2014年2月13日木曜日

ソチ五輪へのラスト・ダンス [浅田真央]




「舞に負けた!」

とにかく負けず嫌いだったという浅田真央。上手なお姉さん(浅田舞)に追いつこうと、小さな身体でひたすら3回転の練習をしていたという。また、母親と親子喧嘩になっても絶対に折れず、ひとりで頑固にリンクで練習していたこともあったとか。

ある一枚の写真には、”ほっぺたを膨らませた小さな真央”が2位の表彰台に立っている。母親は述懐する、「このときは、自分が良い演技をしたのに一番じゃなかったので、納得できなかったんだと思います。真央は、子どもの頃から負けるのが嫌いだったから、スケートだけじゃなくて何にでも一番になりたがったんです」。

母親は続ける、「だから私は、真央を世界で一番にしてやりたい。金メダルを獲らせてやりたい!って思ったの」。



■太陽みたい


浅田真央と同世代の太田由希奈は、小学生のころの思い出を語る。

「真央ちゃんのことで今も覚えているのは、ピンクの運動靴。小学生の時、お気に入りの運動靴を3年間くらいずっと履いていました。同じウェアを繰り返し着ていたこともあって、ものを大事にする子なんだなと思いました」

「そしてもう一つ覚えていることが”ヨシモト”です。親父ギャグをずっと考えていて、みんなに小さなイタズラをしては笑いを取ろうとする。肩を叩かれて振り返ると、ほっぺに指をさされるとか、ああいった子供のときの小さなイタズラを朝から晩までやっているんです。お母さんも、”真央はヨシモトだから”って、いつも言っていました。お姉さんの舞ちゃんがすごく上手で綺麗に踊るタイプだったので、上手なお姉ちゃんと元気な妹というイメージでした」



そんな”お笑い役”だった真央に、いったんプログラム曲がかかると周囲の目が一斉に集まった。

太田は続ける、「なぜか真央ちゃんから目が離せないんです。決して上手ではなく、まだ子供といっていいのに、人を惹きつける不思議な魅力がある。愛嬌もあって、太陽みたい。子供は下を向いて滑る子が多いのに、真央ちゃんは常に顔を上に向けて、小動物みたいに笑顔を振りまきながら滑っていました」

伊藤みどり(アルベール五輪の銀メダリスト)も、思わず真央をみた。

伊藤は言う、「たくさんの子どもが滑っていても、真央ちゃんには思わず目がいきました。ダイヤの原石のようで、どこまで才能を伸ばすんだろう、とすごく期待したのを覚えています。”天才少女あらわる”の衝撃でした。トリプル・アクセルを練習する私を見て、その頃から見よう見まねで器用に跳んでいましたね」



■天才少女



2005年12月17日

この夜は、冬にしても寒い夜だった。それでも代々木第一体育館だけは、1万人を超える大観衆で異様な熱気に包まれていた。この日、女子フィギュアスケートはグランプリ・ファイナルの最終日を迎えていた。

そこは、まさに”夢の舞台”。世界のトップ6しか出られない。そこに当時15歳の中学生、シニア・デビューしたての浅田真央は立っていた。

——ファイナルに出場したのは、日本からは中野友加里と安藤美姫、そして浅田真央。海外からはスルツカヤ(ロシア)とエレーナ・ソロコワ(ロシア)、アリッサ・シズニー(アメリカ)。このシーズンからシニアに転向した浅田真央は、グランプリ・シリーズのデビュー戦となった中国大会で、当時、世界の女王と誰もが認めていたスルツカヤ(ロシア)に次いで2位。フランス大会では、サーシャ・コーエン(のちのトリノ五輪で銀メダル)らを抑えて優勝。ファイナル進出を決めていた。(『Number誌』)



2005 グランプリ・ファイナル

前日のショート・プログラムで自己最高得点(64.38点)を叩き出していた浅田真央、この日のフリー・プログラムでは最終滑走となっていた(女王スルツカヤの頭をおさえて!)。

紹介アナウンスのあと、弾むようにリンクに駆け出した浅田真央。しばしの静寂のあとにプログラム曲『くるみ割り人形』が流れだす。そして、その冒頭に浅田はトリプル・アクセルを跳ぶ。成功!

