

運動後に着用することで、身体の冷えを防ぐと同時に、疲労の元になる乳酸を減少させ、身体の緊張をほぐすリラックス状態(副交感神経優位)へ導いてくれるのだという。



愛用者の86%が「パジャマ代わり」に着て寝ているのだとか。

ロンドン五輪・レスリング66kg級の金メダリスト「米満達弘」選手、女子レスリング48kg級の金メダリスト「小原日登美」選手などもVENEX(ベネクス)の愛用者。

ちなみに、PHT(プラチナ・ハーモナイズ・テクノロジー)は洗濯などで脱落することはなく、半永久的にリラックス効果が持続するとのこと。




「一人やったら死んでたと思います…」宇佐美貴史(サッカー)


「マジで終わったって思いましたから…」

ドイツに渡ったばかりの「宇佐美貴史(うさみ・たかし)」は、そのデビュー戦で痛恨のミスを犯した。

後半24分、宇佐美は初めてブンデスリーガのピッチに立った(2011年8月13日、ヴォルフスブルク戦)。ところが、拮抗する試合のロスタイム、得意のドリブルに入った宇佐美はあえなく相手にボールを奪われ、それがあわやカウンターの失点につながってしまうところだったのだ。



色をなした監督は、即座に宇佐美を交代。

「後半に入った選手が交代させられることの意味の深刻さを分かっていました…」と宇佐美。しかも、ロスタイムでの交代である…。

この時のミスが昨シーズン中ずっと響き、宇佐美は名門バイエルンに入団したものの、最終的にはたったの5試合にしか出場させてもらえなかった。まさに痛恨のミス…。



「落ち込むとかじゃなくて、終わったんです…」

この試合の後、家に帰ってからも宇佐美の身体からは汗が止まらなかった。「首筋を、胸元を、脇の下を、暑くもないのにひたすら『嫌な汗』が流れ落ちる」。

「一人やったら、死んでたと思います…」



幸いにも、宇佐美の隣りには妻の欄さんがいた。

初めて彼女を見たのは、宇佐美13歳、多感な中学生の頃。「一つ上の学年にエグい(ものすごく可愛い)のがおる」。それが蘭さんだった。一目惚れである。

2人が籍を入れるのは、宇佐美がドイツの名門バイエルンに移籍を決めるのと同時だった。そして、一緒にドイツへ渡ってきた。



試合後も嫌な汗の止まらなかった宇佐美に対して、妻の蘭さんはそれほど深刻には受け止めていなかった。

「これから長いサッカー人生の、たった一試合やん」

蘭さんは宇佐美のドリブルを知っていた。それがチームの攻撃に違いをつくれることも…。



結局、宇佐美は名門バイエルンを去り、今シーズンからはドイツの小さな町のクラブ「ホッフェンハイム」に移籍することとなった。

このチームに来た宇佐美からは「バイエルンだから仕方ない」という消極的な気持ちがすっかり消えた。バイエルンのベンチスタートには耐えられても、ホッフェンハイムのそれは「許せない」。

「ここで出られないとあかんやろという危機感、オレが出てこのチームを引っ張っていくというくらいの意志もないとあかんと思ってます」と宇佐美。



9月26日のシュツットガルト戦では「スーパーゴール」が飛び出した。ドリブルで抜いてシュートまでもっていける宇佐美は、否が応にもドイツの注目を集めることとなる。

「2、3人抜いてペナルティエリアまでドリブルだけで入っていく選手は、他を見てもほとんどいないですから」

だが、いつもいつもシュートが決まるわけではない。

「あんなスーパーゴールがあと6個あってもおかしくないんですけど…」と宇佐美。「メンタルの部分でもうあと一皮むけないとダメですね。ゴール前、さあ決めるぞってとこで、あと1つ2つアイディアを出せる力です」



昨シーズンは名門バイエルンで芽が出なかった宇佐美であったが、今シーズンは心機一転、何かを取り戻したようである。そんな彼の言葉からは自信があふれ出てくる。

「かなり手応えはあるんです。これで100%できるようになったら、オレはもうバケモノです。ビッグクラブからも、多少の目は向くと思いますよ」

もはや、死まで覚悟した男の姿はここにはない。



「蘭がドイツで楽しく過ごすためにも、オレがもっとがんばらないと」

宇佐美が息を吹き返したのは、彼女が傍らにいたからでもあった。



「彼女に見せたい」という想いは、宇佐美の進化を加速させているのだろう。

そして、それは中学時代、エグい(可愛い)彼女に見せたかった頃の想いと同じものなのかもしれない…。

宇佐美貴史はまだ20歳…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/6号
「オレの居場所は欧州にしかない 宇佐美貴史」

