2013年10月18日金曜日
日本の「悲劇」、韓国の「奇跡」。ドーハ1993 [サッカー]
「ドーハの悲劇」
それは日本サッカーにとって、まったくの悲劇。
史上初となるはずだったW杯出場の夢が、あと数秒というところで絶たれた(1993年W杯アジア最終予選、イラク戦)。
一方、韓国にとっては「奇跡」となった。
”日本代表の手からすり抜けた「W杯行きの切符」を手にしたのは、韓国代表だった。日本と同じ2勝1敗1分の勝ち点5で並んだが、最後の最後でアメリカW杯出場権を手にしたのは、得失点差で上回った韓国だったのだ(Number誌)”
ゆえに韓国ではドーハの悲劇とは言わない。「ドーハの奇跡」と呼ぶのである。
当時、韓国代表の監督だった金浩(キムホ)は言う。
「無線で”日本vsイラクが引き分けた”と聞いたときは、黄泉の国から生き返ったような気分でした。選手やスタッフたちも我を失って大騒ぎでね。イラクの選手も次から次へとやって来て、感謝の印にスパイクや練習用具を手当たり次第にプレゼントしました。『私たちを救ってくれてありがとう!』と」
もし、日本にあの”悲劇”が起こっていなかったら、金浩(キムホ)は間違いなく監督をクビになっていただろうと言う。
「実際、もしも日本がイラクと引き分けていなかったら、私は監督をクビになるどころか韓国サッカー界から抹殺されていたでしょう。ドーハの”奇跡”で、私は命拾いをしたわけです」
この1993年のアジア最終予選。
「日本vs韓国」の直接対決において、韓国は初めて日本に敗北を喫していた(0−1、カズが決勝弾)。
”内容的にも日本の優位が目立っただけに、韓国のマスコミは「(日韓併合以来)第二の国辱日」と怒りを爆発させた。その非難を一身に浴びたのが金浩監督だった(Number誌)”
金浩は当時を振り返る。「テレビ番組で私の責任を問う公開討論番組が生中継されたほどで、国民もマスコミも怒り心頭でした」
当時、韓国は2度のW杯出場を果たしており、いまだ出場したことのない日本は格下も格下であった。
三浦知良(カズ)はこう語る。「韓国はアジアの中でもトップクラスでしたし、W杯にも2大会連続で出場していました。韓国と試合をやっても、力の差というものをすごく感じました。日本との勝敗を見ても、当時は圧倒的に韓国の方が良かったですしね。まさに、韓国に勝たなければ世界には出て行けないという感じでした」
金浩監督も、現役時代はDF(ディフェンダー)として釜本邦茂ら日本代表の前に立ちふさがり、負けたことは一度もなかった。
しかし、三浦知良やラモスが台頭していた日本代表は強かった。
当時、韓国代表だった河錫舟(ハソッチェ)は語る。「実際に戦ってみると、日本の強さは予想以上でした。だからこそ負けたときのショックも大きく、雰囲気は最悪でした。誰ひとりとして口をきかない。まるで葬式でしたよ」
彼のもとには、”身の危険”を案じる家族から国際電話がはいった。「当分のあいだ、韓国には戻ってこないほうがいい…」
アジア最終予選、最後のカードは
日本 vs イラク
韓国 vs 北朝鮮
韓国がW杯出場をはたすには、北朝鮮に3点差以上で勝ち、かつ日本が引き分け以下であることが最低条件だった。だがそれは、神にすがらねば叶わぬほど絶望的であった。
韓国代表(当時)の徐正源はこんな話をする。「最終戦の北朝鮮戦の前夜には、部屋にボールを祀ってひざまづき、何度もお辞儀を繰り返しました。いま振り返れば迷信じみた笑い話ですが、当時は真剣で、神にすがるしかないほど切羽詰まっていたんです」
神頼みもいとわず臨んだ北朝鮮戦。一つめの奇跡が、まず起きた。
韓国は後半早々に先制し、53分には追加点を挙げる。さらに河錫舟(ハソッチェ)が悲願の3点目を決め、その点差をW杯出場の最低条件であった3点にしたのである。