「いとも簡単にやってのけるので、自分が一生懸命跳んでいるのが嫌になったくらいです」と中野友加里は当時を振り返る。かたわらのソロコワは「ハラショー(素晴らしい)…」とつぶやいていた。

——最後のポーズを決めると、観客がいっせいに立ち上がる。四方に手を振っておじぎをする浅田に、次々に花束が投げ込まれる。観客席に向かった浅田は、あの笑顔で花束やぬいぐるみを受け取り、両手いっぱいに抱えこんだ。技術点が出る。笑顔。演技構成にも笑顔。総合得点が出る。「189.62」。観た瞬間、「えーーーっ」と驚きの表情を浮かべた浅田真央を、コーチの山田満知子が抱きすくめる。ふたたびスタンディング・オベーションとなった観客席に懸命に手を振ると、おじぎをした浅田は、左手にドラえもんのぬいぐるみを抱えて去っていった。(『Number誌』)



天才少女あらわる!

15歳の世界女王!

——可憐な少女は、小鳥が羽ばたくように軽々とトリプル・アクセルを跳び、世界女王、そして日本のアイドルとなった。(『Number誌』)



まさかの敗退に、2位の表彰台で不機嫌な表情をしていた女王スルツカヤ(ロシア)。取材に対しても「私は負けていません」と気丈に言い張った。

さらにスルツカヤはこうも言った。「ファイナルのあと、真央とはもう対戦しないとわかっていたことに悔しい気持ちがありました。なぜなら、彼女が年齢制限のためにオリンピックに出場できないからです」



年齢制限。

ISU(国際スケート連盟)の規定によれば、オリンピック前年の6月30日までに15歳に達していなかった浅田にトリノ五輪の出場資格はなかった(9月25日生まれの浅田真央。3ヶ月ほど足りなかった)。

「本当に実力がある人が出ないと、オリンピックの意義が薄れる」

「浅田真央を外した争いでは、トリノの優勝者は真の世界一とはいえなくなる」

テレビや新聞紙面は、浅田真央がオリンピックに出られないことに不平不満を鳴らしていた。そしてついには、時の首相(小泉純一郎)までがコメントを発した。

「なぜオリンピックに出られないか不思議なんだよ。浅田選手はきれいで素晴らしい。トリノ五輪に出てもらいたいと思う」



”世界女王”の肩書きを得た浅田は、もはや一個人ではいられなくなっていた。

——周囲から大きな期待が寄せられ、もはや無心で挑んだグランプリ・ファイナルと同じではいられなかった。恐れを知らず、ただ純粋にジャンプを跳ぶ楽しさ、滑る楽しさに身を委ねることのできた日々は、あの日を境に終わりを告げた。(『Number誌』)



■アルトゥニアン師


2006年の夏、浅田真央は母と姉の3人でアメリカ(ロサンゼルス)へ渡った。5度の世界女王、ミシェル・クワンの恩師である”ラファエル・アルトゥニアン”に師事するためである。

その初めての”曲かけ練習”のとき、浅田は冒頭のトリプル・アクセルをミス。そこで演技をやめた。というのも、当時の彼女にとってはジャンプがすべてであり、”トリプル・アクセルを失敗したら、もうすべての演技がダメ”と短絡的に考えていた。しかし、アルトゥニアンは演技を中断することを許さなかった。ジャンプをミスしても「Go! Go!」としきりに叫び、最後まで滑るように徹底的に指導した。

アルトゥニアンは口を辛くしてこう言い続けた。「本番は、トリプル・アクセルでミスしても最後まで滑らなくちゃいけないんだ!」



翌2007年、浅田真央は世界選手権で銀メダルを獲得。アルトゥニアンとの師弟関係は順風に思われた。がしかし、浅田がかけた1本の電話によって、その関係は終わりへと向かうこととなる。

正月休みを日本で過ごしていた浅田は、アルトゥニアンにこう言った。「ロサンゼルスへは行けません…」

——中京大のリンクが愛知県にオープンしたから日本で教えて欲しい、アルトゥニアンの他の教え子たちも滑れるので連れて来てよい、という。アルトゥニアンは怒った。”アメリカの生活に馴染めないからといって、なんとワガママな娘だ!”、と。(『Number誌』)