2012年11月26日月曜日

ドイツの期待を背負った王様「清武弘嗣(サッカー)」


ニュルンベルクの「王」になれ。

それが「清武弘嗣(きよたけ・ひろし)」へのファンたちの願いだった。

ここまで大きな期待を背負ってドイツへやって来た日本人選手など「これまでに一人もいなかった」。



ニュルンベルクというチームは、ドイツのサッカーリーグであるブンデスリーガの中で「最多の2部降格を経験しているクラブ」。その数はじつに7回。

清武に期待されたのは、当然のように「1部残留」であった。



ロンドン五輪に参加していた清武は、チームへの合流が少し遅れたものの、開幕戦からスタメンに名を連ねるのには間に合った。

第3節までのニュルンベルクの得点は、そのほとんどがセットプレー(コーナーキックやフリーキック)から生まれ、そのセットプレーを全て任されたのが清武だった。この時点でニュルンベルクがリーグ18チーム中6位につけたこともあり、清武の名前は「ドイツ全土に知られることとなった」。

しかし、当の清武はその賞賛とは裏腹なチグハグさを感じていた。「日本ではセットプレーを蹴ったことがなかったので、最初のころはテキトーに蹴ってました」と清武。そこから得点に結びついたのはラッキーだったが、問題は「やりたいサッカー」がほとんど出来ていないことだった。



そのチグハグさは、それ以後の4連敗となってチームに顕れる。

沈んでいた清武は、メディアの前で顔さえ上げなかった。

「話すことないっス…」



転機となったのは10月末の強豪シャルケ戦。

この日の清武は「ピッチ上の王様」だった。

ゴールキーパーを鼓舞し、ディフェンダーのミスに怒鳴り散らす。パスを迷う選手には、派手なジェスチャーと大声で指示を出す。相手が9つ年上でも関係ない。正しくない判断は正しくないし、良いプレーは良いプレーだ。



清武の「王様ぶり」はチームにとって悪くない。

次第に周囲の選手が「清武に合わせて」動くようになっていた。攻撃の中心が明らかに清武になったのだ。最初の頃は頭の上を越えるだけだったパスが、清武の足元に集中するようになっていた。

マインツ戦においては、清武がチームで最も多くのボールを触れた初めての試合となった。「劣勢に回ることの多いニュルンベルクのようなチームで、攻撃的なポジションの選手が最多ボールタッチ数を記録するのは珍しい」。



いま、ニュルンベルクの練習場では「不思議な光景」が広がっている。

清武の回りに選手たちが寄って来て、日本語を習ったり談笑したり…。



彼は王様とはいえど、じつに庶民的な王様だ。彼のいるチームの雰囲気はグッと良くなる。

1部残留という目標はそう高いものではないのかもしれない。この王様がいる限り…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/6号
「ニュルンベルクの王様として 清武弘嗣」

2012年11月25日日曜日

指を骨折していたセッター「竹下佳江(バレーボール)」



バレーボールのトスは「指先が命」。

しかし、ロンドン・オリンピックのその時、日本代表の司令塔「竹下佳江(たけした・よしえ)」の左人差し指は「骨折」していた。

セッターとしては致命傷。それでもなお、彼女はコートに立ち続け、骨折した指でトスを上げ続けた。そして、ついには「28年ぶりの銅メダル」という快挙を成し遂げることになるのだった…!



竹下が指を骨折したのは、オリンピック直前のスイス合宿の時。レシーブ練習で飛んできたボールが「予想外のバウンド」をして左手の人差し指を直撃。ビリっとした痛みが全身に走った。

「あ、やっちゃったな…」

竹下はそう直感した。コーチに心配されるのが嫌で、何事もなかったかのようにコートを去る竹下。しかし、それは異様な光景だった。今まで竹下が自分から練習を抜けたことなどなかったからだ。



練習が終わって、異変を察した眞鍋監督は「病院に行けよ」と声をかけてきた。

「でも、私は絶対行かないと言い張ったんです」

行く、行かないでしばらく押し問答が続くも、結局は竹下が折れて病院へ行くことになる。「指がどうなっていようと、私はやりますからね!」と捨て台詞を吐きながら…。



「人差し指、第一関節の骨折だね」

スイスのドクターは、竹下にそう告げた。それでも不幸中の幸いだったのは、「骨は折れているけど、ズレてはいない」ということだった。ただ、ちょっとした衝撃でもズレる可能性があり、そうなってしまったら手術するしかなくなってしまう。オリンピック出場は絶望的だ

コートでトスを上げる以上、必ず指先に衝撃は加わる。その衝撃に人差し指が耐えられるように、竹下は人差し指に添え木を当て、その上を石膏で固めてもらった。以後、毎日この石膏固めの仕事をするのがトレーナーの役目となった。



