2012年9月12日水曜日
オリンピックから消えたソフトボール。上野由岐子
「ロンドンって雨が多いなぁ。こんなに雨が降ったら、野外競技の選手は大変だなぁ」
その彼女は、まるで一般の観客のようにテレビでオリンピックをちょいちょい見ては、そんな呑気なことを思っていた。
本来であれば、ロンドン五輪のメダリストとなっていても、何らおかしくなかった彼女が…。そう言えば、あの日の決勝戦も、雨のために20分ほど競技が中断したっけ…。
◎上野様
「神様、仏様、上野様」
前回の北京オリンピック(2008)では、そこまで讃えられた「上野由岐子」選手。彼女は女子ソフトボール競技において、日本に「金メダル」をもたらした優勝投手である。
上野選手の武器は、時速121kmという「世界最速」のストレート。この強烈なスピードの体感速度は、野球の160~170km/hの剛速球に匹敵するという。投手の手を放れたボールが、キャッチャー・ミットまで入るのに要する時間は、わずか0.3秒。それを打つのは「ほぼ不可能」。打ったとしても金属バットが「へし折れる」。
これほどの投手を擁していた日本チームであるが、北京オリンピックで日本は、優勝の本命とは見られていなかった。「上野がいくら良い投手でも、まさか一人ですべての試合を投げるわけにはいかない」というわけで、上野を欠いた時に日本は負けると見られていたのである。
実際、前々回のアテネオリンピック(2004)では、体調を崩した上野選手。決勝トーナメントで投げることができずに、日本は銅メダル止まり。上野投手が投げた試合には、オリンピック史上初の「完全試合」もあったというのに…。
ところが一転、北京オリンピックでの上野投手は鬼神のようであった。
準決勝の敗退から敗者復活戦、そして決勝戦と、たった2日間で3試合、すべてを先発で投げ切った(最初の2試合は延長までもつれこむ接戦)。「2日間で413球の連投」、この驚異的な力投が、過去3大会連続の王者・アメリカを下し、日本に金メダルをもたらした。
オリンピック開幕前、上野選手は「金メダルのためなら、何回でも登板します」と意気込んでいた。その言葉にはアテネでの無念さが滲み出ていた。そして北京大会、その言葉通りに彼女は最後まで投げ続けたのである。
球技としての金メダルは、1976年のモントリオールにおける女子バレー以来、じつに8大会、32年ぶりの快挙であり、まさに「神様、仏様、上野様」であったのだ。
◎めっちゃ楽しい
そんな4年前の熱狂はどこへやら。ロンドン期間中の上野選手は、静かな夏を過ごしていた。ロンドン五輪では、ソフトボールが正式競技から外されていたのである。
北京オリンピックが最後であることは、その4年前の大会中にもすでに分かっていた。あの金メダルが「最後の金メダル」となることも…。それゆえに、彼女はあの試合で鬼と化せたのか。彼女は北京オリンピックが終わると、日本代表の座を辞した。彼女を惜しむ声を背中に聞きながら…。
とはいえ、彼女がソフトボールから離れたわけではない。「ソフトボール、今日はめっちゃ楽しめたな」、そんなプレーを続けている。
最高の投手である彼女は、最高の打者でもあった。「打撃だけなら四番打者。飛距離はチーム一番」と宇津木監督も認めるほどであったが、投手が打席に立てば、死球(デッドボール)というリスクがある。そのため、「勝ち」を優先させて、大好きなバッティングが封印されてきたのだ。
ところが今や、それほど「勝ち」にこだわる必要はない。大好きなバットを思いっきり振ることが許される。当たれば、ホームランだ。
「あそこで一度代表を抜けたことによって、今があると思っています」と上野選手。「あのまま代表を続けていたら、金メダリストとして、国際試合でも『すべて勝たなきゃいけない』。そういうプレッシャーの中で、きっとどこかでバーンアウトしていた(燃え尽きていた)と思います」
今の彼女は、0点で抑える必要がない。「味方が3点取ってくれたら、相手に2点まではあげていい」。そういうピッチングも許されるのである。打たれてもいいし、点をとられてもいい。
◎たかが金メダル
オリンピックから離れ、より自由な心となった上野選手は、ソフトボールの「原点」に帰っていた。
「プレッシャーとか責任感とか、いろんなものから解放されて、自分のありたいことをやれました。だから、『まだ自分はソフトボールができるな、したいな、これしかないんだな、って気持ちになれました」
彼女は楽しげにそう振り返る。彼女にとって、北京の金メダルはすでに「たかが金メダル」になっていた。それを目標として達成したことに最大の価値があったのである。