怒れるアルトゥニアンは即答した。「答はNoだ! 真央がアメリカに来るか、師弟関係を終わりにするか、どちらかだ」

真央は、力なくこう答えた。「アメリカへは行けません…」

それが2人の最後の会話となった。



師弟関係を解消したその年(2008)の世界選手権、浅田真央は快挙をなしとげる。

——冒頭のトリプル・アクセルで、跳ぶ前に転倒するという痛恨のミスをおかした浅田真央。しかし、すぐに立ち上がり、その後をノーミスで滑り初優勝したのだ。(『Number誌』)

かつての師、アルトゥニアンの心境や複雑だった。真央への怒りはいまだ冷めやらず、顔を合わせたくないがために関係者エリアに入らず、観客席でその演技を見ていた。だが、彼の教えた”転んでも最後まで滑る”、”最後まで諦めない”という情熱ばかりは、真央の心の中にしっかりと残されていたことを知ったのだった。

ただ悲しいかな。浅田の隣りには一緒に喜んでくれるコーチの姿はなかった…。



本当の別れの理由をアルトゥニアンが知るのは、この優勝から4年も経ったあとのことである。

アルトゥニアンは後悔を口にする。「当時の僕は怒りました。今より若かったし、白黒はっきりつける性格でしたから。しかし実際は、母の病が悪化して治療や保険の関係でアメリカに長期滞在できなかったのだと知ったのです。でも母の病を言い訳にしたくなかった真央は、その理由を隠していました。もしそれを知っていれば、私は日本へ行くことも考えたでしょう。あのとき真央を突き放したのは、自分のキャリアのなかで一番の後悔です…」



■ライバル、キム・ヨナ



アルトゥニアンと別れてから、コーチ不在となっていた浅田真央。

——指導者の目線に毎日さらされていないことで、ジャンプは日を追うごとに自己流になっていった。フォームやリズムはだんだんと崩れ、ジャンプが成功するかどうかは一か八かになっていた。(『Number誌』)

そんな不安定な状態で、浅田はバンクーバー五輪を目指していた。一方、ライバル視されていたキム・ヨナ(韓国)は、カナダの名匠に師事し、高得点がでるスケーティングとジャンプを着々と磨いていた。



思えば、浅田真央とキム・ヨナが初めて顔を合わせたのは、2004年のジュニア・グランプリ・ファイナル。真央は9月25日生まれ、ヨナは9月5日生まれと、年齢もほぼ一緒の14歳であった。

——この初対決は、真央がトリプル・アクセルを成功させて優勝。ヨナはミスがあって2位に終わった。その後、2人にとって最後のジュニア大会となった2006年スロベニア世界ジュニアでは、ヨナが真央にジュニア国際大会での唯一の黒星を与えることになる(『Number誌』)

国も近く、年も同じであった2人であるが、その印象は驚くほど違っていた。

——真央はいつも笑顔で人懐こく、オープンな印象の少女だった。一方、ヨナはあまり感情を表に出さず、シャイで内気な雰囲気。記者会見でも言葉少なだった。真央にとってスケートとは喜びそのものであり、ヨナにとってはまるで仕事であるような印象を受けた。記者会見の席上、真央はとてもリラックスして、その場にいるのを楽しんでいる一方、ヨナは通訳代わりをしてくれた韓国の連盟関係者に小声で話すだけだった。(『Number誌』)

ドイツの雑誌には、こう記された。「ピンクのジャケットを羽織った日本のアイス・プリンセス(浅田真央)は、大勢の記者をしたがえて会見室に入ってきた。彼女は明らかに自分への注目を楽しんでいるようで、質問にも楽しそうに答えた。その一方、ヨナは真央とは対照的に真剣な表情を保ったまま、笑顔を見せることはなかった」



そして迎えたバンクーバー五輪(2010)

——圧勝したのはキム・ヨナだった。真央に23.06ポイントもの大差をつけて優勝したのである。(『Number誌』)

コーチ不在で不安定なままオリンピックに突入した浅田であったが、本番では見事に3本のトリプル・アクセルを成功させた(練習での精度を考えれば、奇跡に近かったという)。一方、トリプル・アクセルを持たなかったヨナは、不動の岩のように安定していた3フリップ+3トゥループのコンビネーションで、浅田の追撃を振り切った。