「指を一本失っても、残りの指でなんとかしてやる!」

その竹下の執念に、眞鍋監督ですら舌を巻いた。

「彼女の五輪にかける『凄まじい執念』を見ました。僕もセッターだから分かるけど、あんなケガではコートに立てない。僕はそんな彼女に五輪を託す決断をしました」と監督。



司令塔・竹下佳江の骨折は、監督とコーチ陣だけの「秘密」となった。

世界最強のセッターとも呼ばれる竹下。日本代表でも不動のセッターである。しかし、正確なトスさばきは「中指・人差し指・親指」の3本がそろってこそのもの。その一本が機能していなかった…。

当然のように「ブレるトス」。オーバートスも使いづらく、アンダーを多用することになる。そんな竹下を、「34歳という年齢のせいか…」という関係者もいた。



それでも、日本のアタッカー陣は竹下の「乱れたトス」を必死に打っていった。

「そんな彼女たちの必死の形相に、今度はこっちが勇気づけられました」と竹下。

ほかの選手には骨折の事実を伝えてはいなかったものの、同じ釜の飯を食う彼女らには、当然のようにお互いに感じるものがあった。

「テン(竹下)さんは口にしないけど、みんな薄々気づいていました」



試合が終わって石膏を外す時、決まって指は腫れ上がっており、なかなか外せない。

「トレーナーに涙目でギャアギャア言ってました(笑)」

もともと背の低い竹下(159cm)には、「小さい」というレッテルを貼られながらも、「ナニクソ精神」で必死に上に登ってきた。だから、絶対に自分の弱みは人に見せたくない。ましてや、同じ仲間たちに…。



骨折したままプレーを続けていた竹下は、ある時、不思議な感覚に出会った。

指一本が使えない分、「正確に、正確に」と神経を集中させ続けた結果、いつの間にか指2本でも、3本の時と同じようなトスが上げられるようになっていたのだ。

「新しい能力に出会えたというんですかね、自分でもびっくりです」



「眞鍋監督は骨折が分かっていても、使い続けてくれました。だから、この人の信頼に応えたかったんです。万が一、試合中に指がスッ飛んでしまっても、すぐにつけてもらってコートに立つと決めていました。そして、真っ赤な顔をして私の乱れたトスを打ち切ろうとしてくれた仲間の思いが、痛みを忘れさせてくれたんです(竹下佳江)」

バレーボール日本代表は、そういうチームだった。

あの銅メダルの陰には、こんな秘話が隠されていた。



オリンピックが終わっても、竹下は頑なに骨折の事実を公表することを拒み続けた。

美談に取られたり、チームの快挙を自分ひとりに集中させたくなかったからである。だから、これまで隠されてきた。



ある選手はこう言った。

「骨折してもコートに立ち続ける姿に、五輪で闘うことの意義を教えてもらいました。竹下魂はみんなに乗り移っていたと思います」

頑なに骨折を認めない竹下の性格をみんな知っていた。だから、竹下は骨折していないことになっていた。

こういうのを以心伝心と言うのであろう。



五輪を終えた竹下は、現在JTを退団して休養中だという。

それでも、その魂はきっと今もコート上でトスを上げ続けているはずである…!

受け継がれた魂は、きっと次の五輪でも!







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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号
「メダルのためなら指一本くれてやる 竹下佳江」

2012年11月24日土曜日

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スッと履けて、フィット感が良く、長時間歩いても疲れにくい。

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お腹の空いた「さすらいのリベロ」佐野優子(女子バレー)


「またちょっと、お腹が空いちゃって(笑)」

女子バレー、33歳の守護神「佐野優子(さの・ゆうこ)」は、トルコでその空腹を満たそうと、トルコリーグの強豪ガラタサライに移籍した。

「オリンピック後は『もうバレーはお腹いっぱい』って感じでしたけど(笑)」



「さすらいのリベロ」

彼女をそう呼ぶ人もいる(リベロとは守備専門の選手)。

確かに佐野の経歴を見ると、「ユニチカ → 東レ → RCカンヌ(フランス) → 久光製薬 → イトゥサチ(アゼルバイジャン) → ガラタサライ(トルコ)」と、3年から長くとも5年で、転々と移籍を繰り返している。



「私、海外に行くことを『挑戦』って言われるのがすごく嫌で…」

なるほど、彼女にとっての「海外」は何も特別なことではなく、「自然な選択」なのだ。

「ただ日本より海外のほうが得るものが多いと思うから、海外を選択するだけ」



今回、「さすらいのリベロ」が選択したトルコという国のリーグは、「イタリアのセリエAに代わり、世界最高峰と呼ばれるようになった」と言われるほど、各国代表選手や監督を集めている。ちなみに、各国の強豪が集う欧州チャンピオンズリーグでは、ここ2年連続でトルコが優勝している。

