2012年9月6日木曜日
「無心」となれば矢は自ずと的を射る。「弓道」
漆黒の暗闇…。
そこに一本の「矢」が放たれる。
「ターンッ!」と心地良い響きとともに、その矢は正確に的を射抜いた。自分の指先すらも見えない暗闇の中、その一本の矢は数十メートルも先にある小さな的に命中したのである。達人による驚愕の業(わざ)がここに成された。
「敵のいない武道」とも言われるのが「弓道」である。
眼前に敵を持たず、遠方の的は「自分自身」であり、放つ矢もまた「自分自身」であると考えられている。「的を狙うのではない」というのが弓道の教えだという。的を狙うことは「卑しいこと」であるとして、厳しく戒められている。
的を狙わずに、何を目指すのか?
「それは『無心』だ」と師範たちは口を揃える。その境地にあれば、闇夜の中ですら矢は的を外さないのだという。
石川八段によれば、「『当てる』弓を引くのではなく、『当たる』弓を引け」ということになる。当てよう当てようと欲する弓ではなく、葉にたまった水滴が自然に落ちるような弓を引け、というのである。
その「当たる弓」をつくるための作法が、「射法八節」と呼ばれる所作である。
1,足踏み…正しい姿勢をつくる土台となる足の位置を決める。
2,胴造り…定めた足元の上に腰を据え、気息を整える。
3,弓(ゆ)構え…射を行うため、気力を充実させ弓に手をかける。
4,打起こし…無風の空に一筋の煙がまっすぐ上るごとく、弓を頭上へと掲げる。
5,引分け…水が低きへ流れるごとく両腕を下ろしながら、弓を押し、弦を引いて、左右均等に引き分ける。
6,会(かい)…弓が放たれる直前の状態。心身・弓矢が渾然一体となる弓射の極致。的に対する欲望を捨て、不動の心で気合いの発動を促す(風船が破裂寸前になるように)。
7,離れ…離すのでもなく、離されるのでもない。「会」と「離れ」は不離一体であり、熟した果実が自然に落ちるかのように、矢は離れてゆく。
8,残身(心)…残身(心)は「離れ」の結果の連続であり、ここに射手の品格が現れる。
張り詰めたような静寂の世界の中、これらの所作は長い時間をかけて行われる。その結果として、「当たる弓」が出来上がる。そして、この境地に立てば、的が見えなくとも矢は的を外すことがなくなるのだという。
達人による射は、「座禅」を組んで瞑想しているかのように静かである。脳波の活動を調べてみると、弓を射っているのか、座禅で座っているのか区別がつかないほど活動的でない。
素人の射では、脳は活性化しっぱなしで、矢を放つ瞬間に「興奮のピーク(活動のマックス)」を迎える。それに対して、達人の射では、矢を放つ瞬間(離れ)、脳の活動は一段と沈静化する。
「無心になろうとすれば、もはや無心ではない」とも言われる。
「射に『没頭』することで、無心となる(射事没頭)」。
的が自分自身でもあれば、矢が自分自身でもある。そして達人の射は、見るものをもスッカリ引き込んでしまい、その空間すべてが「何ものか」となるのである。
ある格闘家は、こう言っていた。
「私は負けるかもしれないという『不安や恐れ』と戦い続けてきました。ところが、弓道には『敵』がいない。的を外すかもしれないという不安は、自分自身との戦いに他なりません。人間には不安や恐れを自らに抱く『心の弱さ』があるものですが、そんな心の弱さに『立ち向かうための道筋』を、弓道は鮮やかに示してくれています。」
達人の射法八節は、あたかも煙が上るように両腕が上がり、水が低きに流れるように両腕が下がると同時に弓が引かれる。そして、熟した果実が自然に落ちるかのように、矢は離れていく。この一連の動作に、一切の滞りはなく、繋ぎ目のない大自然の営みに等しい。
ところが一般の射手は、「技」を追い求めて、「力」ばかりで弓を引き、的に当たった外れたと一喜一憂である。スポーツとしては面白くも、「道」というには程遠い。
日本の弓道は、元来「武士の心」であり、その実用性が失われてなお、「道」のみが現代に伝え残されている。弓道の的というのは、その道に足を踏み入れるための道標のようなもので、その的が究極の目的ではないようだ。
本当に射抜くべき的は、自分自身の心そのものなのであろう。
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出典:SAMURAI SPIRIT 「弓道」
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