2012年9月21日金曜日
待たぬ本田と待った香川。サッカー
「南アフリカW杯後に、本田圭佑を『マンチェスター・ユナイテッド』に売却する」
当時、本田が所属していたVVVフェロン(オランダ)のベルデン会長は、そんな「極秘計画」を進めていたのだという。そのため、本田を見るためにマンチェスター・ユナイテッドのスカウトは同チームにやって来ていたのだが、ベンデル会長はそれをひたすらに秘していた。
ところが本田、それを待たなかった。「待っていて、南アフリカW杯に出られる保証はない」と、会長室に乗り込むや、ベンデル会長と直談判。自ら英語で説得し、CSKAモスクワへの移籍を了承させてしまった(当時、会長が要求する高額の移籍金を支払えるのは、CSKAモスクワだけだった)。
「開かぬなら、壊してしまえ」とばかりに、突っ走った本田。「無謀とも思える行動」で、日本人にとって未知の場であったロシア・リーグに駆け込んだ。そして、日本代表の岡田監督も認めざるを得ないほどの活躍を、その極北の地で果たしたのであった。
そして、迎えた南アフリカW杯。1トップに近い形で日本代表を任されることとなった本田。2ゴールを決めて、W杯の歴史にその名を刻むこととなるのである。
それまでの本田にとって、日本A代表への道は夢の向こうにあった。なぜなら、本田は北京オリンピック3連敗の「最大の戦犯」と批判されていたからだ。さらに悪いことには、所属していたVVVフェロン(オランダ)は、2部リーグに降格してしまう。
まさに「ドン底」。しかし、この屈辱が本田に「狂気」を生んだ。
本田は「神がかったゴール」を連発し、シーズン途中からはキャプテンにも抜擢された。そして、最終的には16ゴール13アシストと、チームの2部優勝に大貢献し、リーグMVPにも輝いたのであった。
一方、香川真司は「待った」。
W杯前からヨーロッパの各チームに誘いを受けていた香川であるが、移籍はヨーロッパのシーズンが始まる「夏」まで待ったのである。
そのためか、香川は南アフリカW杯のメンバーに選ばれることはなかった。この大会、香川はサポート・メンバーという不本意な地位に甘んじるしかなかったのである。
その香川は今年、世界最高峰のクラブ、マンチェスター・ユナイテッドへの移籍を決めた。
ドルトムント(ドイツ)に移籍した時は、契約金が4,000万円だった香川は、たった2年間の目覚しい活躍で、その価値を30倍以上に高め、マンチェスター・ユナイテッドとの契約金は14億5,000万円にまで跳ね上がっていた。
出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「北京五輪代表に見る『下克上の作法』」
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