日本からは昨季の狩野舞子、今季の木村沙織に続き、佐野優子は3人目となる。



最後に、佐野は気になることを言っていた。

「海外のほうがスポーツとして扱ってくれている感じがして…」

日本のVリーグは、その多くが企業チームから成る。佐野は2003年、東レを退社したときに移籍同意書が得られず、リーグ戦に出場できなくなるという宙ぶらりんも経験している。

世界の事情を知る彼女にとって、日本のVリーグは少々肌に合わないのかもしれない。



料理の世界でも世界3大料理と呼ばれるのが「トルコ料理」。

きっと、佐野のお腹も心も満たしてくれることだろう。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/6号
「さすらいのリベロがトルコリーグを選んだ理由」

2012年11月23日金曜日

ふたたび輝きはじめた「浅田真央(フィギュア)」


「100%の出来ではなかったけれど、久しぶりの優勝でうれしい」

確かに、フィギュアスケート中国杯での優勝は、浅田真央にとって久しぶりの優勝だった。



昨季は彼女にとって「つらいシーズン」となってしまった。

最愛の母を失う悲劇に見舞われ、GPファイナルを棄権。その後の何個かの大会には律儀に出場したものの、「なかなか気持ちが入らなかった」。

「一時はスケートを辞めることも考えました…」



そんな消沈の浅田真央を見たローリー・ニコル(振付師)は、「再び人生とスケートを取り戻せるような元気の出る音楽」を使おうと決意した。それが今季のSP(ショート・プログラム)の選曲、ガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム」。そして、エキシビジョンナンバー「メリーポピンズ」。

「マオの軽やかさ、純粋さ、愛らしい躍動感などを引き出したかった」とローリー・ニコル。

その結果、中国杯でSPを終えた浅田は、大きな笑顔を見せた。「マオは太陽が昇ったように輝いた」。



そして、最終的にはSP2位からの逆転優勝。

彼女の顔からは昨シーズンの思いつめたような表情が消え、一つの新境地に到達したようでもあった。GP通算9勝は日本人最多記録でもあった。



新生・真央は、着氷率が安定しなかった派手な3アクセル(3回転)を思い切って外し、表現力をより重視するようになった。

久しぶりに優勝した中国杯では、その表現力が高く評価され、5コンポーネンツに8点台が並んだ。今シーズン女子で8点台のコンポーネンツを出したのは、アシュリー・ワグナーと浅田真央だけである(コンポーネンツとは表現力などを評価するポイント)。



「今は自分も目指すものが見つかっています」

そう語る浅田真央の表情は生き生きと明るく、滑る喜びを取り戻したかのようであった。



今日(11月23日)から開催されているNHK杯、トップ3位内に入ればGPファイナル進出が決まる。

その華麗なる戦いは、大いに期待できるであろう。SPではさっそくのトップだ!





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/6号
「浅田真央を再生させた振付師の決断」

[PR] ありそうでなかった「鶏ささみ肉のソーセージ」





「マスター、この店に『ささみ肉』ないの?」

総合格闘家の大山選手は、スポーツカフェのマスターにそう尋ねた。

「高タンパク・低脂肪・低カロリー」と三拍子そろった「ささみ肉」は、格闘家たちの間で流行っていたのである。



マスターの大森さんは、長年K-1の審判を務めていた「格闘技好き」。

さっそく、ささみ肉を乗せた「格闘家丼」というメニューを作って、メディアにも取り上げられるほどになった。



「ささみ肉」は何も格闘家ばかりが欲するものではない。アスリート全般にとって「良質なタンパク質」であり、いい筋肉をつけるのにはもってこいである。

そこでマスターは、ささみ肉を製品化し販売することにした。それが㈱アスリートフーズの「鶏のささみ肉」。

「一度加熱してあるので、冷蔵庫から取り出して、そのままサラダやサンドイッチにして食べることができます」





加熱するとパサパサになってしまうというのが、鶏ささみ肉の難点だったが、豚肉のようにハムやソーセージにしてしまうことで、量産化に成功したのだという。

「鶏のささみは豚肉と違って『脂分がない』ので滑りが悪んです。ソーセージのケーシング(天然の羊腸)に充填するのに、ひと手間もふた手間もかけなければいけませんでした」

そうした製造上の難点から、「人間用」の鶏ささみ加工肉は燻製くらいしかない(とても硬い)。ペットフードばかりが圧倒的に多いのである。



アスリートたちのノドから手がでる「鶏ささみ肉」。

それが手軽に食べられるのは、何よりもの朗報だ。



それは、あの一言から始まった。「マスター、ささみ肉ないの?」

今は閉店してしまったマスターのスポーツカフェ。でも、今ならネットでも買えるのだ。




若手の育ちやすいバドミントン界


オリンピックが終わるとともに、「引退」する選手も多い。

それは彼らが、オリンピックを「ひとつの区切り」として競技人生を組み立てているからでもある。

だから、オリンピックが終わると必然的に「世代交代」が促される。



「バドミントンもそうだ」

ロンドン五輪で銀メダルを獲得した「藤井瑞希・垣岩令佳ペア」も、藤井が日本代表から退いて行った。

そのいわば「好機」に若手選手は台頭してくる。21歳の三谷美菜津は中国マスターズでベスト8入り(元世界ランク1位の選手を破った!)、フランス・オープンで優勝(ロンドン五輪銅メダリストを破った!)、世界ジュニア選手権では日本初の銀メダル獲得(世界一のバドミントン大国・中国に惜敗)。