むしろ、メダル獲得後の国民的な熱狂は、彼女をおおいに困惑させた。「周りの評価が自分のイメージ以上」に高くなってしまい、周囲の見る目と自分自身との乖離に苦しんだのだ。「神様でも仏様でもないのに…」
◎闘志、ふたたび
今年7月22日、オリンピック開幕を直前に控えていたその日、上野選手はカナダでマウンドに立っていた。そこで行われていたのは世界選手権の決勝戦。相手は8連覇中の王者アメリカである。
「あそこまで自分に火が付くとは、自分自身、想定外でした」
久々に「金メダリストとしての意地」が上野投手を燃え上がらせていた。「こんなところで負けて、北京は『まぐれ』だったと思われたくない!」。そこにいたのは、かつての「勝ち」にこだわる上野投手であった。
それもそのはず、この大会では「北京を思い起こさせるような熱戦」が続いていた。準決勝で一度アメリカに敗れたのも同じであれば、敗者復活に勝ち上がり、ふたたび決勝でアメリカとまみえたのも、また北京と同じであった。
さらに、そのメンバーも北京以来であり、復帰したショートの西山選手、そして何よりも、宇津木氏が代表監督にふたたび就任していた。
そんな中、北京の魂を取り戻していたエース上野は、北京での2日間3連投を上回る、なんと3日間4連投。決勝トーナメントをたった一人で投げ抜き、宿敵アメリカとの決勝を、延長10回、2対1で勝利を飾った。
世界選手権の優勝は、1970年大会以来、42年ぶりの快挙。上野選手にとっても初のタイトルであった。
◎世界選手権とオリンピック
「久々に本気で試合をしたというか、やりきった感のある試合でした。久々に自分の気持ちや体力が一杯一杯になって、『これ以上は本当に無理かもしれない…。でも、ここで踏ん張らなきゃ』というような、そんな苦しさがすごく楽しかった」
これは試合後の上野選手の言葉。北京大会での「苦しさ」は果たして楽しめるものだったのか? 少なくとも、彼女は今回の苦しさを明らかに楽しんでいる。この大会期間中、彼女は30歳の誕生日を迎えていたが、彼女の豪腕に衰えは見られなかった。むしろ、苦境を楽しめるほどに精神的に大きくなっていた。
「やっぱり、こういうのっていいですね」
代表に復帰した西山選手は、緊迫した試合の中で、ぼそっとそうつぶやいていた。また、宇津木監督は「サッカー女子のなでしこジャパンに刺激を受けた」と語っていた。
北京オリンピック以上の死闘を制した世界選手権の日本代表チーム。しかし、その注目度はといえば、オリンピックとは「雲泥の差」。オリンピック、世界選手権の両方を戦った上野選手は、改めて、オリンピックが「特別な舞台」であることを痛感していた。
「代表の中にも子供の頃、テレビでオリンピックを見たことが、ソフトボールを始めるキッカケになったという選手は多いんです」と語るのは選手団の広報担当・吉田氏。「そういう『憧れの舞台』がなくなったことへの危機感はあります」
◎世界の知らぬソフトボール
日本が世界選手権で優勝を決めた7月22日、国際野球連盟と国際ソフトボール連盟が統合し、改めて2020年オリンピックでの「野球・ソフトボールの復帰」を目指すことが発表された。
残念ながら、次回大会(ブラジル・2016)では野球とソフトボールは正式種目からすでに除外されてしまっている。今回のロンドンに引き続き、次回もソフトボールはオリンピックで見られないのだ。つまり、8年間の空白はもう確定してしまっている。上野選手の勇姿をふたたび「憧れの舞台」で目にすることは、すでに厳しい。
野球とソフトボールが外された一方、ラグビーとゴルフが正式種目として採用されている。その明暗を分けたのは、その普及程度と大会後の施設の有効活用に関してである。
IOC(国際オリンピック協会)の規定では、「男子は4大陸で75カ国以上、女子は3大陸で40カ国以上」で広く行われている競技でなければ、正式種目としての採用は認められない。
その点、日本やアメリカでメジャーな野球でさえ、日本と北米だけといえば、それまでである。野球は世界121ヶ国で行われているとはいえ、決して「広く」は行われていないのだ。さらにソフトボールとなれば、ますます厳しい。
そして、野球やソフトボールがあまり行われていない国が開催国になった場合、その専用球場を造ること自体が大きな負担であり、大会後にはほぼ間違いなく取り壊さなければならなくなる。日本のように全国各地に野球場がある国など、世界にはほとんどないのである。