ヨナは泣いた。オリンピック王者になるという子供時代の夢が叶えられたことに涙をぬぐった。彼女が演技直後に泣いたのは、生まれて初めてだったという。

真央も泣いた。パーフェクトに滑れなかった自分に…。

「ただ、自分の演技ができなかったことが悔しかった…」



■佐藤信夫コーチ



銀メダルながら、涙に終わった初めてのオリンピック。

——浅田はまず、ジャンプを基礎から見直そうと考えた。そこで基礎指導に定評がある佐藤信夫にコーチを依頼。佐藤が「すべてをゼロから作り直す」という指導条件を出すと、浅田は快諾した。(『Number誌』)

女子選手の宿命として、身体の成長変化は演技に大きな影響をもたらす。とくにジャンプの感覚に狂いを与えてしまう。ようやく身体の成長のとまった浅田は、ここでもう一度ジャンプを見直す必要に迫られていた。



心を新たにした浅田は「子どもの時のような軽々としたトリプル・アクセルを跳びたい。バンクーバーではジャンプが重かった」と考えていた。

ところが佐藤コーチは違った。彼が重視するのはジャンプよりも”スピード”だった。彼はこう断言した、「スケートの一番の魅力はスピード。まずはスケーティングを作り直す」

そのブレない理論に、浅田は戸惑った。よりスピードを出すため「スケーティングで身体が上下しないように」と佐藤に指導されると、彼女はこう反論した。「ずっと重心を落したままだと確かにスピードは出る。だけど、とても疲れる。スピードってそれほど大事なの?」



スピードを出すとジャンプも乱れる。だが、スピードを落とすと佐藤が怒鳴る。

「もっとスピードを出して!」

——ジャンプがすべてバラバラになった。スピードを出して踏み切ると、身体が空中に大きく投げ出されるため軸がブレてしまうのだ。(『Number誌』)



コーチ歴40年を超える佐藤の頭には、戦い方の定石があった。

「トリプル・アクセルを無理に跳んでミスするよりも、ダブル・アクセルに抑えてノーミスで演技すれば勝てる」というものだった。佐藤はこの戦術に絶対的な自信をもっていた。

だが、浅田はトリプル・アクセルにこだわった。無理にでもトリプル・アクセルを跳んだ。そしてミスを繰り返した。さすがの佐藤も、強いて浅田にトリプル・アクセルをやめさせようとはしなかった。というのも、浅田のスケートへの原動力ともなっているトリプル・アクセルを取り上げることは、彼女のモチベーションを著しく損なうことを知っていたからである。



浅田がスピードの重要性を知るのは、佐藤と師弟関係を結んでから2年目のこと。「スピードを出すと、お客さんがワーッと自分の演技に入ってくる感覚を身体で感じることができました」と浅田。

また、佐藤の戦術である”ジャンプよりもノーミス”を理解したのも同じ頃であった。

——2011年11月、NHK杯でのこと。男子ショートで、世界初の4回転ルッツを降りた選手は3位、4回転を回避して演技をまとめた高橋大輔が首位に立っていた。(『Number誌』)

同じNHK杯、浅田はフリーで初めてトリプル・アクセルを回避すると、スピードを出した見事な演技で2位に入った。



こうして21歳の冬がすぎていった。

この頃、極度の不振にあえいでいた浅田真央は、”スランプに悩む悲劇のヒロイン”と大々的に報道されていた。そのためか、あの”真央スマイル”も陰りがちであった。



■変化



「2012年の5月に、真央が振り付けのためにトロント(カナダ)に来たときのことでした」

振付師のローリー・ニコルは話しだす。

「当時の彼女は落ち込んでいて、まだ競技活動を続けるかどうかの決意がついていませんでした…」



2011年の12月、母の急逝があった。

子供のころから負けず嫌いだった真央は、母が解いたパズルは自分でも解かなければ気が済まなかった。どうでもいいようなことも譲らなかった。そんな真央の気質と才能をだれよりも深く理解していたのが母・匡子さんであった。

「亡くなったお母さまに捧げる作品を滑るため、真央は美しくてメランコリックな音楽を選びたい、と考えていたようです。でも私が『メリー・ポピンズ』とガーシュウィンの『アイ・ガット・リズム』の音楽を聴かせてあげると、彼女の表情が少しずつ明るくなっていくのがわかりました」