バドミントンには、「若い世代を台頭させるシステム」があるという。

それは、つねに「現時点の実力よりも『上の環境』に身を置かせる」システムだ。たとえば、現役高校生が実業団チームに内定しさえすれば、日本リーグへの出場が認められるし、ナショナルチームの下には、次代を育てるバックアップチームが置かれている(中高の有望選手を選出)。

すなわち、高校生でもオリンピック・メダリストと同じ土俵に立てるチャンスが用意されているのである。



ユース世代の指導者は、こう語る。

「ロンドン五輪の銀メダルを見て、高校生らは『すごい』と思うよりも、『ライバル意識』を燃やしていた」



若手に少し「背伸びさせること」。

それが次のオリンピックにも繋がっていくのだろう。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号
「才能を確実に伸ばすバドミントン界の秘策」

2012年11月20日火曜日

なぜ不振? 大相撲「九州場所」


「野球はソフトバンク・ホークスで盛り上がってるよ。今の相撲は、単に面白くないだけじゃない?」

大相撲は人情厚い「博多っ子たち」に見捨てられたのか?



大相撲一年納めとなる「九州場所」であるが、1998〜2011年まで実に14年ものあいだ、「初日に『満員御礼』が出ていない」。とりわけ、2000〜2002年の3年間は「15日間の開催期間中、一度も満員御礼が出なかった」。

かつての九州場所といえば、「111日間にわたり、満員御礼の垂れ幕が下がり続けていた時期」もあった。空前の相撲ブーム(若貴など)に沸いていた1989〜1997年までの9年間である。

しかし、そんな栄光も今や昔、過去最高を記録した約13万人(1997)から、昨年は約5万3,000人のワースト記録(6割減)。下り坂を下る一方である。




九州場所の客の入りは、年6回行われる本場所中で「最も悪い」と指摘されている。

それは、他場所とチケットの販売方法が違うこともその一因。通例、「茶屋」と呼ばれる相撲案内所がチケットを販売するのだが、なぜか九州にその茶屋がない(東京20軒、大阪8軒、名古屋3軒)。茶屋には贔屓筋や固定客がついており、企業等が年間で升席を確保していることも多い。

その茶屋がないことで、九州場所のチケット販売が振るわず、景気などの影響をモロに受けてしまう。折り悪く、今月7日に発表された九州地区の鉱工業生産指数(9月)は、「9ヶ月ぶりに下方修正」されている。



さらに、角界全体も低迷が続いている。相次ぐ不祥事(八百長問題など)に加え、横綱など上位力士に日本人が少ない。大関以上の7人のうち5人までが外国人力士だ(約7割)。

それゆえ、「新弟子」も少なくなっている。20年前のピーク時(1992)の223人に比べると、今季は75%減のたった56人。史上最低記録であった。ちなみに、いわゆる「タニマチ(後援者)」も減り続けている。



さてさて、そんな中で開催された九州場所。

案の定(?)、初日に「満員御礼」は出なかった。それでも昨年よりは「8%くらい多かった」らしい。

「横綱が2人になった効果もある」

今場所は、新横綱・日馬富士(はるまふじ)を迎え、16場所ぶりに東西両横綱がそろった。惜しむらくは、白鳳・日馬富士ともに「モンゴル出身」の外国勢ということではあるが…。



「千秋楽に関しては『満員御礼』が出せそうだ」と楯山親方(九州場所部長)。

しかし、町の人の声は「いっそのこと、相撲が盛んな青森など、東北地方に開催場所を移したら?」と厳しいご意見。

「むべなるかな…」





ソース:
Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号「不入りが続く九州場所。その打開策はあるのか?」
ロイター「逆風下の大相撲と九州経済」

2012年11月19日月曜日

[PR] アスリート仕様マットレス「エアー」






「ゴルフはスタートしてから結果が出るまで、3日間、メジャーなら4日間とすごく時間がかかるスポーツなんです。そこで重要なのが『睡眠』。身体の疲れをとることがとても大切なんです」