一方のラグビーとゴルフは、開催国の負担が軽い。ラグビーはサッカー場でもプレーできるし、ゴルフ場はオリンピックを開催する国ならばたいていある。それゆえ、大会後も施設が無駄になることはない。
◎盛り上がらなかったソフトボール
とはいえ、オリンピックにおけるソフトボール競技は、1996年のアトランタ五輪から、シドニー、アテネ、北京と4大会連続で行われてきた実績がある。そろそろ定着しても良いのでは、との見方もあったが、やはり参加国の少なさは問題視された。
かつて一度でも参加したことがある国家は13ヶ国、2度以上となると8ヶ国。さらに、メダルを取る国となると、ほとんどアメリカか日本、オーストラリアで決まりである(一度だけ中国)。
また、ソフトボールは野球と同一視される傾向にあるため、野球の動向の影響も強く受ける。
野球の盛んなアメリカでは、もともとオリンピックに乗り気ではない。なぜなら、オリンピックがMLB(メジャーリーグ)の日程と重なるためだ。多くの人が無関心な世界の舞台で野球をするよりも、アメリカ国内でプレーした方が注目度は俄然高いのである。それに加えて、オリンピックの厳密なドーピング規制は煙たいばかりだ。
日本では野球とサッカーはメジャースポーツの代表格であるが、世界の常識では圧倒的にサッカー。ボール一つでできる手軽さが、その魅力である。一方、野球やソフトボールを知らない多くの国の人々にとって、その難解なルールは理解不能である。
日本女子サッカー(なでしこ)が世界に踊り出た以上に、日本の女子ソフトボールは世界に成績を残したわけだが、世界に与えたインパクトには大きな差があった。
そして、ソフトボールがオリンピックから消えた今、国内でもその熱は沈静化してしまっている…。たとえ、世界選手権で優勝しても…。
◎冷めたソフトボール
「今は周りが冷めちゃったので、背負っているものも、前に比べたら軽くなっている気はしますね」
と上野選手は言う。それでも彼女は「世の中に『ソフトボール』という言葉を発信するのは、『私がやらなくちゃいけないんだ』」と強く想い続けているという。
その想いは宇津木監督も同じであり、「日本のソフトボールのために勝たなきゃいけないんだ」と強く想いながら、世界選手権の決勝を戦っていたという。
熱い彼女たちの目標は、当然「なでしこ」。今では世界の寵児となった日本の女子サッカーでさえ、その道のりは決して平坦ではなかった。今、第一線で活躍するなでしこたちは、女子サッカーという言葉すら誰も知らない頃から、必死でフィールドを駆け回っていたのである。
◎オリンピック・イヤー
「引退? 理由さえ見つかれば、いつでもその準備は出来ています」と上野選手。「『寿引退』って、ずっと言い続けているんですけどね…(笑)」。
オリンピックを失った今、「目指すところが全くなくなった」ともいう彼女、それほどに解放されたせいか、毎日毎日が「想定外」であったりして、目標のない楽しさを味わえているという。
インタビューが終わった後、彼女は誰に言うでもなくつぶやいた。
「今年に入って、すごく体調が良いんですよね…。今年に入って急に」
今年は4年に一度のオリンピックの年。身体に染みついた体内時計のようなそのサイクルは、オリンピックがなくとも彼女の身体をピークに持って行くかのようだ。
「何か不思議ですよね、オリンピック・イヤーって。去年までのあの痛みはどこへ行ったんだろ?」
◎次代
世間がソフトボールを忘れても、彼女の身体がそれを忘れることは決してない。オリンピックがなくとも、オリンピックを忘れない。
たとえ彼女がオリンピックのマウンドに再び立つことがなくとも、我々は北京オリンピックでの彼女の背中を忘れることはできないだろう。あの最後の一球、限界を超えて投げ切った彼女に、日本国民は惜しみもない拍手を送ったのだ。上野選手がどんなに嫌がろうとも、彼女は「神様」であり「仏様」であったのだ。
その姿に憧れてソフトボールを手にした少女たちも、きっといるに違いない。未来のソフトボール版なでしこたちは、今もどこかで汗をかいているに違いない。
その彼女たちが、また再びあの感動を巻き起こしてくれんことを…。
上野選手を超える剛速球で…。
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参考・出典:
Number 811 「五輪のない夏 上野由岐子」
Number web 「女子ソフト42年ぶり世界一」
Number web 「普及活動を怠った結果が招いた 野球・ソフトボールの五輪競技落選」
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