ニコルは続ける。「それはまるで長い冬のあとに昇ってきた、春の太陽のようでした。そして私たちが『アイ・ガット・リズム』のステップを振り付けている最中のことです、彼女はようやくふたたび笑ったのです! 心からの自然な笑い声で、そんな彼女を見たのは、本当に久しぶりのことでした」



3ヶ月近い休暇をとった浅田真央。ようやくリンクに帰ってきた彼女は、ひとつ大人のスケーターになっていた。

「先生、ご飯いきましょう」

中京大での午前の練習が終わると、浅田は佐藤信夫コーチにそう声をかける。

「まるでデートですよ。こっちが緊張する」と、真面目一徹の佐藤コーチは苦笑い。浅田の運転する車が畑のなかを駆け抜け、15分ほど走るといつもの定食屋にたどりつく。

「僕はそんなに話すほうじゃないから、彼女がずっと色々しゃべっているんです」と佐藤。ご飯を食べながら浅田は、カッコイイ男の子のこと、芸能人のこと、食べ物のこと…、いろいろな話をするという(スケートの話はしないらしい)。



佐藤コーチの妻は言う。「お母さまが亡くなって、なんでも自分一人でやらなくてはいけない。そうすると自然と周りへの気遣いが出てきたんでしょうね」

浅田が佐藤コーチをランチに誘うのは、横浜から新幹線通勤の佐藤を気遣ってのことだ。

浅田が変われば、佐藤コーチも変わった。今年のグランプリ・ファイナルのショートの演技後などは、妻も目を疑う光景がみられた。もどってきた浅田に佐藤コーチが自然にハグをしたのだった。

元コーチの山田満知子も心底驚いた。「(佐藤)信夫先生って、ものすごいお堅い紳士の先生。女の生徒さんにハグをするようなキャラじゃないのよ」

そして、こう付け加えた。「頑固者の真央が先生の意見を聞くのも変化だけど、信夫先生も変わったわ」



■トリプル・アクセル


いよいよオリンピック・シーズンとなった2014年、師弟はトリプル・アクセルの総仕上げを行った。2人の信頼関係とともに、ようやく新たな基礎が固まったのである。

佐藤コーチは言う、「成功したときは、彼女のジャンプの中で一番いいのがトリプル・アクセル。もう惚れ惚れするようなジャンプですよ」

新たなトリプル・アクセルは、流れ・高さともにバンクーバー五輪のときより格段に質が高くなっている。



佐藤は続ける、「女性の身体にとって、19歳から23歳になった変化は大きいし、160cmを超える背の高さで跳ぶのも、やはり凄いことだと改めて思うんです」

課題はその成功率である。いまだ完全な成功がないため、ソチ五輪で3本も跳ぶことに”無謀だ”との声も高い。



それでも彼女は跳ぶだろう。

浅田真央にとって、金メダルよりも価値のあるものがある。

佐藤は言う、「彼女の口から、オリンピックの金という言葉は一度も聞いたことがないんですよ。むしろ、トリプル・アクセルが真央の夢なのです。コーチとしては色々な作戦が頭の中にありますが、彼女がどうしても跳びたいなら、僕はそれを叶えてあげたい」

不振にあえいでいた頃、浅田はこんなことを言っていた。「自分が目指しているものに近づきたいなら、結果は出なくてもいい。ブレていなければいい」。また、3位に終わった今季の全日本選手権、トリプル・アクセルを失敗した浅田は毅然とこう言った。「どんな状況でもチャレンジが必要だと思って跳びました」




「真央にグッド・ラックを」

かつて誤解したまま別れた師、アルトゥニアンも今はそう祈っている。

「真央にとって、トリプル・アクセルのなしの演技はありえない。日本では2回跳ばなくて良いという専門家もいるようだけど、彼女はそんなことに耳を傾けていないはず。だって、2回決めるための練習に励んでいるのだから。それが自分自身に対する正しい道なのだから」と、元コーチのタチアナ・タラソワも、真央の挑戦を心優しく見守っている。



ロシアの諺に、こんなものがある。

「パジビョム、ウビーディム(いまにわかるさ)」

ソチ五輪でのラスト・ダンスは、もう眼前に迫っている。








出典:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 2/13号 [雑誌]



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