ツアー通算13勝目となる日本女子選手権優勝は、有村智恵にとって念願の「メジャー初制覇」であった。



「睡眠の質」を高めるために有村が選んだのは、アスリート仕様のマットレス「エアー」。

「寝ているというより、『宙に浮いている感じ』ですね」

体圧を分散するという「三層特殊立体構造」のおかげで、身体に負担がかからないのだとか。表面の凸凹が部分的な圧迫感を和らげる。

遠征先や大会会場にも携帯可能な「ポータブル・タイプ」も。






アメリカに渡る理由。有村智恵(女子ゴルフ)


「まだ来ないな…」

宮里藍はそう感じた。後輩である「有村智恵(ありむら・ちえ)」の心の中にある「ためらい」に気がついたのだ。アメリカへ来ることへの…。

アメリカで戦う宮里には「海を渡らなければならない理由」があった。それは幼い頃からの夢だったのだ。宮里美香にしろ、上田桃子にしろ、アメリカ組にはそれぞれの然るべき理由があった。



しかし、有村にはアメリカ行きを決する明確な理由がなかった。

ただ漠然と、「アメリカに行くたびに、この環境で練習するのと、日本と練習するのとでは上達具合が全然違うな…」と感じているだけだった。アメリカなら丸一日練習しても飽きることがない。日本のコースではどうしても出来ない練習もたくさんある。

「そういうところで、どんどん『差』がつくんだろうな…」



長らく有村がゴルフに打ち込んできたのは、「家族のため」であった。

「今までの知恵は、まず家族のためにゴルフをしてきたんです」と、一緒に暮らす姉の美佳さんは言う。そんな妹のため、美佳さんはなけなしのバイト代を妹の小遣いとしてくれていたのだ。

「それが今は、家族の生活はもう大丈夫というぐらいにはなりました。だから、『何のためにゴルフをするのか』というのがハッキリしていないんだと思います」



「何のためにゴルフをするのか?」

もう、家族のためではない。じゃあ、何のために…?

そんな形にならない気分は、なかなかハッキリした想いに変わらずにいた。



そんな中、同い年の「チェ・ナヨン」の全米での大活躍が報じられてきた。7月上旬の全米女子オープンで、チェ・ナヨンが「ブッチギリの優勝」を飾ったのだ。その晴れやかな笑顔と圧倒的な強さ。

「それをテレビで見ているだけの自分…」

有村にもこの大会の出場資格があったのだが、その出場は見合わせていた。自ずと「後悔の念」が湧き上らざるを得ない。

「なんで私は出なかったんだろう…」



悶々が募る有村。

そこにまた友人たちの朗報が続々と届けられる。ロンドン・オリンピックだ。フェンシングの太田雄貴、競泳の立石諒…。同世代の選手たちは、美しく世界に名を轟かせていた。帰国した彼らに会った有村。太田からはピカピカの銀メダルを見せてもらった。テニスの錦織圭とは初めて会った。

有村にとって、「オリンピックのメダル」は垂涎の的だった。次のオリンピック(リオ・デ・ジャネイロ)では、ゴルフが復活する。



「みんな世界で活躍している。早く追いついて肩を並べたい!」

もはや悶々は晴れていた。そして、彼女にもついに「海を渡らなければならない理由」が心に芽生えた。



米ツアー挑戦。

その意志は固まった。覚悟も決めた。

決断の成否など誰にも分からない。それでも有村は「保証されていない道」へと一歩を踏み出したのだった…!





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号
「有村智恵 自分のためにアメリカへ」

2012年11月18日日曜日

ヤンキースが覚醒させたイチロー


「イチローは限界か?」

昨季は、10年連続の年間200本安打が途切れ、今年もニューヨーク・ヤンキースに移籍するまでのイチローの打率は、2割6分1厘と低迷していた。



38歳という年齢的な限界説もささやかれる中、そのイチローはアメリカ・メジャーリーグの常勝軍団ヤンキースの懐に飛び込んでいった。

今までのイチローが所属してきた球団といえば、日本のオリックスにしても、アメリカのシアトル・マリナーズにしても、いずれも「新興球団」。それに対して、ニューヨーク・ヤンキースと言えば、球界一の資金力に裏打ちされた伝統のチームであり、殿堂入りが確実な大スターたちがズラリと名を連ねている。

「かつてない類の決断」、それがイチローのヤンキース入りだった。



そして、残したイチローの成績は、178安打(9本塁打)・打率2割8分3厘。

年間の安打数は、メジャーリーグ移籍後の12年間でもっとも低く、打率もイチローにしては低い数字だ(イチローの通算打率は3割2分2厘)。

一見平凡に映る数字、しかしこの数字を違う角度で眺めて見ると、いかに輝いているかを理解できる。



まず、安打数が少なかったのは、常に先発起用されていた時代と異なり、ヤンキースのイチローには代打や代走の試合もあったからである。

とりわけ、イチローが打てなかったのは「代打」で出場した時である。6打数0安打。仮りに、代打での成績を除外すれば、イチローの打率は3割3分0厘にまで跳ね上がる。これは過去の彼のアベレージを上回る数字だ。