ところが、韓国ベンチはその3点目を誰も喜んでいなかった。その沈んだままのベンチを見て河錫舟(ハソッチェ)は悟った。「日本は勝っているのか…。もうダメなのか…」。日本vsイラク戦の戦況は10分おきに無線で連絡が入っており、日本は2−1でイラクに先んじていた。
そうした韓国ベンチの絶望ムードは、イラクが日本ゴールに決めた「ロスタイムの1点」の報によって、歓喜一色へと転ずる。
河錫舟(ハソッチェ)は言う。「とてつもない虚無感のなかで終了のホイッスルを聞きましたが、サポーターに挨拶して振り返ると、ベンチが狂ったように飛び跳ねている。それからはもう大騒ぎですよ!」
そのバカ騒ぎのあと部屋にもどった河錫舟(ハソッチェ)は、あるテレビ映像に釘付けになった。
”部屋に戻ってテレビをつけると、「茫然とする日本代表や号泣するサポーターの映像」が何度も流れていた。その映像に、それまで歓天喜地していた韓国代表の誰もが言葉を失ったという(Number誌)”
河錫舟(ハソッチェ)は言う。「笑っている者など誰ひとりいませんでした。三浦、井原、中山、柱谷にラモス…。何度も戦ってよく知る選手ばかりだっただけに、余計にもどかしかった。あの日本代表は歴代で最もW杯を渇望していた選手たちでした。そんな彼らが膝を落して泣いていたんです…」
あれから20年、日本サッカー界は「ドーハの悲劇」による傷口をただれさせながらも急成長を遂げた。
三浦知良は言う。「いまでは日本はW杯予選を突破するものだとみんなが思っている。そうやって成長してきたんです。でもドーハ以前は、W杯という存在すらどういうものか分からなかった人が多かったと思うんだよね」
一方、ドーハの”奇跡”を享受した韓国サッカー界は、そう楽観できぬ状況が続いている。
”韓国サッカー界が抱える課題は多い。たとえば、2002W杯開催のために新しく新設されたスタジアムのうち、黒字運営されているのはソウルだけ。そのほかは毎年赤字に苦しみ、管理もおぼつかない。国内Kリーグも観客動員は平均1万人にも届かず、テレビ中継も少ない(Number誌)”
ドーハの奇跡の渦中にいた金浩監督(当時)は、「20年前には想像できなかったことが起きている」と嘆く。「この20年で環境も選手層も豊かになり、表面的には発展しているように見えますが、肝心の質と中身は何も変わっていません」。
金浩(キムホ)はむしろ、塗炭をなめた日本を羨む。
「韓国にとって、ドーハの”奇跡”は得にもなりましたが失にもなりました。韓国は見かけばかりになってしまったのです。対して、日本はドーハの体験を発奮材料にし、準備と計画性をもって内面的な質を高め、この20年間、停滞することも自惚れることもなく順調に発展しています。本田や香川のような選手が次々と生まれてくるのもその成果でしょう」
かつてボールを祀って神頼みした徐正源も、同じようなことを言う。「いまの日本は当時の私たちが想像していた以上に強くなりました。香川などは技術や攻撃的センスが図抜けています。いまの日本はブラジルW杯でもかなりの好成績を収めるのではないでしょうか」
最後に金浩(キムホ)は、穏やかにこう言った。
「世界的に見ても、隣国同士は仲が悪い。まして韓国と日本のあいだには歴史問題もあって一筋縄ではいかない部分もあります。ですが、競い合う相手がいてこそ己が高められる。サッカーでいえば『ドイツとオランダ』。日本の方々にわかりやすく例えるなら『武蔵と小次郎』。韓国と日本はそういう関係なんです」
そして、目を細めてこう続ける。「憎くても相手を認めねばならず、認めなければ互いの成長も発展もない。韓国と日本はこれからも、そういう関係であってほしいですね」
(了)
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/31号 [雑誌]
「ドーハの”奇跡”と韓日サッカーの軌跡」
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