今までのイチローは、相手投手が右投げであれ左投げであれ、その打率にまず差はなかった(わずか1厘の差)。そして、ヤンキースで打順が2番になったり8番になったりしても、それが打率に影響を与えることはなかった。そんな柔らかな順応力を持つイチローも、代打には苦しめられた。「18年間ずっと先発だっただけに、代打への適応はハードルが高いのだろう」。



また、イチローの年齢、「レギュラーでいるだけで珍しい年齢層」も考慮しなくてはならない。10月22日には39歳になった。

現在の大リーグでイチローと同じ年か年上の選手を探してみると、主力投手はチラホラいるものの、主力の野手となると2人しかいない(イチローも野手)。そして、その内の一人(チッパー・ジョーンズ40歳)は今季かぎりで引退を表明している。

打率を並べてみると、35歳以上の選手に絞れば、イチローの打率は「アメリカ大リーグ全体で5番目」であり、しかもその5人の中で「イチローは最年長」なのである。

すなわち、年齢というフィルターを通して見たイチローは、大リーグで突出した存在だということである。



さらに、年齢を考慮せずとも、チャンス時のイチローは強い。

月別の打率を見てみると、最も高かった月が9月の3割8分5厘。この月は「オリオールズと地区優勝を争った『緊張感の高い時期』」である。その緊張感の中で、イチローは「ズバ抜けていい結果」を出しているのである。

ちなみに、この9月、年齢的に限界の近いベテラン勢は暑さに消耗して、その成績を下げていくのが常。そんな中、イチローは逆に成績を上げてきたのだ。



この「緊張感」というのは、イチローを高める重要なキーワードだ。

ヤンキースの本拠地ニューヨークの「ヤンキース・スタジアム」での成績は、打率3割3分8厘と極めて良い。一方、古巣マリナーズの本拠地「セーフコ・フィールド」での成績は、打率2割1分6厘と「考えられないくらいの低迷ぶり」である。

なるほど、緊張感あふれるヤンキースに身を置き、緊張感あふれる優勝争いに加わったイチローは、ふたたび覚醒したのである。

「イチローに必要だったのは、やはりペナントをかけた緊張感であったのだと分かる」



移籍後に成績を上げたイチローは、「再契約の可能性がきわめて高い」。再契約に有利なデータは、ここに上げただけでも十分すぎる。

さらに、来年は日米通算4,000本安打のかかるシーズンとなる。過去に通算4,000本安打を達成した選手はタイ・カップとピート・ローズ、この2人しか史上にいない。

あと116本。「順当なら夏には達成される」。もはやイチローにとって、「空前の記念碑」は眼前に迫っている!





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号
「イチロー 逆襲は続く」


2012年11月16日金曜日

「1つ」に専心した「小久保裕紀」の野球一本道


「本当に最高の野球人生だったとつくづく思いました。『ありがたいな、幸せやな』と」

今年の9月30日、現役引退を表明していた「小久保裕紀(こくぼ・ひろき)」は、10年ぶりとなる「2打席連続ホームラン」を放った。しかも、ソフトバンクの本拠地、福岡のヤフードームで。

「打った本人がビックリですよ(笑)。今年はヤフードームで一本も打てなくて、最後辞める前に一本くらい福岡のファンの前で打っておきたいなと思ってたんです。それが2打席連続なんて(笑)」



左中間に大きな放物線を描いた2打席目のアーチ。

「よく『無心で打て』と言いますが、僕が19年間でたどり着いたのは、無じゃなくて『1』なんです」

2つも3つも余計なことを考えてしまうと、反応が鈍くなって打てなくなってしまう。だから小久保は、チェックポイントを「1つ」に絞る。

「2打席目のホームランは、『スライダーが来たら振る』、その1つだけでした」



無心ではなくて「専心」。それは19年前にプロ入りした時から、無意識にも小久保の胸の内にはあったのかもしれない。

今から20年前の1992年、バルセロナ・オリンピックの野球日本代表として活躍した大学生・小久保裕紀。その獲得を巡って、巨人とダイエーは熾烈な獲得合戦を演じていた。

しかし、当の小久保はと言えば「合宿所から一歩も外へ出ず、電話の取り次ぎも断って、ドラフトの日を待っていた」という。それは巨人・ダイエーの攻勢を避けるためであり、心に一つ決めていたダイエー(現ソフトバンク)を逆指名するためだった。

「あの注目度の中、全国区の巨人に飛び込んでいたら、潰れていたと思うんですよ。19年間も野球はできていないと思いますね」と小久保は当時を振り返る。



1994年のオフ、ダイエーの監督が根本陸夫から「王貞治」に代わる。そして、ハワイにいた小久保のもとをわざわざ訪れた王監督は「来年、一緒にやろう」と声をかける。その日のことを小久保は今も鮮明に記憶しているという。

そして迎えた翌年の1995年。「2年目の若造」は欲をむき出しにしてホームランばかりを狙っていた。その様を見ていた石毛宏典から「みっともない!」と言われるほどに。

「そりゃ、欲も出ますわな。2年目の若造なんですから」と小久保。その強欲の甲斐あって、そのシーズン、本塁打王に輝いた。しかし、その報いは思わぬ形で彼を襲うこととなる。



「この世はオレのために回っている」と勘違いしていたという小久保は、プロ野球脱税事件(1997)で開幕戦から8週間の出場停止処分。復帰してなお、右肩の故障で戦線離脱を強いられてしまう。

その後、右肩痛に悩まされながらも、1999年に日本一、2000年もリーグ優勝、自身も2002年までに3年連続で30本塁打を達成。

しかし、悪夢は再び小久保を待っていた…。



「なんでキャッチャーが自分の上に乗るんや?」

ホームに滑り込んだ小久保はキャッチャーと交錯。右膝前十字靭帯断裂、外側半月板損傷、内側側副靭帯断裂、脛骨・大腿骨挫傷という大ケガを負ってしまう。

「あの試合、本当は休みだったんですよね…。それまで人を恨んだことはなかったんですけど…」

小久保は必死に「人生に無駄は一つもない」と自分を納得させようとしていた。「人生で自分に降りかかってくることは『必然』、必要なこと…」。



確かに、大ケガをして棒に振った一年は小久保にとっては「必要」だったのかもしれない。手術を受けたアメリカで、小久保は一年をかけてみっちりと体幹を鍛え直した。

「もし、あのままレギュラーで試合に出続けていたら、1年間かけて身体を作り直すことはできなかったでしょう。あのままだったら、たぶん41歳までプレーできていません」

大ケガを機に、重いウェイトでガンガン筋肉を太くするトレーニングを改め、食事も変えた。プロ入り10年目の転機は、次の10年に確実につながることとなっていたのだ。



「これはちょっと、自分の力じゃないな…」

そう思いながら、小久保はダイヤモンドを一周していた。大ケガをしたちょうど一年後の同じ日、しかも同じ場所のヤーフードームで…。

この時の小久保は巨人のユニフォームを着ていた。巨人へと無償トレードされていたのだ。そして、そのホームランを打った相手は古巣のダイエー・ホークスであった。



3年間を巨人で過ごした小久保は、2006年、FA(フリーエージェント)を宣言。

そして、フリーになった小久保のもとを真っ先に訪れたのが、胃の全摘出手術を受けたばかりの王監督(ダイエー)であった。小久保は一も二もなく、無条件で移籍を快諾。ここに念願の古巣への復帰が叶うこととなる。



移籍後初となる日本シリーズ出場を果たすのは昨シーズン。

「よっしゃ、MVP獲りにいったろ!」

満塁のチャンスで打席が回ってきた小久保は、若かりし日のような強欲さでホームランを狙いにいく。

ところが…、「センターフライ(笑)」。それでも結果的には、史上最年長のMVPに輝くこととなる。第4戦、第5戦で放った先制打などが高く評価された。見事な日本一であった。



そして迎えた今シーズン。6月24日に念願の「2,000本安打」を達成。

「怖かったです。やっぱり最後まで怖かったです。残り100本を切ってからダメだった人もたくさん見てきてるんで…」

この2000本安打の達成とともに、小久保の心の深いところに「やりきった感」が芽生え始める。人知れずそんな想いを抱えていた7月14日、「尊敬する王さん」から名球会のブレザーを送られた時には明らかに、「引退の2文字」が頭に浮かんでいた…。



現役引退を公にしたのは、それから1か月後。

そしてその後、小久保のバットからは冒頭の「2打席連続ホームラン」が飛び出す。

「僕の人生、メッチャついてます。本当に」



10月19日、CS(クライマックス・シーズン)ファイナルステージ第3戦。

日本ハムに2点リードされて迎えた最終回、9回表、2死満塁。一発出れば同点の大チャンスに現れた小久保。しかし、3球目を打ち上げてしまった小久保は、あっさりとショートフライに打ち取られてしまう。

それはソフトバンク2012シーズンの終わりであると同時に、小久保の野球人生19年の幕切れともなった。



「最後の打者が自分になるなんてね。僕まで回してくれたのが嬉しかった。野球の神様からご褒美をもらえたんだと思います」

出場した試合数2075。波瀾万丈だった19年間の野球人生も、終わってみれば「一本道」。彼の打席に「無駄なものなど一つもなかった」。

野球一筋に生きた男は静かに、しかし満足気にバッターボックスを後にした…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号
「小久保裕紀 それでも歩んだ一本道」